今回のテーマは別にありますがここで憲法をめぐって一言だけ。自民党は改憲を党是とするそうですが、憲法が「結果的にせよ」おびただしい人の命によって贖われた最高規範であることは、押しつけ憲法と批判する人々も認めざるをえないはずです。まして国務大臣や国会議員には理念レベルにとどまらぬ明瞭な憲法遵守義務があります。そもそも戦後70数年、私達はいまだに憲法の文言に血肉を添え内実を充填していく途上にあって、改憲論議はその先の話ではないでしょうか。
百歩ゆずって「時代の変化に応じた改憲はあり」としましょう(たやすく改憲できるなら規範の意味はないけれど)。政府与党はそのための地ならしに血道を上げています。特定秘密保護法や集団的自衛権の容認も議論のないまま強行されました。今回の「敵基地攻撃能力保持」も同じで、違憲事実を積み重ねて「憲法は時代にあわない」と主張するのは本末転倒、事実(政治)こそが憲法によって縛られるべきです。国会では「改憲論議」ではなく「憲法論議」を行う必要があります。
こうした問題山積のご時勢にのんきな昔話は気が引けますが、前回の割愛分に区切りをつけておきたく再び江戸期の話をいたします。かの芭蕉とわが先祖に袖すり合うほどの縁があった(らしい)と分かったので私も「元気倍増」なのです。貞享2年(1685)早春、「野ざらし紀行」の途上で京都にあった芭蕉は、堅田の本福寺住職三上千那に請われ初めて大津に足を踏み入れました。小関越えの道すがら、「山路来て なにやらゆかし すみれ草」の句を得ています。
今颪町(長等3丁目)の本福寺支院に草鞋をぬいだ芭蕉は、さっそく「辛崎の 松は花より 朧にて」と詠みました。「湖水の眺望」と題するこの句について芭蕉は、「我はただ花より松の朧にておもしろかりしのみなり」(去来集)と語っていますから、その地点から見たままを描写したはずで、当時は長等から唐崎まで見渡せたのでしょう。「花」はもちろん長等山の桜であったとされています。数百メートル先の山一杯の桜と3キロかなたに緑に霞む銘木。三井寺の桜も唐崎の松も今なお「健在」であるのは代々の人たちの努力のたまものです。大津は知る程に懐の深い町ではあります。
この際にまず芭蕉の門人となったのが三上千那はじめ江左尚白(医師)、青亜(僧侶)で「近江蕉門」の嚆矢となりました。ご存じのとおり「俳諧」は、何人もの人が一堂に会し、五七五の長句と七七の短句を交互に組み合わせて合作する文学形式で「連句」とも呼ばれます。いまの「俳句」は俳諧の第1句(発句)から独立したもので、もとは格が低いとされました。芭蕉が「発句は門人のうちに予に劣らぬ句する人多し。俳諧においては老翁(自分)が骨髄」と述べたように当時は俳諧(連句)が重んじられていました。
連句は「芸術であり、社交の具であり、娯楽を兼ねる点で茶事に似ている」と自らもこれを楽しんだ丸谷才一が指摘しています。句の数は36と芭蕉が定めて「歌仙」と称し、表6句に神祇、釈教、恋、無常を出してはならないが発句は何でもOK、春と秋は3句続ける、同じ語の反復はさける等の規則があります。私達も友人と歌仙の真似事(ルール無視)を何度もやりましたがなかなか面白いのです。人の句と付かず離れず、時に転換あり飛躍あり、終わって眺めると一巻が何となくひとつのまとまりをなしている。合作、即興という遊戯の魅力でしょうか。
それはともかく三百数十年前、スーパースター芭蕉が全国的な俳諧ブームを巻き起こし、大津でもさかんに俳諧興行(歌仙興行、俳席とも言われます)が行われていたところに芭蕉本人が登場したわけです。大津の俳諧好きが色めき立ったことは間違いないでしょうし、芭蕉もまた大津びとの心をぐっと掴んで離しません。
「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」
「四方より 花吹き入れて 鳰の波」
「大津絵の 筆のはじめは 何仏」
「行く春を 近江の人と 惜しみける」
「三井寺の 門たたかばや 今日の月」
「鎖明けて 月さし入れよ 浮御堂」
芭蕉は42才から51才(没年)までの間に6回にわたって大津を訪れ、義仲寺無名庵、幻住庵、門人宅などに滞在してはさかんに俳諧興行を催しています(芭蕉が点者として批評と採点を行う)。座衆は町人、武士、医師、僧侶など多様でしたが身分をこえた楽しい集まりであったろうと想像します。近江の門人は他に榎本其角(膳所藩医)、竹内成秀(米穀商)、河合乙州(荷問屋)、河合智月(尼僧)、内藤丈草(元犬山藩士で粟津草庵に起居)、望月木節(医師)、水田正秀(膳所藩士)らが知られており、元禄7年10月、大阪で病に臥した芭蕉を看病し、没後は水路(淀川を伏見まで)と陸路を使って翌日には義仲寺まで護り届けたのもこれらの人々でした。
「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
さて、残念ながら門人達の中に先祖の名がありませんが、5代目「得能」の義父「窪田松琵」が芭蕉の高弟であった水田正秀に師事して蕉門に入り(孫弟子)、4代目「故葉」、6代目「松笙」とも俳諧興行を重ねていますから、その座衆はすべて、近しく仰ぎ見る芭蕉から大きな影響を受けていたと私は推測しています。これをもって俳聖と私の先祖の間に少なくとも「袖が近づく」程度のご縁があったと思うことにしました。
ちなみに俳諧の記録には長句、短句ばかりでなく、参加者による前書き、献辞、説明なども書かれており、興行の趣旨(客人歓待、観月会、追善供養、出家を祝う等)、参加者の近況(新築、孫の髪置き、病の平癒等)、参加者の間柄といった背景が分かる場合があります。こうした記録にもとづく「近江俳人列伝」(西村燕々編・滋賀県地方史研究家連絡会刊)には、江戸時代に大津を中心に活動した83人の俳人の作品とその人生の一幕が生き生きと紹介されています。
そこに茂呂故葉(永喜)、得能(長次郎)、永政(松笙)の3人が収録されていたため、私も先祖の日常を垣間見たような気がして親しみを感じました。このうち享保3年(1718)5月16日、故葉宅での興行に面白い句があります。
蝸牛 話すうちには 角もなし(庸山)
ぬらりくらりと ゆるき夏帯(故葉)
夕嵐 輪にふきたばこ 燻らして(松琵)
橋をすぐれば 楽な河船(杉候)
~あるじへことぶきて~ 世に響く 蝉の初音や まつの宿(杉候)
~興にじょうじて夜いたくなれば~ 長尻を 呼びに来るかと くいな啼く(松琵)
~亭主の身には夜のみじかきを恨みて~ あかぬ客 千もとにすだけ ほととぎす(故葉)
「蝸牛」の観察を故葉は「ぬらりくらり」で受け「ゆるき夏帯」につなげました。ここから艶っぽい展開もありえますが、故葉の息子と松琵の娘が夫婦である関係か(?)、松琵は、夕べに煙草をふかす平穏な情景に切り替えます(煙草は故葉の家業)。「夕嵐」から湖水へと導かれて「河船」を詠んだのが杉候で、今も昔も瀬田の唐橋を過ぎると水の流れが急に速まります。続く3句はエールの交換。一杯飲みながらやっていたのでしょう(うらやましい)。なにやら先人の体温のようなものを感じつつ好き勝手な素人解釈を述べました。
ちなみに故葉の孫である松笙は、芭蕉絵詞伝の作者である蝶夢(記事140)らと共に三上千那の追善俳諧興行に列し、「ちぢむれば ついこれほどの 日傘かな」の句を奉じています。
芭蕉は江戸に家があり伊賀に墓もありましたが、人生の後半によく足を運んだ近江を愛し、その中でも膳所の義仲寺を永眠の地と定めました。湖水の青、比良比叡の緑、大津宮の記憶、三井や石山の名刹、歌枕の数々など理由はいくつもあったのでしょうが、それに加えて芭蕉を心から敬慕し大切に遇した(物心両面で)多くの門人の存在が大きかったのだと思います。
また、近江蕉門は俳人としてのレベルも高かったようです。芭蕉は晩年に「不易、流行」の思索を重ねて「軽み」の実践を目ざしましたが、宗匠だけでなく連衆の力量に左右されるのが俳諧の特性です。伊賀の門人相手の「軽み」試みが不成功に終わり、近江(膳所)の門人との歌仙において芭蕉は初めてめざす境地に達したとされていますから、芭蕉の「大津愛」は浅からぬものがあったでしょう。
これらの門人は芭蕉に教えられ文芸においても人としても陶冶されたでしょうが、彼らをその基盤で支えていたのは、大津の歴史、文化、経済力など「まちの力」であったと私は考えます。まさに「まちが人を育み、人がまちを育む」です。目片信市長の市政1期目に「ひとの力、まちの力、自然の力」をキーワードとする「まちづくり行動計画」を企画課の仲間とともに作ったことを思い出します。老化現象か近ごろ気持ちがイニシエに向きがちです。昔話はこのあたりにします。
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