そこで私見ですが、会社や役所で行われている一般的な会議は「組織の課題や目標について参加者が知恵を出し合うこと」が目的であり(伝達だけの会議も多いけれど)、自助グループの会議は「参加者個人の回復」が目的であって、そもそも出発点が違います。両者を「公的な会議」と「私的な会議」に分けてもよいでしょう。スタイルも「きっちり」対「ゆるゆる」です。水と油です。
しかし問題の次元を繰り上げてみるとどうでしょうか。一般の会議はその母体である組織(会社や役所)の維持・発展をより高次の目標としており、ギャンブル症者の会議もまた参加者一人ひとりの回復を支える唯一の場である組織(自助グループ)の維持・発展を目ざしているはずです。ともに組織が衰退・消滅したら会議も参加者もあったものではありません。この点で両者は共通しています。
こう考えると「会議はどれだけ参加者を成長させうるか」という問いが立てられます。何といっても人あっての組織です。この尺度ではかるとどちらが「ほんとうの会議」であるか自明でしょう。帚木蓬生が言いたいのは第一にこれだろうと思います。SNSの隆盛で相手をやりこめる議論に拍手する人が多いけれど、この世はしょせん寄り合い所帯ですから議論や対話は「共なる成熟」を頭の隅に置いて行われるべきだと思うのです。
以上は私の感想ですが、帚木蓬生は精神科医として次のように指摘しています。すなわち、ギャンブラーズ・アノニマスの自助グループ会議は「オープン・ダイアローグ」の一種であるというのです(開かれた対話とでもいうのでしょうか)。彼によるとこれは1980年代にフィンランドの無医地区で始められた精神医療の取組みであり、「SOSが入ったら直ちに看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどが患者・家族の自宅に駆けつけてひたすら話を聞く」というものです。
当時この地域は失業率が高く、精神の不調を訴える人が多いのに専門病院がないことが大きな課題でした。しかし、投薬や入院などは後回しにして「とにかく話を聞くだけ」で大きな効果が現れ、これに行政が着目してシステム化が図られました。患者・家族の話を聞く、時間は決めない、強制はしない、医療スタッフは二人以上が関わり個人として意見を言う、医師が加わる場合も診断を下さず参加者の一人として発言するというルールです。
スタッフの身になるとしんどい気もするし、ある意味で専門性の棚上げなのですが、こうした取組みは1995年以降に「オープン・ダイアローグ」と命名され、いまでは教育や就労の場にも応用されているのだそうです。オープン・ダイアローグは参加者全員の発言(多声性:ポリフォニー)によるミーティングであり、どの発言も平等に扱われる場であって、自助グループの会議もこれだと帚木蓬生は言います。
今ではオープン・ダイアローグは7本の柱に整理され、「今すぐの援助」、「社会とのネットワーク構築」、「柔軟な対応と流動性」、「チーム全体で責任をもつ」、「心の流れを断ち切らない」、「あくまで対話が中心」、「ネガティブ・ケイパビリティの視点」が重要であるとされています。このうち最後の項目に著者は注意を促しています。
カタカナばかり続きますが「ネガティブ・ケイパビリティ」は英国の詩人キーツが初めて用いた概念で「不確実さや神秘さ、疑いの中に、事実や理屈に早急に頼ることなく居続けられる能力」のことであり、20世紀になって精神分析家のW・ビオンがこれに注目し、深化させたことにより医療をこえて一般的に広まったと著者は説明しています。
帚木蓬生は、「何の結論もないけれど何やら心地よい会議に参加している自助グループのメンバー全員がネガティブ・ケイパビリティを発揮している、知らず知らずのうちに答えのない事態に耐える力を高めている」と指摘しています。さらに彼は「評価を行わないこと」の意義や「答えは質問の不幸である」という言葉にふれて論を進めていきますが、ここでは追いきれません。
以上が帚木蓬生著「ほんとうの会議」の要約と読後感です。この本の値打ちの十分の一も書けませんでした、ああ残念。私は仕事の関係で何人もの精神科医と親しくなり内輪話も聞かせてもらいました。そして、メンタルヘルスの領域では「対話こそツール」であると理解していましたが、この本に示された対話はツールの域をはるかに超えています。
前記のW・ビオンは弟子たちに「精神分析の理論、知見は邪魔になる。患者をこう治したいという欲望を捨てるべきだ。答えのない世界で徒手空拳で患者と向き合いなさい。対話を通して見えてくる世界があるはずだ」と指導したそうです。常識的には「治療の初期の段階における患者と治療者の相互理解を深め信頼関係を醸成するための手段」と解されますが、それにとどまらない話です。帚木蓬生は、「人の薬は人である」という言葉も引いています。
私は後学のため、といっても先は短いけれど「ネガティブ・ケイパビリティで生きる」という本を読みました(谷川嘉浩ら哲学者3人の著作・さくら舎)。高度な統治、圧倒的な企業パワー、無法なネット空間が共存している現代社会に人間味のある視点を提示しています。小見出しのいくつかを書くと雰囲気が伝わるでしょうか。「陰謀論」、「SNSの告発」、「一問一答の習慣」、「業界人にならない」、「共感の時代と共感の危険性」、「アルゴリズム民主主義の落とし穴」等々。これも一読に値する本です。
「平安の祈り」について書き忘れました。「神様、私にお与えください。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えていく勇気を。そして二つのものを見わける賢さを」という短い祈りです。ギャンブラーズ・アノニマスは米国発祥でキリスト教の影響を深く受けており、「神と対峙する卑小な私」という認識が治癒プログラムの随所に現れています。それが「自助」の原動力となっていることは私にも想像がつきます。
では日本のギャンブル症者はどうか、無神論者はどうかという話になりますが、「平安の祈り」に示された理知的で謙虚な態度は普遍性を有しています。そこで呼びかけられる「神様」は日本古来の神にも仏にも置き替え可能でしょうし、浄土真宗の他力本願(念仏によってのみ救われる)の思想とも相性がいいでしょう。現に日本でギャンブラーズ・アノニマスが定着していることが何よりの証拠です。
友人I君はカウンセリングの資格をもつ真宗の住職ですから一度意見を聞かなければなりません。T君とNさんはそれぞれ総合内科と児童精神科が専門であったし(たぶん)、先日久しぶりに電話で話したSさんは「越時代」に苦労を共にした戦友でかつ教育の専門家ですから、「ほんとうの会議」についてこれらの人々の意見を聞いてみたいところです。
前回記事を見たRさんから、大谷選手の通訳を思い出したとメールをもらいました。私も水原一平氏のことが頭にありました。彼はサラリーマンの生涯賃金の何十人分かを盗んでつかまりました。今はおそらく本場のギャンブラーズ・アノニマス(GA)に入っているでしょう。しかし罪は消えません。大谷選手のとるべき態度について私は考えます。
まず大谷氏は、安易に水原氏を許してはなりません。できる範囲でよいから一生かけて償いを続けるよう弁護士同席の上で伝えるべきです。水原氏が20数億円を返すには宝くじを買わない限り(それはあきまへん)数百年かかるでしょうから、いま完済を論じてもしかたありません。そして大谷氏は別途、アメリカのギャンブラーズ・アノニマス(GA)に寄付をするのです。10億円ほどがよいでしょう。
~ 今回の出来事で私はギャンブル症が病気であることを学びました。これは決してミスターミズハラの免罪を意味するものではありません。犯罪は犯罪として扱われるべきあり、彼は自らの罪と向かい合わなければなりません。しかし私の国には「罪を憎んで人憎まず」という格言があります。私は彼を憎んでおらず、その病気の回復を願っています。そして同じ病気と闘っておられる多くのアメリカの友人の皆さまにも心からのエールを送ります。私のささやかな気持ちがギャンブラーズ・アノニマスの活動のお役に立つなら、こんな大きな幸いはありません。~(ショウヘイオオタニ)
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