2022/11/03

192)ケアをめぐって 5 (在宅ケア)

 なかなか捗らない「ケアシリーズ」も何とか終盤に入りました。今回のテーマである「在宅ケア」は、自分の住まいで病気をいやすという点で「自宅療養」と同じですが、ここ20年ほど、高齢者の終末期医療の場を病院から自宅へ移行させようとする国の方針のもとで多用された言葉で、当然ながら「みとり」までを含んでいます。

 わが国には、西行、芭蕉、山頭火といった「旅を栖(すみか)とする」漂泊の系譜がありますが、国の調査で「在宅死」を望む人が継続して8割に達することから明らかなように今どきの世間一般の人は(もちろん私も)、自分の生活の本拠地で人生の終幕を迎えたいと考えています。したがって「在宅ケア」の推進は妥当な方針であり、社会保障費節減のみを目的しない「在宅ケア」の環境整備が今後さらに進むよう私は願うものです(もちろん在宅一辺倒を主張するものではありません)。

 古来、人の生死の場所が「施設」でなく「在宅」であったことは言うまでもありません。「悲田院」や「施薬院」などの療養施設がありましたが、これらは施設ケアというより困窮者対策でした。統計が残っている1951年において自宅で亡くなる人が82.5%、病院で亡くなる人は11.7%、近年まで「在宅みとり」が圧倒的多数でした。この二つが同じ割合になるのが1976年のこと、その後ハサミの歯のように差が広がり続け、2005年には在宅死と病院死の割合がそっくり逆転して今に至っています。

 この70年でなぜ多数の人の望みに反して病院死が8割、在宅死が1割になったのか。まずは病院医療の高度化により在宅医療との診療レベルの格差が広がったことによるでしょう。病床の増加、交通の発達による病院へのアクセスの改善もあります。また、忘れてはならないのが1973年から10年間続いた老人医療費無料化という「あとは野となれ山となれ」の場当たり政策で、これが入院増加に拍車をかけました。やがて病院死が一般的となり、社会の中で在宅みとりの記憶が失われ、死が見えにくくなったという心理的な事情もあります(望みつつ自ら遠ざけるという皮肉な話です)。

 国も、こうした状況を座視していたわけではありません。1992年に「寝たきり老人在宅総合診療料」を設け「居宅」を診療提供の場として明確に位置づけたのを皮切りに、在宅診療にかかる各種加算の新設や点数引き上げを実施、2006年には「在宅療養支援診療所」の設置基準(24時間対応等)を定めました。前回テーマの「地域包括ケアシステム」も、国の意図するところは在宅ケアの推進にあります。これらが功を奏して在宅ケアは最近は増加に転じているはず(数値は知りませんが)。特にここ3年ほど、入院患者の面会がコロナで制限されていますから在宅ケアが増えていると聞きます。

 しかし、このような動向と関係なく、早くから訪問診療(日常的な往診)に携わってきた医師、看護師がいたことを最近知りました(有難いことです)。「京都の訪問診療所 おせっかい日誌」(渡辺西加茂診療所編・幻冬舎)は、書名のとおり世間の境界線をすこし踏み越えて親身なケアを提供する診療所の活動記録であり、1985年に医師渡辺康介氏が始めた訪問診療の様子が生き生きと描かれています(ホームページによると現在は訪問看護ステーションが開設されて機能充実のもようです)。

 この本に収録されている訪問スタッフのコメントの一部を紹介します。「病院が『患者の病気を治すところ』であるのに対し、在宅は『病気、生活を含めて患者自身を診るところだと思う。」「病院では『患者が客』であり、在宅では『医療従事者が客』である。」「訪問看護では基本的に一人で患者宅に向かう。医師の判断も仰ぐが自分で判断するケースの方が多い。それを『不安』ととらえるか『やり甲斐』ととらえるかで訪問看護師に向いているかどうか決まると思う。」等々。こうした「実感」は、わが家の訪問介護・看護の方々へのインタビュー(次回に書きます)にも通じますが、在宅ケアの意味を照らす言葉であると思います。

 次の例です。難しい患者が多数おしよせる東大病院の外科医として40年間勤務したのち、2005年に訪問診療の道に転じた医師小堀鷗一郎氏は、その体験にもとづく「死を生きた人びと」(みすず書房・2018年刊)という本を書いています。その裏表紙の紹介文の一部を抜粋します。
 ~これまで355人の看取りに関わった訪問医が語る、患者たちの様々な死の記録。現代日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりにひたすら延命する医者。目前に迫る死期を認識しない親族や患者自身。そして、病院以外での死を「例外」と見なし、老いを「予防」しようとする行政と社会。さまざまな意図に絡めとられ、多くの高齢者が望まない最期に導かれていく。~

 小堀氏自身は、食道がん手術の専門医として働いた年月をこう振り返っています。
 ~外科医として過ごした40年間を一言で表現するならば「救命・治癒・延命」の日々であり、手術死亡率を低くすることのみを考えて毎日を過ごしていた。合併症によって重篤となった患者を一日でも長く生かすべく何日も病院に泊まり込んだ。末期や老衰で最期を迎える患者に対しても基本的には同じで、さらなる生命の延長を図るのが常であった。そのような自分の姿が患者や家族の目にどのように映っているか、考えたことはなかった。~

 小堀医師の透徹な視線は自身に対して仮借なく、患者へは深い共感をともなって向けられています。数々の印象深い患者との交流が描かれていますが、そのうち一つだけ概要を記します(原文を勝手に端折っています。望むらくはぜひ本書をお読みください)。

 ~事例25 「好きな酒を自由に飲みたい」
 76歳男性。妻と二人の老々世帯。進行した胃がんの切除手術を受けたが再発。本人の強い希望で自宅療養を開始。小堀医師の初回訪問時はひどく痩せ腹水がたまり食事もとれない状況であったが、本人の第一声は「好きな酒が自由に飲みたい」。小堀氏はこれを全面的に許可し、介護にあたるヘビースモーカーの妻にも、夫が許す限り自由に喫煙することを認めた。翌日から患者はホームサイズのウイスキーボトルに吸い口をつけて枕元に設置したが、それと同時に食欲が一時的に回復しウナギ、寿司などを食べ始めた。最期までの2か月間、小堀氏が行った医療行為は、妻が吸うタバコの濛々たる煙の中で褥瘡(床ずれ)の処置をすること位であった。

 ある日、小堀医師は思いついて長年手元にあったジョニーウォーカー青ラベルを持参し患者に進呈した。コルク栓が劣化しており苦労してスプーンの柄で開栓し、大量のコルク屑とともに患者と医師で乾杯。患者は嬉しさのあまり、近く生まれる孫に小堀氏の名前をつけると言い張ったが、小堀氏はこれを制し、患者の名前の一字と小堀氏の名前の二字を組み合わせて「久一郎」とすることを提案し、ようやく折り合いをつけた。この提案は母となる娘に即座に却下された。~

 引用が長くなりました。著者の名前(鷗一郎)の「鷗」の文字に注意をひかれた方があるかもしれません。彼は森鷗外の二女、小堀杏奴(随筆家)の子息であるよし。蛙の子ならぬカモメの孫はさすがにカモメです。最近読んだ文章でいいなと思ったのが小堀鷗一郎、中井久夫、斎藤環の3氏ですが、いずれも医師であるのは偶然でしょうか。

 10年ちかく前のこと、高校以来の友人が96才の母堂を自宅で看取りました。若い日々、遠慮なく押しかける私たちをいつもにこやかに歓待してくださったお母さん、優しく凛とした方でした。友人は、あるきっかけがあって「母親の看取りを通して考えたこと」を副題とする一文を草しましたが、私が母の在宅介護を始めたことからその冊子をくれました。それは大いに参考になりましたし、同時に、その「看取り」が友人一家にとって勿論容易なことではないけれど、幸せな成り行きであったことを知って嬉しく感じました。

 友人は、冊子をこのように締めくくっています。
 ~在宅であっても病院であっても「看取り」というのは、送る者が送られる者を一方的に見送ることではないと思う。「死」は「死にゆく」ということであって、紛れもなく生きるということだ。命終に向かう濃密な生ーそれは寄り添われる者と寄り添う者の両方にとってであるーを、死を共有して共に生きること、これが「看取り」ではないか。そんなことを教えられた母との別れであった。~

 私は友人の意見にふかく頷くとともに、355人の看取りに関わった小堀医師氏の著作の表題がまさに「死を生きた人びと」であることを思います。大きく言えば、私たちすべてが日々「死を生き」ているのであり「死にゆく」途上にあると言えます。また、「看取り」が一方的な行為ではないという友人の認識は、前に取り上げた哲学者エヴァ・キテイの「依存・ケア」論にも通じるものですし、さらに一般化するなら「すべての関係は、(それがまともであればあるほど)すぐれて相互的なものである」と言えるでしょう。

 なにやらツギハギだらけの記事になりましたが今回はこれにて。次回は「訪問ケア」の業務に従事する人々のインタビューを掲載する予定です。





 



 

 

 


実態、推移
在宅の医師
在宅みとり
在宅のワーカー


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