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2023/12/21

223)植物礼賛

 このご時勢にのんきな話ですが植物をめぐって思うことを綴ります。花を愛する人と人生を共にして私も花が好きになりました(もっとも花が嫌いな人はいないでしょうが)。長くわが家には花が絶えず、誕生日や記念日は「花束と何か」を贈りあったものです。今も毎週花を買います(夏場はひんぱん)。きょうも桐生の帰り道、30年来なじみの園芸農家に寄って薄紅のバラを一抱え手に入れました。出費傾向は「酒とバラの日々」です。

 この農家ではハウスで切ったばかりのバラがバケツに突っ込まれ、2つの大きな冷蔵室にずらり並んで「よりどりみどり」です。よく見れば白バラも白一色ではありません。鍋いっぱいの牛乳に赤や黄や緑の液体を数滴落としてかき混ぜたような淡色であったり、一つの花の中心と外縁、一枚の花弁の根元と先端で色が違ったりします。朱色、黄色、ピンク、オレンジ等のバラも鮮やかな原色からパステル調の中間色までため息の出そうな遷移があります。花の形、大きさ、香り、咲き方も多様でバラの世界は果てが知れません。

 ユリもまた良し。前はカサブランカ一辺倒でしたが、この頃は赤味がかった大輪のユリや八重咲の白ユリが気に入っています。青が欲しい時はデルフィニウムを選んでカスミソウと一緒に活けます。春はチューリップ、夏はヒマワリ、秋はコスモスを追加。この2年で切り花の扱いも習熟しました。茎に空気が入らないよう水切りをするのはもちろん、花瓶の水にキッチンハイター(塩素)を少し入れて雑菌の繁殖を防ぎます。花のエネルギー補給のため砂糖も少々。もはや市販の「長持ち剤」は使いません。

 かつて私たちは庭をバラ園にすることを夢みて沢山の苗木を買っては枯らしました。バラの大敵は細菌による黒星病やうどん粉病でこまめな消毒が欠かせません(枝葉はもちろん土の中まで)。しかし薬剤を撒くのは気が重く、つい間遠になっているうちにアマガエルの一族が住み着きました。つるんと薄い皮膚をトゲに引っかけそうで此方がひやひやしますが、彼らは何食わぬ顔で緑になったり茶色になったり。土の中がミミズ王国と化したこともあって消毒を放棄しました。それから10年ほどたちますが、かなりのバラが生き残って春秋に彩りを添えてくれます。

 それにしてもバラに限らず花は何故かくも美しいのでしょう。もっぱら虫や鳥を引きつけようと進化してきた花々を人が愛でるのはチケットを持たない只見のようなものです。しかも花ばかりでなく葉も枝も美しいし、桜やケヤキなど樹木全体も美しい。ついでながら孔雀やシマウマも美しい。こうした「審美」を文化的営為と言ってよいでしょうが、それが人間のもつ原初的な「自然性」にいかに深く根ざしているか大いに興味があります。たとえば20万年前のホモサピエンスは花を美しいと思ったでしょうか。

 かつて二酸化炭素が充満していた地球を「生命の惑星」に変えたのは植物であったとか。20数億年前、海中で誕生した原始植物のラン藻(シアノバクテリア)が光合成によって酸素を生み出し、それが水中から大気中に行きわたり、やがて上空にオゾン層ができて紫外線が遮られ生存環境が整いました。そこで植物が海から陸地に進出し、動物がその後に続いたのだそうです。私たち動物は、酸素供給と食物連鎖という2つの生命基盤を植物に依存しています。

 しかるに人は、植物が動かず黙しているため動物より格下に見てきました(植物状態という悪しき比喩もあります)。しかし植物が「動かない生き方」を選んで進化してきたことは相違ありません。動物のような個々の器官をもたず各部分が他と交換可能(モジュール構造)であるため体の大半を失っても生きのびて復活します。草むしりに果てがないゆえんであり、千年杉のように極めて長寿の種も多数あります。地球上でもっとも繁栄しているのが植物で全生物の重量比で99.9パーセント(起訴有罪率と同じ)を占めると推計されています。

 植物が「知性」を持っていることも明らかになってきました。周囲の状況を察知して枝や根の成長を統御するだけでなく、他の植物、昆虫、動物とも互いに作用しあい、化学物質を使って情報交換していると言われます。たとえばライ豆はナミハダニに食われると揮発性化合物を放って肉食のチリカブリダニ(ナミハダニの天敵)を呼び寄せ食害を防ぎます。多くの木はフィトンチッドという殺菌性の芳香を出していますが、樹皮がカミキリムシ等に食われるとフィトンチッドの濃度が高まり、それを感知した他の木々が樹皮の下にタンニン(渋味成分)を集めて食害を予防します。

 このように植物は「すごい生物」ですが、特に私は、動かないという生存のあり方に感銘を受けます。そのせいでしょう、動物園に抜きがたく漂っている憂愁が植物園にはありません(私は動物園も植物園も好きです)。近年の動物園は「檻づめ展示」から「生態展示」に変わってきましたが、動物を一定区域にとどめないわけにいきません。飼育動物がもう原野で生きられないであろうこととは別に、動物園は動物の本来のあり方を制限することで成り立っています。

 植物園にはこの「根本制御」がありません。私たちは様々な植物がくつろいでいる自宅を訪問するようなもので、植物園にはあっけらかんとした雰囲気が漂っています。こうした解釈が手前勝手の感情移入であることはもちろん承知していますが、同じ生物同士として植物を眺めるとき尊敬と感謝(のような)念が自然と湧きます。この観点から動物はかなり離れた二番手であり、人間は最下位というより番外です。地球への「貢献度」から見ても順番は同じでしょう。

 冒頭で「今日バラを買った」と書きました。それ以降、2度にわたってユリを買い、この末尾を書いている「今日」は、高校時代の恩師から見事な盛花を頂戴しました(今お礼の電話を切ったところです)。私は文章を書くのが遅いうえ落ち着いて座るのが苦手なため、この記事を書き出してから3週間が経過しました。その間に部屋の花も三巡して年末になってしまいました。次回のブログ更新は1月になりそうです。

 「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮だ」とアドルノに言わしめたホロコーストを生きのびた人々が建てたイスラエルがホロコーストを行っています。ともかくそれを一時中止させようという国連決議すら成立しません。かたやロシアのウクライナ侵略が後景に退いた感があります。来年はよい年でありますようにと言うことも空しい情勢ではありますが、少なくとも国内においては東京地検の職務遂行(正月出勤もどうぞ)によって金権政治が少しは是正されることを願うものです。
 
 私は花が美しいと書きましたが、それは「物を見ること(見えること)」の話です。これを書きながら視覚を有しない人にとって花は何であるかについて考えざるを得ませんでした(聴覚を有しない人と音楽の関係も似ています)。こうした問いに何らかの意味があるのか、そもそも私に問う資格があるのか分かりませんが、次回はこのことについて書いてみようと思っています。突然年賀状をやめて先輩、知人、友人に失礼をいたしましたが、末尾にご覧くださった方々のご健康をお祈り申し上げます。






2023/12/05

222)あなたは死刑!

 今回は「死刑」および「裁判員制度」について書きます。いずれも私の日常と接点はありませんが固いしこりのように長く心中に留まっています。この2つの制度は「人、組織、システムが無謬ではあり得ない」という事実と「それがもたらす不公正を是正する努力が不断に続けられるべきである」という社会的要請に反しています。民主主義とも相容れません。世の中に無謬があり得ないと言うからには私の意見が間違いであるかも知れませんが。

 まず死刑です。世界では死刑のない国が大多数ですが、それはいったん横に置いて「国家が人の命を奪うことが本当に正しいかどうか」を吟味する必要があります(裁判員制度も同様に「正しいかどうか」を考えるべき)。国は大量の官製情報を発信する一方で死刑の実態に関しては貝のように口を鎖しています。裁判員制度の運用実態も裁判員に課された守秘義務に阻まれて十分明らかになりません。社会の議論が深まらないのも道理です。

 いま「正しいかどうか」と書いたのは、死刑については、許される、認められる、適切である、やむを得ないといった言葉より強い正当性が求められるべきだと思うからです。死刑も殺人ですから一義的に人命尊重に反します。「真にやむを得ない場合において国家が殺人刑を行うことが認められる」という考えは本当に正しいのか。「必要悪のレベル」から一つ遡って死刑が「正義であるか否か」が問われるべきです。

 これは倫理の問題で「社会的ルールとしての法律」より根源的な問いでしょう。他人はどう考えているのかと本をいくつか読みましたが、死刑が「正しい」か「正しくない」かを明言する著者は見当たりません。どの本もカント(価値の天秤)、ヘーゲル(弁証法)、ハーバーマス(公共圏)、ジョン・ロールズ(正義論)など大御所の思想を紹介していますが「したがって死刑は正しい(正しくない)」と結論づけていません。そもそも死刑は正しさを論じる問題ではないという意見もありました。

 当たり前ですが死刑は刑法に基づいており法律違反ではありません。憲法に照らしてどうか。1948年(昭和23)、最高裁は、憲法13条に規定された国民の生命権は「公共の福祉の枠内で認められる」ものだから死刑は同条に抵触しないと判示しました。同時に「絞首刑は、火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで等と違うのだから残虐とは言えない」ため憲法36条(残虐な刑罰の禁止)にも抵触しないとの見解を示しました(判決文を私流に要約しています)。

 いくら三権分立といえ死刑存置国の司法中枢が正面から「死刑は間違いだ」と言うはずがありません。それでも上記判決の補足意見として「刑罰が残虐かどうかの判断は国民感情によって定まるものであり、国民感情は時代とともに変遷することを免れないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが後の時代には反対に判断されることをありうる」との意見が付されていることは貴重です。裁判官は白熱の議論を交わしたはずです。

 それから75年。わが国の社会の大きな変化を思うと国民感情が変わらないはずがないけれど今も死刑容認が8割を占めます。いったい私達はちゃんと理解しているのでしょうか。「よく見聞きし分かりそして忘れず」という宮沢賢治の言葉が思い出されます。国が死刑を隠す理由は「それが残虐な刑罰であることを国民に分からせたくない」という一点に尽きると考えます(個人が死刑に立ち会うかどうかの問題ではなく制度の公開性について論じています)。

 ところが国の分厚いベールにわずかな隙間がありました。関西大学の永田憲史教授が、国会図書館のGHQ文書(マイクロフィッシュ文書)の中から1948年から1951年までに死刑となった46人(その期間の執行総数の4割弱)の記録を発見し分析したのです。それによると絞首の所要時間は平均で14分、最短の10分55秒から最長の21分まで2倍の幅があります。米国(死刑存置州)は薬剤注射ですが、「苦痛を伴う死」、「長引く執行」、「瞬間的でない死」を合衆国修正憲法で残虐で異常な刑罰として禁じ、所要時間の基準を「2分」に定めています。2分が妥当かどうかは別にして日本の平均14分は実にこの7倍です。

 これは「日本は日本、米国は米国、所変われば品変わる」という類いの問題ではありません。GHQ文書は昔のものですが日本の死刑の方法(25~30ミリのナイロンロープを首に巻いて踏み板をはずす)は基本的に変わらず、今も「平均14分」ほどでしょう。元刑務官の手記には「失敗例」も記録されています。書いていて気が滅入りますが、日本の死刑の所要時間は長すぎると言わざるを得ません。これだけでも残虐であり明らかに憲法違反です。

 死刑廃止の論点は「残虐である」以外に「誤判があり得る」、「抑止効果がない」、「万人に更生の可能性がある」、「生涯をかけ償わせるべきだ」などがあります。死刑存置の立場からは「人を殺したからには自分の命で償うべきだ」、「被害者・遺族の心情を考えると死刑やむなし」、「抑止効果がある」、「凶悪な犯人の再犯を防止できる」、「社会秩序の維持のため死刑が必要だと国民が考えている」などがあります。

 このうち「命をもって償うべし」はカントも言っており死刑肯定の中心的理由です。確かに天秤の左右の皿に命が載れば一応つり合いがとれます。さらに被害者と同じように加害者も「殺される」ことで均衡が完全になると主張する人もあるでしょう。このあたりが議論の分かれ目です。殺人は究極の悪ですが、私は、既に行われてしまった殺人を国家が罰するため「これからもう一つ別の殺人を行う」ことはやはり不正義(悪の上塗り)であると思います。加害者が深く悔いて自発的かつ独力で自らの生を終わらせるという特殊な場合を除いて「命の天秤」が釣り合うことはありません。

 私は、「命は無条件に貴い」という理念に反することを第一の理由として死刑に反対ですが、罪を犯した人を寛大に扱うべきだとは特に思いません。そして死刑を廃止する代わりに「終身刑」を検討するべきだと思います。現行の無期懲役は、20年ほど神妙に服役すると仮釈放される可能性があります(例外的に仮釈放を許さない加重条件付きの無期懲役判決もある)。仮釈放は服役者には一縷の望みであり、また実際に改心する人もいるはずですから「程よい匙かげん」かも知れません。しかし「無期懲役が無期でなくなる可能性」が死刑存置派の背中を押していることは確実です。

 世の中には死刑になりたくて犯罪を犯す人がいます(京王線放火、秋葉原事件、北新地ビル放火など)。一審で死刑判決を受けたあと弁護士が行う控訴を自ら取り下げて死刑を確定させる人もいます(池田小事件、土浦連続殺傷、熊谷市4人殺傷事件など)。このように人生を絶つという点で死刑が救済になる場合があります。これに対して終身刑はいかなる意味でも救済にはなり得ないでしょう。どこの国であったか終身刑の囚人達が「自分たちを死刑にしてくれ、その方がましだ」と集団で訴えたことがあります。

 確かに終身刑もまた残酷です。100才になったらみんな釈放すべしという意見もあります。しかし終身刑は命を奪わないという点で死刑よりずっと「正しさの度合い」が高いと思います。私にとっても家族は何より大切な存在ですから、被害者家族の処罰感情はよくよく理解できます。事と次第によっては私自身が報復しかねないと感じるほどです。それでもなお私たちの社会は死刑という制度を持つべきではない。私はこのように考えます。

 次は裁判員制度について。これは、市民(選挙人名簿から無作為抽出で選ばれた6人)が職業裁判官(裁判長を含む3人)と共に9人の合議体を形成し地裁で行われる重大な刑事事件(殺人・強盗など死刑や懲役刑になり得る事案)を裁くという「一日裁判官」のような制度です。硬直化した法廷に市民感覚を吹き込むと宣伝され2009年にスタートしました。

 しかし司法制度改革審議会は、制度の目的を「国民が統治されているという意識から抜け出し、責任感をもって統治に参画することである」とし、裁判員法1条には「司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上に資する」とあります。裁判員制度は「より適正な刑事裁判を行うため」ではなく「国民の意識を改革するため」に発案、施行されたわけです。ちなみに刑事訴訟法1条は「事案の真相を明らかにしつつ刑罰法令を適正かつ迅速に適用実現すること」と定めています。国は教育目的で素人に旅客機の操縦桿を握らたようなものです。

 市民が裁判員に選ばれたら基本的に断れず、仕事そっちのけで地裁に通うことになります。そのためでしょうが裁判は月曜~金曜の5日間で終了することが多く、3日ほどで判決に至る例も珍しくありません。「早く分かりやすく」を最優先するこの裁判では、裁判員は段ボール箱で数える分量の証拠書類を読むことがありません。検察からは2、3枚のペーパーが渡され、後は主として動画、イラスト、図表、パワーポイント等で起訴事実のプレゼンを受けます。弁護側の説明も同様です。双方から裁判員の感情に訴えるかけるパフォーマンスが展開されますが検察の「作品」の方が出来ばえがよいといいます。資金力の差でしょう。

 早く分かりやすいことは大切ですが、裁判員は出来上がった料理を食べるだけで、自分で素材(原資料)を点検することはありません。この料理を作るために「公判前整理手続き」が行われますが、これに長い日数を要することが大きな問題となっています。中には3年半にわたり54回の協議が行われ、この間に証人が死亡した例もあります。この間に検察と弁護側が主張と証拠検討をくり返すわけですから、それに立ち会う裁判官が公判前に心証を形成する可能性が高く、その場合は予断排除の原則に反することとなります。

 また、裁判員の判断は良くも悪くも「量刑相場」を打破します。1才8月の娘を暴行し死亡させ傷害致死罪に問われた両親について検察は懲役10年を求刑しましたが、裁判員は同15年の判決を出しました(通例は「8がけ」の8年ですが倍ちかい年数)。一方、弟を殺そうとした殺人未遂事件では、弁護側が「懲役5年6月に軽減してほしい」と主張したのに対し、裁判員は同4年6月としました。検察と弁護側の主張の間というのが通例ですが、主張よりも軽い刑を言い渡された弁護人はどんな顔をしたでしょうか。

 従前の裁判では、検察が「無期懲役相当」と考える事案について遺族に配慮しつつ死刑を求刑し、審理の結果、狙いどおり無期判決を得る場合がありました。しかし裁判員裁判ではそのまま「死刑」となりかねません。長く死刑判決を根拠づけてきた「永山基準」の規範性も弱まりました。これは1968年、19歳の犯人が4人を拳銃で殺害した事件(死刑執行)の裁判において、犯罪の性質、動機、方法(執拗さや残虐さ)、重大性(被害者の人数等)、被告の年齢など9項目を総合的に考えて死刑がやむを得ない場合があるとしたものです。「3人の殺害で死刑」という目安は少なくとも1審ではなくなりました。

 私は前回記事にも書いたように司法に問題があると考えていますが、従前の判例がフリーハンドで変えられていくことに反対です。判例は事実認定と法令適用の判断の集積であり、不平等を小さくするためにも尊重されるべきものです。裁判員裁判にコペルニクス的転回を期待してはなりません。

 さて、裁判員に対しては検察、弁護側はもちろん裁判官からも大変に丁寧で分かりやすい説明が行われています。また裁判員の法的無知に対し裁判官が親切かつ友好的に指摘、指導を行っていることが経験者の話からよく分かります。しかし裁判員は目の前の1件について1回だけの判断を求められます。検察と弁護側から巧みに感情を揺さぶられた上の判断です。

 判決はプロ3人、アマ6人、みんな1票の多数決で決まります。プロがアマを容赦なく論破して全員一致に持ち込むことは制度自体の否定であり、実際には起こり得ない話です。したがって裁判員の判断が判決を左右します。裁判員は何に判断の根拠を置くでしょう。それは法である以上に、感覚的、感情的、一時的なものであると思います(私が裁判員になってもそのはずです)。はたして「市民感覚」に頼って人を裁いてよいのでしょうか。裁判員裁判は衆愚裁判になりかねません。

 しかし私が裁判員裁判に反対する大きな理由は別にあって、一つは「市民に死刑判決を行わしめることは認められない」ことです。職業裁判官も市民ですが、その地位、独立性、専門性は法により厳格に定め、守られており、裁判官はその重みによって死刑判決を行います(私は死刑に反対ですが)。一般の市民が「一日裁判官」として死刑に加担することは許されません(判決文作成と言い渡しは職業裁判官が行います)。

 もう一つは、司法は市民の参加により「民主化」すべき場ではないというそもそも論です。司法は「法に基づいて訴訟を裁く機関」であり、国民の代表機関ではありません。民意は裁判に反映するのではなく政治部門で反映されるべきです。立法も行政もそういう建付けになっているのに、国があえて司法の世界に「民意」を持ち込もうとするのはなぜでしょうか。国は、裁判員制度により司法制度改革の帳面を消す一方、最高裁人事部門を頂点とする巨大ピラミッド(司法硬直の元凶)の温存と死刑の存置(統治権の強化・維持)を狙っているのだと私は思います。

 米国の「陪審制」は、職業裁判官とは別に12人全員一致で有罪か無罪かだけを判断するもので州と連邦との拮抗などを背景とする制度です。映画「12人の怒れる男」(ヘンリーフォンダが格好良かった!)は、一人の陪審員が仲間の意見を変えていく過程を描いていますが、全員一致が常に正しいとは限りません。仏、独、伊などの「参審制」には団体の推薦や参審員の任期を定めるものなど色々あります。国情の違いがあるので一概に言うことはできませんが、いずれも「市民参加」という点が問題であると思います。

 死刑を容認することは「人の命は何にも増して尊重されるべきものであるという社会的了解の到達点」を後退させることにつながります。裁判員制度も市民を死刑に参与させるとともに法の厳格な適用を妨げる点に大きな問題があります。私はこれらを無くすことが正義であると考えています。

 コロナの緊張が薄れたのかひどい風邪を引いて1週間ほど家から出られず、よせばいいのに死刑と裁判員の本ばかり読んで一層具合を悪くしました。やっと一昨日から桐生復帰を果たしましたがショートコースで息があがり、帰宅して書く記事もこのとおりダラダラです(すみません)。次回はさわやかなことを書きたいのですが良い話題が見つかりません。

 ところで今年の流行語大賞は「キックバック」に変更するべきでしょう。政治家とカネの相思相愛ぶりが、ゆるぎない政権与党である自民党の各派閥において補強、再生産されていることに今さら驚きようがありません(嘆かわしい!)。今回ばかりは検察(東京地検特捜部)にエールを送りますが安倍氏が首相の時には不可能だったでしょう。着手のタイミングや落とし所まで計算ずみの捜査であるにしてもこの上は手加減無用、全件起訴に持ち込んで死刑以外を求刑してほしいものです。





2023/11/17

221)シャツの味噌漬け

 恐ろしい話があります。ことの発端は1966年6月30日深夜、静岡県清水市で起きた強盗殺人・放火事件です。被害者は味噌製造会社の専務一家4人。住み込み従業員の袴田巌氏(当時30才)が逮捕され一旦は犯行を自白、その後の裁判で一貫して無罪を主張しましたが、1968年9月、静岡地裁で死刑判決が下され、80年12月、最高裁で刑が確定しました。世にいう「袴田事件」ですが、本当に恐ろしいのは事件後の顛末です。

 重大事件はよく地名で呼ばれます。布川事件(1967年発生、無期懲役)、大崎事件(1979年、懲役10年)、日野町事件(1984年、無期懲役)、松橋事件(1985年、懲役13年)、足利事件(1990年、無期懲役)、飯塚事件(1992年、死刑執行済)のように。被害者にちなんだ名称には徳島ラジオ商殺し(1953年、懲役13年)、東電OL殺人事件(1997年、無期懲役)等があります。しかし「免田事件」(1948年、死刑、再審無罪)や「袴田事件」はなぜか「犯人」の名で呼ばれます。予断を招く不適切な命名ですが、それも本件の問題の大きさに比べると些事に見えます。

 袴田氏のパジャマには豆粒ほどの血痕が3つありました。本人は消火活動の際にトタンに引っ掛けた傷だと説明し、警察は揉み合いの際に凶器の小刀で切った傷だと断じました。1日十数時間の尋問を20日にわたって受け、袴田氏は自白に至ります。しかし、1年2か月後の1967年8月、味噌工場の醸造タンクの中から麻袋に入った5点の衣類(血痕がついた半袖シャツ、スポーツシャツ、ズボン、ステテコ、ブリーフ)が見つかりました。検察は「パジャマ犯衣説」をあっさり撤回し、半袖シャツの右肩の血痕は袴田氏のもので、他は被害者4人の血液であると主張しました。

 弁護団は当初から疑問を呈していました。「なぜ事件直後に捜査員がタンクの中に入って調べた時に衣類が見つからなかったか。タンクはほぼ空だったので衣類を隠すには底の味噌をかき集めて山に盛らなければならず見逃しようがない」、「返り血を浴びたら上着から下着に同じ血液が沁み通るはずだ。ズボンやステテコに付着していない型の血液がブリーフに付いているのは不自然だ」「1年2か月も味噌に漬かっていたのに生地の変色が少なく血痕も鮮やかすぎる」「控訴審での3回の着用試験でズボンが袴田氏の太腿につかえて履けなかった。これは本人のものではない」等々。

 また、死刑確定後の第1次再審請求(27年間審理され棄却)および第2次再審請求(15年間審理され2023年に再審開始決定)の42年間(!)におよぶ審理の過程で検察がようやく開示した証拠が多数あり、新たな鑑定や実験も行われました。弁護団は味噌漬けの再現実験を行い、「衣類の生地は味噌と同色に染まり、付着した血痕は赤ではなく濃い黒褐色になる」との結果を得て、5点の衣料は何者かが「発見」の少し前にタンク内に仕込んだ即席漬けであると主張しました。

 これに対し検察は「ズボンには『ゆったりサイズ』を示す『B』のラベルがついていた。大きなズボンが味噌に漬かった後に乾いて縮んだ」と説明しました。しかしその後で、検察は「B」が色を示す記号であるとメーカーから聞いていたのに虚偽説明を行っていたことが判明します。また検察が「袴田氏の実家からズボンの裾上げの端切れを押収した」と主張したことについて静岡地裁は、事件の重大性に鑑みると5点の衣類の関連品を幅広く押収するべきところ、ズボンのベルトと端切れだけ押収してすぐに捜索を終了した経緯が不自然である、と指摘しました。

 検察の味噌漬け実験においては「1年2か月にわたり味噌に漬かった後でも衣類に付着した血痕の赤みが消えずに残る」との結果が得られました。公開されている写真では確かに弁護団実験の衣類より血痕が赤く見えます。しかし一方で、生地全体が茶色にむらなく染まっており、タンクから発見された衣類(実物の証拠品)の生地が白っぽいことの不自然さを逆に浮き彫りにしているように思われます。

 こうして弁護団と検察の主張が対立する中で、血痕のDNA鑑定では双方が推薦する2人の法医学者が共に「半袖シャツの肩の血液は袴田氏のものでない」と認め、検察主張の根本がくつがえされました。以前に行われたDNA鑑定では「鑑定不能」とされたものが技術進歩によって今回の結論となりました。それは袴田氏が獄に繋がれていた年月の長さを物語っています。さらに弁護団推薦の法医学者は「返り血とされるのは被害者4人の血液ではなく、相互に血縁関係のない4人以上の血液が分布している可能性が高い」と分析しました。

 2007年には、1審の静岡地裁で死刑判決を起案した元裁判官・熊本典道氏が、「自分は袴田さんを無罪にすべきだと主張したが他の2人を説得できなかった。合議の結果、2対1で有罪・死刑に決まった」と暴露しました。判決から40年も過ぎて元裁判官が評議の秘密を公にしたことは極めて異例です(他の2人の裁判官はすでに故人)。熊本氏は、最初から袴田氏は無罪だと判断しており次のようにインタビューに答えました。

<熊本氏コメント要旨>
・1日の取調べが16~17時間にも及んでいた。当然ながら自白の任意性に問題がある。
・45通の調書のうち1通のみ問題が少ないと屁理屈をつけ証拠採用した。それは警察調書でなく検察調書だったが、検事は変なことをしないだろうという同族意識もあった。
・証拠と袴田さんが結びつかなかった。逃走口とされた裏木戸も施錠されていた。量刑(死刑)と動機(アパートを借りる金が欲しかった)もつながらない。
・犯人は小刀で1人10か所以上(4人で40か所以上)突き刺した。その後、4人の周囲に油をまいて火をつけた。この間に家族が気づいて抵抗した形跡もない。一人で出来ない犯行だ。
・後日5点の衣類が出てきたのは、何かあったなと思った。普通ではない。第3者がやるには手が込んでいる。ズボンの端切れも「なぜ今ごろ」と思った。

 熊本氏は左陪席裁判官(3人の合議体の最下位)でしたが、「ふてくされて死刑の判決文を書いた」そうです。そして、判決理由は「めちゃくちゃ」だけれど論理は通さなければいけない、苦労して書き上げたが上級審でこれを論破して欲しいと内心で願ったと述べています。また「日本の刑事訴訟法の中で刑事裁判所は真実を発見する場であろうか?裁判官は、検事が言ってきたとおり有罪かどうかを、証拠の有無によって判断すればよい。これが自分の基本的な立場である」とも語りました。

 前置きが長くなりましたが、本年10月にやっと静岡地裁で再審公判が始まった「袴田事件」をめぐる感想を書きます。わが国の刑事裁判で針の穴を通るような再審が決定されたということは、最高裁まで争われ弁護側と検察側の立証と審理が尽くされて確定した有罪判決をひっくり返すことですから実質的に「無罪」に等しい判断です。これに対し検察側が改めて有罪を主張していることは余りにひどい。組織の体面を保つ意図からあえて「負けいくさ」に踏み込んだとしか考えられません。

 私が死刑制度に反対する理由の一つが「冤罪は起きうる」という事実です。この記事の最初に列挙した重大事件はいずれも「冤罪」あるいは「判決確定後の再審中」のケースです。記憶に新しいものでは東近江市の病院で起きた呼吸器事件(2003年逮捕、懲役12年、2020年再審無罪)や厚労省郵便不正事件(2009年逮捕、2010年大阪地裁無罪判決)があります。冤罪は全体から見れば少数でしょうが、数の問題ではありえません。

 冤罪事件の多くでは犯人とされた人が「自白」をしています。本当に無実ならなぜ「うその自白」をしたのでしょうか。袴田氏のケースでは、取調べの録音テープ(警察の倉庫にあった23巻のオープンリール)に、長時間におよぶ強迫的で執拗な尋問の様子が記録されています。血液の鑑定結果について捜査員との「賭け」(負けた方が首を差し出す)を持ちかける言葉や、捜査員二人が犯行の筋書きを相談する会話もあります。袴田氏をトイレに行かせず運び込んだ便器で小便をさせる音も入っていました。その後の「自白」なのです。

 こうした取調べが裁判で問題にならなかったのは何故か。これらの調書は「テープ起こし」ではなく、捜査員の思い描く筋書きに沿うような修正(追加、省略、順序の入れ替えなど)が施され「分かりやすく」仕上げられました。それでも45通の調書のうち44通が証拠と認められなかったのは前述のとおりです。しかし反面、袴田氏が「パジャマの血痕の説明に窮して自白に追い込まれた」経過に光が当たらず、裁判官全員が「袴田氏は5点の衣類の存在を知らなかったはずだ」と推認するに至りませんでした。

 厚労省の郵便不正事件では、虚偽有印公文書作成・行使容疑で逮捕、起訴された村木厚子氏(名誉回復後に本件を公けに語っておりここでも実名を書きます)が、担当検事から「私の仕事はあなたの供述を変えさせることだ」と言われた体験を語っています。そしていくら説明しても「あなたの話だけみんなと食い違う」と取り合ってもらえなかったそうです。「取調室で検事が作ったストーリーを何度も聞かされると『そうかも知れない』と思ってしまう。魔術のような怖さだった」とも述懐しています。

 担当検事は、押収品であるフロッピーディスクの日付を自分の見立てに合うよう改ざんし、それをかばった上司2人とともに逮捕されて大ニュースとなりました。精鋭部隊とされる大阪地検特捜部の組織犯罪でしたから捜査は高検を飛ばして最高検が行いました(3人は懲戒免職)。検事にとって無罪判決は「恥辱」なのだそうです。犯罪者を法廷に送り込むのが検事の本来業務であり、しかも起訴人員のうち有罪となる被告人が99.9%(司法統計年表)ですから、それも分からないではありません。

 一方、職業裁判官にとっても刑事事件において「有罪999人、無罪1人」の割合ですから、年間200件の判決を下すと仮定すると無罪を言い渡すのは5年に1回に過ぎません。無罪判決を一度も出さずに定年退官する人もいるでしょう。うっかりすると判決が有罪への流れ作業になりかねません。裁判官は事件処理件数が人事考課の対象とされ、たくさん「捌く」人の評価が高いのだそうです。無罪判決が出される事件では公判回数が増え、判決書の作成にも時間がかかる(上級審で否定されないよう)のが普通ですから、無罪はさらに狭き門となります。

 ついでながら重大事件の1審に導入されている裁判員裁判では「流れ作業」が発生しないでしょうが、これはそもそも死刑判決に国民を巻き込む制度であり、マスコミなどがもてはやす「市民感覚」にも注意が必要であると思います。これらは別の機会に述べます。

 「犯人」の身柄と人生は、警察、検察、裁判所の順に委ねられていきますが、これら3つの機関が独立した別組織で役割も所轄官庁も異なることは今さら言うまでもありません。しかし同時に、お互いに関わりを持ちながら全体として法的秩序を維持している点においては「司法一家」です。それゆえ判事と検事が入れ替わるという驚きの「判検人事交流」も行われています(刑事裁判を除外するなど一部廃止になったようですが)。

 裁判所では一日に何件も裁判が行われますが、一つの法廷の裁判官と検察官は同一人物がつとめ、被告と弁護人だけが事件ごとにコロコロ変わるのが日常的な光景だそうです。そしてくどいようですが99.9%という有罪率。これでは熊木氏も語ったとおり裁判官と検察官の身内意識(ひどくは馴れ合い)が発生したとしても不思議はありません。このように考えると一つ一つの法廷において「疑わしきは被告人の利益に」という理念が貫かれているかどうか私には大いに疑問です。

 山門の両脇に仁王像が立ち、拝殿の前には狛犬が鎮座しています。これらの一方は口を開いた「阿形」、他方は唇を結んだ「吽形」で左右一対で奥なる神仏を守っています。同じように裁判官と検察官も、良くも悪くも一対となって阿吽の呼吸で法を守護しています。しかし、これまでを振り返ると、彼らが守ろうとしているのは「法よりは秩序」である、それどころか少なからぬ場合において「秩序よりは自らの組織」であるとさえ思われます。

 「袴田事件」の再審開始にあたり、静岡地裁の次席検事は報道陣に対し「有罪主張を粛々と行う」とコメントしました。私はこの「粛々」が嫌いです。官房長官など政府筋もよくこの言葉を使います。原義はさておき「周囲に惑わされることなく信念をもって冷静にことにあたる」ほどの意味で多用される「粛々」という言葉。私にはこの言葉を発する人間の薄っぺらな権力意識と自己陶酔が目に見えるようでウンザリです。その意味で「有罪主張」と「粛々」は釣り合っています。

 袴田氏は死刑判決を受けて48年間服役し、2014年、静岡地裁の再審決定の際に釈放されました。30才の青年が78才の老人になっていました。獄中から家族や支援者あてて無実を訴えた手紙は1万通。重い拘禁反応により精神の安定を失い意思疎通も困難になっています。むごい話です。再審で無罪が確定することは間違いないでしょうが人生は戻りません。脈略はないけれど「わたしをかえせ、わたしにつながるにんげんをかえせ」という詩句が思い浮かびます。

 この記事では刑事事件の捜査や裁判について批判的に書きました。しかし個人として見ると警察官、検察官、裁判官の「善良度」は一般社会と同レベルでしょう。いやむしろ「法と正義を守る」ためにその職を選んだでしょうから世間より正義派が多いかも知れません。それでも冤罪が発生します。やはり組織の中に「疑わしきは罰する」バイアスが働いていると考えざるをえません。ならばその一員としていかに動くか、これは個人にとって難題です。

 村木厚子氏は「検察は人の人生を左右させる強大な権力を持っている。権力を使う際には怖れを持ってほしい」と述べました。重い言葉です。こうしたこともあってか現在では一部事件において取調べの録音、録画が法制化されていますが、これを全ての刑事事件に広げることが課題です。また、私としては、検察は最初からすべての証拠を法廷に出すこと、死刑判決においては裁判官の全員一致を要件とすることを提案したいのですが、素人の世迷言と一蹴されるでしょうか。

 この記事を書くにあたり、「冤罪と裁判」(今村核・講談社新書)、「隠された証拠が冤罪を晴らす」(日本弁護士連合会編・現代人文社)、「証拠改竄」(朝日新聞取材班・朝日新聞出版)、「袴田事件の謎」(浜田寿美男・岩波書店)、「袴田事件、これでも死刑なのか」(小石勝朗・現代人文社)を参考にしました。書きたいことは山ほどあるのにうまくまとめられませんでした。しかしここに権力の犯罪がいくつも表れています。私は元公務員として(判事や検事のようなエリートではないけれど)、組織が間違っていると思った時に一職員としてどのように振舞うことができるかを今更に自問することとなりました。

 「袴田事件」の再審は2024年3月に結審の予定ですが、実際には3~4か月ほど延びる見通しです。長い長い裁判が終わった時、袴田氏の無罪がどのように証明されるのか。その際に警察や検察が行った人権無視の取調べや、それを隠すために検察官が法廷で行った偽証はどのように裁かれるのか。警察が行ったと推定される5点の衣類の味噌漬け(証拠捏造)の真実はいかに明かされるのか。過去2回にわたる再審請求の際に検察が即時抗告して42年間が費やされたことをどう見るのか。これらの責任を誰がどんな形でとるのか。「償う」ことは可能であるのか。本当に恐ろしい話です。袴田氏はいま87才、ずっと支えてくれたお姉さんと一緒に過ごしています。
 





 

 


 

 

 




2023/11/02

220)桐生あれこれ

  「また来はったであの兄さん。毎日や」「ほんまによ。精の出るこっちゃな」「よっぽどヒマやであれは」「旗もって通学路でも立たったらええのにな」「いや立ちんぼは務まらんやろ」「ほな草刈りか」「缶拾いでもええで」「ははははは」。上桐生駐車場の番小屋では婦人会の方々のこんな会話が交わされているかも知れません。いやまったく有益なことを何もなさず桐生の山道をほっつき歩いている私です。今回は日ごろ格別にお世話になっている桐生の山やお寺について書きます。

 桐生詣では2年ちかくになります。昔はジャンボお握りを持って家族で出かけ、その後は長らく夫婦でたどった山道です。今は一人で香ばしい空気を吸いながら緑と岩と水の間を歩くと、堂々めぐりの頭が次第に軽くなります。春はうぐいす、山ツツジ、夏はセミに野イチゴ、秋は萩やドングリ、冬は椿と雪上の小さな蹄の跡。リスは年中見かけるし、先日は曲がり角で鹿と鉢合わせしました。熊はいませんがスズメバチが我が物顔です。

 私が住む草津の中央部から草津川を数キロさかのぼると、信楽山地の北端部に位置する金勝山(こんぜやま)に達します。山の手前半分が大津市桐生で向こう半分は栗東市金勝。境界をなす稜線に登ると琵琶湖と比良比叡が一望でき、ふり返ると田んぼの中に三上山が置かれています。あたりの山々は低いけれど起伏と変化に富み、山頂一帯には侵食された花崗岩の巨岩、奇岩が立ち並んでいます。近江湖南アルプスと呼ばれる(少しほめすぎ)これらの山々が私のフィールドで、お茶を入れたザックを背に1時間半から2時間半いろんなコースを歩きます。ふもとまで車なので冷やした缶ビールのぐるぐる巻きを持参できません。

 ところで金勝山は土がやせているため樹木の成長が遅いけれど、その分だけ木質が稠密、堅牢であったとか。人もかくありたいと一言添えたくなるのは老化現象ですが、良材ゆえに奈良の南都七大寺、紫香楽宮、石山寺などの造営のため乱伐されました。やがて樹林が丸ごと消え、江戸時代には「田上の禿」という心ない名をつけられるに至りました。山には土砂をおさえる何物もありませんから水害が頻発し、やがて草津川の河床が上がって天井川となりました。明治政府は土留め、芝張り、植林など大規模な治山事業に着手し、大正、昭和を経てようやく今日の緑を取り戻しました。

 知る人ぞ知るオランダ堰堤は、明治15年、お雇い外国人技師のヨハネス・デ・レーケの指導、田辺義三郎の設計により築造されたもので、切石を階段状に積み上げた鎧型アーチダム。さすがに石材の角は丸まっていますが躯体はびくともせず今なお現役です。水は清冽で夏の滝つぼ周辺はプールサイドの賑わいです。少し下流に副堰堤があるほか、上流部の山中の各所に土留めの小さな石積みが残っています。初めてこの地を訪れる人は、山の奥深くにまで人の手が入っていることに驚かれるでしょう。

 美林の乱伐、伽藍の建造、治山事業等はそれぞれ活動の方向が異なるものの、大変な大事業である点に変わりありません。ちなみにかつて切り出した木材は瀬田川に一本ずつ浮かべ(管流し)、木津川合流点で陸揚げして筏に組みなおし再び水路を下ったそうです。紫香楽方面へは最初から陸路だったでしょう。人力主体の時代です。ミミズを運ぶアリの群れのような作業。運搬に続く建築の工程はさらに大変だったでしょう。ピラミッドや万里の長城もしかり。こうした人間の業(わざ)には賛嘆と同時に驚き呆れる気持ちが生じます。

 金勝寺は、733年、聖武天皇の勅願により、平城京の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願寺として東大寺別当の良弁僧正が開きました。この寺は瀬田川方面から見ると一つ奥まった山中にあり、一帯には乱伐から逃れた杉の巨木が立ち並び、霊場にふさわしい雰囲気を漂わせています。昨年、雪の深い日に金勝寺を訪れました。その日は山門に人がおらず入山料は自主納付で境内にも人影がなくあたり一面は白。門の両脇の朱塗りの仁王像やお堂の仏像は威厳と迫力がありました。冷え切った本堂にホットカーペットが敷かれていたのには感動しました。

 私は今日まで信仰を持たず(それが自分に幸いかどうか不明だし、そもそも「幸い」という尺度が心得違いかも知れません)、お寺、神社、教会等をまず建築物として見てしまいます。しかし一方で、建物および周辺の空間に他の施設にはない何物かが漂っていることは不信心の私にも感知されるのです。長い歳月にわたって無数の人々が捧げてきた祈りのベクトルが堂宇に染み込み、あたりに反射しているとでも言うのでしょうか。人が手を合わせ頭を垂れるのも自然な話です。

 まことに建物と人とは感応しあいます。不思議です。住人が去った家は、風を通していても魂を抜かれたように傷んでいくし、反対に、例えば音楽ホールはコンサートが繰り返されるうちによく響くようになるそうです。山下達郎氏の話だから間違いありません。これには部材や構造体の経年による物理的変化だけでは説明できない何か(使い込まれた楽器がよく鳴る現象を越えた何か)がありそうです。こうした建物と人の相互作用は宗教施設において顕著に現れるのかも知れません。

 のんびりしたことばかり書きましたが社会は緊迫しています。自衛隊が南半球のオーストラリアまでいって向こうの軍隊と一緒に訓練すると報じられましたが常軌を逸しており、辺野古の代執行訴訟もひどい話です(もちろん国が)。海の向こうではロシアが侵略をやめずイスラエルは難民キャンプに爆弾を落としました。国の内外を問わず悪事を命ずる人間はグラス片手に安楽椅子に座っています。私も茶の間で座布団に座って泣き叫ぶ彼の地の人々を見ています。

 ウクライナでもパレスチナでも毎日毎時、人が亡くなっています。とにもかくにも戦闘を一旦ストップできないものか。敵と味方の信じる正義が異なり戦力に差があっても、双方が同時に銃口を下ろさないと終わりが見えません。素人の夢想ですがまず戦いを停止させ、停止が蘇らせる「何物か」に希望を見いだすほかない気がします。ガザ休戦の国連総会決議を日本が棄権したことを岸田氏はもっともらしい顔で説明しますが、これは思想的に誤りです。パワーバランスの信仰からは戦争のループの出口が見つかりません。支援金も結構ですが日本国憲法をもつ国ならではの外交の道を模索すべきだと思います。







 

 

 







2023/10/24

219)小椋市長の発言

 滋賀県の不登校対策「しがの学びの保障プラン(骨子案)」を議論する首長会議の席上、東近江市の小椋正清市長が「フリースクール亡国論」をぶって各方面の批判を浴びています。確かに程度の低いお粗末な発言です。ウチの市長でなくてよかったと他市町の職員各位は安堵しているでしょう。複数の報道から察するにこれは小椋氏の持論であり周囲に賛同者もあってこの発言に至ったのでしょう。桐生の話は次に回して感想を書きます。ご存じのとおりフリースクールは不登校の子どもに対し学習活動、教育相談、体験活動などを行う民間施設です。

 発言の要旨は次の通りです。「文科省がフリースクールを容認するのは間違いだ。その姿勢は国の基本的体質のおかしさに通じる」、「大半の善良な市民は嫌がる子どもを無理にでも学校に行かせ義務教育を受けさせようと努力している」、「落ちこぼれの少数者が通うフリースクールに費用支援するのはその存在を是認することだ。その結果、無理してでも登校している子どもがフリースクールになだれ込む危険がある」

 また、会議後の報道陣の質問に対し、「教育の義務を果たそうとしない者を甘やかしてはならない」、「フリースクールは子ども食堂と同じく親の安易性が露骨に見えている」、「不登校になるのはほとんど親の責任だ」、「今は、いじめがないのに30日休んだら『重大事案』になる。いじめに近いことがあればすぐ『報告』だ、『第3者委員会』だとなる。こうした制度にも問題がある」と述べました。

 これらの言葉は小椋氏の考え方を疑問の余地なく明瞭に示しています。かつて「不登校」の子どもは「学校嫌い」や「登校拒否」と呼ばれ、その子自身の資質(弱さ、甘え、協調性の不足等)と親の姿勢(甘やかし、義務観念の欠如等)が原因であり、「立ち直って復学する」ことが目標とされました。登校を強いられ拒食症になった子どもが精神科に入院させられた例もあるようです。小椋氏の発言は当時(40~50年前)なら問題にならなかったでしょう。

 学校に行けない・行かない子ども(病気等以外の理由による年30日以上の欠席)は1970年台から全国的に増加の一途をたどり、2022年度には小中学生あわせて24万5千人に達しました。コロナ禍もあり、ここ10年で小学生は3.6倍、中学生は1.7倍の増加です(いじめ認知件数も増加)。大津市の担当課でも不登校やいじめに関する相談が激増しています。先生も疲弊していますから学校と子どもを取り巻く状況は大変きびしいものがあります。

 不登校が増え続けているのは多様な社会的要因によるでしょうが、そもそも公教育には良くも悪くも、集団の中で個人をこね上げて社会に押し込むという「鋳型機能」があります。それになじめない生徒がいるのは自然な話です。私も学校は嫌いでした。当時は表現する言葉を持ちませんでしたが、今、振り返って言うなら、子ども集団はたいてい粗野であり、無謬であるべき先生がしばしば誤りを犯しました。60年前の話ですが、現在にも通じるところがあるのではないでしょうか。

 今回調べて知りましたが、フリースクールは1980年代に不登校の子どもの親たちによって作られ、運営者の努力と子どもの行き場を求める人々に支えられ広がっていきました。こうした動きに促され、1992年に文部省が「不登校は親の育て方によらず誰にも起こりうること」であると認識を転換させます。そしてフリースクール利用を校長判断により学校への出席日に認めうるとしました。1993年にはフリースクールへの通学に際し「学割」が適用されるようになり、2001年にはフリースクール全国ネットワークができました。

 2017年に施行された教育機会均等法は、不登校の児童生徒が教育の機会を失わないようにすることを目的とし、子どもと親への情報提供など各種支援、ICTの活用、家庭訪問、別室登校、保健室登校、夜間学校の設置、専門家との連携、学校とフリースクールの連携促進などをうたいました。これらの根底には子どもの多様性を重視する姿勢があります。小椋氏の考え方はこれと根本的に対立するものです。
 もっとも教育機会均等法には、「公教育の落ちこぼれの受け皿」を確保することにより現行の体制を維持しようとする目論見もあるのでしょうが。
 
 小椋氏は、自分が「世間の多数者の間に安住している」という自覚を欠いているように見えます。世間の少数者の意見を聞くことが民主主義の基本ですから、それが即座に実現できるかどうかはさておき、その姿勢を堅持することが市長には求められます。小椋氏は、例えば在日外国人、LGBT、難病の人、障害をもつ人など比較的少数の人々の声にどのように向き合うのでしょうか。

 私が思うに小椋氏は、「すべての国民は多少の我慢をしてでも現体制を維持するべきである。少数者に理解を示してつけ上がらせると既存の秩序が壊れる。みんなが各々の義務を果たして国家を支えるべきである。義務があって初めて権利がある。フリースクールの容認は蟻の一穴になりかねない」と考えています。日本会議の発想と非常によく似ています。政府、与党の腹の底にも通じるところがありそうです。ですから小椋発言をまな板に載せるべきだと思うのです。

 東近江市教育委員会が、小椋市長の発言は誤りであるという見解を出しました。もちろんその見解は正しいのですが、教委が小椋氏と相談済みであることは明らかです。小椋氏は、市としての正当性を教委に担保させつつ、事態収拾の地ならしを企てています。ごまかしはいけません。いやしくも市長ですから自分の「思想」をあらためて明確に示すことによって責任をとるべきです。配慮が不足していた、舌足らずであった等の言い訳に逃げ込むことは許されません。
 
 県フリースクール等連絡協議会が小椋氏に面談を申し込んでいますが、「社会全体でこの問題を考える一歩としたい」というその趣旨に深く賛同するものです。小椋氏も吊るしあげられることなく意見表明ができます。小椋氏には、正々堂々(?)と自分の持論を述べて頂きたい。話し合いの結果、自分が悪かったと思えば発言を撤回、謝罪をすべきだし、そうでなければその後も、ことあるごとに自説の説明を重ねていくしかありません。最後に判断するのは市民です。

 余談ながら公教育が重要であることは言うまでもありません。大人になって周囲を見回すと良心的な先生は多いし、自分の時間を削って生徒のために尽力し健康を損なう先生も少なくありません。子どもは、学校に通って勉強することが大切だと子どもなりに理解しています。親は教育費を稼ぐために頑張っています。フリースクールにも学校にも子どもの笑顔はあります。たちまち責任を問われるべき人が見当たりません。一方で海外には、戦火や圧政のため学校に行けない多くの子どもがいます。こうした中の小椋市長の発言にいろいろ考えさせられました。






 
 

2023/10/13

218)10万年の決断

 大津市の新庁舎建設がスタートしましたが(記事200「庁舎整備」)何といっても大事業です。移転先が決まれば基本計画、基本設計、実施設計、造成工事、建築・設備工事、外構工事などの工程があり、それぞれに業者選定や完了検査など前後のステップもあるので新築移転まで今後7~8年はかかるでしょう。それまで現庁舎が頑張ってくれたらその寿命は60年余となります。

 新庁舎の寿命はどれくらいでしょうか。鉄筋鉄骨コンクリートの建物の法定耐用年数は60年ですが、設計・施工・維持管理が良ければ100年もつと言われます(滋賀県庁本館は80年を過ぎても現役)。この期待値に基づくなら佐藤市長(大津市民)は今回「100年の決断」をされたことになります。大津の未来のための主体的な決断です。

 一方で、国に迫られ大いに苦悩した結果「10万年の決断」を下した自治体があります。核のゴミの最終処分場誘致に揺れた長崎県対馬市です。最終処分とは、地下300m以深に巨大な空間を確保して高レベル放射性廃棄物を搬入し、その放射能が天然のウラン鉱なみに低減するまでの10万年にわたり保管するという気の遠くなる話です。先ごろ対馬市長は、国の選定プロセスの第1段階となる「文献調査」を受け入れないと表明しました。鼻先にぶら下げられた20億円の交付金を蹴ったわけです。英断だと思います。

 原発が不要かつ有害なもの、すなわち「必要悪ですらない」ことは既に書きました(記事185「原発事故4・国策のわけ」等)。しかし使用済み核燃料は各地の原発施設内と六ケ所再処理工場に溜まり続けており、その処分もまた大きな課題です。使用済み燃料は単なる「燃えカス」ではありません。炉内の核分裂反応でプルトニウム等が新たに生成されており一段と危険度が増しています。原発がプルトニウム製造機といわれるゆえんです。

 ところで地層処分する「核のゴミ」とは、使用済み燃料のことではなく、それを再処理してプルトニウムを取り出した後の廃液をガラス固化したものを指します。これは国が「全量再処理」に固執しているためですが、その方針と現実は大きく食い違っています。東海村の後継として六ケ所村に建設された再処理工場は事故続きで25年たっても稼働できず、再処理はフランスとイギリスへの委託に頼らざるを得ない状況です。

 再処理した後の廃液(硝酸液)は人が近づくと20秒で死に至ると言われ、ガラス固化体も強い放射線と高熱を発するため30~50年ほど冷却する必要があります(中間貯蔵)。その後、炭素鋼の容器にいれ、緩衝材にくるんで地中に埋める手順ですが、すべて遠隔操作で行う必要があり、福島第一原発のデブリ撤去より難易度が低いにしても難事業に変わりありません。

 そもそも日本はプルトニウムの「在庫」を大量に抱え(8割は海外で再処理)、一方それを燃やせるプルサーマル炉は4基に過ぎず大幅な供給過剰です。しかも再処理工場はわずか1日で原発1年分の放射能を空中と海中に排出するとされ、海外の再処理工場周辺では小児白血病の増加が指摘されています。さらに再処理廃液は冷却と水素除去に失敗すると爆発します。原発も再処理工場も危険です。

 地層処分は、文献調査、概要調査、精密調査と進んで処分地を確定しますが、これらのプロセスに約20年を要します。ついで処分場の建設が約10年、核のゴミの搬入を終えて入り口を閉鎖するのに50年以上かかるとされており、すべて順調に進んで地層処分完了まで100年ほどかかります。とんでもない難事業ですが問題はその後です。10万年の安全を一体誰が保証してくれるのでしょうか。

 対馬市には文献調査(交付金20億)だけ受け入れて後は断ろうという「食い逃げ論」が起こりました。気持ちは分かります。腹をくくって概要調査(70億)まで行けば計90億円のボロ儲け、過疎と産業衰退の足元を見透かすような国のやり方を逆手にとることができたら痛快です。しかし地方自治体は、財政面でも権限面でも国に首根っこを押さえられています。食い逃げに対しては税配分や許認可を通じた倍返しの報復がスマートに行われるでしょう。

 北海道寿都町と神恵内村では文献調査がほぼ終了しました。寿都町で10月3日に行われた議員選挙では推進派5人、反対派4人が当選しましたが町の様子は複雑です。現地を知る人からのまた聞きですが、皆でお祭りができない、立場の違うお店に行けない、付き合いが減ったなどと訴える人が多いそうです。寿都町と神恵内村の人々はどんな思いで対馬市の決断を見たのでしょうか。

 世界の地層処分の先進国はフィンランドとスウェーデンであり、いずれも地元との協議を積み重ねて施設建設の段階に入りました(実際の処分はまだ)。両国とも国土が先カンブリア代の非常に古く安定した「バルト楯状地」にあって硬い花崗岩や片麻岩が広く分布し、火山も存在せず、地震も小さなもの以外はほとんど発生しないという条件に恵まれています(私もスウェーデンを歩いたことがありますが至るところ岩だらけ。ノーベルによるダイナマイトの発明は必然だと感じました)。

 これに比べて日本は、4つのプレート(北米、ユーラシア、太平洋、フィリピン海)がぶつかり合う「地殻変動の国」であり世界の地震の23%が狭い国土で発生しています。しかも火山は多数、断層も多数、地下水も豊富。地下水は深いところにも存在し、国の試験施設である幌延や瑞浪の深地層研究所では、地下350~500mでの湧水対策に苦労しています。

 東日本大震災は太平洋プレートの沈み込みによる1000年に1度の災害だとされています。南海トラフ地震は100年~150年周期。千島から日本海溝沿いの地震は360年周期。これらのマグニチュード9クラスの巨大地震は、今後10万年のうちに数百回発生する計算になります。マグニチュード7以上の地震に広げて見るなら、最近100年に全国で56回発生していますから10万年では5万6千回となります。大きな噴火(噴出物が琵琶湖の容積の4倍を超えるもの)は10回に上るとする研究者もいます。戦争やテロなど人為的な危機もあり得ます。

 対馬市長が上げた拒否理由は次の5点です。
①市民の合意形成が不十分。②観光や水産業への風評の懸念。③自治体として「文献調査」だけ受けることはできない。④事故時の対応や避難計画が十分に示されていない。⑤想定外の要因による危険性が排除できない(地震等による放射能もれ)。いずれももっともな理由です。

 中でも「風評被害」は福島で進行中ですから、「そんな場合に国はどのように支援してくれるのか」と市長が質問状を出したら、国の回答は「交付金の中で対応せよ」との趣旨であったそうです。カネをやるから文句をいうなということでしょう。でもそのカネはどこから出ているでしょうか。結局はすべて「税金」と「電気代」です。
 話のついでにアントニオ猪木氏が議員当時、原発反対候補者の選挙応援演説を200万円で引き受けたところ、すぐさま推進派陣営から1億円の提示があったそうです。出典を記憶していませんが原発はとてつもない利権構造です。

 もとに戻って10万年の話です。地層処分が完了した翌日に陽が昇って沈む1日があり、それを365回繰り返して1年が過ぎ、それを10万回積み重ねて10万年。その最後の日に至るまで私たちの世代の選択の正しさが問われ続けます。対馬市長は市民の分断を憂慮されましたが、その胸中深くには「10万年の責任」への自問があったろうと推測します。岸田首相も西村経産相もそのような態度で10万年に向き合うべし。これは「公」の問題であると思います。

 では核のゴミはどうすればよいか。これは国と電力会社が一から考え直すべき問題ですが、既に日本学術会議が、より安全な最終処分につなげるための「暫定保管」を提言しています。暫定保管とは、使用済み核燃料や再処理後のガラス固化体を冷却水プールではなく安全度の高いドライキャスクで空冷保管し、地上もしくは浅い地下で数十年から数百年にわたって常時監視のもとで管理する方法です。そしてその間に科学的、技術的、社会的な課題について十分な国民的合意を得られるよう努めるというものです。

 そのためにはNUMOによる「事業説明会」ではなく、幅広い多数の専門家による開かれた議論が大切であり、その成果を基にした自由な討論の場の設置が重要です。遠回りのようだしその間に地震もあるでしょう。しかし、拙速な地層処分(それでも100年を要する)よりも「暫定保管」を選択すべきで、そのモラトリアムをしっかりと活かすべきだと考えます。それは「10万年の厄介物」を産み出してしまった私たちにとって次善の策であると思います。

 それにしても10万年後に豆腐や納豆や日本酒は残っているでしょうか。鮒ずしはもう無いでしょう。大津市や滋賀県はあるでしょうか。日本語は通じるでしょうか。町なかを火星人が歩き回っているのではないでしょうか。列島が海中に沈んでいるかも知れません。
 仏教(インド哲学)の「劫」という言葉を思い出します。縦、横、高さが4里の大岩があってそこに100年に一度、天人が舞い降りて羽衣の先で岩の表面に触れる。それを繰り返すうちにやがて岩が磨滅して無くなってしまう。その時間の長さを表す言葉が「劫」なのだそうで、未来永劫の「劫」です。億劫の「劫」でもありますけれど。




  
 



 

2023/10/01

217)3つの出来事(③ ケーキ)

<松本1丁目のケーキ>
 毎度のように記事の間隔が空いていますが、夏の盛りに3週続けて訪れた「ちょっといい出来事」の最終回です。8月はじめ、大津市役所に勤める若い友人から「仕事上の相談がある。美味しいケーキを持っていく」と連絡があり紅茶を用意して待ちました。醸造・蒸留した液体を好む私ですが、美味ならば甘いものも大好きです。先回りして言うと滋賀県庁の近くにあるその洋菓子店のケーキはどれも個性的で「予告」を超えるおいしさでした。その日の分を売り切って閉めるお店のようです。

 ところで「仕事上の相談」の中身は「来年3月退職の挨拶」であると私はスルドク見抜いていました。その人は「あの部署にはあの人がいるから安心」と思わせる人で私の助言は今さら不要です。辞めたら私が惜しむと知っていて早めに仁義を切ってくれるのだ、不意をついて老人を驚かせないための配慮である、このように私は推測しました。第一の目的は、ケーキが好きであった妻への久々の挨拶(ありがたいことです)、二番目は退職の挨拶。ならば私は筋違いの慰留を控え、新しい出発を祝福しようと思いました。

 いや、これが、お恥ずかしい、とんだ勘違いでした。炎暑の日、その人はケーキ(その他いろいろ)を持って元気に現れ、イスに落ち着いて近況報告を始めました。どの部署も継続的な課題に加えてここ3年はコロナに振り回されています。控え目な話しぶりからもその人が管理職として変わらずに活躍していることが察しられました。しかし早く本題が聞きたい。思い切って私は、これまでいろいろ職場に貢献されたがもう辞めるのか、と尋ねました。

 するとその人が言うには、辞める気などまったくない、さらに頑張るつもりだ、しかし旧来の仕組みや職場意識では今の切実なニーズにとても対応できない、部局をこえた動きが必要だし最低限の予算・スペース・人員なども確保したい、簡単な話ではないから事を進めるにあたってのヒントがほしいとのこと。私は安心し、次いで大変嬉しくなりました。

 その後のやり取りは省略しますが、その人が、社会の変化や施策の流れをしっかり踏まえて自分の職務をとらえ、市民のために市役所は何が出来るか、自分はどう動くべきかについて考え続けていることがよく分かりました。嬉しい話です。私は辞めて10年過ぎるので大津市役所のことを「我がこと」のように云々するのはいい加減によさなければなりません。それを承知で言いますがこんな人がいることは幸いです。これが3つ目の話です。
 佐藤市長は行政全般に通じておられますが、それぞれの現場から上がって来る声に今後ともどうか丁寧に耳を傾けて頂きたいと存じます。これまた僭越でございました。

<番外編・浜松のウナギ>
 静岡のエコパスタジアムでラグビーの試合を見よう。それにあわせて友人に会い、帰り道に浜名湖でウナギを食べよう、と私たちが相談したのが3、4年まえのこと、コロナですべておじゃんになりました。この話を覚えていた静岡の友人がこの6月、浜名湖のウナギ(白焼きとかば焼き)持参で久しぶりにわが家に来てくれました。もちろん吟醸も忘れていません。

 彼は医師であり同業者から飲酒を禁じられている「ドクターストップのドクター」です。私もかけ離れた状況ではありません。しかしこの日はウナギをサカナに二人で杯を重ねました。ふだんは美味しいものに気が向かずキャンプのごとき料理ですから、たまのご馳走は値打ちがあります。今回はそのような「食べ物づくし」となりました。どの人達からもしっかりせよと無言の激励を受けました。老骨にムチを入れなければなりません。
 写真はこの友人の手によるものです。いろいろ送ってくれたのでしばらく使わせてもらう予定です。










2023/09/22

216)3つの出来事(② 焼肉)

 <鶴橋の焼肉>
 開高マティーニを味わった翌週、今度は金時鐘さんご夫妻から焼肉をご馳走になりました。それまでも「飯を食べに来い」と電話をいただきながら、夫婦で何度も伺った懐かしいお宅に足が向かず、長くお目にかかりませんでした。その日は親しい知人を交え鶴橋で焼肉でも食べようとのお話。気合いを入れて随分早く鶴橋駅に着いたら、金さんはもう改札口の柱を背に立っておられ、笑みとともに差し出された手をとって私はしばし言葉につまりました。

 炎暑の通りを歩いて席に着くなり金さんは、いま酒を止められている、今日はビール半分にするから残りを飲んでくれと言われました。詩人の酒豪ぶりをよく知る私はまさかと思いつつ一応「はい」と答えました。煙をあげる焼肉、熱く澄んだ牛スープ、ナムル、キムチ、ここ数年の相互の消息の交換、、。まもなく金さんは事もなげにジョッキを空け、なめらかに焼酎(濃いお湯割り)の部に移っていかれました。やっぱりな。私もつい嬉しくなって杯を重ねました(ともに掟やぶりです)。

 釜山に生まれ済州島で育ち、来日後は日本語で詩を書いてきた金さんの仕事は日本で認められ多くの賞を得ましたが、今では韓国語に翻訳され母国でも多数の読者に支持されています。昨年12月には韓国が設けているアジア文化殿堂「国際文学賞」が授与されたことをこの日に知りました。愛読者の一人である私にとって嬉しい話ですが、後でふれる金さんの人生と日韓の近現代史を考え合わせるとたいへん複雑な思いがするのです。

 前回記事(215・3つの出来事)を読み、金時鐘がかつてアパッチ族の首領であったと知って驚かれた方があるかもしれません。実際に彼は「武闘派」でもありました。同じ詩人といっても、谷川俊太郎は絹のハンカチで磨き上げられ(おそらく)、金時鐘は鋼のヤスリでこすられました(間違いなく)。背筋はまっすぐ、若い日に鍛えた左右のこぶしは空手家のように部厚く扁平です。

 17歳で迎えた「1945年の夏」を金さんは繰り返し語っていますが、著書「朝鮮と日本に生きる」(岩波新書)にはこうあります。「(玉音放送を聞いて)天皇陛下への申し訳なさに胸がつまって肩ふるわせてむせびました。決して誇張でなく、立ったまま地の底へめりこんでいくようでした。青年団員たちが戦闘帽の汗を口元をほころばせながらぬぐっていたのにも、気力がずるずる抜けていきました。」

 「白日にさらしたフィルムのように私の何もかもが真黒にくろずんでしまって、励んで努めて身につけたせっかくの日本語が、この日を境にもう意味をなさない闇の言葉になってしまいました。それでも私は今に神風が吹くと、敗戦の事態もまた変わってゆくと、何日も自分に言い聞かせていたほど、度し難いとしかいいようがない正体不明の朝鮮人でした。」

 「『解放』に出会ったとはいうものの、実際はこれがお前の国だ、という『朝鮮』に、いきおい押し返された私でした。なにしろ私は植民地統治という言葉すら知らなかったばかりか、『内鮮一体』といわれていた大日本帝国への帰属を、近代開化から取り残されている自分の国、朝鮮が開明されることだとむしろ自負めいたものをもちつづけていました。」

 金さんはまことに純真な皇国少年でした。日本は美しい唱歌「ふるさと」や勇ましい軍歌「海行かば」として自分に訪れたと彼は語っています。植民地統治は暴力で制圧するばかりでなく、行政、産業、文化、教育などあらゆる面で展開され、さらにその力は個人の情感の機微に及んでいくことが金さんの話から実感されます。これは「洗脳レベル」を超えています。

 かたや金さんの父は、親日派が幅をきかせる町なかを民族服を着て平然と歩く人でした。金さんは、父が殴られたり墨汁をかけられたりすることのないよう、その外出の度に願掛けする癖がついたと語っています。肉親の情愛が底流にあったとしても、民族の誇り高き父と皇国少年の父子関係が損なわれることは避けられません。家庭で民族教育を行うことが危険な時代です。父子の間に立って心を痛める母。当時こうした家族が朝鮮に一体どれほどあったことかと思うのです。

 さて、日本敗戦の夏を境に金さんは手さぐりで新しい困難な道を歩き出します。それは、昨日までの自分との決別であり遠ざけられていた朝鮮語の回復でしたが、やがて民族詩人「李 陸史(イ ユクサ)」を知ることとなります。李陸史は植民地支配への抵抗運動を続け(17回の逮捕・投獄)、1944年、関東軍支配下の北京監獄で40才の生涯を閉じた悲運の人ですが、慕い集まってくる若者たちに「亡国の民は拳ぐらい強くなくてはならない」といって拳闘を奨めたのだそうです。

 この逸話に強くつき動かされた金さんは、板を立てて荒縄を巻き付け、かさぶたが固まって手が変形するまで殴り続けました。かねて親しんでいた剣道にも打ち込み、木刀で木の葉をきれいに二つに切断するまでに腕をみがきます。米ソ対立のはざまで朝鮮が南北に分かれアメリカ軍政下にある朝鮮南部において反共の機運が高まりつつある時期、たちまち息を吹き返した親日派(憲兵、警察、右翼等)の暴力に島民がおびえていたという背景もありました。

 1948年4月3日、済州島では米国が主導する南朝鮮単独選挙を阻止しよう(南北分断の恒常化を回避しよう)と島民たちが蜂起します。これが「四・三事件」で、済州島は「アカの島」とされ韓国臨時政府の軍警察と反共グループの手により島民への弾圧、虐殺が繰り返されていきます。金さんは南朝鮮労働党の一員(「山部隊」への最年少の連絡員)として活動し、ある事件をきっかけに指名手配をうけました。2度にわたって命拾いし、父の奔走により密航船に潜んで奇跡的に日本に脱出します。こうして1949年6月から金さんの「在日」が始まりました。

 大げさな言い方ですが、金さんの詩も、金さんの存在自体も、日本人である私(私たち)に向けられた匕首であり贈り物であると思っています。ですから書きたいことは山ほどあり、例えば金さんを手がかりに「権力による個人の内面の支配」を考え、ついで「公」を論じることもできそうだし、「日本の情緒」を探ることも可能かもしれません。それはまたの機会としていまは金さんの「身体活動面」に話を絞ります。

 日本に上陸した金さんは同胞の多く住む大阪の町、猪飼野(東成区、生野区界隈)で暮らし始めます。私が焼肉をご馳走になった鶴橋も、アパッチが闇夜を駆け巡った杉山鉱山(大阪城公園)も金さんのホームグランドです。この地で金さんは働きつつ詩作を始め、やがて仲間と詩集「ヂンダレ」を創刊しますが、それが民族虚無主義的であると朝鮮総連の批判を受けます。ついで一切の表現活動を制限され、しようことなしに「酒を飲んでばかり」の一時期を過ごします(その後すべての組織と決別)。

 そんなある時、金さんが喧嘩の仲裁に入ったら相手がヤクザで、短刀を抜いた三人に「殺したる」と追われ、街路樹の根元にあった棒切れを手に取って全員を叩きのめす「事件」がありました。遠巻きに見ていた群衆は拍手かっさい、翌日の新聞に「丸腰の市民が一人で三人のやくざを撃退した」と報じられたそうです。また、腕自慢の大男から喧嘩を売られ一撃で倒したこともあるよし。この手の武勇伝は幾つもあり、私は金さんの知人の「証言」も得ています。

 金さんがアパッチの荒くれ男たちに一目おかれていたのは、組織活動家としての統率力ばかりでなく腕っぷしの強さによるものであったろうと思います。鉄を「笑う(盗掘する)」のは重労働のうえ最後に堀を渡らなければならず、取り締まりの強化もあって長くは続きませんでした。誤解なきよう申しますが金さんはきわめて心優しい人です。しかし、人生の途上で売られた喧嘩は買う(ふりかかる火の粉を避けない)時期があったようで、鍛えた身体と修羅場をくぐった胆力が金さんの窮地を救ったことは間違いありません。

 誰しも生まれた国と時代の影響から逃れられませんが、金時鐘さんの人生を左右したのは祖国朝鮮ではなく宗主国日本でした。私にとって金さんは日韓近現代史の生き証人です。ふりかえれば1910年の「韓国併合」によって多数の朝鮮人が日本にわたり、労働の底辺を支えました。1923年の関東大震災で虐殺されたのはそうした人々の一部(といっても多数)です。しかし政府は公的記録がないと嘘をつき、都知事は学者の管轄であるとうそぶき、チマ・チョゴリのおばさんと揶揄する議員がいます。彼らの取り巻きはクニに帰れと叫びます(米軍基地の前で言ってもらいたい)。

 これら「愛国者」が、私が金さんに出会ったような「出会い」を経験すれば良いのにと思わずにいられません。しかし残念ながらそんな僥倖はもう多くないはず。こうした中、たかだか数十年、百年ほどの自分たちの歴史をどうやって手繰り寄せるか。それが問題です。徴兵も空襲も軌道をえがいて戻ってきます。香ばしい焼肉がきな臭くなりました。「三つ目の出来事」は次回にまわします。
 ちなみに1998年、金大中政権下でようやく金時鐘さんの済州島訪問が可能となりご両親の墓参も実現しました。彼が島を出てから49年が過ぎていました。






 

 

 

 

 
 

 

2023/09/09

215)3つの出来事(① マティーニ)

 具象物としては青い眼の白ネコ1匹を相手に会話するだけ、あとは彷徨い歩く、飲む、聴く、引っこ抜く、撒水するばかりの毎日に、しばらく前、句読点を打つような出来事が3週続けてありました。今回はそれを書こうと思います。読まれる方には些細な他人事ですが、他の記事もつまるところ私の私事、私見、私情に過ぎません。「まあこれもまあよかろう」と受け流して頂けたら幸いです。

 いきなり余談ですが、私の日常にはもはや、売り込む、協議する、釈明する、調整するといった動詞がありません。これを「うらやましい境地」だと思う現役の方がひょっとしておられるかも知れず、そうした心情は私にも覚えがあるのです。いま思うのは、私たちが人生の異なる二つのステージを同時には生きることができないということ。沈む夕陽を招き返そうとする人もいましたが時は戻らず、早送りもできません。

 <赤坂のマティーニ>
 7月末の都内、息子が参加した小さな会食の場で、ある人が、小説家開高健の思い出を語り出したとか。開高の北南米の釣り旅行にも同行するなど心躍る時間を共有されたもようです。そこで息子が、実は両親も開高ファンで、その昔キングサーモンを釣ろうと二年続けて家族でアラスカに行った。子どもだった自分は何時間も歩かされてキツかったが今はよい思い出だと応じました。するとその人いわく、開高が足しげく通ったバーがこの近くにあるから親御さんを案内したらきっと喜ばれるだろう。

 こうした事情を知らずその週末に私は息子一家を訪ね、彼らのサプライズプレゼントで赤坂見附にあるそのバーに行くこととなりました。そこはビルの地下1階、低くジャズが流れる落ち着いた雰囲気の店内は息子と私だけ。壁には開高の写真、「漂えど沈まず」の色紙、サイドテーブルに著作の数々。愛用のパイプ。突き当りに作家の定席であったことを示すプレート。その前に活けられたカスミソウの大束は、時間前に来店し一杯やりながらマスターの手元を眺める開高の視線をさりげなく遮るための工夫が伝統になったとのこと。

 私たちはまずマティーニを頼み、霜のついたグラス、ジンとベルモットの配分、オリーブ、レモンのひと絞りまで開高仕様の1杯を味わいました(以下は割愛です、残念)。開高が世を去って34年たちますが、彼と一緒に旅をした、食事をした、背広をもらった等の「開高体験」を抱える人々が今もこのバーを訪れ、尽きぬ思いを語るのだといいます。

 バーテンダーの女性はもちろん開高の愛読者で、「輝ける闇」が特によかった、若いスタッフにも是非読んで欲しいと単行本を渡したら「紙の本はコスパが悪い」と断られた(苦笑)、年に数回は開高さんのお墓にいく、これも何かのご縁だと思うので、、と静かな声で話してくれました。私は、自分の知る唯一の開高伝説として、彼が、金時鐘さんのお連れ合いの姜順喜さん7色パンティを贈った話を(つい調子に乗って)披露することとなりました。

 開高は1958年に「裸の王様」で芥川賞(翌年は大江健三郎、豪華な顔ぶれでした)を受けた後に次作が書けずに苦しむうち、大阪で噂になっている「アパッチ族」の話を聞きつけます。アパッチとは砲兵工廠の焼け跡から夜陰にまぎれて鉄くずを掘り出し日銭をかせぐ謎の集団のこと。取り締まりに手を焼いた警察から勇猛果敢で知られたアメリカ先住部族の名を贈られ、その「名声」が日増しに高まっていました。開高は猪飼野に出かけて「アパッチの首領」から話を聞き、現地も案内されます。

 「玉音放送」前日の1945年8月14日、米国は、日本の無条件降伏確定を承知しながら大阪を爆撃し、東洋一の規模とされた陸軍砲兵工廠を多くの人命とともに破壊しました。焼け残って放置された建屋、機械、製品である兵器、原材料はすべて金属ですから地元では「杉山鉱山」と呼ばれ、戦後しばらくはアパッチ族のような無断採掘が行われたようです。朝鮮戦争による「金徧(かねへん)景気」が背景にありました。

 これは「窃盗」です。しかしこんな見方もできます。国家すなわち天皇は国民から金属を召し上げ、学徒動員によって兵器を造り、あげくに焼け野原を残しました。敗戦に苦しんだ1億人の中でも困難を極めた地域の一つである猪飼野の住人が、手近な砲兵工廠跡地から実体的に無主物となっている屑鉄類を掘り出し、それで空腹を満たしたことの「罪」を、無謀な戦争を起こし、継続し、無数の惨憺たる帰結の一つとして「杉山鉱山」を出現せしめた国が、はたして裁くことができるでしょうか。

 開高はこうした事情に構わず、社会の深部・底辺でしたたかに生きる人々の群像をみごとに小説化し、先行する武田麟太郎の著作名をそのまま引き継ぎ「日本三文オペラ」としました(大ヒット)。武田が「元祖本」を書いた時に念頭に置いていたのはベルトルト・ブレヒトの「三文オペラ」であり、開高の作品は、底辺の民衆と官憲の対立を描く二重パロディでもありました。その後、金時鐘の「弟分」の梁石日が小説「夜を賭けて」で同じテーマを書き、小松左京が「日本アパッチ族」を書いています。

 さて、話が前後しますけれど、開高が取材した「アパッチ族の頭目」こそ詩人の金時鐘です。金時鐘は、開高の妻で大阪出身の詩人であった牧羊子と旧知の間柄で、ともに、わが国に連綿と続く「短歌的抒情」を真っ向から否定した小野十三郎(詩人、1903~1996)を師と仰いでいました。「虹色のプレゼント」は取材協力への開高らしいお礼でしたが、もう60数年の歳月が流れました。この小さなエピソードが赤坂のバーから再発信されたら愉快なのですが。

 開高は1930年生まれ。戦争と父の死で貧しい少年時代をおくり、瘦身の文学青年として世に現れ、壽屋(現サントリー)の宣伝部で活躍、やがて腹をゆすって豪快に笑う大御所となりましたが、深奥で柔らかな抒情とぬぐえぬ憂鬱とを持ち続けた人であったと思います。
 純文学のかたわらベトナム戦争の従軍、大陸を股にかける釣り紀行などルポルタージュでも「健筆」をふるいました。そのマルチの活動ぶりに批判的な意見もありましたが、フィクションとノンフィクションの2つの世界を行き来し、その相互触媒とでもいうべき作用によって稀有な表現をなしえた作家です。

 蛇足ながら私たち家族はアラスカ以外にもあちこち出かけました。人に家族旅行を推奨するわけではありませんが、私は、たまたまそのように過ごし得た日々を幸いに思っています。こうして若いうちは年休消化率100パーセントを誇った私も、40才頃から次第に滅私奉公路線へと「変節」しました。その分、職場の仲間にはうまく調整して休暇をとり、自分や家族の時間を大切にするよう口を酸っぱくして言いました。

 休暇は権利であること、行使しない権利は弱体化すること、人生において時間の貯金はできないこと(この夏は二度と来ない)、休暇は労働の質の向上に資することが理由です。
 どこの職場も休みにくい事情があると百も承知ですが、実はそれが相対的な問題であることが、諸外国の休暇事情を見ればよく分かります。少なくともすべての上司はスタッフの年休申請に笑顔で応じて欲しいと願います。国が旗をふる「イクメン」などの大義名分がなければ休めない社会はみんなで変えるべきだと思います。

 つい長くなってしまいました。一旦ここでアップし、残る2つの出来事は次回に回したいと思います。きりきり冷えたマティーニが飲みたくなりました。




2023/09/01

214)希釈水

  昨日(8月31日)、閣僚会議の後にプレス取材をうけた野村農水相が「汚染水」について意見交換をしたと答えて岸田首相の怒りを買い、謝罪する羽目になりました。あらためて日頃の野村氏の言動をみると汚染水発言が信念に基づくものではなく、「素朴な言い間違い」であったと分かります。閣僚としてはお粗末ですが、いつぞやの「麻生太郎ナチス礼賛発言」に比べると可愛いものです。岸田氏は怒りやすいところにだけ怒ってはいけません。

 いま、政府は中国と早急に対話する必要がありますが、「処理水」について話がしたいと申し入れても、中国は、それはひょっとして「汚染水」のことか?これを貴国が「処理水」だと主張するなら当方は交渉のテーブルにつけない、と言うでしょう。そこで政府に提案ですが「希釈水」と表現するのはどうでしょう。「処理水」や「汚染水」には認識の差異が反映されますが「希釈水」にはその余地がありません。「400倍希釈水」とすればなお正確です。

 一方、国内向けにはストレートに「安心安全水」と言ってはどうでしょうか。岸田氏にはヒラメの刺身を食べるばかりでなく、率先して安心安全水を飲むことを提案します。塩分補給にもなり熱中症予防にも効果があります。生産者を示すなら「東電水」が分かりやすいし、「アルプスのしずく」もよいかも知れません。

 今日(9月1日)は関東大震災から100年です。大きな自然災害はそれに対処する過程で人災をもたらし得ますが、その最悪の事例が100年前の「朝鮮人虐殺」であると思います(12年前の「原発爆発」も人為でしたが)。松野官房長官は「そんな記録がない」、小池都知事は「学者の専管事項だ」という趣旨の発言をしました。歴史に学ぼうとしない政治家はまことに有害です。

 この事件では千田是也(劇作家・俳優)に忘れがたいエピソードがあります。血気盛んな若者であった彼は、ウワサを真に受けて朝鮮人を成敗するため震災の翌日に町に出かけました。ところが逆に自分が朝鮮人であると間違われ、アイウエオと言ってみろ、歴代の天皇の名を上げろ等と尋問されます。必死で答えるものの激高する人々は納得せず、リンチの手前までいったところで知人に救われました。

 彼は伊藤国夫という本名に替え、その出来事が起こった「千駄ヶ谷」という地名と「コリアン(Korean)」という民族名をつなげてセンダコレヤを名乗ることとしました。千田是也はブレヒトの戯曲を紹介、上演したことでも有名ですが、ブレヒトの「三文オペラ」にちなんだ小説を書いた作家に開高健がいます。次回の「3つの話」の一つに開高健が関わるのですが、またもや汚染水の続きを書いてしまいました。




2023/08/27

213)汚染拡散

  8月24日、政府と東京電力は、福島第一原発の「処理水」の海洋投棄を開始しました。今年度は3万1200トン(トリチウム総量5兆ベクレル)を放出し、すべて捨て切るのに30年かかるとのこと。これは、核種の大半が除去されている点で「処理水」ですが、なお処理しきれず放射性物質が残留している(ゆえに400倍に薄めざるを得ない)事実を踏まえると「汚染水」です。この件はすでに記事203「処理水のヒラメ」に書きました。

 政府は海外の原発もトリチウムを流していると言いますが、通常運転に伴う海洋汚染に加えて東電の爆発事故による海洋汚染をドカンと上乗せするわけですから、居直りとしか言いようがありません。核種の放射能は時と共に減衰するとはいえ、汚染水放出は室内のゴミを往来に掃きだすようなもので「場所」が変わったに過ぎません。ALPS(核種除去装置)をはじめ、除染、デブリ取り出し(100年以内にできるか?)、中間貯蔵、最終処分など全て、厄介きわまりない放射性物質の「場所替え」であって「処理」ではありません。

 岸田政権が「聞く力」を呪文のように唱えつつ無理無体を通して道理が引っ込むばかりの昨今、「現状認識」と「現状肯定」の境界さえ曖昧になっていますが、汚染水に関して忘れないでおこうと思う数点を書きます。

 一つ目は、かかる事態を招いた責任を誰が如何にとるのかという問題です。タンクがあふれそうな緊急時に「そもそも論」を言うなとの意見もあるでしょうし、私も「原発を建てなければよかった」という時点までさかのぼる気はありません。しかし、大規模地震の長期予測を無視して防潮堤のかさ上げを行わなかった東京電力およびそれを放任した国は、今回の爆発事故に直接的な責任を負っています(記事182~186「原発事故」)。この「出発点」を抜き何も語ることはできません。

 そして事故後12年も経つのにいまだ建屋への地下水流入を制御できず、これが汚染水のもとになっています。事故から5年目にやっと国費3百数十億をかけて「凍土壁」を造ったものの、これは壁でなくフェンスだとの指摘もあるとおり遮水効果が疑問です(なぜすぐに鋼矢板で建屋を囲わなかったか?)。東電は、「凍土壁の目的は地下水の流入を現状より増やさないことにある。燃料デブリは水に浸しておく必要があるから汚染水は今後も発生する」と評論家のようなことを言っていますが、地下水対策の拙さと遅さが汚染水を増やし続けました。

 国も東電もこの事態を不可抗力のように語る神経を疑いますが、原発事故も汚染水も彼らが惹き起こした人災です。こうした事実を直視し心からの謝罪と反省の上で海洋投棄の説明を尽くすなら話はまだ分かります。岸田首相や西村経産相が地元や漁連との信頼関係を構築したいと口にするのがウソでなければ、まずこの「挨拶」から入るべきだと私は思います。

 二つ目ですが、国も東電も、漁連の理解を得られないうちは放出しないと言っていたにも関わらず外堀をどんどん埋め、この事態を「漁連の利益」対「公益」の構図に仕立てました。まことに卑劣でずる賢いやり方です。そのあげく漁連に「寄り添う」とか「救済する」と言っていますが、「加害者」が「被害者」に対しこのような言葉を発する資格はありません。

 国などが多様する「風評被害」という表現も問題です。これは「本当は安心、安全なのだけれど無知蒙昧の大衆が噂を信じて生産者に損失をおよぼす」という意味です。しかし、例えばトリチウムの排出基準値について、少なくとも30年(次世代を含む最短の年月)、規模にして数十万人レベルの国際的な疫学データの裏付けがあるのでしょうか。信頼できる根拠なしに人々の行動を「風評」呼ばわりするのは科学的かつ謙虚な態度とは言えません。

 わが家では長年、福島の農家からリンゴを送ってもらい(この2年は中断ですが)、今後も福島の産物をおいしくいただくつもりです。しかし、これは科学的知見に基づくものではなく考え方もしくは感覚の問題です。多くの人も同様でしょう。一方で離乳食を作るのに福島産品をさける親がいたとしても、それを非難することができるでしょうか。もちろん生産者の「風評被害」が「救済」される必要があることはいうまでもありません。これは政府のつけるべき当然の「落とし前」です。

 三つ目に中国への対応のまずさです。中国は海洋汚染に反対すると主張して日本の水産物の全面禁輸に踏み切りました。中国は最大の輸出先であり年間8百数十億円の減収となります。日本政府は科学的根拠に基づくよう抗議していますが、海水や魚のサンプリング調査くらいで相手を納得させることは無理でしょう。そもそも汚染水が政治問題と化したのは、米国の属国のような主体性ゼロの日本外交の帰結です。中国が正しいとは決して言いませんが、政府の誤ったかじ取りにより日中の緊張が増し、今回の経済損失を招きました。

 四つ目に、IAEA(国際原子力機関)による「お墨付き」の問題です。IAEAは大きな存在意義を有していますが良心的な科学者集団ではありません。広島、長崎に原爆を投下して絶対的な「核大国」となった米国が、戦後もその立場を維持するため国連に働きかけて「原子力の平和利用の促進」(裏を返せば「限られた国による核兵器の囲い込み」)を目ざして作った組織です。すなわちIAEAは原発推進の機関であり、日本は加盟145か国中、米国につぐ有数の資金提供国(スポンサー)でもあります。

 だからIAEAの査察が不正であるとまで言いませんが、彼らにとっては「各国民の健康リスクの低減」や「地球環境のさらなる悪化防止」よりも「原子力の平和利用の促進」の優先度が高いはずです。要するに「原子力ムラ」の国際版です。私たちは、政府、東電はもちろんIAEAの言うことも眉に唾をつけて聞かなければなりません。医療や生産分野にも適用される「平和利用」は大切ですが、核物質を拡大再生産する原発だけは認めるわけにいきません。

 いま汚染水の問題でこんな大きな騒動になっていますがこれはほんの序の口。ALPSの後始末、廃炉、核のゴミの中間貯蔵、最終処分など少なくとも数世代にわたって実現が見通せない難題が控えています。政府や電力会社がどのように国民に対して責任をとることが出来るか、それは原発からの撤退しかないと私は思います。
 しばらく前、変化のない日常を区切るようなささやかな出来事が1週間ごとに3つあったので、それを書こうと思っていましたが汚染水に流されました。次回にまわします。





 

2023/08/15

212)戦う老人

  自民党副総裁の麻生氏が台湾に出かけ、「戦う覚悟が必要だ」とぶち上げました。中国が攻めてきたら台湾政府と人民は迷わず武器をとれ、日本も他人事ではないから参戦する、米国が駆けつけてくれるから心配はいらない、民主主義陣営の本気度を示すことが大事だ、と言いたいのでしょう。戦う老人・麻生太郎82才。パナマ帽の下は日の丸のハチマキです。好きな散弾銃を持たせたら、贅沢三昧の身体に自らムチをいれ「捧げ銃」で行進を始めること間違いありません。

 1940年生まれの麻生氏は戦後民主教育のいわば第1期生ですが、平和の大切さを説く先生の話をちゃんと聞いたのでしょうか。彼より少し年上のジャズ・サックス奏者渡辺貞夫さんは、「当たり前のことなど何ひとつなくて、僕たちが手にしている平和が、どれほど貴重なものかとありがたく思います」と語っています(朝日新聞8月13日「折々のことば」鷲田清一より引用)。二人のこの落差。政治家と音楽家の違いだけではないはずです。

 麻生氏は、軍備を増強し戦う覚悟をもつことが今日の世界情勢における平和への道だという意見です。1年前のペロシ米下院議長の訪台にも刺激されたでしょう(俺も一発かましにいくか)。「積極的平和主義」や「敵基地攻撃能力の保持」が昨今の政権の方針ですから岸田首相もニコニコと送り出したはずです。
 麻生発言に対し、中国外務省は日本が台湾を植民地支配した過去をあげ「最もなすべきことはわが身をかえりみて言行を慎むことだ」と指摘しました。これは正論です。台湾や香港を力で従わせようとする中国も自省の必要がありますけれど。

 かつて元が攻めてきた九州から南にむけ、沖縄、台湾、フィリピン(いずれも先の大戦で軍靴に踏みにじられた地)にいたるラインは中国艦隊の太平洋進出を多少なりとも抑止する役割が期待されており、麻生氏の訪問には砦どうしの連帯確認の意味もあったでしょう。政府は膨大な情報(多くは非公開)をもち、専門家がそれらを客観的に分析して外交・防衛政策を練り上げているはずですから、私ごときの感想は素人の世迷言に過ぎないと重々承知をしていますが、それでも素朴な疑問が消えません。

 政権の主張するとおり「リアルで大きな軍事力」を持つことが相手国の「攻撃の抑止」に本当につながるのでしょうか。言い方を変えると「開戦の意志決定」は、「自国の勝利を間違いなく保証する冷静かつ客観的な情勢分析」に基づいて行われているのかどうか。すなわち「勝てると分かっているから喧嘩をするのか」。
 それは違うと歴史が教えています。他ならぬ日本が行った真珠湾攻撃がそうではありませんか。当時は大東亜共栄圏を守るという大義名分がありました。すべての戦争は正義の名のもとに行われます。麻生忘れたか。(これは米国の銃規制にもつながる問題だと思います)

 事情は少し異なるもののウクライナ侵攻も同様です。ロシア(プーチン)は完全に読み誤りました。これはもちろん「必勝を期せ」と主張するのではなく「戦争は理性的に始められるものではない」という事情を示しています。したがって理性的な判断が行われることに依拠する「軍備の抑止力」はアテにできません。何より忘れてはならない重要なことは「勝つ」にしても「負ける」にしても命を落とすのは多数の無辜の国民です。

 私が足しげく通う桐生の田んぼに、ずっと昔から大きな「反戦老人クラブ」による「反戦看板」が立てられています。何年かに一度くらいのペースで文言は変わりますが「戦争反対」の主張は一貫しています。私たちは桐生に行くたびにその看板を眺めるのを楽しみにしていました。最新の看板は「戦争したがる政府はいらない!原発=環境破壊、今すぐやめよう」と訴えています。かつて「反戦老人クラブ」とあった下のスペースには「子ども教科書 市民・保護者の会」とありました。

 この看板を記憶の限り20年以上前から好意と共感をもって眺めてきました。「反戦老人」もその目的のために「戦う老人」ですが(私も列に加わらなければなりません)、今は世代交代したのでしょうか。或いはその過程で教科書を考える人々にもウィングを広げたのでしょうか。いずれにせよ麻生氏や岸田氏にもこの看板を見て欲しいと思います。税金と時間を使って海外に行くより意義があります。そのついでに足を伸ばしてオランダ堰堤を見学しましょう。明治の「お雇い外国人」デ・レーケが自然石で作った現役の砂防ダムです。

 ちなみに渡辺貞夫は私たちが好きであったサックス奏者です。その昔、すでにアメリカで活躍していた秋吉敏子に「リリカルな音を出す若手がいると」評されたこと、バークレー音楽院から戻って新宿ピットインで伝説的な演奏をしたことなど、彼にまつわるエピソードを覚えています。今はなき大津の西武ホールのコンサートにも行きました。
 また、議会視察に随行して彼の出身地である宇都宮市に行った際には、市役所のトイレに入ると彼の代表曲である「カリフォルニアシャワー」のメロディーが流れてきたことが忘れられません。

 今回は開高健の愛したバーのこと、彼が「アパッチ族」の首領として小説に描いた金時鐘さんのことなどを書きたかったのですが、いったん区切って今日この日にアップします。先ほど終戦記念式典のニュースを見ましたが、岸田首相はじめ政治家のスピーチは揃ってお粗末です。そもそも、伝えようとする心の中のダムの水位が低いのだと思わざるを得ません。







2023/08/07

211)花火大会ほか

 ずいぶん間が空いてしまいました。前回記事から半月ほどの間に、汚染水放出の免状を米韓にねだったり、「風力」で袖の下をふくらませたり、除草剤で街路樹を枯らしたりと官民で驚き呆れる出来事が報道されました。こうした世相を「公」の切り口から縦横無尽に論じたいのはやまやまですが、私の手の届く範囲でボツボツ書きます。3つあります。

<後日譚>
 前回記事は「節目にあたっての閲覧御礼」のつもりで書き始め、そこでようやく過去の記事の消失に気づいた次第です。これまでの経過を振り返った箇所を読んで「(私の妻の)声が聞こえるようだ」とメールを下さった方があり嬉しく有難く思いました。一方、大津市政の記事が読めなくなった件については予想外の(勇ましい)メールや電話を頂きました。「あの人物ならやりかねないな」、「被害届を出してはどうか。少なくとも警察に相談だけしては」、「被疑者不明で刑事告訴せよ」等々。

 私も、これは人為によるものと考えていますが確証はなく、まずは友人の尽力で記事を復元できたので「これでよし」と思っています。クリスマスキャロルの主人公スクルージのように過去の亡霊に出会った気がしますが、私の「応援団」がいて下さることも改めて分かり心強く思いました。今後も変わらず書いていきます。

<躓きの石>
 私のつまづきの石は、いつもは歩かない山道に積もった枯れ葉の下にありました。靴底の半分でその石を踏み足首を捻挫をしたのが7月中旬。過去の経験から腱が伸びただけと判断して自家療法につとめ、先日からようやく「桐生彷徨」を再開しました。山の上からいつも琵琶湖の対岸を眺めていたので、しばらく何か欠け落ちた気がしていました。大津よい町です。

 岸田氏のつまづきの石は沢山あります。子息や閣僚の質の問題は小石に過ぎません。大きな石は「敵基地攻撃を含む軍備増強」と「原発回帰」です。これで彼がコケるのかどうか。それを審判する側の「評価時間の長さ」が問われています。「日本よい国」になってほしいと切に思います。

 ちなみに政府は、「汚染水」や「マイナカード」などについて「国民の不安解消」という言い方を多用します。まるで国は正しいことを進めようとしているのだが意図が十分に国民に伝わらず無用な混乱を招いている、という口ぶりです。そうじゃないだろ、国の取組そのものが問題だと言ってるんだ、国民をバカにするな、と私は思うのです。

 特にマイナカードについて、国は不具合の責任を地方自治体に押し付けようとしています。制度設計、点検項目、スケジュールなど全て国が決めたことであり、自治体の責任は皆無とは言いませんが問題は国にあります。全国知事会や市長会にストライキ権があればいいのにと私は夢想します。あるべき「地方自治」はまだ先です。

<花火大会>
 大津の花火大会に地元の中央学区が反対声明を出したことを知っているか。これこそ「公」の問題だから大津通信に書くべきだ、と友人が言ってくるまでこの件を知りませんでした。なるほど「全体」と「一部」との利益の調整という構図において友人の指摘は当たっており、いわゆる「迷惑施設」の建設問題にも通じます。私は今も報道されている以上の情報がありませんがその範囲で書きます。

 明日(8月8日)は久しぶりの琵琶湖大花火大会。実行委員会は1万発確保のため有料観覧席を大幅に増やした。例年以上の人出を見込んで「有料チケット」を持たない人は来ないでくれと市外にPRした。人の滞留を防ぐため(有料席の値打ちを高めるためにも?)高さ4mの目張りを延長した。地元はゴミと混雑だけ押し付けられ、花火の視界を奪われたと受け取めて学区自治連として反対の申し入れを行った、ということです。

 いまは草津住民である私としては、安全で持続可能な大会運営をめざす実行委員会の意図も分かるし地元の気持ちも分かるし、間をとって何とか折り合えればいいのだがいう中立的な気持ちがわきます。花火大会を明日にひかえ実際にどんな動きになっているのか知る由もありませんが、今後に向けて幾つか再確認すべき点が明らかになったと思います。

 まずは市民にとっての花火大会の意義です。琵琶湖は絶好のキャンバスだし回数を重ねてきた催しですから今後も続けばよいと私は思っていますが、年に1回、1時間のための無駄遣いだという意見もあります。コロナだって無くなったわけではありません。観光振興の面では通年のリピーター増加に対する貢献度も知りたいところだし、ライトアップ補助金など一連の観光施策の中で捉えなおす視点もあります。

 1万発を小分けにして会場や日時を分散させる案もありえます。千発では花火の気がしないという意見もあるでしょうが、私は昔、近江八幡の小さな神社で地元の花火師(といっても趣味でやっている人)が打ち上げる数十発の花火を真下から見たことがあり、頭上に火の粉が降りかかる光景に息をのんだことを覚えています。こんなレトロな花火はもうできないでしょうが、大規模化以外にも道があるかも知れません。

 今回は、地元の人が「締め出された」と感じた(であろう)ことが問題です。浜大津の歩道橋付近には以前から危険防止のため目張りがされてたものの、湖岸一帯に視界をさえぎるものはなかったと記憶しています。花火は夜空という「公共空間」に打ち上げられるもので有料観覧者だけのものではないという点がホールやアリーナでの催しと大きく異ります。そして花火が見えない場所にも音は届きます。それが心身にキツいという人だっているはずです。様々な人が受け入れることで大会がなりたっています。

 難しいことを言い出したら何にもできませんが、かといって様々な見地から検討せざるを得ないのが社会的・公共的な活動です。だいぶ昔の話になりますが、音楽家の冨田勲氏から琵琶湖を舞台に「サウンドクラウド」をやりたいとの申し入れがあり、所管の決まっていない仕事は企画課が引き受けるということで私が担当になりました。冨田氏がシンセサイザーを操作、湖上高く釣り上げたピラミッド状のガラス箱から大音響を流しつつレーザー光線を空中で交錯させるという音楽イベントでドナウ川や長良川での実績がありました。

 騒音と光害の苦情が来てもこれはぜひ実現したいと私は思い、長良川イベントの自治体視察をしたり市長に冨田氏と面会していただいたりと動きかけたのですが、ちょうどその時、最大スポンサーの屋台骨を揺るがす内紛が発生してプランが吹き飛んでしまいました。この時、冨田氏が市に求めていたのは地元自治体としての事業承認と人的な応援、関係機関との調整、地元住民への説明でした。今回の花火の件でこのことのを思い出しました。

 以下は8月8日の付け足しです。高さ4メートル、延長2キロ目隠し幕とそれに囲まれた有料席の映像を見ました。「只見はするな」とのメッセージになりかねません。また、比較的スペースのある有料席を増やしたことにより、それ以外のエリアにおける人の密度が増す可能性があります。従来も湖岸は人であふれていましたが、部分的にさらに危険度が上がることが懸念されます。

 デッキチェアのような「エグゼクティブシート」の写真も見ました。それ自体はステキだし奮発して優雅に花火を楽しむのもアリなのですが(各席とも既に完売)、全体的に「市民に開かれたイベント」から離れつつある気がしました。何はともあれ4年ぶりの開催です。休場明けの大相撲力士のように「勘がもどらない」ところもあるでしょう。今夜が無事に終わり、来年以降にさらに良い形で継続されるよう期待したいと思います。








 

 

 

 

2023/07/18

210)読めなくしたのは誰?

 しばらく前のことです。ブログの閲覧回数が444,444回に迫った頃、私は、特に数字にこだわりはないのですが「その瞬間」を見たいと思いました。しかし、次にページを開いた時にはカウンターが100以上進んでおり、この記事を書いている今、累計44万6千回を越えています。有難いことです。ご覧くださっている方々に改めて心からお礼を申し上げます。内容にうそ偽りはありませんが、いつも文字で表現することの難しさを感じながら綴っています。昨今は「はるばる来ぬる旅をしぞ思う」というフレーズも心に浮かびます。

 こうした次第で今回はこのブログ(および私の現在地)について書く予定でしたが、作業の途中で「過去の記事が閲覧できない」という異常が発生していることが分かりました。以前からお気づきの方があったとしても、私の意図による操作だと思われたことでしょう。
 本日(2023年7月19日)の時点でこの異常は解消されていますが、ブログ全体のデザインにも及ぶこの問題については記事の後半に記します。

 2015年8月に開始した「大津通信」は、中断をはさんで足かけ8年が経過しました。当初は大津市長であった越直美氏の市政運営をメインテーマとし、広く読者のコメントもお受けして「まちづくりを共に考える場」となることを目ざしました。2020年1月、越氏は2期8年で市長を退任し、後継者も市長選に敗れたため越市政は終わりました。ご本人は「やるべきことは全てやった」と振り返っており、それが「やりたい放題を尽くした」という意味なら私も同感です。既に書いたとおり、事実に即して客観的に眺めると越市政は悪政であったとしか言いようがありません。

 越氏が市役所を去った後も、その市政に関連する裁判が大津地裁で続いていたため(私も原告側証人として出廷しました)ブログのテーマはそちらに移りましたが、この裁判も市側の実質敗訴で終了しました。それを機に「大津通信」を閉じる道もあったのですが、「越問題」の蔭に隠れていたより本質的なテーマ、すなわち現代における「公」のあるべき姿の模索は緒についたばかりです。そこで、自分におよぶ範囲でこの問題を考え続けて行こうとブログ継続を決めましたが背景に次のような事情があります。


 そもそも私にとって「越批評」(越批判ではありません)を書くことは、不愉快な責務のようなものでした。だったら止めればいいのにそれができません。このことをよく理解していた妻は、私が「責務」を一通り果たし終わったと認めた上で、早く「公」のテーマに移るようにと望んでいました。彼女は親切な批評家でもありました。どうも表現が大げさね、身ぶりが大きいというか。それがあなた流だから仕方ないけど。でもよく書けてるよ。
 そういう彼女の文章は、やさしい言葉で物事の中心をすくいとってテーブルの上にそっと載せるような趣がありました。

 また、ブログを続けるよう私に言った彼女は、書くという行為が私の救いになり得ること、ブログという手段が私の数少ない社会への窓口になることを予期していました。ちっぽけなブログの拙い文章に過ぎませんが、妻の判断は正しかったと最近くり返し思うのです。それは、かけがえのない対話の相手を失うこととなるであろう私に対する彼女の憂慮と配慮でもありました。これに限らず私は、自分が妻によってあらかじめ(先回りのように)庇護されていたと感じることが幾つもあるのです。

 私の手元に表示されるデータから推測すると「大津通信」を継続的に閲覧して下さっているのは80人から100人ほど、大半の方々が私をご存知であろうと思います。記事の中身が大津市政に及んだ時に閲覧数が急増するのは、大津市職員や議員の皆さんが興味をもってくださるからでしょう。本当は読者コメントの受付を再開するといいのですが今はその馬力がありません。何人かの友人・知人を除いて私から読者のお顔が見えませんが、こうして書き続けている内に見えるような気になるのは不思議な話です。「駅前広場で前を通り過ぎる人々に語りかける」ような気持ちで文章を綴っていることは当初と変わりません。

 さて、ここから本記事のタイトルに関わるお話です。今回、久しぶりに過去の記事を閲覧しようとしたところ、それが「ごっそり消えている」ではありませんか。いったん公開した記事を私が消すことはなく(そもそも長く触れていません)しばし我が目を疑いました。消えた記事は2015815日のブログ開始から同年125日までに公開したもの(最初の4か月分)であり詳細は以下の通りです。

    「ホーム」の第1回「はじめまして ~波まかせの心~」から第59回「大津のまちの歩み(その4)」までの59本の記事。
  ②    「大津市政」の第1回から第24回までの24本の記事(すべて)。
  ③    「関係資料」の第1回から第8回までの8本の記事(第9回のみ閲覧可能)。
 以上、3つのラベル(ブログ内の収納庫)に分けて掲載されていた「合計91本の記事だけ」がどうにも閲覧できないのです。

 これらの古い記事はブログ開始の動機ともなった「越市政に対する論評」をメインテーマとしており、それに対する読者の貴重な多数のコメントも添付されています。この「当初4か月分」がブログ内の収納庫である「ホーム」、「大津市政」、「関連記事」から消滅し、見出しである「記事一覧」から消え、その記事タイトルをGoogle検索してもヒットしないという異常事態です。

 ネットに詳しい友人が、こんな消え方は見たことがなく理屈にも合わないと首をひねりながらあれこれ調べてくれた結果、「消えた記事」は私のパソコン内にデータ保存されており、またインターネット上にもそっくり残っていることが分かりました。要するに「完全抹消」ではなかったわけです。したがってブログに表示されている記事の末尾にある「前の記事」というインデックスをクリックして一つ前の記事を見ることも可能です。しかし、これを60回繰り返さないと最初の記事にたどり着けませんが。

ともかく、過去には可能であった通常の操作では閲覧できないわけですから実質的には「消えた」も同じです。もし、この異常がブログ(Google Bloggerのシステムエラーや事故によるものなら「一部の記事に限ってアクセス性が極端に悪化している」ことの説明がつきません。フィッシングサイト等はGoogleが警告を繰り返したうえ消去するようですが、私は何のお願いもお知らせも受け取っていません(憚りながら大津市政を考える地味で穏かなブログが公序良俗に反するとしたら、世の中のブログやSNSもほとんどアウトでしょう)。

友人の意見も聞いたうえで、何らかの人為的な操作が行われた可能性が高いと私は考えています。記事自体は残しつつ人目に晒しにくくするという手の込んだ操作です。ではいったい誰が、何のためにこんなことをしたのか、或いはさせたのか。私には心当たりがありますが、確証を得るまではそれを申し上げるわけにいきません。

 また、いつからこの異常が起きていたかは不明です。「No60」より前の記事の見出しが消えていることに気づいたのはずっと以前であり、まさかこんなこととは思わず放置してきたので、かなり長期にわたり閲覧不可能であったと思われます。これは表現の自由にかかわる問題であると考えます。

 さて今回はこうした経緯があって「消された記事」を「復元」します。ただし、過去の記事を呼び戻すという作業が不可能であり、かといって新規投稿にすると時系列が混乱します。
そこで今回あらたに「古い記事」というラベルを設け、その中にブログ開始後4か月分の記事を入れることとします。
また、「大津市政」および「関係資料」のラベルは元のままですが、やはり中身の復元が出来なかったため新しくリンクを張りなおす作業をしています。

過去にとらわれない方が良い、前を見るべきだという考え方もありましょうが、私にとっては「大津通信」を本来の形に戻すだけの話です。これらの記事はフィクションではなく事実ですから、「当時の大津市政の記録」という点で無価値ではないと考えています。今見るか見ないかという話は別として、記録はまず保存することに意味があります。「円珍文書」も「大津通信」も一緒だとまでは言いませんけれど。















2023/07/05

209)実用解体新書

 この半年をかけて母が遺した家の整理を進めてきました。220坪の敷地に4つの建物(母屋、プレハブ2棟、物置き)があり、すべてにモノがつまっていましたから、当初はエベレストの麓に一人立ちつくし雲のかなたの頂上を見上げる気持だったのです。今やっと9合目あたりまで来て「始末記」を書くゆとりができました。公を考えるブログのテーマと無縁ですが「身辺整理」や「断捨離」が心に兆し始めた方のお役に少しは立つかも知れません。私としては「捨てることの難しさ」と「ジモティーの繋ぐ力」を実感する体験となりました。

 さて、家の整理とかけて「沼地をうまく渡る方法」と解く。その心は一歩ごとに沈まないよう足早に歩くことが大切です。「整理」は過ぎた日々と向き合う作業ゆえしばしば手が止まり視線が宙に浮きます。しかし取りかかったら前進あるのみ、迷わず捨てる。そう決意してちょうど良い加減です。しかしこれは今になって思うことで、実際には一歩進んでは次の手段を考えるという手さぐりの行程でした。
 まず母の個人的な物や思い出の品は、「私が受け継ぐ」、「親戚知人への形見分け」、「わが家の薪ストーブで焼却」の3通りで整理し、その後に残った大量の書類、衣類、布団類は半透明のポリ袋(数十個)につめて草津市処分センターへ持ち込みました。

 ついで骨董・古物商に何社か来てもらいましたが、買い取り・引き取りの可否はこちらの価値判断とまったく無縁で「いくら上積みして転売できるか」という一点にかかっており、私の予測はすべて外れました。ちなみに昨今は中国産の古物全般が高値で取引され、かの国の富裕層がこぞって買い求めるのだとか。それは他国への流出品を取り戻そうとする彼らの愛国的心情なのか、あるいは毛沢東以前の古い中国への郷愁なのか、単なる金儲けの手段なのかと私は考えてしまいました。また、鉄瓶、中でも滋賀県産の品が高く売れると聞きました(母宅にはありませんでしたが)。

 さて、こうして様々な家財が引き取られていきましたが、家電製品や収納家具、食器類、新品・未開封の日用品などがまだ手つかずの状態です。ネットや電話で寄贈先を探したものの、どこも引取条件が難しいうえ輸送が面倒なので諦めました。ここでやっと社会福祉協議会の存在を思い出し、事務局に事情を説明して新品の介護用品等を引き取ってもらったほか、その紹介で子ども食堂を運営するNPO法人の代表者にお越し頂き、調理器具や家電品を持ち帰っていただきました。上等、古い、かさばると三拍子そろった座布団もたくさん貰っていただきました。

 ついで、何でも引き取ると宣言している業者にお願いし、家じゅうの食器を全て無料回収してもらうことに成功。分量は空の衣装ケースにぎっしり詰めて10箱以上あり、どこの事業者からも敬遠された中での救いの神でした。作業はコマ切れに3日にわたったのでスタッフの若い人と会話がうまれ、鉄やアルミ製品は金属を扱う事業所に持ち込むとよいと教えてもらいました。ちなみに大量の食器をどうするのか聞いたところ、東南アジアにマーケットがある、フィリピン行きのコンテナに空きがあったので引き取ることができた、との話でした。

 しかしこの「何でも屋さん」もリサイクル法があるのでテレビ、冷蔵庫、洗濯機などは引き取ってくれません。これらの品は、私が郵便局で家電リサイクル券を買って市のセンターに引き取りをお願いしました。エアコンは6台ありました。買い替えではないため家電ショップが対応してくれず、近くの電気店に依頼しました。取り外す前に室外機にガスを集める必要があるらしく、私がリモコンを捨てていたため作業が大変面倒になりました(この手のミスがいくつもありました)。

 それから本。家のあちこちに全集、文庫本、雑誌などが並んでおり、1か所に集めたら6畳間が天井まで埋りそうな分量でした。面白そうな本もあったけれど、私自身が身辺整理に舵を切っているので貰うわけにいきません。中古本買い取りの「ブックオフ」に電話したところ、コロナのため出張買取はやめていると分かり、何回も店頭に持ち込むこととなりました。引取価格は1冊0円から100円程度で、私が受け取ったお金の総額は数千円だったと思います。幸い母の家とブックオフ、さらに雑誌や段ボール回収基地をもつ「イオン」がすぐ近くなので助かりました。

 こうした作業に3、4か月かかりましたが、並行して市の定期収集の集積所にも抜かりなくゴミを出しました(破砕ごみ・陶器ガラス類・プラスチックなど)。この結果、家の中はかなりスッキリしたのですが、まだほとんどの家具(ソファ、ベッド、ダイニングセット、本棚、タンス、ボックス類など)、建具(アコーディオンドア・カーテン、システムキッチン、吊戸棚、作り付け収納庫など)が残っています。これらは家と共に壊さざるを得ないと思っていたのですが、しかし、、、

 それは無理。家は空っぽにしておかなければならない、と建設業を営む親しい知人が言うのです。「 何でも一緒くたに重機でつぶしてダンプに乗せる解体は昔の話で、今はまずアスベストの検査をする。次に畳、カーテン、ガラス等を分けて搬出する。ドアのノブや蝶番(金属製)は外す。コンセントやスイッチ(樹脂製)も外す。壁紙もはがす。木材とベニヤまで分けるという具合に分別が徹底されている。そこまでしないと処分場が引き受けてくれない。」

 考えてみればこれらは当然のことで、分別・リサイクルを進めなければ処分場も地球ももちません。分かったが困ったという私にそこの若い衆が言うには、一度ジモティーをやってごらん、どんなものでも必要とする人が一人はいる、物も生きる。お金も入るかも、、。
 教わった手順どおりにまず食器棚を出品してみたら、もの5分も経たないうちに「もらいます」の返事があり、その後多数の申し込みが殺到しました。こうして私はジモティーの達人の道を歩みだしたわけです。

 これまで私は63回の出品(投稿)を行いました。どこにどんなボールを投げても必ずキャッチされるのが面白く、おいでおいでと誘われるように回数が増えたのです。引取者の希望に応じて他の品々も譲渡したので(私をおじいさんと呼んでくれたベトナム青年の「トイレ」のように)、貰われていった物品の数は100を超えます。家具、建具、灯具は当たり前で、少し変わったところで障子に襖、畳、仏壇、風呂桶、太陽熱温水器、散水栓、電気コンセント、トタン板、庭石、庭木などがあり、プレハブハウスまで引き取り手が現れました。

 ところで仏壇は父が生前に購入したもので、父母ともお寺での永代供養の道を選んだため「無住」となっていました。私も身辺の整理が課題ですから(一向に進みませんが)、わが家に持ち帰れず、壊してセンターに運ぶのも躊躇されるためジモティーに出した次第です(いまは「伝統工芸品」であると注記しました)。すぐに取り引きが成立したのですが、引き渡し前日に「妻に怒られました」と断りのメールが入り、2番手の方に貰われていきました。

 こうした経緯で母屋はがらんどうとなり、付属建物は3棟ともなくなりました。プレハブ2棟はジモティー譲渡、木造トタン葺の物置き1棟はプレハブを引き取りに来られた方が解体のプロで、まるで子どもをあやすように静かに寝かしつけ分解してくれました。これくらいやりましょう、ハウスを頂いたのだからとニッコリされ、私は恐縮、感謝の極みでした。枇杷の木は大きすぎ、庭石は多すぎてまだ残っていますが、それ以外は跡形がありません。ジモティー恐るべし。

 この3カ月、母の家でモノのやり取りを通じて数十人の見知らぬ人と出会いました。家具を渡すなら2~3分、取り外しなら2~3時間、ハウス解体でも1~2日ですから、出会ったというより「すれ違った」という方が正確でしょう。お金のやり取りがないのでさっぱりしたものです。お互いにハンドルネームしか知らず、氏名や連絡先を告げあったのは2人だけです(連絡はしませんが)。しかし私は物を活かせたことが嬉しく、先方は「無償入手」を喜んでくださいました。取り引き終了後、こうして使っていますと写真つきメールを下さった方も数人あります。太陽熱温水器の方はエネルギーを考えるSNS(インスタグラム?)をやっており、「雨ですべる屋根の上で作業を手伝ってくれたのは初老の紳士(※私のこと)だった」と綴っていました。

 この記事を書くにあたって調べると、ジモティーは「株式会社ジモティー」によって運営されており、私が利用した「売ります・あげます」のサイトのほかに「助け合い」、「メンバー募集」、「イベント参加者募集」など様々な需要と供給をネット上で仲介しています。地域の今を可視化して人と人の未来をつなぐというのが企業理念だとか。株主総会報告書では2022年度の売り上げが18億円、営業利益が4.6億円(取引の一部に課金しているほか広告収入がある)とありました。サイトの悪用を防ぐ取り組みもよく実施されていると感じました。

 若い人に限らずネットを介して人同士が出会うのが普通の光景になってきました。私にはついていけないと思っていましたが、今回はしっかりジモティーのお世話になりました。外交も戦争もインターネットに頼る時代です。もう元に戻れません。ところで以前から「AI」と「公」について書きたいと思っていましたが一筋縄でいきません(しばらく勉強します)。生成AIは人の能力の延長線上になく新しい「知的生物」であるとつとに指摘されているようです。そうかも知れない、下手をすると火星人の来襲になると私も思います。

 そこで思い出したのが、テレビの天気予報のあまりに過剰な注意喚起(お節介)です。天気の変化を予測するのはいいけれど、なにゆえ「折り畳み傘をカバンに入れろ」、「ジャケットを持て」、「袖をまくれ」、「頑丈な建物に入れ」、「水を飲め」とまで言う必要があるのか、「てるてる坊主」や「塩アメ」の巨大模型を示すのか、地球人なら分かるだろ、と思うのです。ひょっとして、これは目立たないよう活動を始めた火星人に向けたメッセージか? そういえばNHKニュースの終わりにAI音声で再びおなじ内容を繰り返すにも隠された意味があるのかも知れないと、初老の紳士の妄想は膨らむのです。

 家の解体にそなえて私にできることを一通り終えたので「実用解体新書」というタイトルにしましたが、解体のスケジュールはまったく未定です。50年前に建てられ、結婚前に妻を足しげく訪ねた家、結婚後はみんなが楽しく集った家、晩年の母の様子を見るためを毎日のように妻が通った家でもあります。人も物も常ならざるものはありません。






 
 

2023/06/21

208)魚の目は泪

 起きてから寝るまでの一日の時間の推移は身体感覚でつかめるし、何より時計が正確に教えてくれます。仕事はたいてい5日間を必死で泳ぎ土日にフーッと息をつく「週単位」、カレンダーをめくれば月が変わり、新しく買い替えると一年が過ぎます。誕生日は年ごとに訪れ、記念日も毎年ひとつずつ数を増します。しかし私たちが実感できる時の流れはこの辺りまで、せいぜい長くて百年を大きく超えることはありません。とすれば千年は想像を絶するほど長い歳月ではありませんか。

 単なる時間の「長さ」なら地球誕生は46億年前、日本列島の形成は2000万年前、古琵琶湖は400万年前と古い事象はいくつもありますが、これらは人間のあずかり知らぬ天然自然の話です。「時の流れ」は、人の営為と結びつくことによって私たちに訴えかけてきます。ツタンカーメンの棺に置かれた花束がなお色をとどめて発掘者の心を揺さぶったように。そこまでロマンチックではないけれど郊外に広がる「田んぼ」だって、数え切れない歳月を耕され続けて今そこにあります。
 
 さて、1165年の昔、智証大師円珍が唐から持ち帰った数々の文書がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。おめでたいことですが、これは何よりもまず、長い歳月、幾たびもの兵火をくぐり抜け文書を守ってきた園城寺三井寺の代々の僧たちに捧げられた花束です。福家俊彦長吏は「多くの先人たちの努力に敬意を表する。こういう文化を伝えることの意味を再認識した。」と述べられたよし。篤い信仰とゆるぎない使命感。無信心の私さえ粛然たる気持ちになりました。(佐藤市長と三日月知事のコメントからも文化を重んじられる姿勢が伺えました。このお三方の意見交換がありました。さぞ有意義な場であったろうと思います。)

 しかるに! この名刹から西へわずか300mに位置する大津市役所では、かつて前市長越直美氏により公文書とデータの不法廃棄が行われました(今の市政と無縁の犯罪です)。さらに西へ80㎞行った神戸では、重要な裁判記録がむざむざ捨てられていたことが分かりました。東へ400㎞離れた霞が関では、自公政権のもとで数々の公文書が「隠滅」されています。法により、または社会の要請により保存すべき文書を、悪意をもって、または怠慢のために棄損したこれらの関係人は急いで三井寺に駆けつけて円珍関係文書を拝観し、文書を伝える意義を知るべきでしょう。7月4日からは大津市歴史博物館で展示されるのでそちらへ回ること。誘い合って15人以上で行くと団体料金が適用されます。

 私はいちはやく新緑したたる境内の文化財収蔵庫でお宝を見せていただきました。経典の数々は国宝指定、唐時代のパスポート「過所」の原本なども大変貴重な史料だとか。円珍の書は空海のような端正な手ではなく、子どもが書いたような不揃いの味があります。壁面には彼が辿った航路が図示されていました。当時の旅は困難を極めたに違いありません。たとえば難破の危機(実際に台風で台湾に漂着しています)、船酔い、通じない言葉、気の遠くなる徒歩行、肩に食い込む荷物、足にできた肉刺(まめ)、蚤やしらみ、食あたり、追いはぎの出没等々。一方で、高僧との対面、教義の伝授、経典の受領といった感動の場面もありました。

 さて、どんな偉人も、その人自身と比べると「平凡」な両親のもとに「普通」の赤ちゃんとして生まれ、育ちます。やがてその資質が明らかとなり、才能が開花し、あるいは努力が実り、もしくは至難の行いをなすことによって、人生の途上で(多くの場合は没後に)「偉人」に変身します。生まれてすぐにすたすた歩き「天上天下唯我独尊」と宣言したお方は別として、一般的には人は偉人に「なる」ものです。智証大師円珍も恐らくそうであったと思います。

 とここまで書いて円珍の母は弘法大師の姪であったことを思い出しました。そういえば洋の東西に「非凡の系譜」がありますから私の「説」もいい加減です。Anyway、円珍は15才で比叡山に入り12年におよぶ厳しい修行を続けました。三井寺のパンフレットには、「籠山修行中、大師一生の信仰を決定づける黄不動尊を感得されました。これこそ今日も秘仏として伝わる国宝・黄不動尊(金色不動明王)画像です。」とあります。つまり「黄不動尊の感得」が彼の入唐や天台寺門宗の開闢につながる重要この上ない契機であったことが分かります。あえて言うと「偉人化」の第一歩です。

 しかし、私は仏教にうといので「感得」と「画像」の関係が不明瞭であり、そもそも「感得」とはどういう体験なのか見当がつきません。三井寺にお尋ねするのが一番ですが、こんなことで電話してヒマ人と思われる(その通りですが)のは避けたいので、ある浄土真宗のお寺の住職(高校からの友人)に教えを乞うこととしました。彼はすぐに返事をくれましたが、その説明メールに成程と感心したのでざっとご紹介します。

  ~  密教の世界はよく知らないが、円珍は不動明王の姿を直感的に体得した、簡単に言えば、心の中で見えたという体験をしたのだと思う。見えたというより出会ったという方が近いかも知れない。円珍はそれを絵師に描かせた。それが三井寺に伝わる黄不動明王だと伝えられている。黄色というのは表面が金色であったことによるが、色自体に特段の深い意味はない。ご存じのとおり、真理そのものである「如来」(仏)、それを衆生に伝えて救おうとする「菩薩」、菩薩の教化も敵わない衆生を怒りの形相で仏道に導こうとするのが「明王」。このうち真言密教の最高仏である大日如来が明王と化したのが「不動明王」である。

 円珍が不動明王の姿を直感的に体得したこと、これが「感得」だろう。それはおそらく視覚的に見た、出会えたというだけではなく、その精神・本質も一挙に体得する、真理と一体化するという神秘的な体験であったと思う。こうした体験は宗教者にとって魅力的であり、それを目ざすことが宗教的実践の目的とされる節がないでもない。しかしそれは一部の修行者にしか叶わない難事であり、しかも実際になし得たかどうか不確かである。さらに言うとすべての衆生の救済を説く仏教の教えにもそぐわない。法然や親鸞が天台の修行を捨てた理由もここにある。

 ちなみに「阿弥陀仏像」はガンダーラで発見された仏像の台座に刻銘されていたらしいから起源は2世紀ごろか。いずれにせよ言語化できない真理(言語道断)を言語化したものが経文、視覚化したものが仏像だが、そうした仏様(ほとけさま)が西方浄土におられると実体化して今に至っている。それを言語の限界を意識しつつ言語化し、実体化の誤りを是正してなおかつ今を生きる「生」に焦点を当てた仏説を唱えたのが親鸞である。~

 友人の話は仕事がら次第に熱をおびて「実体化の瑕疵によって人を惑わせる一部宗派」への懸念に及ぶのですが引用はここらで終了します。要するに円珍が修行により高い精神的境地に達して仏様の姿をありありと感じとり、それを細かく絵師に伝えて描かせた肖像画が今につたわる黄不動尊である、ということです。この絵もそうだし、唐から持ち帰られた各種文書にしても、本当にモノは長生きです。和紙と墨書の長寿も驚異的です。これらに比べて人の命のはかないこと。坂本龍一さんが芸術は長い、人生は短いと言ったことを思います。

 ところで円珍は草鞋(わらじ)を履いていたはずです。江戸末期に歩き回った伊能忠敬も草鞋履きでしたからそれより古い時代に別の履物があったと思えません。足袋はあったのか素足だったのか。いずれにしても草鞋で何百キロ、何千キロを歩いたら足がどんなに傷むでしょう。昔の人の身体能力は私たちを遥かに上回っていたと想像されますが(乳幼児期そのものがサバイバル、日々の生活は過酷なトレーニング、三食すべてオーガニック)、それにしたって足にマメくらいできるでしょう。

 私は桐生を歩きすぎて「魚の目」ができました。足裏の皮膚が筋状に角質化して痛みが増すため皮膚科で切り取ってもらおうと思っていたある日、深部に円いカタマリがあることに気づき単なる魚の目だと分かりました。そこで「80年以上にわたり日本人の足のトラブルに向き合ってきたニチバンのスピール膏」を貼ったのですが、一時は普通に歩けませんでした。厚手の靴下と軽登山靴をはいていてもこの有り様ですから遠路の草鞋履きはいかばかりか。

 私が魚の目と闘っていたのは今年の早春から晩春にかけてのこと、山はうぐいすの声に満ちていました。行く春や、鳥啼き、魚の目は泪。その頃この句がくりかえし頭に浮かび、芭蕉は「魚の目」に二つの意味を持たせたのではと半ば本気で思ったほどです。いまこれを書くにあたって確かめると、元禄2年3月、奥の細道への出発前に詠まれた句ですから、芭蕉は魚の目に悩まされていたわけではありません。改めて思うに、水中でまじまじと目を瞠っている魚の目を涙で潤ませるとはさすがに芭蕉です。

 今回は友人のメールに寄りかかった「他人のふんどし記事」となってしまいました。ジモティーがらみのエピソードが溜まったので別にまとめて書きたいと思います。最後に草鞋ばきの偉人に奉る一句。 ~ ニチバンで み足の痛み ぬぐわばや ~