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2024/10/29

252)拳と祈り 

 自民単独でも公明党を足しても過半数を割りました。いつも寛容な有権者が、数に恃んで国会をないがしろにする自公政権に対し、もういい加減にせよと言いました。石破氏にも失望か。私も同感です。これで嬉しいとまで言いませんが逆の結果だったら深く失望したはずです。右にウィングを広げた立民が受け皿になったのは確かでしょう。政策を幅広く議論していく上で社民、共産にもう少し伸びて欲しかったところです。ハギウダ氏はゾンビのようです。

 はやくも政治の流動化、不安定化を懸念する声が上がっていますが「悪く安定」するより望みがあります。政治がよくなる外的条件がちょっぴり整ったと考えます。国内は課題山積だし対外関係はきな臭くなる一方で明るい未来を予測しにくいけれど、与野党を問わず当選した議員には今の気持ちを忘れず(忘れっぽいから)、国民のために働いてもらいたいと思います。さあ、いよいよこれからです。

 話は変わって京都シネマで「拳と祈り」が上映されています。10月27日には笠井千晶監督の挨拶もあると知って重い腰を上げました。桐生散策の他は平和堂(はずむ心のお買い物)とアヤハディオ(愛の暮らしのお手伝い)に出かける程度、頑張って図書館、歴史博物館どまりの暮らしで出不精になりましたが、袴田巌さんのドキュメンタリーとなれば話は別です。駆けつけて観た感想を少々。映像の力を感じさせる秀作でした。

 濡れ衣で死刑判決をうけた袴田さんが再審決定により48年ぶりに釈放され、その10年後の2014年9月に無罪が確定したことは既に書きました(221・シャツの味噌漬け250・「公」の犯罪)。この冤罪事件がまだ世に知られていなかった2002年、静岡のテレビ局の報道記者だった笠井監督は、袴田さんが獄中で書いた手紙を読んである種の衝撃を受けました。家族の健康を気遣う書きぶりがあまりに「普通」であったというのです(袴田さんが獄中から家族や支援者に出した手紙は1万通)。

 手紙の実物を見たいと思った笠井監督は受取人である姉・秀子さんの家を訪ね、交流が始まりました。秀子さんの話を聞き、他の手紙を読み、裁判記録その他を調べて無罪を信じた笠井監督はカメラを回し始めました。私の想像ですが、死刑囚の姉である秀子さんにとって記録されることは社会とつながることであり、弟・巌さんの生還にもつながる道だと感じられたのでしょう。かたや笠井監督は秀子さんの人となりに感銘を受けたよし。二人が「人と人」の関りを持ちえたことが映像から分かります。幸せな出会いというのでしょう。

 秀子さんは若くに離婚してからずっと一人暮らしです(映画パンフレットより)。経理の事務員として働きながらこつこつとお金をため、死刑囚の弟に面会・差し入れをするため静岡から東京拘置所に通い続けました。巌さんが洗礼を受けたいと言った時、「そりゃあええなあ」と背中を押したそうです。カメラはこうした様子も捉えます。やがて巌さんに拘禁反応が強まり、秀子さんの面会を拒否することも出てきました(映画の中には取調べ時の尋問(恫喝)の音声も流されます)。

 2014年、ついに再審決定の知らせを受けた秀子さんは、吉報を弟に届けるため支援集会の場から東京に向かいます(決定は本人に伝えられない模様)。これに撮影クルーが同行しましたが誰も予期せぬ「即日釈放」となったため、ワゴン車は48年ぶりに娑婆に出た巌さんと秀子さんを乗せ、東京拘置所からあてどなく出発します。何とか見つけた都内のホテルの一室でベッドに横たわる巌さんの様子。見つめる秀子さんの顔。次の朝、二人で窓から見下ろした東京湾の景色。カメラは「家族の距離」から一部始終を捉えています。

 長く住み込みで働いていた秀子さんは、いつと分からぬ弟の帰還に備え二人で住むマンションを浜松市に確保していました。そこで始まった姉弟の静かな暮らしも描かれています。室内を止まることなく歩き続ける弟。「朝5時から夕方6時まで13時間も歩きっぱなしだよ、ははは。」と明るく笑って見ている姉。味噌汁、煮物、フルーツなどを黙々と平らげ、「饅頭かアンパンが貰いたいです」という弟。笑顔で応じる姉。

 巌さんはやがて外出できるようになり、最初は姉と、慣れてからは一人で町なかを歩きます。秀子さんにお金をもらい帽子を忘れないよう念を押されて出発。「いまはチップの世の中だ」と笠井監督に語る巌さんは100円玉を10枚持っており、植木鉢の中に置いたり道行く親子づれに手渡したり。行きつけの店でドーナツを買って1万円を出し「つりはいらん」と言って店員を慌てさせたりもします。

 事件が起きた「こがね味噌」に勤める前の一時期にプロボクサーであった袴田さんは、拘置所でボクシング評論家の郡司信夫氏の面会をうけ、それが縁となって日本プロボクシング協会関係者にも支援の輪が広がった経緯も明かされています。また奇しくも「袴田事件」の同年同月にアメリカで起きた殺人事件の容疑者として逮捕され、後に無罪が証明されたボクサー「ハリケーン・カーター」と袴田さんが共に相手の存在を知り、互いの釈放を祈っていたことも語られます。

 映画のハイライトの一つは、かつて静岡地裁の裁判官で第1審の死刑判決を書いた熊本典道氏との姉弟の面会です。熊本氏は明らかに無罪だと考えていましたが、その意見は裁判官の合議で否定されました。死刑宣告が熊本氏を苦しめ、その人生を大きく変えることとなりました。彼は袴田さんとの面会を希望し続けましたが叶わず、高齢で重い病をえて病院のベッドに横たわっているところに巌さんと秀子さんの面会を受けます。

 巌さんは一審の熊本さんだと理解しておりその顔を覗き込みました。熊本さん頑張ってね、大事にしてくださいよと秀子さん。目を見開いて声を絞り出す熊本さん。「こんなええ裁判官の人はおらんよ、ほんに」と秀子さんは撮影スタッフに語りかけます。一審判決から半世紀が過ぎての再会でした。

 ネタばれになってしまいましたが以上はごく一部です。挨拶の中で監督は、拘禁反応は確かにあるものの袴田さんは認識も意志もしっかりしており十分に意思疎通ができると指摘しました。彼は、自分は神であると考えていますが、この映画をみると監督の言葉に間違いはありません。半世紀をこえてぎりぎりと締め上げられていたネジが僅かずつほどけていくような巌さんの日々です。

 秀子さんは「精神科には診せんよ。自由が一番やわ。自由が一番。巌は何でも好きなようにすりゃあええ。」と語っています。弟の手を握り締めて離さず、60年の歳月をかけて暗い穴から光のなかに引っ張り上げた秀子さん。彼女は働き、面会し、法廷に立ち、支援者と交わり、世間に訴え、取り戻した弟と暮らし、常に笑顔を絶やさず生きてきました。人というものがこれほど強く素晴らしくなれるものかと感嘆せずにいられません。

 人を救うという点において、救うための方法と救った人の人数はまったく違うけれど、秀子さんはマザーテレサと並べられるのではないかさえ私は思っています。そして袴田巌さんもまた自分自身を救ったという点で稀有の人です。弁護団や支援者のサポートは本当に頭が下がりますが、この姉弟あっての人々の輪であったと思います。その中にカメラを抱えて加わったのが笠井千晶監督です。袴田さんが笠井さんに向き合う際の安心しきった柔和な表情が印象に残りました。

 映画は京都シネマで11月14日までやっています。よろしければお運びくださいますよう。その後は全国を順々に回るようです。




2024/10/19

251)閲覧御礼

 「大津通信」の閲覧回数が47万回を超えました。キリのよい50万回はずっと先ですから、ここでいったん節目のご挨拶を申し上げます。初めは大津市政について、途中から「公に関わること」にテーマを広げ思うところを綴ってきましたが、かくも地味な話題と冗長な文章にお付き合い下さっている皆様には感謝の言葉しかありません。どうもありがとうございます。

 2015年のブログ開始時はメディアや議会に取り上げられ私自身が驚くほど多数の方に読まれましたが、4年の休止を挟んで2019年に再開してから二百~三百人、越市政への論評を終えてからは漸減して今は数十人に落ち着きました。この数十人の方々が「ご常連のお客さま」で、大半は大津市関係者(職員、議員、住民の方々)だと思われます。あとは私の友人たちで時々メールで感想を寄せてくれたり掲載用の写真をくれたり。応援ありがとうございます。

 SNSの弊害が気になるものの、私ごとき個人が発する言葉(畏れ多くも兼好法師に倣えば「つれづれなるままに書きつけたる心にうつりゆくよしなしごと」)が数十人の方に届くわけですからブログは他に代えがたい手段です。今は読者コメントを受け付けておらず一方通行ですが、私の希少な社会との回路です。おいしいラーメン店の話などはいざ知らず、例えば原発について私の考えを数十人にお伝えできることは(その方の評価は別に)有難いことです。

 さきごろ公益通報を行った兵庫県職員が「死をもって抗議する」と言い遺し亡くなられました。痛ましい限りです。私にはとても他人事と思えません。このブログも「公益通報」として始めた経緯があります。すでに書いたとおり私は2012年に大津市長となった越直美氏のもとで副市長を務めましたが、市政運営をめぐって市長と意見が大きく対立し僅か2年で辞めることとなりました。

 市民と職員のために戦って力およばず去るのだと私は考えていましたから、職員仲間を「人質」として市役所に残すような気持ちでした。表向きに「一身上の都合」としたのは、事を荒立て「犯人」を刺激すると「人質」に不利益が及ぶと思ったためです。辞めるついでに真相をぶちまけて欲しいと私に期待する市会議員が複数おられ、穏便に辞めたことに対して後に私は婉曲な抗議を受けることとなりました。

 市長にしてみれば「自分は市民に選ばれ仕事をしている。その市長を支えるのが副市長の使命だ。副市長が自分の考えを押し通そうとするなどもってのほか。代わりはいくらもいる。」との思いだったでしょう。一方、私は「真に市民のためになるよう市長が働くのを支えること」が使命であると考えていました。

 ある組織が大きな問題を抱えている場合、その構成員にはまず当該問題の改善に努力することが求められますが、それが到底無理なら外部通報もアリです(初期消火のように)。役所も同じですが、首長が不正義(不適正)を頑として改めない場合、副知事や副市長は本人に次ぐ責任がありますから「通報者」ではなく「被通報者」の立場にいます。どうしても首長を正せなければ自分が辞めるしかありません。

 さて私は2014年5月に市役所を辞めた後も越市政を注視していましたが、2015年8月に本ブログを始めました。その際「事実によること」と「礼節をたもつこと」を肝に銘じました。この時には5か月で終了しましたが、多数の方々に参画いただき一時的にせよ「市政情報の広場」が出現したと思います。特に最終回(同年12月31日)は多数のコメントを頂きました。

 終了から4年たった2019年10月ブログを再開しましたが、越市政の諸問題が2期目に入って顕在化したこと、その一つである「公文書等にかかる裁判」が進行していたことが動機となっています。越氏が2020年1月の市長選に出馬しなかったのは、さすがに同氏自身もこうした状況をマズいと察知されたからだと想像します(ご本人の説明はこれと違います)。裁判には私も越氏も出廷して証言台に立ち、市の敗訴で終了しました。

 2023年7月、ブログの一部(越市政を論じた開始後4か月分の記事すべて)が閲覧できなくなっていることが判り、すぐ友人の助けを借りて復元するとともにコピー保存を行いました(「読めなくしたのは誰?」)。人為によることは明白ですが犯人は分かりません。この一件で「大津通信」をずっと残すと決めました。ある時期における大津市政の証言たりうると考えています。

 いま「公」について書こうとして自分の力不足を痛感します。このテーマこそ読者コメントを頂きたいけれど、それは人の意見を咀嚼して自分の思考を練る過程を公開する「実演」でもあって、やはり私には簡単ではありません。そこで皆さまのご意見やご助言についてはぜひメールで頂戴したく思います。個人通信なら私も質問したり勉強する余地がありそうです。ご協力をお願いいたします。

 私は唯一最良の話し相手を失いましたから自分の言葉が問い返されることなく内部にたまっていきます。よい息子夫婦と友人がいるものの日常は独白の世界です。こうした状況において書くことは、なんと言いますか、私にささやかな力と秩序を与えてくれます。ブログを続けるよう彼女が言ったのはこれが分かっていたのでしょう。まずは50万回をめざすとします。

 私は速度のある簡潔な(時に辛辣な)文章が好きですが、ブログは今の文体に落ち着いてしまいました。一方で書くことの難しさ、すなわち漢字とカナがあり文末が定型化しやすい日本語で表現することの困難を常に感じています(といって英語で書けないけれど)。長い読者はすべてお見通しですから私は力まずにぼつぼつ綴っていこうと思います。桐生のこと等も書くつもりです。皆さまには今後ともよろしくお願い申し上げます。






2024/10/10

250)「公」の犯罪

 1966年に静岡県の味噌製造会社の専務一家4人を殺害したという強盗殺人罪に問われ、死刑が確定していた袴田巌さんの無罪が決まりました。事件から58年、死刑確定から44年、2度にわたる再審請求を経て本年9月に静岡地裁が再審無罪を言い渡したことに対して、このほど検察が控訴を断念して無罪判決が確定したものです。

 10月8日、畝本直美・検事総長が表明したコメントをあけすけに言うと、「再審無罪の判決は問題だらけで承服できない。だから検察として控訴するのがスジだ。しかし袴田さんは長い間宙ぶらりんの状態を強いられ既に高齢だ。そこを酌量して百歩譲るとしよう。この温情を有難く思え。」となります。58年間にわたり死刑を求め続けてきた検察として「間違っていました、ごめんなさい」とは言えないのでしょう。 

 それでも検事総長は最後に、長い年月がかかったことについて遺憾の意を述べました。続いて10月9日に静岡県警の本部長が、やはり年月がかかったことを謝罪し、一方で証拠捏造については「答える立場にない」と言いました。検察、警察ともに「時間がかかったこと」に関してのみ反省を示しました。ちなみに確定死刑囚の再審無罪はこれで戦後5件目ですべて検察が控訴することなく無罪が確定しています。

 いま一度考えてみましょう。裁判所が三審制を敷いて検察と弁護側の主張や証拠を慎重に検討・考量し、疑わしきは罰せずという原則に従って下す判決は限りなく重いものです。それが簡単にひっくり返っては司法制度が揺らぎます。その確定判決を司法自身が見直そうとするわけですから「再審は余程のこと」です。この究極の念押しである再審において確定死刑囚が無罪とされたことを検察、警察はもちろん裁判所自身も真摯に受け止めなければなりません。

 この事件については前の記事「シャツのみそ漬け」を再度ご覧ください。とんでもない「でっちあげ」です。当時、静岡地裁は裁判官の意見が分かれたものの求刑通り死刑判決を出し、それが最高裁まで引き継がれました。冒頭に記したとおり本年9月の再審判決で静岡地裁は、捜査機関による自白強要(非人道的な取調べ)と証拠捏造(5点の衣類に血痕の付着させ味噌タンクに投入)を明確に認定しました。

 私はこの同時代の事件は冤罪だろうと思っていました。1966年の逮捕以来、袴田さんは私の人生の大半と重なる58年間を死刑台の手前で過ごしてきました。私が読んだ裁判の記録や関係資料はどれも袴田さんの「無実」と捜査機関による証拠の「捏造」を明確に示しています。そして今回の法的決着により冤罪が証明されました。「公」の犯罪が認定されたに等しいことです。

 袴田さんは1981年の第一次再審請求からずっと「再審請求中」でしたが、その中でもオウムの教団幹部の例のように死刑執行はあり得るし、死刑の告知は当日の朝ですから、実際に袴田さんは2014年に釈放されるまでの少なくとも48年間、「今日が最後か」と思いつつ鉄格子のなかで暮らしました。本当にむごい話です。それを強いたのはこの国の司法です。

 「一度冤罪に陥れられたならば出口はないのだろうか」、「死刑囚とは一日二十四時間そのすべての時間にわたって死を意識して暮らすのが普通です」と袴田さんは姉への手紙に書いています。1984年、彼は東京拘置所内でキリスト教の洗礼を受けました。晴れて無罪の身となった今後において「解放後の苦悩」が生じるかもしれません。同時代の人間の一人として私は、袴田さんが心安らかに過ごされるよう思わずにいられません。

 この件で司法は「お咎めなし」でしょうか。繰り返しますが警察と検察は無実の人を意図的に犯人に仕立て上げて死刑を求刑し、その人生を取り返しのつかないほど棄損したのです(しかも真犯人を取り逃がした)。裁判所は袴田さんの悲痛な訴えに耳を貸さず、弁護側の実証実験や専門家の知見を軽視し、1980年の最高裁での死刑確定から起算して44年間にわたり検察寄りの判断を維持しました。しかし各機関の代表者から「時間がかかって悪かったね」という挨拶しかありません。

 法的な救済策として国家賠償請求がありますが、報道によると弁護団は刑事補償請求を行う予定のようです。また国と静岡県に対して損害賠償請求を行う見込みであるとも言われています。それはもちろん大いにやるべきだと思います。しかし最終決着までにはなお時間がかかるだろうし、仮に決着しても袴田さんの58年は戻って来ません。「とりかえしがつかない」とはこういう事を指すのでしょう。

 かと言って何もなしで済ませることは出来ません。制度的な救済策に加え、私は、袴田さんをこの状況に至らしめた警察、検察、裁判所の関係者(直接担当した存命者および各機関の長)に一人ずつ反省文を書かせ袴田さんに提出させるべきだと思います。内容の公表まで求めません。それが本件に関係した組織と人間の最低限の責任の取り方です。第三者が好き勝手なことを言うようですが、それ以外の方法を私は思いつきません。

 私も「公」の一端で仕事をした経験から組織の建前や面子をどうでもよいことと思っておらず、また組織の正義と構成員の正義が必ずしも一致しない現実を知っています。しかし、公の組織の妥当性を担保するのは、法令以外には「個々の構成員」でしかありえないでしょう。まずは司法部門においてこのような冤罪を繰り返さないため、再審の法整備(証拠の全部提示と手続きの明確化)を行うと共に、職員一人ひとりが我が事として自省することが重要であると思います。

 袴田事件では事実関係が争われましたが、記憶に新しい京都アニメーション放火殺人事件では犯行の事実が明らかです。青葉真司被告は自分の行為を認め、本年1月、京都地裁は死刑判決を下しました。36人もの殺害ですから「量刑相場」に照らすと死刑判決は理解できます(私はこれまで述べた通り死刑に反対です)。事件の起きた5年前に私は京都市南部にいて、異常な数の救急車と消防車が南へ走っていくのを不安に感じたことを思い出します。弁護団は被告に責任能力がなかったとして控訴しています。

 国家による究極の暴力行使に「戦争」と「死刑」があります。前者は基本的に国外の集団を、後者は国内の個人を対象としており、その是非を判断する法的な枠組みも異なりますが「国が人を殺す」という点は同じです。そしていま日本は戦争を手繰り寄せつつあるように見え、一方で海外の流血になすすべがありません。また、OECD加盟38か国のうち死刑を行っているのは日本と米国だけです。ショパンを聴きつつこれを書いている安穏な私に重い事柄を論じる資格があるかどうか知りませんが、ともかく国が人を殺してはならないと強く思うのです。

 話は変わって兵庫県知事を失職した斎藤元彦氏についてひと言。私は報道を鵜呑みにできないと身に染みて知っていますが、斎藤氏自身が認めている事実の範囲においても同氏は知事として不適格です(前の大津市長・越直美氏と非常に似通った資質を感じます。越氏がテレビ番組で斎藤氏に関する意見を述べていたのには仰天しました)。斎藤氏のパワハラ・おねだり疑惑も問題ですが、公益通報を行った職員を探し出して懲戒処分を与えたことが最大の過ちであったと思います。同氏の自我の肥大化と保身の欲求が背景にあったのでしょう。

 知事を支えられなかったと泣いて辞職した片山安孝副知事にも問題があります。涙は亡くなった二人の職員のために流されるべきものだと部外者の私は思いますが、「知事の苦境は副知事の責任」というのが片山氏の考え方なのでしょう。確かに知事をめぐって県庁内に生じている混乱について副知事には職員として最大の責任があります。また、うがった見方をすれば副知事は、知事と職員の距離の大きさを自分のパワーに転化していたかも知れません。ともあれ片山氏も公益通報への対応を誤ったようです。

 知事選に出馬すると表明した斎藤氏が、自分には「即戦力」があるとアピールしています。何をか言わんや。




2024/10/03

249)木登り名人のこと等

 天狗岩の上で風に吹かれてお茶を飲み、ひとしきり湖南平野の眺望を楽しんだあと尾根筋ルートで下山するとします。遥か彼方に霞んでいるのは恐らく宇治の山々、右手にはどこまでも続く琵琶湖の水面。つい景色に目が行くけれど足元は痩せ馬の背を踏むがごとく、砂の撒かれた滑り台を立って下りるにも似たり。滑ったり尻もちをついたりしながら急斜面を下ること1時間、山道は突然コンクリート舗装の林道にぶつかります。

 その林道の手前は粘土を切った十段ほどの階段になっており最後の注意ポイントなのですが、ある日ここを下りていてふと徒然草の「高名の木登り」を思い出しました。以来2年ほどそれが習慣となりました。木登り名人が弟子に命じて高枝を切らせた際、目のくらむような高所では黙って見ており、弟子が軒先の高さまで下りて来た時に「あやまちすな、心して降りよ」と声をかけたという例の話です。

 理由を問われた名人いわく、危険な所では本人自身が注意しています、ところが地面近くまで下りてくると油断が生じる、そこで注意を与えます。なるほどと兼好法師は頷き、卑しい身分の者だが聖人の教えにも匹敵すると記しています。やや上から目線ですね。しかし私も兼好さんに同感です。また、鎌倉時代に「木登り」という職業的領域が存在していたことも味な話です。

 さてこの山道が終わって林道に立った時、後ろをふり返って山に一礼したくなることがあります。山と平地の境界が明瞭であることが一因です。競技を終えた運動選手が走路やフィールドに頭を下げるのに似ているかも知れません。いま自分が活動を終えた舞台への感謝の気持ちといいますか。実はこうした仕草は私の趣味ではありませんがココロは分かります。アニミズムの残滓でもありましょう。一神教の社会の人々はこうした感情を持つものでしょうか。

 前回の記事「もう苦しまなくてよい」に対して友人から思わぬ反応がありました。ご家族(長く勇敢な闘病生活を送られた方)を亡くして日の浅いAさんは、イエスの言葉が胸に迫ったとメールをくれました。浄土真宗の僧侶であるBさんは、イエスは病人を治すと同時にその存在を肯定したのだという解釈を語りました。医師であるCさんは、観念のみにとどまる神はヒトに救いを与え得ないなど多くのワードをメモにして送ってくれました。

 3人とも私と同年代で、私を別として思索と経験を重ねてきた人々です。それゆえ彼らは信仰のあるなしに関わらず宗教的思惟に無関係ではありえないのだろうと私は思いました。こう書くと僧侶たる友人は「当たり前やんけ」と憤慨するかもしれませんが、世の中にはそうではないお坊様もいらっしゃるでしょう。いずれにせよコメント欄を閉じてから読者の感想を伺う機会が減ったので嬉しい反応でありました。

 話は変わって自民党議員は石破氏より高市氏が好き(まし)のはずです。決選投票で石破氏が逆転したことについて、靖国参拝を公言する高市氏では中国、韓国との緊張が高まるだろうから自民党議員がその回避に動いたと言われています。しかし私は、これは単に目先の選挙対策にすぎないと思います。穴がたくさん開いたボートより穴の数が少ないボートの方が沈む確率が少ないという判断です(「穴」の数は国民の目を借りて自民議員が数えるとして)。

 しかし石破氏のボートの穴も少なくことが早くも分かって来ました。それでも内閣支持率が46%ですから世の中には鷹揚で度量の広い人々が多いと感じます。裏金も統一教会も水に流すのでしょうか。この国の安全保障は今の路線でいいのでしょうか。能登半島のほったらかしはいいのでしょうか(福島も沖縄もあるけれど)。

 石破氏の噛んで含めるような、自分の言葉を味わうような喋り方が私は好きではありません。しかし岸田氏のように原稿棒読みでない点は大いに評価しています。野田氏との論戦も多少は楽しみです。たとえ弁論が下手でも話が支離滅裂でも結局は担ぎ手の多い神輿が勝つわけではありますが、それでも言論は無力ではありません。石破氏、野田氏、その他の人々に言葉の力を見せて欲しいと願います。