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2025/10/29

292)世界の真ん中で咲き誇る

  安倍晋三氏にならって高市首相も「世界の真ん中で咲き誇る国」と言いました。やはり並みの人ではありません。まるでローマ帝国(他にモンゴル帝国、大英帝国、スペイン帝国、ロシア帝国など)の皇帝の亡霊のようです。すこし小粒ですが「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という藤原道長の心情に通じるものもあります。

 また「世界でもっとも偉大な日米同盟」と高市首相は言いました。言い過ぎです。どさくさ紛れに防衛費の前倒し増額も口にしました。こうした勇ましい発言が世に受けています。内閣支持率は高いし、日経平均株価も上昇、5万円を超えてクス玉が割られました。私もアヅマも株とまったく無縁の暮らしでしたが、こんなことならどこかの株を買っておけばよかったと内心思わなくもありません(いまさら始めませんが)。 

 トランプ氏へのオモテナシも過剰でした。首脳の個人的関係が大切なのはもちろんだし、特に相手は小児的で計算高い独裁者ですから「トランプシフト」の必要性は理解します。政府関係者も苦労したことでしょう。それにしても日本はいちおう独立国であって高市氏はその首相です。親しさの中にもう少し「対等感」を出して欲しかったと思います。高市氏がトランプ氏を肩でついたり原子力空母の上でぴょんぴょん跳びはねたは「国辱」だし、ノーベル賞の推薦にもげんなりしました。

 この滞在中、トランプ氏は自前の特別車両から市民に手をふり(歓迎一色、デモもなし)、高市氏と仲よく特別ヘリに乗って六本木の基地から横須賀基地に飛び、並みいる兵士らの前で高市氏の肩を引き寄せました。両氏とも軍事同盟イケイケです。トランプ氏にとっては対立と銃があふれる米国内での遊説よりずっとくつろげる日本だったことでしょう。裏庭感覚です。「ここはいい『州』だぜと」感じているに違いありません。

 商談も進みました。日本有数の企業のトップらが夕食会で貢ぎ物を発表しました。契約書はまだにしても60兆円の投資です。企業にとっては手をあげなければ儲けるチャンスがないけれど、話が具体化するにつれトランプ関税のように無理を言われる可能性があります。この大金を別に使ったほうが国や企業のためになった!という事態が生じないことを祈ります(どこに使ったらよいか見当もつきませんが)。

 つい悪口めいたことを書きましたが米国との関係は大切だし、今回の首脳外交はおよそマルであったと思います。ただ巨大な隣人である中国との関係も同じく大切です。台湾有事で米軍が出動しても危ないのは米国本土でなく日本です。一本足打法(昔なつかしい響き)はだめでしょう。そのためにも平和憲法があるはずです。これを変えるなどもってのほか。トランプ氏が大事なのは米国(米国民の票)であることを忘れてはならないと思います。問題はこれからです。

 高市氏はトランプ氏から手土産をもらったかどうか知りませんが、私からはSMAPの歌「世界に一つだけの花」をプレゼントします。 
 ~ 花屋の店先に並んだ 色んな花を見ている 人それぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツのなか誇らしげに しゃんと胸を張っている(中略) そうさ僕らは 世界に一つだけの花 一人ひとりちがう種をもつ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい(中略)小さな花大きな花 一つとして同じものはない ナンバーワンにならなくていい もともと特別なオンリーワン ~

 アヅマのいた研究室の学生の結婚式に招かれ、この曲のギター伴奏をしたことを思い出します。ピアノと沖縄の三線も加わって会場は大合唱になりました。もう20年以上まえの話です。




2025/10/22

291)魔女が笑う

  「鷹位置内閣」が誕生しました。少なくとも日本初の女性首相として意義があります。性別より中身だという意見もありますが、歴代の男性首相の中身を見るとそうとばかり言えません。よかれあしかれ憲政史に新たな1ページが加えられました。これがこの内閣のたった一つのプラス面かも知れません。もちろん土居たか子氏が衆議院議長になった時のような感慨は私にありません。

 マイナス面(懸念事項)はいくつもあります。自民は「保守」の旗を、維新は「改革」の旗を掲げ本来は水と油のはずなのに両者とも基本理念が一致した主張するのは「打算」と「打算」が一致しただけでしょう。夫婦別れした家に早速入り込んできた後釜がちょいと危険な人物で、前妻(前夫)に去られた夫(妻)が「前の相手より相性がよさそうだ」と喜んでいるような状況です。結果として夫婦の危険度はアップしました。

 維新のいうセンターピン(なんとも軽薄な表現)である議員削減法案を臨時国会に出すそうですが、これは民主主義のルールにかかわる課題ゆえ何とも乱暴な話です。また、安保関連の3項目も前倒しで進める、防衛費もすみやかに増額すると高市氏は息巻いています。財源は「責任ある積極財政」で補うらしいけれど一体どうするのか理解が困難です。自衛力を高めることに一定の理由はありますが、それは戦争の回避より招来につながる可能性が大いにあって、その議論を深めなければなりません。

 物価対策もたちまちの手当てばかりでなく、経済が強化され円の価値を上げるための道すじが明確に示されなければなりません。外国人との共生も夫婦別姓もさらに遠のくでしょう。スパイ防止法案も危険と隣り合わせです。副大臣らには裏金議員も名を連ねています。「決断と前進」の内閣はいいけれど、「何を」が肝心です。高市氏の野望が私には空恐ろしく感じられます。高市内閣の第一印象を記しました。ハイペースの更新でしたが今後はボツボツ書いていきます。





 

2025/10/19

290)「嫁」をめぐって

  猫の目のような政局です。国民民主の玉木氏がもったいぶっているうちに維新に先を越されました。「企業団体献金廃止」の表看板を一夜にして「議員定数削減」に書き変えた維新も猫の目です。自民・維新タッグに参政・N国も加わるとか、世も末じゃあ。これまでの野党結集の動きを「野合」や「数あわせ」と非難して来た自民党が今それを励行中です。ここ10年ほどの各党党首の約束や言明を一覧表にしてくる人はいないでしょうか。SNSより投票の参考になるはずです。

 今回は前の記事(シゲルとサナエ)のサイドメニューである立憲・本庄氏の「麻生家に嫁入りした高市さん」発言をとりあげます。「この発言は女性蔑視だと批判を受けているがレトリックとして上出来だ」とO君は言いました。麻生派の力で自民党(伝統的な家族形態を重んじる党)の総裁となった「男まさり」の高市氏が、いまや麻生家の「嫁」のように窮屈な立場に追い込まれているという本庄氏の比喩をO君は面白がっています。

 これは高市氏の自業自得であり、私はO君の意見に半分同感ですが、「嫁発言」はよしとしません。大人になってから私は、自分の意見を表明する際に「嫁」という言葉を使っていません。なぜなら、社会の中で長きにわたって足を踏まれ続けてきた女性の立場を象徴する言葉の一つが「嫁」であること、そして今もその残滓が濃いことを私は認識しており、「嫁」という言葉を今あらためて自分が使うことによって反射的に旧弊をかつぐ側に回ることになると思うからです。

 たとえばある社会構造的な状況(しかも理不尽で極端な状況)があるとします。すなわちシンボリックな状況です。それをさして「これは基地に苦しむ沖縄みたいな状況だね」と言うことは妥当ではないでしょう。「嫁発言」はこれに似ています。しかし一方で私は、ニコニコしながら「嫁」とか「嫁さん」という言う若い人々に対し注意も反対もしません。私には他人を「教育」する考えも資格もありません。

 「言葉狩り」には賛同しません。人の「嫁発言」を厳しく咎める人は、「嫁」という黒歴史を背負っている言葉が世間一般に通用しているかぎりその実体も生きのびる。したがって「嫁」と言ってはならないと考えています。一種の言霊論です。私は優柔不断ながらこの考えにも半分賛成、半分反対です。もしこの立場にたつならば「鬼嫁」は絶対アウトだし「花嫁」も不適切表現でしょう。

 しかしジューンブライドはどう訳せばよいでしょう。「6月に結婚するカップルのうち女性の方をいう」と言うのでしょうか(女性どうしの結婚の場合はさらにややこしい)。また、昔なつかしい「はしだのりひことクライマックス」の「花嫁」(花嫁は夜汽車に乗って嫁いでいくの~)や小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」は放送禁止でしょうか?(これらの歌詞が低俗であることを別として。)

 戦争は絶対悪だからこの言葉を社会から抹殺しよう。もし戦争という言葉をつかう必要が生じた場合は「せ」と言うことにしよう、という風刺小説を読んだ記憶があります。筒井康隆だったと思うけれどいま調べてもわかりません。この例にならうと「奴隷」という言葉も絶対悪です。「恋の奴隷」だったら許されるでしょうか。

 また昔は身体的・精神的な不全をさす直截な言葉が平気で使われていました。活字として広く流通した例に記憶の範囲で内田百閒の随筆があります。この作家は、友人である宮城道雄(少年期に失明した琴の名演奏家)に対し、今なら「目の不自由な人」に相当する言葉をストレートにぶつけ、二人の会話がそのまま楽しく続いていく場面がありました。二人が親しかったという理由だけでなくそれが社会の風潮でもありました。

 もう一つ安倍公房の小説(題名は記憶せず)も思い出します。この小説の中で朝鮮半島出身者をさす言葉の前に「不逞」の文字をつけた4文字熟語が何度か出てきました。この言葉もまた当時は広く使われ、関東大震災の際も井戸に毒を投げ込んだ容疑者は彼らだとして警察の記録にも載せられています。

 いまは総じて表現がマイルドになっていることは社会の進歩でしょうが、一方でオブラートに包まれた中身(無理解、偏見、蔑視など)が根強く残っている例は少なくありません。人が言う「嫁」という言葉をスルーすると先ほど言った私ですが、いま挙げたようなきつい言葉を友人知人が使った場合はさすがに注意すると思います。

 また私は、「盲目」は実体を示す言葉として理解するけれど、それを形容詞的に使う「盲目的」、「盲従」、「盲信」などの言葉を近ごろは使いません。目の見えない人に対してあまりに失礼だと思うのです。不適切だと感じる言葉は人によりマチマチです。それに言葉は文脈に応じて意味も変わります。ゆえに私は「不適切用語」について一つの尺度をもつことができません。正解はなく複数の「解」あるのだと思っています。以上が前回記事の積み残しです。

 次回を書くまでには首相が決まっているでしょう。ほんとうに政治の節目だと思います。





 

2025/10/16

289)シゲルとサナエ

  「 高市さん、真っ先に自民党の本領発揮で清々しいですね。公明党が気高く見えるような展開に目が離せません。野田さんの節操のなさも印象深いことです。次々善の政治で未来につながればまだしもです。」とは 友人T君の弁です。「大津通信」の専属無給カメラマンでもある彼は、きのう秋の写真を4分割してメールで送ってくれましたが、各メールに1行ずつ上記の言葉が付されていました。

 また友人O君は、わが家の修繕費と総裁選の結果を嘆いた前回記事(番外編)を読んで次のメールをくれました。「1000万のほうが高市よりタイヘンや。その営業マン、ようまあ、そんな金額をシレっと言えたもんやな。立民の本庄が『麻生家に嫁入りした高市さん』と云うて、女性蔑視やと責められとる。俺は上出来のレトリックやと思うけどな。『嫁』の一文字は高市の立場を射抜いて雄弁やで。茂呂の高市論はいかに?」とあります。

 T君もO君も私の気のおけない友人であり二人ともうまい書き手ですが、おかしいほど文体が違います。考えてみると私を含め大抵の人はT君のように「書き言葉」で書きますから、肉声をそのまま文字に移した「テープ起こし」のような文章をつづるO君を異才と呼ぶべきかも知れません(彼は記事287でも活躍しています)。二人の声を受け私も政局について少し書きます。

 「公明離脱」に色々と裏事情があるにしても、同党が裏金問題を重要視していることは間違いないでしょう。「政治とカネ」は大きくは政界全体の課題ですが、自民党においてはそれが体質と化しています。だから反省しようがないのでしょう。このままでは泥船だと公明党が考えたのは当然です。もちろん四半世紀にわたり与党であった公明党がひとり清廉潔白であったとは思いません。

 ヘリコプターの尻尾の先についている小さなプロペラの役割を公明党は果たしていました。本物のヘリなら墜落しますが、自民党は落ちないかわり右旋回するでしょう。「えいくそ、こうなったらとことん行ったるでえ」と奈良の女は思っているかも。参政党は「ええぞええぞ」と喜んでいます。現金なもので玉木氏は急に態度が大きくなりました。節操がないとT君に評された野田氏にとっては野党第一党の真価が問われる正念場です。

 この騒ぎをよそにペキンダックの石破首相が輝きを増しています(消える前に強く光る星のように少し切ないけれど)。石破氏の戦後80年の談話は、いくつか問題があるにしても全体として良かったと思います。いまに生きる私たちは、日本が負けると分かっている戦争にレミングの群れのように突っ込んでいった恐ろしい過去を「知識」として知っていますが、その歴史を決して忘れてはならないと石破氏は強調します。

 そんなこと当たり前と言ってしまえばそれまでですが、「議会やメディアが政府を監視すべきこと及びその基盤には歴史に学ぶ姿勢がなければならないこと」を首相が語った意味は決して小さくありません。彼はまた「無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たねばならない」と訴えました。これは首相自身のこの一年の反省であり、同時に後任者に向けたメッセージでしょう。高市氏は「そんなもん知るかい」と言ってはなりません。

 この談話には欠落もありました。先の大戦をめぐって帝国憲法下の議会、政府、軍などを論じる際に天皇制を避けて通れません。「天皇陛下バンザイ」と叫んで戦死した兵士が何人いたか知りませんが、そうした行為が推奨、称賛されたという事実一つとってもそのように思います。しかし石破氏は「天皇機関説」について少し触れただけで「天皇」についてはまったく言及しませんでした(やはり言いにくかったでしょうか?)。

 近代の天皇は明治の国づくりの中で「誕生」しましたが、当時の社会に広く共有されていたであろう封建的精神の残渣と新国家への期待感がそれを後押ししたはずです。ゆえに天皇は西洋の君主と少し異なる力を有していたと思います。こうした国民感情(崇拝の念)とアメリカの打算とにより1945年に「国体」が護持されました。そんな日本を外から見ると、「戦争の落とし前を国民が自力でつけることなく、戦前戦後の苦しい断絶も経験せず、ひたすら繁栄を求めてきた自分勝手な国」と映るかも知れません。どの国も利己的であるとはいえこの見方は実態に近いと思います。靖国神社や慰安婦の問題がいまだに「尾をひく」原因はこれでしょう。

 戦後50年に出された「村山談話」は、こうした海外の眼(とりわけアジアの眼差し)に向き合い、日本の行った植民地支配と侵略を謝罪したうえ平和憲法のもとで国際協調の道を歩みつつある日本の姿勢を説明する点に意義がありました。戦後70年に際し、安倍首相はこの言葉のニュアンスを変えつつ「子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言いました。そして石破氏もまた、戦争の歴史を語るうえで避けて通れないアジア(とくに朝鮮半島、中国大陸)に言及しませんでした。これも石破談話の欠落です。

 政府は「いいかげんに謝罪をやめたい」と考えているでしょう。しかし最近の報道をみても、朝鮮半島出身の戦死者の靖国合祀を取り消して欲しいと遺族が訴え、また、1942年の長生炭鉱の落盤事故で生き埋めとなった労働者183人(うち136人が朝鮮半島出身者)の遺骨を回収して欲しいと関係者が切望していますが、政府はまともに取り合っていません。これでは近隣国から「まだケリがついていない」と言われても仕方がありません。思いを態度で伝えるべきことは個人も国家も同じだと思うのです。

 ホメたりケナシたりしましたが、日本が置かれる安全保障環境が厳しいからこそ歴史に学ぶべきだという石破氏の言葉を銘記したいと思います。どの国もそうあるべきです。被害国である韓国も一方で加害の歴史を持っています。朴正熙政権はベトナム戦争(1955~1964年)に32万もの兵士を繰り出し、その一部が民間人を虐殺しました(ソンミ村事件と同様)。この事実は軍事政権下で長く伏せられていましたが、1999年、韓国の研究者であるク・スジョンの調査により明るみに出て社会に衝撃を与え、国の歴史に位置づけられました。

 第2次大戦末期、日本の占領下にあった仏領インドシナが「解放」されたあと、独立を宣言したホーチミンと再占領をめざすフランスとの間に戦闘が起こり、ベトナムは北緯17度線で南北に分断されます。北は社会主義陣営、南は自由主義陣営がテコ入れして大戦争になりましたが、これは朝鮮戦争と同じ構図です。朴正熙大統領は、朝鮮戦争を経済発展の足がかりにした日本を見倣うかのようにベトナム戦争に参戦しました。その過程で現れた戦場の野蛮と狂気です。

 この韓国軍の蛮行をいかに償うかについて韓国内で謝罪と慰霊の運動が広がり、2020年、韓国政府を相手どって「ベトナム戦争民間人虐殺」をめぐる国家賠償訴訟も提起され、2022年、韓国軍が70人余の民間人を虐殺した事件で家族を失い、自らも重傷を負ったベトナム人のグエン・ティ・タン(当時8歳)に対し、ソウル中央地裁は「被告大韓民国は原告に3000万ウォンとこれに対する遅延損害金を支給せよ」との判決を下しました。

 これら一連の経過については「韓国の今を映す、12人の輝く瞬間」(イ・ジンスン著、伊藤順子訳、クオン発行)に収められているク・スジョン(韓国軍の虐殺を明らかにした研究者)のインタビュー記事で知り、それに寄りかかって書きました。ク・スジョンのほかに11人の「輝く人」が登場し著者のインタビューに答えます。

 この本の帯に「誰の人生も完璧に美しくはない。だが、誰にも美しく輝く一瞬がある。韓国社会の片隅で確かな光を放つ122人の声を拾ったハンギョレ新聞の連載の一部を書籍化。」とあります。本の表紙に印刷された12のワードの幾つかは次のとおりです。「セウォル号」、「救急医療の最前線で」、「官僚のジレンマ」、「映画監督イム・スルレ」、「性的マイノリティ」、「民主化後の学生運動」、「障害者と生きる」、「フェミニズムアート」など。

 日本にも韓国にもすごい人がおり、誰の人生にも輝く時があると分かって言うのですが、韓国のすごい人って本当にすごいなと私は感じ入りました。著者(聞き手)のイ・ジンスンもすごい人です。よい本でした。話があらぬほうに行きました。記事を書くのに手間どっていたら、またO君から「おはよう。参議院で自民党がNHK党と会派を組んだな。これもびっくりやった。」とメールが来ました。








 

2025/10/04

番外)がっくり

 高市氏が自民党総裁に決まりました。前回記事で5人の候補とも石破氏に劣ると書きましたが、おのずから程度の差があります。よりによってこの人が選ばれるとは。 決選投票が行われている最中、わが家にハウスメーカーの人がやって来ました。見積書を示して「外壁塗装と屋根補修でざっと1000万、ソーラーパネルの一時移転は別途いります」と言うので腰を抜かしたら、ちょうどその時にテレビが高市当選を告げました。Oh  my  Buddha !

 私が「わあダブルパンチやあ」というと、若いセールスマンは動じる様子もなく(それはそうでしょうが)、「ほう高市さんですか、でもこの頃は親中の政治家が多いらしいですよ」と応じます。いや数の上では圧倒的に親米ですよ、それはSNSの情報でしょう?と尋ねると、彼はSNSしか見ていないと答えました。高市氏を支持した地方票も「日本人ファースト」のSNS世論により積み上げられた気がします。

 高市氏の右翼性(自己陶酔的な「日本愛」)、無責任な積極財政論、ポピュリズム体質、つくり笑いなどが私は嫌いですが所詮ごまめの歯ぎしりです。多数の自民党員が高市氏を選んだという事実は重く受け止めなければなりません。旧安倍派の議員たちはヨッシャまた日が当たるぞと喜んでいるでしょう。政治とカネの問題はどこにいったのでしょうか。まずは党内人事が注目されます。

 1000万と高市総裁という二重の衝撃を先ほど家族ライン(共感を得る場)にぶちまけました。ついでこのブログにも書きます。まとまりませんが今日はこれにて。前ならウイスキーか焼酎をあおるところですが(ビールでは足りない)、禁酒は続行中です。さて明日から奈良公園で「シカの腹をけり上げる外国人」が減るでしょうか。