2025/07/01

280)宙ぶらりんに耐える

 たまたま読んだ本「ほんとうの会議」が良かったのでさっそく記事(276277)にしましたが、さらに他の本を読み友人らの話を聞くにつれ、私が感心したネガティブ・ケイパビリティ(negative  capability・消極的能力)の概念は日本でも以前から広く論じられていると分かりました。知らぬは私ばかりです。前回の友人の意見に続き、今回はI君の見解をご紹介して一連の記事を終わります。

 I君は浄土真宗のお寺に生まれ、高校の世界史の先生になりました。そのかたわら大学院で心理学を学び、カウンセリングの知見を教諭の仕事に生かしました。いまはお寺一本となり檀信徒を集めて真宗の勉強会を開いていますが、ネット視聴できるその講義が面白いのです。彼は勉強家で専門家です。その昔、仲間内でのマージャンに負け、罰ゲームとして電車通りを前転(でんぐりがえり)して渡った人ではありますが、今はカソケキ威厳を漂わせています。

 I君の意見の要旨はこうです。 
~  カウンセリングはネガティブ・ケイパビリティ(NC)そのものだといってよいですね。不登校の子ども・親御さんとの対話はもとより、カウンセリングが深まれば深まるほどNCの要素が強まり、両者とも底の見えない池の藻のように絡まっていく感じがします。絡まったままでは共に溺れてしまう。カウンセラーの専門性は「絡まりながら絡まっていることに気づけること」にあると思います。

 このようにカウンセラーとクライエントの間の境界があいまいになる程に治療効果も上がりますが、クライエントの精神状況と問題の深さにカウンセラーの能力が見合っていないと、カウンセラーが精神をやられることがあります。その際の危機管理の手立てもあるけれどそれはさておき、NCは「諸刃の刃」です。ギャンブラーズ・アノニマス等のグループも同じで、ファシリテータの管理能力とカウンセリングや教育分析の経験量が求められるでしょう。

 私(I君)の体験を二つ書きます。カウンセリングのトレーニングとして教育分析を20回ほど受けたことがあり、分析者は私のカウンセリングの師匠でした。ある時、私の一人語りのあとに長い沈黙がきました。私は空っぽの状態で下を向きカウンセラーも黙ったまま。10分も過ぎたころふと顔を上げたらカウンセラーと目が合いました。その時の目や表情、後ろの背景まで今も脳裡にくっきり残っています。ついで「では終わりましょう、、お気をつけて帰って下さい」と言われました。その場を辞し、身体と心の疲れと一種の高揚感を感じながら夜の烏丸通を歩いたことを覚えています。

 この体験は、「絡みつく藻」の感触と少し異なっていて、「中身がいっぱい詰まった空洞」みたいな感じです。そして「藻」や「空洞」が得体の知れない何かをはらんでいる。次に何かが生み出される。それがNCの産物であるかもしれません。そしてこのような事情と言語とはどのように関係するか。この「言語化」をめぐって私の二つ目の体験を述べます。
 
 大学院での面接の際、確かカウンセリング場面での子どもの「語り」について問われた時でした。私は、ある生徒さんとの相談場面を想起しながらこう話しました。その人の中で何かが生まれようとする時って、深い井戸につるべを垂らし、それを引き上げるような感じがします。何が出てくるかわからない。思い出したとか、隠していたことを明かすのでもない。言葉になる以前の何かが二人の前に現れてくる。整った文章はありえず、単語の羅列、同じ言葉の繰り返し、宙を見つめるようで交じり合わない視線・・・。それでいて新たに何かに遭遇したような感覚、・・・と言えばいいでしょうか」~

 ここでI君の意見の引用を終わります。なるほどそうか、さすがにI君。素人目には「石のお地蔵さん」のようなカウンセラーですが、つるべを引き上げてのぞき込むには専門家の助けが大切だし、私たちは「あいまいさを同定する」うえでも他者の存在が必要である気がします。I君はよい教師であったろうと思います。彼はNCの観点から見た浄土真宗についても感想をくれましたが、それはいずれ宗教の記事でふれたいと思います。

 ところで鶴見俊輔もNCに言及しています。関川夏生との対談「日本人は何を捨ててきたのか」(筑摩書房・2011年)において「受け身の知的能力」について語り合っていますが、その一節を引きます。

 ~ ネガティブ・ケイパビリティというのは、パアーッと投げられた時に柔道でいう受け身ですね。自分の思想をグッと押し出すのはポジティブ・ケイパビリティなんだけれども、ここにいる人の影響を受けて、自分を変えていく能力がネガティブ・ケイパビリティです。両方とも大事なんです。このネガティブ・ケイパビリティを尊重することが、日本の文化の重大なものを保つ所以だと思う。連句などもそこから出てくる。イギリスの批評の中に「ポジティブ・ケイパビリティというのはキャラクター」で、「ネガティブ・ケイパビリティはパーソナリティ」だとね。(中略)パーソナリティというのは自分を変えていく能力でしょう。それなんですよ。~

 鶴見俊輔はこのように述べています。連句の話は象徴的です。一座のなかで前の人の句を受けて自分も即興で句を詠む。一回の句は五・七・五または七・七の短さです。興趣を深めるためのルールが幾つも設けられており、それに従いつつ何巡も繰り返して長い「巻」にします。前の人の句を受けるといっても、付きすぎるのは野暮だし、離れすぎては物語にならないし、しかし時に飛躍や転換が好ましいし。友人を招きアヅマや私で素人歌仙を巻いたことを思い出します。(連句については記事199「夢は枯野を」に書きました。同じことを書くところでした)

 ネガティブ・ケイパビリティから多くのことが論じられそうですが、このあたりで終了します。「ほんとうの会議」で、多くの場合まとめは不要であることを教えられ、また「答えは質問の不幸である」という言葉を学んだので、書きっぱなしにします。










 

 
 

 


私には新発見ですからもう1回だけ書きます。


(私が知らなかっただけですが

に学ぶところが多く感激して記事にしましたが、その後あれこれ読むにつけ皆さま先刻ご承知のことばかりだと知りました。これはいつものことで何事もひとさま(他人様)の肩車に乗っかっているわが身であります。今回は友人I君のネガティブケイパビリティについての感想を中心にすえます。

 

 

(ほんとうの会議:

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