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2025/11/09

293)「我がこと・丸ごと」について(政府ザリガニ論)

  齢とともに身体がいうことをきかなり、病気や事故の可能性も増えますから、生涯を通じてわが家で暮らし続けることは容易ではありません。しかしそんな状況になっても、いやそんな状況になったらなお一層のこと、人は自宅での生活を希求します。「家」は自己の不全を優しく満たしてくれる伴侶でさえありますから。在宅で人生を全うしたいと願う人が実に多いことは各種の意識調査にも明らかです。

 私の母(アヅマの母)は、一緒に住もうという私たちの誘いを笑顔でしりぞけ独居を楽しんでいましたが、95才の春に倒れて入院し、退院後はそのまま私の家に移りました。頭はシャープでもベッドから動けず(介護度は「要支援2」から「要介護5」に)、母に選択の余地はありませんでした。私たちの救いは医療、看護、介護をはじめ入浴、リハビリ等さまざまな訪問サービスが利用できたことです。これらなしに母の在宅療養は不可能でした(記事189「ケアの倫理」、190「男性介護」、191「地域包括ケア」、192「在宅ケア」に書きました)。
 いま私は、母が強くいだき続けた望郷ならぬ「望家」の気持ちを痛いように思い出します。それはおそらく私の近未来でもあります。

 さて今回は、「訪問サービス」とそれを含む「地域包括ケア」、さらに国が唱える「地域共生社会」について考えます。いま各地で「駐車する場所がない」という理由により訪問サービスに支障をきたす事例が増えています。草津市社会福祉協議会が市内事業者を対象に行ったアンケート調査では、「訪問時に駐車場に困ったことがある」との回答が92%、「家の前に駐車しないでほしいと言われたことがある」が47%、「駐車違反の罰則をうけたことがある」が31%にのぼりました。

 また、ある新人ヘルパーは近所の人から駐車を強くとがめられて訪問がこわくなりついに退職にいたった、ある看護師は離れた場所に駐車し息を切らせて機材を運んだ、あるケアマネジャーは訪問家庭から「近所の目が気になるから無印の車で来て」と言われた、最期の訪問のため各職種がそろって出かけたところ近隣所の通報により全員の車に駐車違反のステッカーが貼られていた等という実態も見えてきました。

 在宅介護をさまたげているのは報酬の低さや担い手の不足ばかりではありません。この身近な問題に注目した草津市社協は、地域に入って住民と対話を重ね、自治会、学区社協、事業所、まちづくりセンター等との連携を模索しました。その結果、モデル学区において「地域助け愛応援駐車場」が生まれました。具体的には駐車OKの掲示つきカラーコーンの貸出し、駐車OKマップの作製、事業所や自治会館用地の一部開放などで住民による「駐車スペースの掘り出し作業」がこれらを支えました。

 草津市社協の生活支援コーディネーターは、足かけ三年の取組の過程で訪問サービスへの理解が地域に広がり、「お互いさま」のマインドが共有されるなど住民の意識が大きく変わったことを指摘しています。駐車場(駐車スペース)はもともと地域にあったにも関わらず集団の無意識がバリアになっていたというわけです。一方で市社協スタッフは、自分たち自身もこの取組から学ぶところが大きかったと述べています。

 私は「助け愛応援駐車場」を大いに評価しますし、これが一部学区から市全体に広がることを祈っています(滋賀県社会福祉大会で奨励賞を受賞)。以上は同社協が公表している「在宅サービス訪問時の駐車場問題から創る地域包括ケアシステムの構築  ~生活支援体制整備事業の新たな地域づくり~ 」という資料に基づいて書きました(文責茂呂)。私なりの要約ですから詳しくは社協のホームページをご覧ください。

 これは市社協が市の委託を受けて行った事業です。委託はよい選択であり市の直接施行よりずっと有効であったと私は思います。要綱によれば事業目的は介護保険法の地域支援事業にもとづく「高齢者の地域生活支援」、「地域の支え合いの体制づくり」、「高齢者の社会参加の促進」および「これらの一体的推進」であって市社協の貢献は小さくありません。手間と時間のかかる取組ゆえ市には今後の委託料をうんとはずんでほしいところです。

 さらに大きな枠組みとして「地域包括ケアシステム」があります。まだ理念の段階から大きく進んでいないと以前に書きましたが、介護報酬および担い手の二つの課題は残されたままです。背景に人口減少社会における労働力不足、高齢化が拍車をかける社会保障費の増大、非正規雇用の拡大と貧困の顕在化、地域の弱体化、孤立者の増加といった構造的な要因がありますが、だからこそ国が本気を出さなければなりません。

 貧困の究極のかたちは餓死でしょう。先進国日本において年間の餓死者(厚労省の統計上は「食料不足による死者」)はおよそ20人、やや間接的な「栄養不足による死者」は約2000人です。中に食べ物にうまくアクセスできない人が含まれにしても、これらは絶対にあってはならない死です。また、死後8日以上たって発見される死者(孤立死)の数は、年間ゆうに2万人を超えています。これもあってはならない死です。

 「地域包括ケアシステム」を含んださらに大きな形が「地域共生社会」ですが、この美しい言葉はいま述べたむごい現実から大きく乖離しています。それゆえにこの言葉がいっそう光を放つ目標であると考えるべきでしょうか、あるいは空念仏にすぎないと警戒すべきでしょうか。2017年、国の「『我が事、丸ごと』地域共生社会推進本部」は次のような「改革工程」を示しました。「支え手と受け手の関係をこえる」、「住民や多様な主体が『我が事』として参画する」、「人と人、人と資源が『丸ごと』つながる」等というものです。
 
 そしてこれらを通して住民や多様な主体(すなわち自治会、事業者、各種団体など)が、暮らしの生きがいや地域社会をともに創っていく社会の実現をめざす、としています。その後に厚労省が出している通知なども読み合わせると、地域共生社会を創る主役は住民(国民)であって、政府(国)はそのお手伝いをする存在であると国が考えていることが分かります。これは国民主権を意味するのではなく「餓死者や孤立死が生じない地域づくりを地域住民自身が行うべきである」という考え方です。

 この「我が事・丸ごと」の思想は地域から草の根のように生えたのではなく、ある日、国が言い出した改革です。政府は蚊帳の外からラッパを吹いているだけで、その姿勢が次第に鮮明になっています。まるで両手にうちわを持って煽り立てながら自分だけ後ずさりしていくアメリカザリガニです。小泉改革以降、社会福祉分野だけに限らず、こうした新自由主義的な発想が政府に蔓延しています。官僚の有能さもこの範囲において発揮されているに違いありません。

 かと言って私は「地域共生社会」の考え方に反対ではありません。要はこの思想の中に国の責務をはっきり位置づけることです。現状においてさえ国が無責任に吹くラッパに応え、地方自治体や社会福祉協議会などが真摯に地域と向き合って様々な果実を生み出しています。国はこの実態をありがたくも申し訳ないことだと思うべきです。国が責任を回避せず「地方もがんばってください」と言えば地域共生はさらに進むはずです。

 高市氏がめざすのは福祉分野で小さい政府、軍事分野で大きい政府でしょう。一方でプライマリーバランスを考慮しないと明言しているから予算配分はいびつなものになる可能性があります。こうした状況のなかで私はホンモノの「地域共生社会」が近づくことを期待します。私は私なりにプランクトンほどの動きをするとして、国(政府、議員、官僚ぜんぶ)には「我がこと・丸ごと」の精神で取り組んでほしいと願います。「他人ごと・丸投げ」はあきまへん。




 

 
 



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