2022/08/16

185)原発事故 4(国策のわけ)

 「国策」である原発が国と事業者なれあいの「無策」の末に爆発し、いまも国土と海を汚染し続けています。11年たって溶け落ちた核燃料(デブリ)の状況すら把握できず処理方針は未定。原子炉(1~3号炉)の底が抜けたため、チェルノブイリのように「石棺」で覆って放射能の減衰をまつ「時間かせぎ」もできません。放射線管理区域(非日常空間!)の基準を超えて汚染された土地が福島を中心に広がり、原子力緊急事態宣言も解除されず、自宅に戻れない人はなお多数、子どもの甲状腺がんも増えています。

 しかるに「国には何の責任もない」と、国自身が、最高裁の口を通して、言い放ったことに怒り呆れて長々書きましたが今回でいったん終わります。擬人化しても仕方ありませんが「国」とは、想像を絶するほどに無責任、無慈悲、厚顔無恥、鉄面皮、傲岸、利己的な存在です。私は主に統治機構としての国について言っていますが、時々の政権も似たようなもの、個々の政治家にも同類が多数あります。

 これは仕組みの問題か人間の本性のなせる業か、歴史は繰り返すのか劣化しつつあるのか、日本だけの現象か世界も同様か、一考に値しますが私には見当もつきません。「これなら人格高潔な君主が支配する専制国家の方がマシだ」という意見も出るでしょう。現実にそうした「明君」の機能を天皇制に期待する声が根強くあります。私たちの民主主義が日々、試されています。

 以下、3項目(原発の問題点、原発の利点、国策である理由)に分けて書きます。これまで私が勉強(?)したことによりますが、特に原子核工学の小出裕章さんから多くを伺いました。著作(「原発事故は終わっていない」ほか多数)や講演だけでなく何度か親しくお話する機会があったため出典等を逐一明記できません。すべて私の知識と理解の範囲で書いており文責は勿論私にあります。

<原発の問題点>

 原発の何が問題かといえばすべて問題であり、ウランの採鉱から濃縮、超巨大プラントの建設、高温高圧の蒸気を得るために燃料を核分裂させる原子炉の運転、立地自治体の「金漬け」、使用済み燃料再処理・処分、廃炉、これらを通じた継続的な環境汚染、容易に国土を損ない得る事故の可能性および「実績」等々。こうした事実に即していえば原発は「存在自体が悪」ですが、ここでは原子炉の運転により核分裂生成物「死の灰」やプルトニウムが生成される点を取り上げます。「危険物」が「極超危険物」に変化して人の手に負えなくなる過程です。

 100万キロワットの原子炉を1年間運転して生じる「死の灰」(ヨウ素131、セシウム137、キセノン133、ストロンチウム90、サマリウム149など)の分量は「1トン」。米国が広島に落とした原爆による死の灰は「800グラム」。つまり標準サイズの原発は1年で「広島原爆の1200発分」の死の灰を作り炉内に貯めこみます。福島第一原発の爆発で外部に放出された死の灰は「2%」とされていますが、それだけでこれほどの被害(政府公表数値:セシウム137は広島原爆の168倍)が出ています。

 こうした原発が全国に57基あり(福島第一原発など廃炉が決定したものを含む)、わが国は原爆何万発分もの核物質を過疎地の沿岸部に「集中配備」していることになります。現在大半は休止中ですが、厄介なことに核燃料は運転中でなくても崩壊熱を出すため、炉内にあっても燃料プールにあっても冷却し続けなければなりません。ご記憶でしょうが津波の時に定期検査で停止していた福島4号炉の燃料プールに必死で注水していたのはこれが理由です。さもないと東京あたりまで人が住めなくなると原子力委員会委員長が警告したのです。このように原子炉は運転を止めれば安全という代物ではありません。

 今回の津波のように自然災害は今後も必ず発生します。また、そもそも原発は緩慢な核爆発を連鎖的に発生させる綱渡りのような複雑・巨大な装置であり、暴走事故も人為的ミスも十分あり得ます。サイバーテロの可能性も小さくありません。航空機や隕石の落下も誰がゼロだと保証できるでしょうか。さきほど「核物質の集中配備」と言いましたが、核のボタンは誰の手にもありません。今回の爆発は起こるべくして起こったのだと私は思います。

 また、事故を別としても原発が生み出す死の灰を何万年も保管し続けなければなりません。
現実として死の灰が生じた以上は速やかに隔離したいところですが、深海、南極、宇宙処分などは国際条約や危険性の面から不可能であり、多少見込みがあるのは大深度の地層処分のみ。しかし日本列島は地震の巣であるうえ地下水脈が多く、ここなら安心という場所がありません。後始末を考えずに営業運転を開始したわが国の原発は当初から「トイレなきマンション」と言われており、いまや危険な汚物があふれる寸前です。六ケ所村の燃料プールは全国の原発から搬入された「再処理待ち」の使用済み燃料で満杯、そのあおりで各原発の燃料プールも8割がた満杯の状況です。

 こうしたなか国は、従来から「核燃料サイクル」の実現をめざして巨費を投じてきました。すなわち使用済み核燃料を細断して硝酸で溶かしプルトニウムを取り出し(再処理)、それをウランと混ぜて高速増殖炉「もんじゅ」で燃やそうというのです。理屈上は核燃料の有効利用ですが、六ケ所村の再処理工場は26回の完成延期のすえ今も操業できず、これもトラブル続きの「もんじゅ」の廃炉はすでに決定済み。いずれも制御が困難で危険極まりない技術であることが根本的な理由であり、国策である核燃料サイクルはとうに破綻しています。再処理をやめてダイレクトに処分(正確には永年保管)しようにも前記のごとくその場所の確保すらできていないのです。

 下線をつけた幾つかの言葉は、常識的、客観的、論理的、科学的に考えて実現または実施が不可能な行為や事物です。ここで詳述しませんが、あふれる情報を比較検討しながら丁寧にたどっていくと一目瞭然です。これほどまでの危険物をこの世に有らしめてはならない。原発の問題はこれに尽きます。このシンプルな事実を何十年も前から、前掲の久米さん、高木さん、小出さん(熊取6人衆)ら真っ当な科学者達が中心となり、身体をはって訴え続けてきました。福島第一の爆発事故を防ぐことは出来ませんでしたが、それでも、或いはそれゆえ、原発への「理解」は徐々に広がりつつあると思います。

<原発の利点>

 原発に何の利点もありませんが国や事業者の「虚偽説明」を簡単にふり返ります。
「化石燃料はあと20年で枯渇する」。私たち夫婦が原発に関心を持ち出した頃、国と電力会社がこのように言っていたことを忘れもしません。石炭は掘りつくし原油の埋蔵量も知れている、これからは原発が主力だというわけです。それから40数年、石油は燃料以外の原材料としても大量消費されていますが、そのことの是非は別として、化石燃料はまったく枯渇などしていません。天然ガスも十分にあります。発電燃料の中で最も残り少ないのはウランです。

 「原発の電気が一番安い」とも喧伝されました。コスト計算は経費発生の始期・終期の設定や計算式によって玉虫色ですが、研究者は当初から国の説明を否定しています。ごく最近の電力会社の有価証券報告書の記載データからも、火力発電や水力発電の方がずっと安いことが裏付けられています。ましてや原発から切り離せない放射性廃棄物の処理経費や事故対応の費用を考慮すると、もう比較にならないほど原発は高額の発電手段です。
 ちなみに福島事故の復旧費は国の概算で22兆円、シンクタンク試算で80兆円、いずれも応急措置のレベルであり、法的な許容放射線量を満足する除染、復旧を行おうとすると金額のケタの想像がつかないと小出さんは言っています。

 「多重防護で安全だ」という話もありました。ウラン燃料はペレットに焼き固めジルコニウム合金で被覆されている、原子炉も格納容器も分厚く、コンクリート建屋も頑丈だ。緊急時には制御棒が自動的に挿入され注水もされる。審査も厳重に行っており、もし何かあっても「安全側にこける」よう設計されているのでご安心を、というわけです。いまもネットで流されている虚ろな安全神話。ウソでないのは「こけ」た一点だけではありませんか。

 「温暖化防止に貢献する」とは近ごろ売り出し中の文句でありコスト論議とまったく同じです。確かに「核分裂反応は燃焼と異なって二酸化炭素を発生させない」ことは事実ですがあくまで「発電時」に限っての話。ウランの精錬、濃縮、使用済み燃料の一時保管と永年保管、「放射能対応」のプラント建設から廃炉までを勘案すると「発電の前後の工程」において一般の産業活動よりずっと大量の二酸化炭素を排出しています。

 そもそも二酸化炭素の排出には建設、製造、運輸、交通などあらゆる産業活動が関わっており、それは産業革命以降、飛躍的に発展し、一方で森林は減少しました。これを悪と言うならば「二酸化炭素排出の集団犯罪」が行われているのに、なぜ火力発電所だけが被告席に座らせられるのか。なぜ原発だけが「クリーン」で「グリーン」か。放射能はキレイで安全な代物か。福島事故はもはや昔話か。冗談はいい加減にしろと言いたいけれど、このプロパガンダは日本のみならず欧米でも繰り広げられ互いに補強しあっています。Oh my Buddha !

 温暖化と二酸化炭素の関係について、小出裕章さんは講演(本年5月ライブ配信)で各種データを示しつつ次のように指摘しています。
 「IPPC(気候変動に関する政府間パネル)によると最近160年間で地球の大気の温度が0.85度上昇し、二酸化炭素の濃度も上昇している。二つの事実のどちらが原因でどちらが結果か即断できない。もともと地球は公転軌道や地軸の傾き等により熱くなったり冷たくなったりしてきた星だ。氷河期と温暖期の気温差は10度にもなる。大気温が上昇すると海水に溶けた二酸化炭素が気体となり大気中の濃度が上がる。」

 「1958年以降のグラフでは気温の増減に追随して二酸化炭素濃度が増減しているように見える。長いスパンで見ると地球の温暖化は1800年代当初からほぼ一定のペースで続いており、二酸化炭素は1946年から激増している。これは第2次大戦が終了し産業活動が再開された年であり、日本も世界も大量生産、大量消費のエネルギー浪費社会が到来した。確かにいま、地球環境は危機的状況にある。大気汚染、海洋汚染、森林破壊、酸性雨、産業廃棄物、環境ホルモン、マイクロプラスティック、放射能汚染等々。貧困や戦争もある。こうした中で地球温暖化のみがクローズアップされその原因が二酸化炭素だとされている。」

 「そもそも二酸化炭素は植物に必須で、ひいては動物の生存を支える有用物である。一方、放射能が微量でも生命体に危険を及ぼすことは科学の常識である。いま、国や電力会社は、温暖化防止(さらには地球環境保護)のために原発を進めるべしと主張しているが、その目的のためには原発だけはやってはいけない。温暖化防止も二酸化炭素の排出抑制も重要ではあるが、最大の原因は、私たちが作り上げてきたエネルギー浪費社会であることを忘れてはならない。」

 カッコ書きの3段落は小出さんの講演の要約です。確かに日本を含む「先進諸国」はあらゆる活動を通してエネルギーを浪費しています。まずは国内からこの点を見直すべきではないか。それはアイドリングをやめるとか冷房温度を1度上げるという小さな話ではありません。それも大切ですが、あらゆる生産・流通過程および製品の省エネ化を「国策」として強力に推進し、原発関連に垂れ流している莫大な税金の一部をふりむけるだけで事態は大きく改善するはずです。国は、原発の巻き返しにウソの上塗りをやめ正しい道を歩め! 私はこのように思います。

<国策のわけ>

 この項目は国がいつまでも原発にしがみつく理由を3つ挙げており、小出さんの見解そのままです。私なりに要約した部分もありますからオリジナルの情報を確認していただきたいと思います。
 
(理由1)

  原発の推進により大きな利権(政治的権限、社会的影響力、金儲け等々)を得ている勢力が原発をやめようとしないこと。政党、官僚、電力会社、原発産業(日立、三菱重工、東芝など)、ゼネコン、下請け企業、労組、学界、広告会社、マスコミなどです。こうした勢力は立地選定の段階から活動をはじめ、原発の建設、運転時はもちろん、事故後の「除染」、「復興」でも大きな利益を得ています。

(理由2)

  全国57基の原発が立地する17の自治体の存在を無視できない。これは心ならずも原発を受け入れたため、いつの間にか「原発ありきの自治体運営」になってしまった「国策の犠牲者」の問題です。何といっても電源三法に基づく交付金は億単位であり、固定資産税も莫大です。大きな地元雇用が生まれるし、電力会社からのダイレクトな寄付金(地域振興協力金などの名目)もあります。皮肉な話ですが立地自治体はもはや原発がないと困ります。一方で、原発マネーによる「城下町化」は住民間の不信をまねき、関電と高浜町(助役森山栄治)のような癒着も後を絶ちません。

(理由3)

  原発が国策である真の理由は、原発を持っていれば日本はいつでも核武装が可能であり、それが潜在的な核抑止力になると自民党政権が考えてきたためだと小出さんは指摘しています。
 核爆弾の原料はウランとプルトニウムの2種類あります。まずウランですが、核分裂を起こす(使える)ウラン235はウラン鉱石に0.7%しか含まれておらず、残りは核分裂しないウラン238です。両者のわずかな比重の違いを利用して遠心分離を繰り返しウラン235の濃度を高める工程が「濃縮」で、原発には3~5%の低濃縮ウラン、核兵器には約90%の高濃縮が使用されますが、これに大変なエネルギーを必要とします。

 一方、99.3%を占めるウラン238は、原子炉の中で中性子を当てるとプルトニウム(自然界に存在しない核分裂元素)に変わります。使用済み燃料(死の灰)からプルトニウムを取り出す化学工程が「再処理」です。ウラン濃縮より死の灰からプルトニウムを取り出した方がはるかに効率的かつ容易に原爆ができる。原子炉が「プルトニウム製造機」として開発されたのは歴史的事実であり、「製品」たるプルトニウム爆弾は長崎に投下されました。広島はウラン爆弾。アメリカという非道の国は2種類の核爆弾の「社会実験」を77年前に相次いで行いました。

 原爆製造の中心技術は、「濃縮」、「原子炉」、「再処理」の3つです。核兵器保有国であり国連常任理事国である米・露・英・仏・中は、当然これら3技術を持ち、それを独占するために核不拡散条約やIAEA(国際原子力機関)をつくりました。まことに手前勝手な話ではあります。これに抗してインド、パキスタン、イスラエルは原爆を有し、北朝鮮も有していると自称しています。そして核兵器「非保有国」の中でただ日本だけが「中心3技術」を有しています。「濃縮」と「再処理」は東海村のパイロットプラントを運転した後、六ケ所村で本格稼働を進めています。プルトニウム製造機である「原発」の全国展開はご存じのとおり。これらには「兆円」単位の税金が投じられており、採算を度外視して進められてきました。

 すでに1969年、外務省政策企画委員会が作成した「わが国の外交政策大綱」には「核兵器については核拡散防止条約に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘を受けないよう配慮する。」と書かれています。

 また1982年4月の政府国会答弁は以下のとおりです。
「自衛のための必要最小限度を超えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されていない。右の限度に留まるものである限り、核兵器であろうと通常兵器であろうとを問わず、これを保持することは禁ずるところではない。」
 
 2012年6月、福島の原発事故の翌年に、国は原子力基本法の改定を行いました。第2条にこうあります。「原子力利用は平和の目的に限り安全の確保を旨として民主的な運営のもとに自律的にこれを行うものとし、、、(後略)」。
 この次に「2項」として次の条文が新たに付け加えられました。「前項の安全確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びにわが国の安全保障に資することを目的として行うものとする。」
 下線は私がつけましたが、「安全保障に資することを目的として」とわざわざ加えた理由は何か。ここに政府の考え、すなわち「原子力の平和利用」には「平和を守るための利用」が含まれるとの解釈のもと、「原子力を利用して相手に攻撃を思いとどまらせること」すなわち「自衛のための核武装」なら認められるべきだという政権の考えが端的に示されています。

 2013年8月、自民党の石破茂議員はテレビ朝日の報道ステーションで以下の趣旨を述べました。「日本は核を作ろうと思えばいくらでも作れる。それは抑止力となり得る。それを放棄してよいのか。日本のまわりは中国、ロシア、北朝鮮。同盟関係を度外視すれば米国も含め、弾道ミサイル技術をもつ核保有国に取り囲まれている。こうした状況を考え、日本の核の保有について議論を深める必要がある」。一議員の発言ですが政権の意図を正直に(かつソフトに)代弁しています。

 2016年3月、参議院予算委員会で内閣法制局長官は次のとおりです。
「憲法上、あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているという風には考えていない。核兵器は武器の一種である。核兵器に限らずあらゆる武器使用は、国内法、国際法の許す範囲で使用できるものと解している。」

 日本が有するプルトニウムは約46トン、長崎原爆の4000発分であり、日本はすでに「核大国」です。当初はフランス、イギリスに再処理を委託してきましたが、東海村プラントで実績を積んで後継の六ケ所村プラントの本格稼働を目ざしています。
 国産ロケットの技術も着々と進歩しています。日の丸印の核ミサイルは、明日は無理でも明後日あたりには作れるでしょう。


<まとめ>
 
 長くなったので最後に「まとめ」をつけますが「まとまり」ますかどうか。小出さんのご指摘に深くうなずきながら綴ってきました。唯一の被爆国である日本の政権が核兵器禁止条約に参加しないのは、「米国の核の傘に守られている」からだけではなく「自ら核武装したいと願っている」ことに基づいていることが明らかです。それが現実的な安全保障であると歴代の自民党政権は考えているのでしょう。原発が国策であるばかりでなく、核武装(ポテンシャルも含む)もまた国策なのです。

 突飛ながら「死刑論議」を私は連想します。他者に死をもたらすことを究極の悪とみなして行為者に死刑を科する。死刑は他者に死をもたらす刑罰である。私人に許されず、国家に許される「他者に死をもたらす行為」。それは本当に正しいのかという議論です。死刑容認派は(もちろん国も)、死刑に「抑止力」があること、社会において「目には目を」の心情が優勢であることを主張します。これこそ論理矛盾であり、死刑は絶対に容認できないと私は考えるものですが、この件についてはもう少し勉強してから書きたいと思います。

 ともあれ、武力侵攻を防ぐために武力を持つ。核ミサイルを防ぐために核ミサイルを持つ。こうした考えはウクライナ侵攻で説得力を増したかに見えます。原発被害の「語り部」に、日本も核武装すべきではないかと質問した若者があったと先日、報じられていました。
 戦没者追悼式では岸田首相が「積極的平和主義」によって平和を追求していく旨述べたようです。とくに政治の場で行われる議論の視野は狭く、想像する時間の長さがあまりに短いと思わずにいられません。百年後の日本は、アジアは、世界は大丈夫か。本質に迫る議論の不足を感じます。

 ところで、「核」は 「nuclear」 ですから nuclear weapon は「核兵器」。
しかし、nuclear power plant は「核発電所」ではなく「原子力発電所」と訳されます。nuclear development をイランや北朝鮮が行う場合は「核開発」、日本が行うばあいは「原子力開発」と呼ばれてきました。
 日本では「核」は悪いもの、「原子力」は良いものと意図的な使い分けが行われ、長年にわたって私たちは洗脳されてきました(これも小出さんの指摘)。
 無人となった双葉町の看板にこう書かれていたのをご記憶の方も多いでしょう。「原子力 明るい未来の エネルギー」。 
 
 最後にアパッチの格言(鷲田清一「折々のことば」朝日新聞8月5日で知りました)を引いて、原発についてひとまず終了いたします。

 「我々は先祖から土地を受け継ぐのではない。子どもたちから土地を借りるのだ」








 






 

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