2023/09/09

215)3つの出来事(① マティーニ)

 具象物としては青い眼の白ネコ1匹を相手に会話するだけ、あとは彷徨い歩く、飲む、聴く、引っこ抜く、撒水するばかりの毎日に、しばらく前、句読点を打つような出来事が3週続けてありました。今回はそれを書こうと思います。読まれる方には些細な他人事ですが、他の記事もつまるところ私の私事、私見、私情に過ぎません。「まあこれもまあよかろう」と受け流して頂けたら幸いです。

 いきなり余談ですが、私の日常にはもはや、売り込む、協議する、釈明する、調整するといった動詞がありません。これを「うらやましい境地」だと思う現役の方がひょっとしておられるかも知れず、そうした心情は私にも覚えがあるのです。いま思うのは、私たちが人生の異なる二つのステージを同時には生きることができないということ。沈む夕陽を招き返そうとする人もいましたが時は戻らず、早送りもできません。

 <赤坂のマティーニ>
 7月末の都内、息子が参加した小さな会食の場で、ある人が、小説家開高健の思い出を語り出したとか。開高の北南米の釣り旅行にも同行するなど心躍る時間を共有されたもようです。そこで息子が、実は両親も開高ファンで、その昔キングサーモンを釣ろうと二年続けて家族でアラスカに行った。子どもだった自分は何時間も歩かされてキツかったが今はよい思い出だと応じました。するとその人いわく、開高が足しげく通ったバーがこの近くにあるから親御さんを案内したらきっと喜ばれるだろう。

 こうした事情を知らずその週末に私は息子一家を訪ね、彼らのサプライズプレゼントで赤坂見附にあるそのバーに行くこととなりました。そこはビルの地下1階、低くジャズが流れる落ち着いた雰囲気の店内は息子と私だけ。壁には開高の写真、「漂えど沈まず」の色紙、サイドテーブルに著作の数々。愛用のパイプ。突き当りに作家の定席であったことを示すプレート。その前に活けられたカスミソウの大束は、時間前に来店し一杯やりながらマスターの手元を眺める開高の視線をさりげなく遮るための工夫が伝統になったとのこと。

 私たちはまずマティーニを頼み、霜のついたグラス、ジンとベルモットの配分、オリーブ、レモンのひと絞りまで開高仕様の1杯を味わいました(以下は割愛です、残念)。開高が世を去って34年たちますが、彼と一緒に旅をした、食事をした、背広をもらった等の「開高体験」を抱える人々が今もこのバーを訪れ、尽きぬ思いを語るのだといいます。

 バーテンダーの女性はもちろん開高の愛読者で、「輝ける闇」が特によかった、若いスタッフにも是非読んで欲しいと単行本を渡したら「紙の本はコスパが悪い」と断られた(苦笑)、年に数回は開高さんのお墓にいく、これも何かのご縁だと思うので、、と静かな声で話してくれました。私は、自分の知る唯一の開高伝説として、彼が、金時鐘さんのお連れ合いの姜順喜さん7色パンティを贈った話を(つい調子に乗って)披露することとなりました。

 開高は1958年に「裸の王様」で芥川賞(翌年は大江健三郎、豪華な顔ぶれでした)を受けた後に次作が書けずに苦しむうち、大阪で噂になっている「アパッチ族」の話を聞きつけます。アパッチとは砲兵工廠の焼け跡から夜陰にまぎれて鉄くずを掘り出し日銭をかせぐ謎の集団のこと。取り締まりに手を焼いた警察から勇猛果敢で知られたアメリカ先住部族の名を贈られ、その「名声」が日増しに高まっていました。開高は猪飼野に出かけて「アパッチの首領」から話を聞き、現地も案内されます。

 「玉音放送」前日の1945年8月14日、米国は、日本の無条件降伏確定を承知しながら大阪を爆撃し、東洋一の規模とされた陸軍砲兵工廠を多くの人命とともに破壊しました。焼け残って放置された建屋、機械、製品である兵器、原材料はすべて金属ですから地元では「杉山鉱山」と呼ばれ、戦後しばらくはアパッチ族のような無断採掘が行われたようです。朝鮮戦争による「金徧(かねへん)景気」が背景にありました。

 これは「窃盗」です。しかしこんな見方もできます。国家すなわち天皇は国民から金属を召し上げ、学徒動員によって兵器を造り、あげくに焼け野原を残しました。敗戦に苦しんだ1億人の中でも困難を極めた地域の一つである猪飼野の住人が、手近な砲兵工廠跡地から実体的に無主物となっている屑鉄類を掘り出し、それで空腹を満たしたことの「罪」を、無謀な戦争を起こし、継続し、無数の惨憺たる帰結の一つとして「杉山鉱山」を出現せしめた国が、はたして裁くことができるでしょうか。

 開高はこうした事情に構わず、社会の深部・底辺でしたたかに生きる人々の群像をみごとに小説化し、先行する武田麟太郎の著作名をそのまま引き継ぎ「日本三文オペラ」としました(大ヒット)。武田が「元祖本」を書いた時に念頭に置いていたのはベルトルト・ブレヒトの「三文オペラ」であり、開高の作品は、底辺の民衆と官憲の対立を描く二重パロディでもありました。その後、金時鐘の「弟分」の梁石日が小説「夜を賭けて」で同じテーマを書き、小松左京が「日本アパッチ族」を書いています。

 さて、話が前後しますけれど、開高が取材した「アパッチ族の頭目」こそ詩人の金時鐘です。金時鐘は、開高の妻で大阪出身の詩人であった牧羊子と旧知の間柄で、ともに、わが国に連綿と続く「短歌的抒情」を真っ向から否定した小野十三郎(詩人、1903~1996)を師と仰いでいました。「虹色のプレゼント」は取材協力への開高らしいお礼でしたが、もう60数年の歳月が流れました。この小さなエピソードが赤坂のバーから再発信されたら愉快なのですが。

 開高は1930年生まれ。戦争と父の死で貧しい少年時代をおくり、瘦身の文学青年として世に現れ、壽屋(現サントリー)の宣伝部で活躍、やがて腹をゆすって豪快に笑う大御所となりましたが、深奥で柔らかな抒情とぬぐえぬ憂鬱とを持ち続けた人であったと思います。
 純文学のかたわらベトナム戦争の従軍、大陸を股にかける釣り紀行などルポルタージュでも「健筆」をふるいました。そのマルチの活動ぶりに批判的な意見もありましたが、フィクションとノンフィクションの2つの世界を行き来し、その相互触媒とでもいうべき作用によって稀有な表現をなしえた作家です。

 蛇足ながら私たち家族はアラスカ以外にもあちこち出かけました。人に家族旅行を推奨するわけではありませんが、私は、たまたまそのように過ごし得た日々を幸いに思っています。こうして若いうちは年休消化率100パーセントを誇った私も、40才頃から次第に滅私奉公路線へと「変節」しました。その分、職場の仲間にはうまく調整して休暇をとり、自分や家族の時間を大切にするよう口を酸っぱくして言いました。

 休暇は権利であること、行使しない権利は弱体化すること、人生において時間の貯金はできないこと(この夏は二度と来ない)、休暇は労働の質の向上に資することが理由です。
 どこの職場も休みにくい事情があると百も承知ですが、実はそれが相対的な問題であることが、諸外国の休暇事情を見ればよく分かります。少なくともすべての上司はスタッフの年休申請に笑顔で応じて欲しいと願います。国が旗をふる「イクメン」などの大義名分がなければ休めない社会はみんなで変えるべきだと思います。

 つい長くなってしまいました。一旦ここでアップし、残る2つの出来事は次回に回したいと思います。きりきり冷えたマティーニが飲みたくなりました。




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