2023/12/05

222)あなたは死刑!

 今回は「死刑」および「裁判員制度」について書きます。いずれも私の日常と接点はありませんが固いしこりのように長く心中に留まっています。この2つの制度は「人、組織、システムが無謬ではあり得ない」という事実と「それがもたらす不公正を是正する努力が不断に続けられるべきである」という社会的要請に反しています。民主主義とも相容れません。世の中に無謬があり得ないと言うからには私の意見が間違いであるかも知れませんが。

 まず死刑です。世界では死刑のない国が大多数ですが、それはいったん横に置いて「国家が人の命を奪うことが本当に正しいかどうか」を吟味する必要があります(裁判員制度も同様に「正しいかどうか」を考えるべき)。国は大量の官製情報を発信する一方で死刑の実態に関しては貝のように口を鎖しています。裁判員制度の運用実態も裁判員に課された守秘義務に阻まれて十分明らかになりません。社会の議論が深まらないのも道理です。

 いま「正しいかどうか」と書いたのは、死刑については、許される、認められる、適切である、やむを得ないといった言葉より強い正当性が求められるべきだと思うからです。死刑も殺人ですから一義的に人命尊重に反します。「真にやむを得ない場合において国家が殺人刑を行うことが認められる」という考えは本当に正しいのか。「必要悪のレベル」から一つ遡って死刑が「正義であるか否か」が問われるべきです。

 これは倫理の問題で「社会的ルールとしての法律」より根源的な問いでしょう。他人はどう考えているのかと本をいくつか読みましたが、死刑が「正しい」か「正しくない」かを明言する著者は見当たりません。どの本もカント(価値の天秤)、ヘーゲル(弁証法)、ハーバーマス(公共圏)、ジョン・ロールズ(正義論)など大御所の思想を紹介していますが「したがって死刑は正しい(正しくない)」と結論づけていません。そもそも死刑は正しさを論じる問題ではないという意見もありました。

 当たり前ですが死刑は刑法に基づいており法律違反ではありません。憲法に照らしてどうか。1948年(昭和23)、最高裁は、憲法13条に規定された国民の生命権は「公共の福祉の枠内で認められる」ものだから死刑は同条に抵触しないと判示しました。同時に「絞首刑は、火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで等と違うのだから残虐とは言えない」ため憲法36条(残虐な刑罰の禁止)にも抵触しないとの見解を示しました(判決文を私流に要約しています)。

 いくら三権分立といえ死刑存置国の司法中枢が正面から「死刑は間違いだ」と言うはずがありません。それでも上記判決の補足意見として「刑罰が残虐かどうかの判断は国民感情によって定まるものであり、国民感情は時代とともに変遷することを免れないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが後の時代には反対に判断されることをありうる」との意見が付されていることは貴重です。裁判官は白熱の議論を交わしたはずです。

 それから75年。わが国の社会の大きな変化を思うと国民感情が変わらないはずがないけれど今も死刑容認が8割を占めます。いったい私達はちゃんと理解しているのでしょうか。「よく見聞きし分かりそして忘れず」という宮沢賢治の言葉が思い出されます。国が死刑を隠す理由は「それが残虐な刑罰であることを国民に分からせたくない」という一点に尽きると考えます(個人が死刑に立ち会うかどうかの問題ではなく制度の公開性について論じています)。

 ところが国の分厚いベールにわずかな隙間がありました。関西大学の永田憲史教授が、国会図書館のGHQ文書(マイクロフィッシュ文書)の中から1948年から1951年までに死刑となった46人(その期間の執行総数の4割弱)の記録を発見し分析したのです。それによると絞首の所要時間は平均で14分、最短の10分55秒から最長の21分まで2倍の幅があります。米国(死刑存置州)は薬剤注射ですが、「苦痛を伴う死」、「長引く執行」、「瞬間的でない死」を合衆国修正憲法で残虐で異常な刑罰として禁じ、所要時間の基準を「2分」に定めています。2分が妥当かどうかは別にして日本の平均14分は実にこの7倍です。

 これは「日本は日本、米国は米国、所変われば品変わる」という類いの問題ではありません。GHQ文書は昔のものですが日本の死刑の方法(25~30ミリのナイロンロープを首に巻いて踏み板をはずす)は基本的に変わらず、今も「平均14分」ほどでしょう。元刑務官の手記には「失敗例」も記録されています。書いていて気が滅入りますが、日本の死刑の所要時間は長すぎると言わざるを得ません。これだけでも残虐であり明らかに憲法違反です。

 死刑廃止の論点は「残虐である」以外に「誤判があり得る」、「抑止効果がない」、「万人に更生の可能性がある」、「生涯をかけ償わせるべきだ」などがあります。死刑存置の立場からは「人を殺したからには自分の命で償うべきだ」、「被害者・遺族の心情を考えると死刑やむなし」、「抑止効果がある」、「凶悪な犯人の再犯を防止できる」、「社会秩序の維持のため死刑が必要だと国民が考えている」などがあります。

 このうち「命をもって償うべし」はカントも言っており死刑肯定の中心的理由です。確かに天秤の左右の皿に命が載れば一応つり合いがとれます。さらに被害者と同じように加害者も「殺される」ことで均衡が完全になると主張する人もあるでしょう。このあたりが議論の分かれ目です。殺人は究極の悪ですが、私は、既に行われてしまった殺人を国家が罰するため「これからもう一つ別の殺人を行う」ことはやはり不正義(悪の上塗り)であると思います。加害者が深く悔いて自発的かつ独力で自らの生を終わらせるという特殊な場合を除いて「命の天秤」が釣り合うことはありません。

 私は、「命は無条件に貴い」という理念に反することを第一の理由として死刑に反対ですが、罪を犯した人を寛大に扱うべきだとは特に思いません。そして死刑を廃止する代わりに「終身刑」を検討するべきだと思います。現行の無期懲役は、20年ほど神妙に服役すると仮釈放される可能性があります(例外的に仮釈放を許さない加重条件付きの無期懲役判決もある)。仮釈放は服役者には一縷の望みであり、また実際に改心する人もいるはずですから「程よい匙かげん」かも知れません。しかし「無期懲役が無期でなくなる可能性」が死刑存置派の背中を押していることは確実です。

 世の中には死刑になりたくて犯罪を犯す人がいます(京王線放火、秋葉原事件、北新地ビル放火など)。一審で死刑判決を受けたあと弁護士が行う控訴を自ら取り下げて死刑を確定させる人もいます(池田小事件、土浦連続殺傷、熊谷市4人殺傷事件など)。このように人生を絶つという点で死刑が救済になる場合があります。これに対して終身刑はいかなる意味でも救済にはなり得ないでしょう。どこの国であったか終身刑の囚人達が「自分たちを死刑にしてくれ、その方がましだ」と集団で訴えたことがあります。

 確かに終身刑もまた残酷です。100才になったらみんな釈放すべしという意見もあります。しかし終身刑は命を奪わないという点で死刑よりずっと「正しさの度合い」が高いと思います。私にとっても家族は何より大切な存在ですから、被害者家族の処罰感情はよくよく理解できます。事と次第によっては私自身が報復しかねないと感じるほどです。それでもなお私たちの社会は死刑という制度を持つべきではない。私はこのように考えます。

 次は裁判員制度について。これは、市民(選挙人名簿から無作為抽出で選ばれた6人)が職業裁判官(裁判長を含む3人)と共に9人の合議体を形成し地裁で行われる重大な刑事事件(殺人・強盗など死刑や懲役刑になり得る事案)を裁くという「一日裁判官」のような制度です。硬直化した法廷に市民感覚を吹き込むと宣伝され2009年にスタートしました。

 しかし司法制度改革審議会は、制度の目的を「国民が統治されているという意識から抜け出し、責任感をもって統治に参画することである」とし、裁判員法1条には「司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上に資する」とあります。裁判員制度は「より適正な刑事裁判を行うため」ではなく「国民の意識を改革するため」に発案、施行されたわけです。ちなみに刑事訴訟法1条は「事案の真相を明らかにしつつ刑罰法令を適正かつ迅速に適用実現すること」と定めています。国は教育目的で素人に旅客機の操縦桿を握らたようなものです。

 市民が裁判員に選ばれたら基本的に断れず、仕事そっちのけで地裁に通うことになります。そのためでしょうが裁判は月曜~金曜の5日間で終了することが多く、3日ほどで判決に至る例も珍しくありません。「早く分かりやすく」を最優先するこの裁判では、裁判員は段ボール箱で数える分量の証拠書類を読むことがありません。検察からは2、3枚のペーパーが渡され、後は主として動画、イラスト、図表、パワーポイント等で起訴事実のプレゼンを受けます。弁護側の説明も同様です。双方から裁判員の感情に訴えるかけるパフォーマンスが展開されますが検察の「作品」の方が出来ばえがよいといいます。資金力の差でしょう。

 早く分かりやすいことは大切ですが、裁判員は出来上がった料理を食べるだけで、自分で素材(原資料)を点検することはありません。この料理を作るために「公判前整理手続き」が行われますが、これに長い日数を要することが大きな問題となっています。中には3年半にわたり54回の協議が行われ、この間に証人が死亡した例もあります。この間に検察と弁護側が主張と証拠検討をくり返すわけですから、それに立ち会う裁判官が公判前に心証を形成する可能性が高く、その場合は予断排除の原則に反することとなります。

 また、裁判員の判断は良くも悪くも「量刑相場」を打破します。1才8月の娘を暴行し死亡させ傷害致死罪に問われた両親について検察は懲役10年を求刑しましたが、裁判員は同15年の判決を出しました(通例は「8がけ」の8年ですが倍ちかい年数)。一方、弟を殺そうとした殺人未遂事件では、弁護側が「懲役5年6月に軽減してほしい」と主張したのに対し、裁判員は同4年6月としました。検察と弁護側の主張の間というのが通例ですが、主張よりも軽い刑を言い渡された弁護人はどんな顔をしたでしょうか。

 従前の裁判では、検察が「無期懲役相当」と考える事案について遺族に配慮しつつ死刑を求刑し、審理の結果、狙いどおり無期判決を得る場合がありました。しかし裁判員裁判ではそのまま「死刑」となりかねません。長く死刑判決を根拠づけてきた「永山基準」の規範性も弱まりました。これは1968年、19歳の犯人が4人を拳銃で殺害した事件(死刑執行)の裁判において、犯罪の性質、動機、方法(執拗さや残虐さ)、重大性(被害者の人数等)、被告の年齢など9項目を総合的に考えて死刑がやむを得ない場合があるとしたものです。「3人の殺害で死刑」という目安は少なくとも1審ではなくなりました。

 私は前回記事にも書いたように司法に問題があると考えていますが、従前の判例がフリーハンドで変えられていくことに反対です。判例は事実認定と法令適用の判断の集積であり、不平等を小さくするためにも尊重されるべきものです。裁判員裁判にコペルニクス的転回を期待してはなりません。

 さて、裁判員に対しては検察、弁護側はもちろん裁判官からも大変に丁寧で分かりやすい説明が行われています。また裁判員の法的無知に対し裁判官が親切かつ友好的に指摘、指導を行っていることが経験者の話からよく分かります。しかし裁判員は目の前の1件について1回だけの判断を求められます。検察と弁護側から巧みに感情を揺さぶられた上の判断です。

 判決はプロ3人、アマ6人、みんな1票の多数決で決まります。プロがアマを容赦なく論破して全員一致に持ち込むことは制度自体の否定であり、実際には起こり得ない話です。したがって裁判員の判断が判決を左右します。裁判員は何に判断の根拠を置くでしょう。それは法である以上に、感覚的、感情的、一時的なものであると思います(私が裁判員になってもそのはずです)。はたして「市民感覚」に頼って人を裁いてよいのでしょうか。裁判員裁判は衆愚裁判になりかねません。

 しかし私が裁判員裁判に反対する大きな理由は別にあって、一つは「市民に死刑判決を行わしめることは認められない」ことです。職業裁判官も市民ですが、その地位、独立性、専門性は法により厳格に定め、守られており、裁判官はその重みによって死刑判決を行います(私は死刑に反対ですが)。一般の市民が「一日裁判官」として死刑に加担することは許されません(判決文作成と言い渡しは職業裁判官が行います)。

 もう一つは、司法は市民の参加により「民主化」すべき場ではないというそもそも論です。司法は「法に基づいて訴訟を裁く機関」であり、国民の代表機関ではありません。民意は裁判に反映するのではなく政治部門で反映されるべきです。立法も行政もそういう建付けになっているのに、国があえて司法の世界に「民意」を持ち込もうとするのはなぜでしょうか。国は、裁判員制度により司法制度改革の帳面を消す一方、最高裁人事部門を頂点とする巨大ピラミッド(司法硬直の元凶)の温存と死刑の存置(統治権の強化・維持)を狙っているのだと私は思います。

 米国の「陪審制」は、職業裁判官とは別に12人全員一致で有罪か無罪かだけを判断するもので州と連邦との拮抗などを背景とする制度です。映画「12人の怒れる男」(ヘンリーフォンダが格好良かった!)は、一人の陪審員が仲間の意見を変えていく過程を描いていますが、全員一致が常に正しいとは限りません。仏、独、伊などの「参審制」には団体の推薦や参審員の任期を定めるものなど色々あります。国情の違いがあるので一概に言うことはできませんが、いずれも「市民参加」という点が問題であると思います。

 死刑を容認することは「人の命は何にも増して尊重されるべきものであるという社会的了解の到達点」を後退させることにつながります。裁判員制度も市民を死刑に参与させるとともに法の厳格な適用を妨げる点に大きな問題があります。私はこれらを無くすことが正義であると考えています。

 コロナの緊張が薄れたのかひどい風邪を引いて1週間ほど家から出られず、よせばいいのに死刑と裁判員の本ばかり読んで一層具合を悪くしました。やっと一昨日から桐生復帰を果たしましたがショートコースで息があがり、帰宅して書く記事もこのとおりダラダラです(すみません)。次回はさわやかなことを書きたいのですが良い話題が見つかりません。

 ところで今年の流行語大賞は「キックバック」に変更するべきでしょう。政治家とカネの相思相愛ぶりが、ゆるぎない政権与党である自民党の各派閥において補強、再生産されていることに今さら驚きようがありません(嘆かわしい!)。今回ばかりは検察(東京地検特捜部)にエールを送りますが安倍氏が首相の時には不可能だったでしょう。着手のタイミングや落とし所まで計算ずみの捜査であるにしてもこの上は手加減無用、全件起訴に持ち込んで死刑以外を求刑してほしいものです。





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