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2024/12/26

259)「風土」を読む

 日本の神は、数え切れないほど存在しているという一事をもっても自らの絶対性を放棄しているようで、キリスト教やユダヤ教の唯一神「ヤハウェ」に比べて迫力や厳格性に乏しく感じられます。だから日本の神は有難味がないとは言いません。むしろ私はそこらじゅうにオワシマス神々に親しみを覚えるし、世界的にも複数の神が存在する地域が多いと聞きます。とすればパレスチナにおいては原始的なアニミズムの段階を経て神がただ一人に絞られて行き、遂にガチンコの「契約神」となったのでしょうか。

 「ところ変われば神変わる」とすれば「神が世界を創造した」という教義に抵触しますが一つお許しを頂くとして、自然と文明の間に深い関係があることを認めない人はいないでしょう。そこで和辻哲郎氏の登場です。彼は1935年に著した「風土」において風土と人間の関りを独自の視点で説明した上、それを「モンスーン」、「砂漠」、「牧場」の3類型に分類して鮮やかな風土論を展開しました。別の本でこれを知った私は先日「風土」を買いました。岩波文庫1,100円+税。

 「風土」の文章は格調高く中身は深遠ですが、およそ次のような話です。
<風土の定義>
・風土とは、その土地の気候、気象、地質、地形、景観などの総称で人間を取り巻く環境や自然全般をさす。
・ものごと(客体)は実体的に存在するのではなく、私(主体)との関係の中で生じる。人間にとっての「風土」もそうである。
・また私を取り巻くすべてのものは風土との関りにおいて生まれている。衣食住だけでなく工芸、美術、宗教、風習などあらゆるものの中に「風土」が見いだせる。

<モンスーン型(湿潤ワールド)>
・日本が属するモンスーン(季節風)地帯の特徴は「暑熱」と「湿潤」であり、動植物には好適な環境である(動植物資源は豊富)。
・しかし繰り返し襲う大雨、暴風、洪水、旱魃などの圧倒的な力の前に人間は受容的、忍従的にならざるをえない。

<砂漠型(乾燥ワールド)>
・西アジアを中心とする砂漠地帯の特徴は「乾燥」である。水は与えられるものではなく、自然の脅威と闘いつつ探し求めるものである。
・限られた草地や泉も争いの種となり人間同士の闘いも避けがたい。人と世界は闘争関係にあり、人は自然の中に生でなく死を見る。
・一方で人は団結しなければ生き伸びられず、社会集団への服従と忠誠が不可欠である。ゆえに人は、戦闘的かつ服従的であり、社会的、歴史的な存在でもある。

<牧場型(牧草ワールド)>
・ヨーロッパの緑ゆたかな風土は「牧草」に象徴される。夏は乾季、冬は雨季だが、砂漠やモンスーンよりずっと温和であり、大雨、洪水、暴風が少ない。
・夏の乾燥下では雑草が育たず、農作業の負担はモンスーン地帯より格段に少ない。土地が人間に従順である。
・そこで人は自然をコントロールする術を編み出し自然科学が発達することとなった(それがさらなる自然の馴化を促す)。

 以上が「風土」のごく一部の概要です。「だから日本は八百万の神でパレスチナは一人の神だ」とまで和辻哲郎は言っていませんが、私はそのように受け止めました。神ではないけれど砂漠の絶対的リーダーに預言者モーセがいます。彼はイスラエルの民を導き40年も荒野を旅して約束の地に達しました(出エジプト記)。

 この手の英雄は日本に見当たりません。アマテラス、スサノオ、ヤマトタケル等もタイプが違います。これも風土と結びつけて考えたくなります。仏教は多神的(というか多仏的)ですが、これまたインドモンスーンと無縁ではない気がするのです。もちろん宗教が風土のみにより決定されるものではないことは言うまでもありません。

 この「風土」を読む上で次のように注意を促している人があります。
重要なのは、和辻の風土に関する記述の真偽ではありません。これらはあくまでも、「人間存在の構造的契機」としての風土が、実際にどういう形で人間の形成に関わっているかの例示であり、和辻に学ぶべきはその内容(結果)ではなく、方法論(過程)です。そこを見落とすと、本書の重要性は半減するだけでなく、多くの誤解(悪しき決定論、全体主義の擁護など)を生むことになってしまいます。~

 これはインターネット上の「コテンto名著」というサイトの「管理人」氏の言葉です。私には「風土」が難解で、他の人の解釈を知りたくなり本サイトに行き当たりました。「ねながら学べる古典と名著のエッセンス」という副題にひかれて中を見たら何と豪華なラインナップ。古くはソクラテスからデカルトからカントまで、ダーウィンにマルクスにニーチェ、さてはフロム、サルトル、カミュ、フーコー、日本では西田幾多郎、鈴木大拙から柄谷行人まで。その他多数。

 お名前だけは私も存じております、というような人々の著作や思想が目白押しで「簡単バージョン」までついています。この管理人氏が大変な碩学であることは疑いありませんが、有難いことにその知識を広く共有しよう(先人の知を公共財として活用しよう)との考えをお持ちのようです。サイト末尾には、書かれた内容が原典からの抜き書きや抄訳ではなく管理人氏の解釈に基づいていることと、校正なしで投稿しているため誤りもあるとの断り書きがあります。私はさっそく「お気に入り」に登録させて頂きました。

 サイトからの引用は常識的な範囲で認める旨が記されていますが、念のため管理人氏にメールで了解をお願いしてこの記事を書きました。「コテンto名著」には「ビジネス」や「人生問題」という付録があり、コスパ・タイパ、親ガチャ、自己責任、オバケなど面白い話題が自在に語られています。

 ところでロジャー・パルバースが四方田犬彦との対談(「こんにちは、ユダヤ人です」河出ブックス)の中で、「日本には風土という言葉があるがユダヤ人には『風』しかない。『土』がないのだ。ユダヤ人は『風』にのって生きている民族だ」という趣旨の発言をしています。なるほどそうでしょう。でも乾ききった砂漠からさえ追い払われた民族が世界の歴史の中で特別の存在感を放っています(たとえばノーベル受賞者、優れた思想家や芸術家、成功した実業家などの「出現率」の圧倒的な高さ。あるいは周囲の非ユダヤ人の間に呼び起こす賛嘆と軽侮の混ざった複雑な感情)。それはなぜか。こんな事も考えていきたいと思っています。

 引用ばかりの記事となりました。今年の最終投稿です。ご覧いただきありがとうございました。留保なしに「よいお年を」と言いたいものですが、皆さまにはせめてお風邪など召されませぬよう。来年も細々と書いていきます。






 

2024/12/14

258)「光州詩片」

 韓国の戒厳令でざわついた気持ちがなかなか収まりません。同様の事態が日本で起きたら、私は向けられた銃口を払いのけ抗議ができるか、仲間の議員に呼びかけて国会に駆けつけられるか、身体をはってそれらの議員を守れるか、毎日街頭に出て大統領罷免を訴え続けられるか。私には到底その自信がないし、そんな自分に忸怩たる思いもあります。日本の人はなぜ自国の政府にもっと怒らないのかと金時鐘さんがよく口にされる言葉が思い浮かびます。

 ことの真相はまだ十分に明らかではなく、一部に尹大統領を支援する動きがあるものの、権力の突然の暴走に市民が決然と「待った」をかけた事に違いありません。韓国の近代史は抗日独立運動、済州島四・三事件、朝鮮戦争、民主化闘争など多くの流血で贖われて来ましたが、それらの記憶の堆積が世代を超え共有されてきたことの証しでもあろうと思います。もう一つはノーベル賞作家ハン・ガン氏が指摘するとおりネットによる情報の同時拡散でしょう。

 今回の事態で金時鐘の詩集「光州詩片」を思いました。「私は忘れない。世界が忘れても、この私から忘れさせない。」という強い言葉が冒頭に記されたこの詩集は、クーデターにより軍を掌握した全斗煥が1980年5月、韓国全土に戒厳令を敷き、それに抗議する市民(最大20万人に達した)を銃で抑え込もうとした「光州事件」を動機として編まれました。あとがき(福武書店版)の中で詩人は次のように書いています。

 ~ 圧政に抗して、都市ごと圧しひしがれたおびただしい死者たち。生涯不具をかこつであろう何千人もの負傷者や、あの血の海で生き残った人たちのうちの、一万とも二万とも伝えられる、牢獄につながれた人々の陰にこもった呻き声。思うほどにことばは口ごもってゆくが、それでも私のことばは、日本という安穏な地帯でことばそのものにこと欠きはしないのだ。有って無い私のことばに、私は私に課して服喪した。圧殺された「自由光州」は、ほそぼそとでも吐きつづけねばならない。在日する私のせめてもの呪文であった。~

 そのとき全斗煥は、手兵の特戦空挺部隊に民衆への発砲、無差別攻撃(悪名高い朴正熙大統領さえ行わなかったこと)を命じ、国会を閉鎖、金大中氏を始めとする野党指導者ら多数を逮捕・拘束しました。「北朝鮮と内通して国家秩序の破壊を企図した」容疑です。尹大統領による戒厳令は「芽」のうちに摘み取られましたが、44年の歳月をはさんで出された二つの戒厳令とそこに垣間見える権力者の願望はよく似ています。金大中氏は内乱罪で死刑判決を受け、24年後に無罪が確定しました。

 金大中氏は1998年から2003年まで大統領として国内の民主化に尽くし、北朝鮮に対しては太陽政策を進めました(分断後初の南北首脳会談も実施)。同氏が任期中に日本を訪れた際、私的な食事会に金時鐘さんを招いたことがあります。そこで大統領は、「軟禁生活の中で『光州詩片』を繰り返し読んだ」と詩人に伝えました。詩人は、「光州事件の際、韓国に渡航できない自分として居ても立ってもいられない気持ちに駆られた」と応じました(ちなみに金大中氏はキリスト者としても知られています)。

 大統領の帰国後ほどなく、金時鐘さんは韓国への渡航が可能になったことを知りました(これは金時鐘さんから直接聞いた話で今は差し支えないと思い書きます)。普通の市民にできることが長い間、在日の詩人に望むべくもありませんでした。かくして金さんはやっと済州島への墓参を果たします。お墓は親戚により守られていました。その後、堰を切ったように夫妻で済州島を訪問することとなり、私たちも何度かご一緒しました(このあたりは記事164・個人的なこと3にも書きました)。

 折も折、この11月末から12月初めにかけて金さん夫妻は済州島を訪れていました。金さんと祖国との関わりは決して平板でなかったことから、仮に戒厳令が「成就」していたら、夫妻が日本に戻ってくるのに支障が生じたかも知れません。「何だかすれすれでしたね」と電話したら詩人は笑っていましたけれど。

 自民党は「緊急事態条項」に執着しています。しかし、テロやパンデミックや大規模災害などの対策を憲法改正により行うことは常識的に考え不必要・不適切であるとしか言えません。ゆえに彼らの真意が「政権の望むとおりに市民を統制すること」であるのは間違いないだろうし、それが「大所高所から見て市民の利益にかなう」と彼らが信じているであろうことも想像されます。いや、そうじゃないよと市民の一人である私はつぶやいています。

 最後に「光州詩片」の中の一編の詩を引きます。まことに勝手ながらフレーズの抜粋です。


 冥福を祈るな

 非業の死がおおわれてだけあるのなら
 大地はもはや祖国ではない。
 茂みに迷彩服をひそませ
 蛇の眼をぎろつかせているのもまた
 大地だからだ。
  抉られた喉は
  その土くれのなかでひしゃがっている。

 日が過ぎても花だけがあるのなら
 悼みはもはや花でしかない。
 暗がりに目を据えて
 風景ともない季節を見ているのも
 まだ尽きない母の思いだからだ。
  季節の変わり目のその底で
  蛆にたかられているのは割かれた腹の嬰児の頭蓋だ。

 平穏さだけが秩序であるのなら
 秩序はもはや萎縮でしかない。
 地ひびく無限軌道に目をそらし
 見るともない町並に影を延ばしているのも
 また変わらない日暮れのなかのしずけさだからだ。
  下りるとばりのその奥で
  地を這っているのは押し込まれた呻きだ。

 (中略)

 奈落へ墜ちていった自由なら
 深みは深みのままで悪寒をつのらせているがいい。
 選んだ方途が維新のための暴圧であるなら
 歴史は奈落へ棄ておいた方がいい。
 片輪の祖国に鉄壁を張る
 至上の国権が安保であるなら
 萎える国土の砲塔の上で
 将星は永劫輝いているがいい。

 それでこそふさわしいのだ。
 浮かばれぬ死は
 ただようてこそおびえとなる。
 落ちくぼんだ眼窩に巣食った恨み
 冤鬼となって国をあふれよ。
 記憶される記憶があるかぎり
 ああ記憶があるかぎり
 くつがえしようのない反証は深い記憶のなかのもの。
 閉じる眼のない死者の死だ。
 葬るな人よ、
 冥福を祈るな。






 

 

 

 



いるように思われます。その象徴はやはり光州事件

2024/12/03

257)ビワマスの通い路

 ~ 河川保護活動のなかでも「小さな自然再生」ゆうジャンルがあるねん。これは自由研究でいうと理科よりむしろ社会みたいなもんで、「たったそれだけの事してなんぼの効果がある?」と科学的な意義を問われたらそれまでのことを、わざわざやってる感じ。

 典型的な実例が野洲市の家棟川で、仮設の魚道を設置して野洲の町中までビワマスを上らせる活動を続けてきはってん。9年間。今年は野洲駅までビワマスが上りよってん。こんな産卵不向きの川に上らせるだけ気の毒やないかと思う反面、「あ、ビワマスおった」と橋の上で子供らが興奮してるのを見ると、やっぱりそれでも上ってくれなあかんなあという気持ちになるわ


 家棟川プロジェクトの事務局長でコーディネーターみたいな役割もやってる佐藤祐一さん(滋賀県琵琶湖環境科学研究センター)は、吉野川可動堰建設のとき、推進派・反対派のコンフリクト要因(「争いのネタ」やな)を数理学的に評価して論文書いた人。いまは県が進める琵琶湖版SDGsのMLGs(Mother Lake Goals)の案内人代表やってて、水質保全から生態系保全、プラスチックゴミ削減まで頑張ってはるねん。

 佐藤さんは、県民の心が琵琶湖や川におのずと向けられていく行動ちゅうことで小さな自然再生活動の広がりに期待をかけてはるようや。「琵琶湖の環境を守るために多様な主体とどのように協働していけばよいか」をいつも考えてる。「多様なステークスホルダーの協働」を大事にしてはるのがよう分かる(越直美のあかんかったとこ)。こういうことの値打ちは俺より茂呂のほうが理解できると思うわ。

 県立大学には瀧健太郎いう教授がいて、この人が「多自然川づくり」を、川石はこう並べますいうキホンから指導してはる。全国からお呼びがかかって飛び歩くほどの忙しさらしいわ。長浜の町の中に川が流れとるやろ。長浜市の職員さんに、胴長履いて川の中を歩いて通勤するよう提案しはったこともあった。歩いて川底を引っ掻き回したらアユが産卵しやすくなるとかちゃんと効果があるらしい。この前は長浜市の何とか課の人が、市街地の川にビワマスのぼらせたいいうことで愛知川の実地学習に来てはったわ。~

  以上は高校以来の友人のメールですが明治の文豪もびっくりの言文一致体です。彼から「メール丸出しかまへんで」と承諾を得ました。また個人のお名前については、活動を公開しておられる方々なのでそのまま載せました。友人は愛知川上流の魚道整備に熱心に関わっており(力仕事より撮影、記録、盛り上げに能力を発揮している模様)、先日会った際に現場の様子を語ってくれました。上記の引用は彼が帰宅後にくれた補足メールの一部です。

 「河川保護はやっぱり『公』やで。定義むつかしいけどな。ようけ話きいて落としどころ探らんならん」と彼は言います。確かに河川、さらに環境全般に関しては、民と官、住民と来訪者、当事者と部外者、非専門家と専門家、生産者と消費者、保全派と開発派、田園主義と都会主義など様々な立場がある上に各セクターの内部も一様ではありません。丁寧な利害調整なしに活動を継続できないし、ことは百年先に及びます。河川保護は「公」。私も友人の意見に同感です。

 ところで魚道整備の意義は分かるけれど目的は一体何でしょうか。ビワマスやアユの遡上を助けて産卵数・個体数を増やす「動物愛護」なのか、あちこちの川を魚が泳ぐ「自然ゆたかな町づくり」なのか、高齢化に悩む漁師さんの顔がほころぶ「漁獲量の増加」なのか、素人にも何やら有難く感じられる「生物多様性の保全」なのか、、、。そもそもビワマスはシンボルでしょうかツールでしょうか。

 前回記事で地球4大事件を取り上げました。これらの「達成」が人類による環境と資源の「ぼったくりの成果」でもあったことを改めて言うまでもありません。産業革命を経て時代が進むにつれ「環境の天秤」は傾きを増すばかり。土、水、大気が汚され生物種も減って「もはやアウト状態」かも知れません。我々は船底をかじるネズミの群れのようであったと反省しても、国民国家という群れ同士の競合も働いて反省が行動に結実しません。

 こうした中、2015年、国連において持続可能な世界の開発目標「SDGs(Sustainable Development Goals)」が採択されました。「自分がつけた傷の出血に驚いて今ごろ包帯を巻く愚かな地球人よ」と火星人は言うでしょう。しかし私たちに大切な一歩です。これを琵琶湖に引き寄せて滋賀県民が取り組んでみようではないか、という呼びかけが「MLGs(Mother Lake Goals)」であり、その活動の中心に佐藤祐一氏がおられることを友人のメールで知りました。一県民として嬉しく思います。

 この「MLGs」は、水、水辺、湖底、魚、生物、森、流域、生業、つながり等をキーワードとする13の目標(合言葉といってもよいでしょう)を掲げています。私も銘記しなければなりません。まだご存じない向きはぜひ一度お確かめください。これは滋賀県が勝手に決めたお題目ではなく、1970年代の「石けん運動」を源流とする民、官の実践と協議を受け継いだ目標であると私は考えます。それと同時に「視点の提示」、「手法の提案」でもあります。

 私もかつて市の総合計画や部門別計画づくりに携わりました。熱中して取り組む一方で「どこまで現実を変えられるか」、「行政の自己満足ではないか」という疑問もありました。時を経て今は「その疑問にも一理ある。自省は常に必要だ。しかし理念や目標を文字にして掲示することの意味を軽視すべきではない」と思います。もちろん理念や目標の策定過程と中身が社会的妥当性を有していることと、それらが強制や統合の根拠とされないことが前提ですけれど。

 琵琶湖は滋賀県民のオアシス、近畿の水がめですから実に多数の利害関係者が存在し、行動目標の共通認識は重要です。「MLGs」の意義はまずこの点にあります。見わたせばこの世は「手段」と「目標」の連鎖です。手段は目的に奉仕し、目的はより高次の目的の手段となります。「魚道整備が手段、ビワマス遡上が目的」を第1フェーズとすると、次に「ビワマス遡上が手段、産卵が目的」、「産卵が手段、ビワマス増加が目的」、「増加は手段、生態系の回復が目的」と続きます。

 「MLGs」も手段なら本家の「SDGs」も手段です。遥か先に霞んで見える連鎖の終点は、やはり「人類の生存」でしょうか。しかし、何十億年だか前に現れたランソウ類が酸素を吐き出してくれたお蔭で地球が「命の星」になったことを引き合いに出すまでもなく、ホモ・サピエンスの一人勝ちはありません。あらゆる種の共存共栄が必須であって、言い方を変えれば動物愛護も環境保護も「我が身のため」です。

 ところで私は、「手段と目標を等価に見ること」と「百年先を見ること」が「公の作法」であると思っています。しかし残念なことに自治体の首長の一部による「作法やぶり」が後を絶ちません(新自由主義的ポピュリズム首長らに顕著)。「我々は先祖から土地を受け継ぐのではない。子どもたちから土地を借りるのだ」というアパッチ族の格言を彼らに贈らなければなりません。

 さて、家棟川には滋賀県によってコンクリート製の立派な魚道が整備されました。さすが三日月知事、やらはるなあ。これはもちろん佐藤祐一氏ほか多くの方々のご尽力の賜物でもありましょう。MLGsの風に乗りこうした動きが広まることを願います。友人は愛知川で頑張っています。私は桐生の川のゴミ拾いを(目についた範囲で時々)するとします。記事のタイトルを「こいの通い路」としたかったけれど、鯉は、岸辺で産卵するため魚道整備よりヨシ保全に期待を寄せているはず。「鯉の滝のぼり」は幻でしょうか。

 


2024/11/22

256)地球4大事件

 もし火星人が根気よく地球の観察日記をつけていたら人類史上の大事件として少なくとも次の4つを特記していることでしょう。以下、記載順に ① イエスと聖書の出現、② 核エネルギーの発見、③ 宇宙船の製作、④ コンピュータネットワークの創出です。何といっても火星人ですから善悪を超越して物事の大きさ(絶対値)だけを見ています。

 ① は長くなるので後に回して、② は、これ以上分割できない最小物質であると長く信じられて来た原子核を分裂させて桁外れの威力をもつ爆弾を製造し、それを同族の大量殺戮に適用したことと併せ、プルトニウムに代表される副産物の猛毒元素を貯めこんで人類滅亡のリスクをぐんと高めた点で大事件にランクインです。

 ③ の宇宙船は、いうまでもなく地球人が生息圏の外に出て活動する第一歩となる画期的な出来事です(その先に何歩まで進めるかは別にして)。「これで我らも真の宇宙人になった」と地球人が言い出したら多少は認めてやらざるを得ない、と火星人は思っているでしょう。

 ④ の「人工知能とその世界的ネットワークの創出」は、人類史の段階を一つ押し上げました。人類の知的進歩は文字の発明や印刷技術の開発によって加速したけれどAIの時代になって光速の進みようです。知のネットワークは空間的(ヨコ)に広がり、過去から未来へと時間的(タテ)にも広がっています。過去の一人の知識が人類の共有財産としてプールされ、それを利用した人が新しく獲得した知見をプールに戻す。この連鎖により知のネットワークは無限の拡大を続けています。

 ところで百年ほども昔、「ヌースフィア(精神圏)」という概念を提示して早々と地球規模の知的ネットワークの到来を予言した人物がいます。その名はテイヤール・ド・シャルダン(1881~1955)。カトリック司祭、宗教思想家、古生物学者、地質学者という難しい4足のわらじをはいた彼は北京原人の発掘調査で名をはせ、一方でアダムとイブの物語を否定してローマ教皇庁から異端者の烙印を押されました(生前は著書も出版禁止)。

 ~ ヒトの脳の容積は、アウストラピテクスの500cc、ホモエレクトスの900cc、ホモサピエンスの1300ccと200万年の間に飛躍的に増えて精神活動が質的転換(意識の爆発)をとげ、個体の進化だけでなく社会の進化が始まった。そして現代社会は全地球的に広がった相互依存的な知的活動のネットワークに包まれて存在し、その中で個人個人も生きている。~
 これが「精神圏」ですが、その先にシャルダンが見ていたものは、避けがたい地球の死と宇宙の終わりであって、そこで彼は神の存在を語っています(シャルダンについては立花隆著「サピエンスの未来」・講談社現代新書を参考にしました)。

 ここで① の「キリスト教」に戻ります。「仏陀と仏教」は人類の資産の一つに数えられる存在ですが、先に述べたとおりインパクト重視の火星人は「イエスと聖書」に軍配をあげるはずです。インドの王家に生まれた仏陀は45年間にわたり教化活動を行い80才で大往生しました。ユダヤの大工(石工とも)の子として生まれたイエスは、1年から3年ほど活動したのち30才余りで磔刑に処せられました。まことに対照的な人生です。

 仏陀は2500年前、イエスは2000年前に生き、歩き、話していた生身の人間(ホモ・サピエンスの一員)です。前者はインド人、後者はユダヤ人、いずれも傑出していたにせよ生前において仏でも神でもない只の人間でした。あれこれ本を読み、私は今頃になって「やっぱりそうだったか」と納得しています。とにかく古い話ですからその道の専門家らが現存する記録を残らず照合・分析し、論争も重ねて「これは間違いない」と大多数が一致したところが史実とされるようです。

 イエスについては、紀元1世紀のローマの歴史家タキトゥスが著した「年代記」に「ユダヤ総督ポンペオ・ピラトにより処刑されたキリスト」という記述があり、またユダヤの歴史家ヨセフスの「古代史」に「キリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブ」への言及があり、さらにユダヤ経典「バビロニア・タルムード」に「イエスは過越の祭りの時に十字架にかけられた」と記されていて、これらが古くて客観的な記録とされています。

 また紀元1~2世紀にギリシア語で書かれた「新約聖書」は、イエスの弟子たち(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、パウロなど)が、イエスにより成就した神と人間との出会いについて語った文書(福音書、使徒言行録、手紙など27巻)であり、主にイエスの言動を描いています。為にする書物だから話半分だろうと考える人がいるかも知れませんが、これもイエス実在の「証拠」です。実際に聖書を読んでみると、対象となる人物(イエス)が確かに存在していなければとても表し得ない具体性と迫真性を備えていることが分かります。

 研究者は、イエスの言葉が古代パレスチナの風土と生活に深く根ざしていることを指摘します。例えば岩だらけの土地、肥沃な土地、ぶどう園、ワイン搾り機、塔、石のフェンス、オリーブの木、雀、羊、羊飼い、魚、漁師、荒れ狂う海等々。さらには網、ボート、剣、房飾りの衣服、外套、ベッド、わらぶき屋根などの事物。これらの事物のほとんどが発掘調査により確認されていることをジェイムス・チャールズワース(プリンストン神学校聖書学教授)が著書「史的イエス」に書いています。 

 ちなみに「旧約聖書」はイエスが出現する前、すなわちキリスト教が成立するよりずっと前に、神がモーセを通してイスラエル民族と交わした契約(キリスト教徒から見ると「旧約」)に基づいて著されたユダヤ教の唯一の聖書です。イエスをキリスト(メシア)と認めていないユダヤ教徒にとっては「旧約聖書」のみが「聖書」です。一方、キリスト教は「旧約」と「新約」の2つを合わせて「聖書」としています。両宗教とも神は「ヤハウェ」です(この唯一神については改めて考えたいと思います)。

 さて世の中には、「イエスが存在したことは間違いないとしても、彼が死者を蘇らせたとか、自身が処刑三日目に復活したという話まではとても信じられない」という人が多いかも知れません。現代の科学的知性からは認めがたいというわけです。一方でクリスチャンの科学者も少なくないし、無神論者の科学者が科学を追求した果てにキリスト教に「転向」した例も複数あります。イエスの磔刑と復活のテーマはキリスト教の根本に関わってとても重要です。

 ところが火星人はこれを重要視しません。彼らは単に「イエスと聖書」が2000年にわたって人類にきわめて大きな影響(隕石衝突級のショック)を与え続け、いまも地球人の3割がキリスト教徒であるという事実を見ています。異星人の眼は、キリスト教の諸相、すなわち磔刑と復活、使徒の布教、殉教者の数々、異端審問、十字軍、宗教戦争、魔女狩り、隠れキリシタン、自己犠牲、聖人列伝、公会議、宗教芸術、民衆の祈り、隣愛・愛神の心などの一切合切をひっくるめて概観しています。私の見方も火星人寄りです。

 今回もつたない宗教談義となりました。前回の「宗教について」の続編です。付け焼刃の知識、粗雑な書き方はご覧のとおりで、信仰を持たれる方のご気分を害したならお許し下さい。でも私はキリスト教に少し惹かれています(この点が火星人と違います)。

 何かの拍子でこの記事を読んだ人が「やっぱ火星人いたんやなー」とつぶやいたら、「知らなかった? 火星人ジョーシキ」、「北朝鮮にロケット技術を教えてるらしい」、「火星語の翻訳は簡単。AI連結で15分もかからん」、「トランプがUFO情報を解禁したら火星人の顔も分かるぞ」、「彼らはマジ3頭身ですw」などと書き込む人たちが現れそうです。やがて「マース教」が生まれるかも知れません。





2024/11/18

番外)スマホ民主主義の時代

 きのう更新したばかりですが兵庫県知事選の結果をうけて少し書きます。斎藤元彦氏のパワハラ体質は同氏による「公益通報つぶし」や、県職員9700人を対象とした百条委員会の調査結果から明白であり、更に一連の同氏の発言を聞くにつけても知事にふさわしい人物ではないと私は思っていました。稲村氏を応援した22人の市長(県内29市のうち)も同じ考えだったようです。しかし兵庫の有権者の意見は違いました。

 斎藤氏を当選させたのは本人も認める通りSNSの民意でしょう。400人のSNSスタッフを駆使した斎藤陣営の作戦勝ちです。ネット上では「パワハラ疑惑はでっち上げだった」、「既得権益を守ろうとする議員や県幹部の陰謀があった」、「稲村氏は外国人参政権を認める立場だ」などの意見が飛び交いました。これに力を得たのか斎藤氏も「メディアの報道は正しかったのか?」と言い出しました。

 また対立候補であるはずの立花孝志氏が「斎藤さん、疑ってごめんなさい」と謝り、「私でなく斎藤さんに投票してください」と演説しました。これでは団体戦です。こうした動きがツボにはまったのでしょう、投票日直前の斎藤氏の誕生日(そんなもん知らんけど)には「生誕祭」と称して県外からも多数の聴衆が応援に集まりました。付近が通行止めになる人だかりでした。異例づくめの選挙戦ですが先ごろ石丸氏という前例がありました。

 SNSの言論は「どっちつかずの曖昧さ」に耐えられず、白か黒か、右か左か、愛国か売国かの二分法で議論が進みがちであるし、バランスが傾くと一気に雪崩をうちます。斎藤、石丸のように波に乗ればアイドル誕生となります。しかし現実の世界は割り切れないことで満ちていますから、ここに乖離が生じるのは当然です。だから私はSNSを全面的には信用できません。

 SNSを主たる情報源としている人(やはり若い世代が多いでしょう)から見ると「年寄りが何を言うてんねん」となるでしょう。でも乗り合わせる船は一つ。スマホをいかに使いこなすか、ワタクシの情報の受信と発信のセンスをいかに磨くか、候補者の主張をいかに解釈して投票するか、地方と国の議会と政府をいかに注視していくか等が私たちに問われています。一定の法整備(公職選挙法など)も必要でしょう。もはや「スマホ民主主義」の時代です。

 斎藤氏は波風が立たないよう今度はもっとうまくやるでしょう(資質は変わらないどころか昂進するでしょうが)。SNS推進課を新設したり、SNSによる人気投票で政策の順番を決めたりするかも知れません。兵庫県民にはまったく余計なお世話ですが、斎藤氏がパフォーマンスに走らず長い射程で判断されるよう、県職員の方々があわてて希望退職されないよう熟慮をお祈り申し上げるものです。
 
 

2024/11/17

255)宗教について

 人生の岐路はその時それと分かることもあり、後に「あれが別れ道だった」と思うこともあります。私事ですが、父が病没し残された家族が名古屋から家屋敷のある草津に移った際は、当時5歳の私も運命の変転を感じたものです(汲み取り便所の「奈落の恐怖」も忘れられません)。一方、それから十数年が過ぎ高校の同級生として妻となる人に出会えたのは草津転居の帰結ですから、まさに禍福はあざなえる縄のごとしです。彼女は故郷へUターンする両親と共に大津に来て同じ高校に通い出したのです。のっけから昔話で恐縮です。

 歴史にはもっとダイナミックな岐路が無数に存在します。仮にその時、史実と異なる第二の道を進んでいたら(プランBが採用されていたら)日本はどうなったでしょうか。例えば、もし「白村江の戦いに勝利していたら」、「元寇に負けていたら」、「本能寺の変がなかったら」、「戊辰戦争で幕府軍が勝っていたら」等々。こうした問いは無意味ですが、私は「仏教や儒教が伝来していなかったらどうだったか」想像したくなります。きっとこの国の姿と私たちの精神は大きく違っていたはずです。

 仏教は中国で漢訳されて6世紀初頭に日本に渡り、在来の神と習合しつつ支配層から民衆までを染め上げました。少し先に伝わった儒教は幕府による家臣や民衆の制御、やがて国家が国民を統合する規範に利用されました。同時にその過程で新たな思想も誕生しました。仏儒は民に幸いばかりをもたらさなかったし今はかつての存在感もありませんが、1500年にわたり様々な形で日本人の心の奥に強く働きかけてきました。

 キリスト教の伝来は安土桃山時代とされ(もっと前に景教が伝わった?)キリシタン大名も現れましたが禁令もあって広がらず、明治維新の際に再登場しました。私はこのあいだ内村鑑三を読み、武士の子であった彼がクラーク博士の教えた札幌農学校でクリスチャンとなり、「新生日本」の人材育成に大きく貢献したことに改めて感銘を受けました。「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」が米国に向け英文で書かれたことにもびっくり。私たちが読んでいるのは和訳なのです。

 日本がキリスト教国になる機会が安土桃山、明治維新、太平洋戦争敗戦時(マッカーサーの選択肢)の3回あったとされます。結局そうはならなかったしアジアにおいても日本のクリスチャンの割合は少ないけれど、それでもキリスト教が日本と日本人に与えている影響は決して小さくありません。ちなみに少数派であるためか教義によるのか分かりませんが、キリスト教の信者は仏教の信者より信仰への自覚が明瞭である気がします。

 これら外来の宗教に対する在来の神の存在も無視できません。古くからある神道は仏教と習合しながら深化しました。明治政府がこれを天皇と結びつけ国家神道に変質させたため(神道サイドもこれを歓迎したのでしょう)、敗戦でチャラになったはずの今も靖国神社の閣僚参拝にみるように過去の影を引きずっています。一方で鎮守の森は多くの人の「ふるさとの景観」であり続けお宮参りや地鎮祭も健在です。

 ここで私は「日本住民」について大雑把に話していますが、結局私たちは、良くも悪くも宗教と無縁ではあり得ないと思います。「信仰は魂に属するが、宗教は知識である。」とは池澤夏樹が「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」の冒頭に記した言葉です。確かに心と頭は別でしょう。しかしこの本を読むと、「自分にはまだ召命がない」という池澤氏自身がすでに魂のレベルでキリスト教に接していると思われます。心と頭は完全に別物ではありません。

 池澤氏の事情を全般に当てはめるのは無理があるけれど、私たちは自分で思っているほど無宗教でも無信心でもないはずです。そもそも人間に不安や苦悩はつきものだし、誰もがその軽減・解消(つまり救済)を求めるの当然であって、私たちは生まれながらに宗教と隣り合わせの存在ではないか。「宗教はアヘンだ」という非難はこれを否定的に追認した言葉だと思います。

 そういう私も若い頃は、宗教を信じるのは「自分が乗っ取られることだ」と感じていました。うちは浄土宗ですが私は今だに教義を知ろうとせず、住職さんとの交流も長く絶えています(護持料は欠かしません)。お墓は守るけれど私がその中に入るつもりもありません。しかし人生の終盤にさしかかって未来より過去の比重が大きくなったせいか、近頃は「自分がたまさか生かされている」という気持ちが強まってきました。心に受け止めてきたモノやコトの重みが閾値を超えた気もします。思えば心もとない我が身ではあります。

 一方でこれまで少数ですが信仰を持つ人を見てきました。ずっと以前、あるきっかけで京都サンガにいたブラジルのサッカー選手と親しくなりました。母国で名声を得た後の来日でしたがチームの中心選手です。敬虔なクリスチャンである彼は、病をえた身重の妻のベッドの横のパイプ椅子に大きな体を折り曲げて座り、来る日も来る日も神に祈り続けました。お腹の子も危ない状況でしたが「すべては神の思し召しだ。そのまま受け入れる」と彼は言いました。このことが記憶を去りません(この話はハッピーエンド、一家はブラジルに戻りました)。

 また最近、たまに会う若い友人がクリスチャンであると知りました。立ち入った話はしないけれど信仰がその人を支えている(よき力となっている)と私は見ています。また、高校以来の友人は真宗の僧侶です。私も昔は「やあ大僧正、景気はどうかな」などと軽口をたたいていましたが、いま彼が住職として誠実に勤めているのを見ると自然に頭が下がります。宗教と向き合っている人、信仰を持っている人が何やら床しく感じられるのです。文化プロジェクト「近江ARS」の仏教を一つの糸口とする活動にも刺激を受けています。

 こうした事情で私は宗教について以前より思いをめぐらせるようになりました。かといって救いを得たい、信仰を持ちたいと積極的に願うほどではありません。ただ、これまで思想や哲学のジャンルに入れて遠望してきた宗教について、少し近寄って個人の足場から眺めてみようという気になったのです。いま念頭にあるのは多少とも縁のある仏教とキリスト教ですが、昨年から本を読みだしたばかりで分からないことだらけです。

 そんな状態で宗教を云々することは神をも畏れぬフルマイですが、頭の混乱を整理するのに何年もかかりそうなので思い切って中途半端でも書く、と決めました(すでに「三井寺のこと」「別日本でいい」「もう苦しまなくてよい」等も書いています)。こうした次第で今後も時おり宗教をテーマに取り上げます。これはひどい、ひとつ注意してやらなければ、と思われる読者も多いはず。アドレスをご存知の向きは是非ともメールでご叱正いただきたく存じます。






 

 

 

 

 

2024/11/11

254)トランプ当選

 倫理と良識のアマルガムが服を着て二足歩行しているような人でも心の奥底に不逞な考えや破廉恥な願いを宿すことは大いにあるだろうし、人間とはそんなものでしょう。聖書はそれさえ許容しませんが(マタイ福音書5-27)、ちょっぴり大目に見てほしいと私などは思います。むしろそれより重要なのはその想念を「胸にとどめ置く」か「口に出す」かを適切に判断することであって、社会のプレーヤーの一員たる私たちのセンスが問われます。

 もちろん私はダーウィンやマルクスやフロイトのごとく時代を揺るがせるような思想の発表について語っているのではありません。人の内部で鍛えられていない考えの断片、勝手気ままな妄想、明滅する感情、制御しきれない欲望など「低次元の想念」について話しています。こうした自己表出のコントロールは何らかのストレスを伴いますから「物言わぬは腹ふくるるわざ」ともなります。忖度なし、仁義なし、遠慮なしの言いたい放題が人の喝采をうけるのもこうした事情によるでしょう。

 さてトランプが大勝しました。私はガッカリです。友人のメールを引きます。~ アメリカ大統領選には感慨深いものがあります。いわゆるリベラルは世界のマジョリティではない、リベラルを賛じていたのはその世界でこそ自己肯定も日々の生活もベターとしていた実はマイノリティであって、自身もそれに属していたとすれば、この先トランプ以前(プーチン以前、習以前)には戻らない世界でどう考えどう生きていくか難題だなあ、まあ「識者」の発言も聞きながら考えるか、死ぬまでくらいは世界は危うくとも持つだろうと、次世代への責任の考察まで思い及ばない今日の私です。~

 友人は「いわゆるリベラルが実は世界のマイノリティであった」と指摘しますが、確かにトランプの桁外れの内心表出(リベラル的価値観の否定)を多数のアメリカ人が受け入れたように見えます。すなわち公的な立場にある人間が目的意識をもって、また時に感情の爆発として、あからさまな差別的言辞、侮蔑、中傷、誹謗、虚言を吐き出すことに対する容認です。背景に貧困、宗教、移民など多様な事情があるにしても「社会が一線を踏み越えてしまった」気がします。

 そのような飛んでもない規格外の人物に「いかにして気に入ってもらうか」が石破首相の喫緊の課題であることを政府は隠そうとしません。ドラえもんの助けを借りず一人でジャイアンに立ち向かうのび太のようです。それでも石破氏は内心に抱え込んだ想念が一杯あるでしょう。それを思い切りトランプにぶちまけてはどうか。首相と大統領の権力の差は大きいけれど、虚勢でもいいから少しは勇ましいところを見せてほしいと思います。

 トランプを真似て内心を吐露してみせたのが「子宮摘出発言」の百田直樹です。騒がれてなんぼの人物ゆえ受けを狙ったはずですが程なく謝罪会見に追い込まれました。この騒動を見て「百田の『該当箇所』を切除すべきだ」とか「百田の頭に向けバキュームカーのホースを逆噴射させるべきだ」という思いを秘かに抱いた人がいたとしても私は驚きません。一方で百田と河村たかしの「へらへらコンビ」が無視できない力を持っていることも軽視できないと思います。

 内心吐露派で忘れてはならないのは麻生太郎であり、かつて彼がとても肯定的に言及したナチスが、民主的なワイマール憲法のもとで選挙によって合法的に選ばれたという歴史についても同様に忘れてはならないと思います。しかし、私たちが選挙に際して、未来の社会、私たちと次世代に資する社会の姿をどれほどイメージして投票できるかと考えると、なかなか難しいことだと思わざるをえません。

 話は変わって、たまに来る友人とお茶や食事をすることが我が生活の「句読点」で、先週はあいついで二人の訪問を受けました。まず浄土真宗の住職、次に静岡在住の医師。彼らは運動不足の現役組ですから、桐生の「お子さまコース」を完歩しただけでニコニコ満足顔でした。天狗岩を枕とする私に目には「ういやつじゃ」と映りましたが、その思いは内心に留めました。夜は持参の銘酒とおしゃべり。語り口の中に彼らの仕事と生活の堆積が感じられ、宗教談義も人生談義も聞き飽きません。お互い年をとったけれど関係は年をとらず(心は青年?)、楽しい一夜となりました。

 添付写真は二人目の友人の作(従来からそうです)で、これから数回は桐生の景色が出てきます。

 <補足>
 この記事をアップして三日たって舌足らずを反省しました(よくありますが)。これではトランプや百田の許し難い言説を「失言」のカテゴリーに括っているように見えます。より大きな問題は、彼らの粗末な頭が生み出した「思想の名に値しない社会思想が反民主主義的である」ことと、多数の人がそれを「誤りなく理解したうえで賛意を示している」ことであると私は考えます。トランプや百田には天誅を加えてやりたいけれど、言葉によって立つしかありません。

 石丸伸二が新党を立ち上げるそうです。インフルエンサーとして自信を深めているのでしょう。私には不快なニュースですが彼もまた言葉によって立とうとしているわけです。私たちが考え判断していくしかありません。今回は友人の来訪を除いて楽しくない記事となりました(人名の敬称も省略しました)。次回は宗教について書きます。



2024/11/02

253)そこまで高くていいですか

 高かろうが低かろうが本人の勝手であり他人がとやかく口を挟む問題ではない、と言われれば全くその通りですが、それでもいらざるお節介を焼きたくなります。テレビやラジオから聞こえてくる女性の声が不自然に高いのです。ニュースを読むアナウンサー、実況中継のレポーター、トーク番組のタレント、街角でマイクを向けられた若い女性その他いろいろ。

 一般的に若い女性は、不特定多数の聞き手を想定して話す場合、日常会話の声(地声)よりもずっと高い声を出すことが多いと見受けます。誰でも改まって話す時は声の調子が高くなりますがその極端な例だと言いましょうか。中には高い声が定着してしまったような女性もいます。聞きづらいねと私たちはよく話していました。ちなみに彼女は中音域の柔らかい声であったし、ふだん私が話す女性は(数少ないけれど)みんな「普通」の声の持ち主です。

 桐生の行き帰りによくNHK・FMから流れてくる「ミュージックライン」という番組で先日こんなやり取りがありました。「そこで印象に残った事なんてあったりしますかあ?」、「前に出させて頂いた時い、ナンバさんがあんまり可愛くてえ、こんな人いるんだあって思わさせて頂いてえ、もう私感激しちゃいましたあ」、「わあどうも有難うございますう」。二人とも倍速再生みたいな声の高さ。私などは「普通の声で普通に話せばいいのにい」と思います。

 そんなところに「日本人女性の声は『世界一高い』?」という記事を読みました(朝日新聞「論の芽」)。~ 海外の映画やニュースを見ていつも思うのは、女性の声の低さです。翻って日本では、細く高い声の人が多い印象です。「世界一高い」という専門家もいます。「声は社会の産物」と指摘する音声認知の専門家、山﨑広子さんにその意味を聞きました。 ~と前置きにあります。

 山﨑広子さんの論旨は以下の通りです。
 ~ 日本人女性の話す声は確かに世界で最も高音の部類だ。身長160㎝ほどの成人女性なら地声は220~260ヘルツ(ピアノの真ん中のラ~ドあたり)が自然だが、多くの日本人女性は300~350ヘルツ、場合により1オクターブ上の声を出している。これはほぼ裏声だ。本来もっと低いはずの人まで何故そんなに甲高い、喉をしぼった発声をするのか。それは社会が、もっとはっきり言えば男性が、それを暗黙裡に求めているからだ。

 高い声は生物の共通認識として「体が小さい」ことを表す。子どもにみる通りだ。つまり高い声は未熟、弱い、可愛い、保護対象などのイメージと結びつく。日本の女性は、そう自分を見せねばと無意識に刷り込まれてきたといえる。ジェンダーギャップの小さい国の女性の声は明らかに低い。日本でも「キャリアウーマン」の語がはやったバブル期に女性の声がぐっと下がった。声は、心身の状態だけでなく価値観や生き方まで映す「その人そのもの」といってよい存在だ。~

 この意見を別の角度から見ると「日本は甲高い声が女性の魅力として通用する国である」ことになります。同感せざるを得ません。多くの女性にとって不愉快、少数の男性にとっても無念の指摘であろうと思います。ついでながら若い女性がよく見せる身のこなし、例えばセーターの袖の中に手を引っ込めて「ダブダブ感」を表すこと、両手をひらひらさせて友人に親愛の情を示すこと、長い髪を捌くように頭を振ること等も同種の「サイン」であると意地悪ジイサンの私は思います。

 昔といってもつい20世紀まで、中国には纏足(てんそく)という奇習がありました。私はじかに知りませんが金子光晴がリアルに文字にしています。少女の足を包帯でぐるぐる巻きにして成長を止め、歩行能力を著しく制限された女性とその小さな足とを男たちが性的に愛でたという胸の悪くなる風習です。日本女性の不自然な声の高さは、目に見えないスマートな纏足であるとは言い過ぎでしょうか。

 もともと日本には可愛いものや小さなものを愛でる文化があります。清少納言は、瓜に書いた稚児の顔、雀の子、ゴミをつまんで大人に見せる幼児、ひな人形、小さな蓮の葉や葵などを列挙したうえ「何も何も小さきものはみなうつくし」と断じました。「うつくし」とは「可愛らしい」の意です。利休は四畳半の茶室を三畳、二畳と縮めてついに1畳半の空間に籠りました。一寸法師、盆栽、トランジスタラジオもその系譜にあると言えます。

 こうした伏流が新たなニュアンスを帯びて前面に出てきたのがここ30~40年程の「可愛い」という誉め言葉の隆盛であると思います。その「担い手」は男性から動物や無生物にまで及びますが主役はやはり「若い女性」です。そしてその内かなり多数が、意識的にか無意識的にか「甲高い声」によって可愛らしさを演じているというのが現状ではないでしょうか。

 「おんなこども」という失礼千万な呼称を発明した男は愚かです。天に唾を吐くようなものです。女と男は天秤の左右二つの皿です。ここは丁寧に書かなければなりません。セクシャリティが女性と男性の二分法でなく、事実としてもっと多様であるし、理念としてもっと自由であるべきだというのが今日の社会の共通理解です(現に私の息子夫婦も授かった子らの命名に際し、将来その子が異なる性を自認する場合も考慮して名前の文字と音を選びました)。

 ですから男女というより「性的な区別によって比較・対置される複数群」と言うべきですが、ここは私(女性である伴侶を得た男性の一人)の実感に引きつけて書たいと思います。日本は「女性差別国」として国連から注意されるほどの国ぶりで、これは女性ばかりでなく男性(女性以外の性)にも不幸なことだと思います。女性が生き生きと輝いていなければ男性もそのように存在できません。両者は見合った存在です。

 「甲高い声を絞る女性」と「それを可愛らしいと思う男性」の「相思相愛」は、長期にわたって当人である女性と男性に幸いをもたらし続けると思えません。「無理をする側」と「無理を強いる側」の関係はいずれ破綻します。これは社会構造的な問題ですが、考える手がかりは個人の内部にもあるはずです。纏足の包帯を女性も男性も引きちぎるべきだと思います。少なくともテレビの甲高い声はやめて欲しいところです。




2024/10/29

252)拳と祈り 

 自民単独でも公明党を足しても過半数を割りました。いつも寛容な有権者が、数に恃んで国会をないがしろにする自公政権に対し、もういい加減にせよと言いました。石破氏にも失望か。私も同感です。これで嬉しいとまで言いませんが逆の結果だったら深く失望したはずです。右にウィングを広げた立民が受け皿になったのは確かでしょう。政策を幅広く議論していく上で社民、共産にもう少し伸びて欲しかったところです。ハギウダ氏はゾンビのようです。

 はやくも政治の流動化、不安定化を懸念する声が上がっていますが「悪く安定」するより望みがあります。政治がよくなる外的条件がちょっぴり整ったと考えます。国内は課題山積だし対外関係はきな臭くなる一方で明るい未来を予測しにくいけれど、与野党を問わず当選した議員には今の気持ちを忘れず(忘れっぽいから)、国民のために働いてもらいたいと思います。さあ、いよいよこれからです。

 話は変わって京都シネマで「拳と祈り」が上映されています。10月27日には笠井千晶監督の挨拶もあると知って重い腰を上げました。桐生散策の他は平和堂(はずむ心のお買い物)とアヤハディオ(愛の暮らしのお手伝い)に出かける程度、頑張って図書館、歴史博物館どまりの暮らしで出不精になりましたが、袴田巌さんのドキュメンタリーとなれば話は別です。駆けつけて観た感想を少々。映像の力を感じさせる秀作でした。

 濡れ衣で死刑判決をうけた袴田さんが再審決定により48年ぶりに釈放され、その10年後の2014年9月に無罪が確定したことは既に書きました(221・シャツの味噌漬け250・「公」の犯罪)。この冤罪事件がまだ世に知られていなかった2002年、静岡のテレビ局の報道記者だった笠井監督は、袴田さんが獄中で書いた手紙を読んである種の衝撃を受けました。家族の健康を気遣う書きぶりがあまりに「普通」であったというのです(袴田さんが獄中から家族や支援者に出した手紙は1万通)。

 手紙の実物を見たいと思った笠井監督は受取人である姉・秀子さんの家を訪ね、交流が始まりました。秀子さんの話を聞き、他の手紙を読み、裁判記録その他を調べて無罪を信じた笠井監督はカメラを回し始めました。私の想像ですが、死刑囚の姉である秀子さんにとって記録されることは社会とつながることであり、弟・巌さんの生還にもつながる道だと感じられたのでしょう。かたや笠井監督は秀子さんの人となりに感銘を受けたよし。二人が「人と人」の関りを持ちえたことが映像から分かります。幸せな出会いというのでしょう。

 秀子さんは若くに離婚してからずっと一人暮らしです(映画パンフレットより)。経理の事務員として働きながらこつこつとお金をため、死刑囚の弟に面会・差し入れをするため静岡から東京拘置所に通い続けました。巌さんが洗礼を受けたいと言った時、「そりゃあええなあ」と背中を押したそうです。カメラはこうした様子も捉えます。やがて巌さんに拘禁反応が強まり、秀子さんの面会を拒否することも出てきました(映画の中には取調べ時の尋問(恫喝)の音声も流されます)。

 2014年、ついに再審決定の知らせを受けた秀子さんは、吉報を弟に届けるため支援集会の場から東京に向かいます(決定は本人に伝えられない模様)。これに撮影クルーが同行しましたが誰も予期せぬ「即日釈放」となったため、ワゴン車は48年ぶりに娑婆に出た巌さんと秀子さんを乗せ、東京拘置所からあてどなく出発します。何とか見つけた都内のホテルの一室でベッドに横たわる巌さんの様子。見つめる秀子さんの顔。次の朝、二人で窓から見下ろした東京湾の景色。カメラは「家族の距離」から一部始終を捉えています。

 長く住み込みで働いていた秀子さんは、いつと分からぬ弟の帰還に備え二人で住むマンションを浜松市に確保していました。そこで始まった姉弟の静かな暮らしも描かれています。室内を止まることなく歩き続ける弟。「朝5時から夕方6時まで13時間も歩きっぱなしだよ、ははは。」と明るく笑って見ている姉。味噌汁、煮物、フルーツなどを黙々と平らげ、「饅頭かアンパンが貰いたいです」という弟。笑顔で応じる姉。

 巌さんはやがて外出できるようになり、最初は姉と、慣れてからは一人で町なかを歩きます。秀子さんにお金をもらい帽子を忘れないよう念を押されて出発。「いまはチップの世の中だ」と笠井監督に語る巌さんは100円玉を10枚持っており、植木鉢の中に置いたり道行く親子づれに手渡したり。行きつけの店でドーナツを買って1万円を出し「つりはいらん」と言って店員を慌てさせたりもします。

 事件が起きた「こがね味噌」に勤める前の一時期にプロボクサーであった袴田さんは、拘置所でボクシング評論家の郡司信夫氏の面会をうけ、それが縁となって日本プロボクシング協会関係者にも支援の輪が広がった経緯も明かされています。また奇しくも「袴田事件」の同年同月にアメリカで起きた殺人事件の容疑者として逮捕され、後に無罪が証明されたボクサー「ハリケーン・カーター」と袴田さんが共に相手の存在を知り、互いの釈放を祈っていたことも語られます。

 映画のハイライトの一つは、かつて静岡地裁の裁判官で第1審の死刑判決を書いた熊本典道氏との姉弟の面会です。熊本氏は明らかに無罪だと考えていましたが、その意見は裁判官の合議で否定されました。死刑宣告が熊本氏を苦しめ、その人生を大きく変えることとなりました。彼は袴田さんとの面会を希望し続けましたが叶わず、高齢で重い病をえて病院のベッドに横たわっているところに巌さんと秀子さんの面会を受けます。

 巌さんは一審の熊本さんだと理解しておりその顔を覗き込みました。熊本さん頑張ってね、大事にしてくださいよと秀子さん。目を見開いて声を絞り出す熊本さん。「こんなええ裁判官の人はおらんよ、ほんに」と秀子さんは撮影スタッフに語りかけます。一審判決から半世紀が過ぎての再会でした。

 ネタばれになってしまいましたが以上はごく一部です。挨拶の中で監督は、拘禁反応は確かにあるものの袴田さんは認識も意志もしっかりしており十分に意思疎通ができると指摘しました。彼は、自分は神であると考えていますが、この映画をみると監督の言葉に間違いはありません。半世紀をこえてぎりぎりと締め上げられていたネジが僅かずつほどけていくような巌さんの日々です。

 秀子さんは「精神科には診せんよ。自由が一番やわ。自由が一番。巌は何でも好きなようにすりゃあええ。」と語っています。弟の手を握り締めて離さず、60年の歳月をかけて暗い穴から光のなかに引っ張り上げた秀子さん。彼女は働き、面会し、法廷に立ち、支援者と交わり、世間に訴え、取り戻した弟と暮らし、常に笑顔を絶やさず生きてきました。人というものがこれほど強く素晴らしくなれるものかと感嘆せずにいられません。

 人を救うという点において、救うための方法と救った人の人数はまったく違うけれど、秀子さんはマザーテレサと並べられるのではないかさえ私は思っています。そして袴田巌さんもまた自分自身を救ったという点で稀有の人です。弁護団や支援者のサポートは本当に頭が下がりますが、この姉弟あっての人々の輪であったと思います。その中にカメラを抱えて加わったのが笠井千晶監督です。袴田さんが笠井さんに向き合う際の安心しきった柔和な表情が印象に残りました。

 映画は京都シネマで11月14日までやっています。よろしければお運びくださいますよう。その後は全国を順々に回るようです。




2024/10/19

251)閲覧御礼

 「大津通信」の閲覧回数が47万回を超えました。キリのよい50万回はずっと先ですから、ここでいったん節目のご挨拶を申し上げます。初めは大津市政について、途中から「公に関わること」にテーマを広げ思うところを綴ってきましたが、かくも地味な話題と冗長な文章にお付き合い下さっている皆様には感謝の言葉しかありません。どうもありがとうございます。

 2015年のブログ開始時はメディアや議会に取り上げられ私自身が驚くほど多数の方に読まれましたが、4年の休止を挟んで2019年に再開してから二百~三百人、越市政への論評を終えてからは漸減して今は数十人に落ち着きました。この数十人の方々が「ご常連のお客さま」で、大半は大津市関係者(職員、議員、住民の方々)だと思われます。あとは私の友人たちで時々メールで感想を寄せてくれたり掲載用の写真をくれたり。応援ありがとうございます。

 SNSの弊害が気になるものの、私ごとき個人が発する言葉(畏れ多くも兼好法師に倣えば「つれづれなるままに書きつけたる心にうつりゆくよしなしごと」)が数十人の方に届くわけですからブログは他に代えがたい手段です。今は読者コメントを受け付けておらず一方通行ですが、私の希少な社会との回路です。おいしいラーメン店の話などはいざ知らず、例えば原発について私の考えを数十人にお伝えできることは(その方の評価は別に)有難いことです。

 さきごろ公益通報を行った兵庫県職員が「死をもって抗議する」と言い遺し亡くなられました。痛ましい限りです。私にはとても他人事と思えません。このブログも「公益通報」として始めた経緯があります。すでに書いたとおり私は2012年に大津市長となった越直美氏のもとで副市長を務めましたが、市政運営をめぐって市長と意見が大きく対立し僅か2年で辞めることとなりました。

 市民と職員のために戦って力およばず去るのだと私は考えていましたから、職員仲間を「人質」として市役所に残すような気持ちでした。表向きに「一身上の都合」としたのは、事を荒立て「犯人」を刺激すると「人質」に不利益が及ぶと思ったためです。辞めるついでに真相をぶちまけて欲しいと私に期待する市会議員が複数おられ、穏便に辞めたことに対して後に私は婉曲な抗議を受けることとなりました。

 市長にしてみれば「自分は市民に選ばれ仕事をしている。その市長を支えるのが副市長の使命だ。副市長が自分の考えを押し通そうとするなどもってのほか。代わりはいくらもいる。」との思いだったでしょう。一方、私は「真に市民のためになるよう市長が働くのを支えること」が使命であると考えていました。

 ある組織が大きな問題を抱えている場合、その構成員にはまず当該問題の改善に努力することが求められますが、それが到底無理なら外部通報もアリです(初期消火のように)。役所も同じですが、首長が不正義(不適正)を頑として改めない場合、副知事や副市長は本人に次ぐ責任がありますから「通報者」ではなく「被通報者」の立場にいます。どうしても首長を正せなければ自分が辞めるしかありません。

 さて私は2014年5月に市役所を辞めた後も越市政を注視していましたが、2015年8月に本ブログを始めました。その際「事実によること」と「礼節をたもつこと」を肝に銘じました。この時には5か月で終了しましたが、多数の方々に参画いただき一時的にせよ「市政情報の広場」が出現したと思います。特に最終回(同年12月31日)は多数のコメントを頂きました。

 終了から4年たった2019年10月ブログを再開しましたが、越市政の諸問題が2期目に入って顕在化したこと、その一つである「公文書等にかかる裁判」が進行していたことが動機となっています。越氏が2020年1月の市長選に出馬しなかったのは、さすがに同氏自身もこうした状況をマズいと察知されたからだと想像します(ご本人の説明はこれと違います)。裁判には私も越氏も出廷して証言台に立ち、市の敗訴で終了しました。

 2023年7月、ブログの一部(越市政を論じた開始後4か月分の記事すべて)が閲覧できなくなっていることが判り、すぐ友人の助けを借りて復元するとともにコピー保存を行いました(「読めなくしたのは誰?」)。人為によることは明白ですが犯人は分かりません。この一件で「大津通信」をずっと残すと決めました。ある時期における大津市政の証言たりうると考えています。

 いま「公」について書こうとして自分の力不足を痛感します。このテーマこそ読者コメントを頂きたいけれど、それは人の意見を咀嚼して自分の思考を練る過程を公開する「実演」でもあって、やはり私には簡単ではありません。そこで皆さまのご意見やご助言についてはぜひメールで頂戴したく思います。個人通信なら私も質問したり勉強する余地がありそうです。ご協力をお願いいたします。

 私は唯一最良の話し相手を失いましたから自分の言葉が問い返されることなく内部にたまっていきます。よい息子夫婦と友人がいるものの日常は独白の世界です。こうした状況において書くことは、なんと言いますか、私にささやかな力と秩序を与えてくれます。ブログを続けるよう彼女が言ったのはこれが分かっていたのでしょう。まずは50万回をめざすとします。

 私は速度のある簡潔な(時に辛辣な)文章が好きですが、ブログは今の文体に落ち着いてしまいました。一方で書くことの難しさ、すなわち漢字とカナがあり文末が定型化しやすい日本語で表現することの困難を常に感じています(といって英語で書けないけれど)。長い読者はすべてお見通しですから私は力まずにぼつぼつ綴っていこうと思います。桐生のこと等も書くつもりです。皆さまには今後ともよろしくお願い申し上げます。






2024/10/10

250)「公」の犯罪

 1966年に静岡県の味噌製造会社の専務一家4人を殺害したという強盗殺人罪に問われ、死刑が確定していた袴田巌さんの無罪が決まりました。事件から58年、死刑確定から44年、2度にわたる再審請求を経て本年9月に静岡地裁が再審無罪を言い渡したことに対して、このほど検察が控訴を断念して無罪判決が確定したものです。

 10月8日、畝本直美・検事総長が表明したコメントをあけすけに言うと、「再審無罪の判決は問題だらけで承服できない。だから検察として控訴するのがスジだ。しかし袴田さんは長い間宙ぶらりんの状態を強いられ既に高齢だ。そこを酌量して百歩譲るとしよう。この温情を有難く思え。」となります。58年間にわたり死刑を求め続けてきた検察として「間違っていました、ごめんなさい」とは言えないのでしょう。 

 それでも検事総長は最後に、長い年月がかかったことについて遺憾の意を述べました。続いて10月9日に静岡県警の本部長が、やはり年月がかかったことを謝罪し、一方で証拠捏造については「答える立場にない」と言いました。検察、警察ともに「時間がかかったこと」に関してのみ反省を示しました。ちなみに確定死刑囚の再審無罪はこれで戦後5件目ですべて検察が控訴することなく無罪が確定しています。

 いま一度考えてみましょう。裁判所が三審制を敷いて検察と弁護側の主張や証拠を慎重に検討・考量し、疑わしきは罰せずという原則に従って下す判決は限りなく重いものです。それが簡単にひっくり返っては司法制度が揺らぎます。その確定判決を司法自身が見直そうとするわけですから「再審は余程のこと」です。この究極の念押しである再審において確定死刑囚が無罪とされたことを検察、警察はもちろん裁判所自身も真摯に受け止めなければなりません。

 この事件については前の記事「シャツのみそ漬け」を再度ご覧ください。とんでもない「でっちあげ」です。当時、静岡地裁は裁判官の意見が分かれたものの求刑通り死刑判決を出し、それが最高裁まで引き継がれました。冒頭に記したとおり本年9月の再審判決で静岡地裁は、捜査機関による自白強要(非人道的な取調べ)と証拠捏造(5点の衣類に血痕の付着させ味噌タンクに投入)を明確に認定しました。

 私はこの同時代の事件は冤罪だろうと思っていました。1966年の逮捕以来、袴田さんは私の人生の大半と重なる58年間を死刑台の手前で過ごしてきました。私が読んだ裁判の記録や関係資料はどれも袴田さんの「無実」と捜査機関による証拠の「捏造」を明確に示しています。そして今回の法的決着により冤罪が証明されました。「公」の犯罪が認定されたに等しいことです。

 袴田さんは1981年の第一次再審請求からずっと「再審請求中」でしたが、その中でもオウムの教団幹部の例のように死刑執行はあり得るし、死刑の告知は当日の朝ですから、実際に袴田さんは2014年に釈放されるまでの少なくとも48年間、「今日が最後か」と思いつつ鉄格子のなかで暮らしました。本当にむごい話です。それを強いたのはこの国の司法です。

 「一度冤罪に陥れられたならば出口はないのだろうか」、「死刑囚とは一日二十四時間そのすべての時間にわたって死を意識して暮らすのが普通です」と袴田さんは姉への手紙に書いています。1984年、彼は東京拘置所内でキリスト教の洗礼を受けました。晴れて無罪の身となった今後において「解放後の苦悩」が生じるかもしれません。同時代の人間の一人として私は、袴田さんが心安らかに過ごされるよう思わずにいられません。

 この件で司法は「お咎めなし」でしょうか。繰り返しますが警察と検察は無実の人を意図的に犯人に仕立て上げて死刑を求刑し、その人生を取り返しのつかないほど棄損したのです(しかも真犯人を取り逃がした)。裁判所は袴田さんの悲痛な訴えに耳を貸さず、弁護側の実証実験や専門家の知見を軽視し、1980年の最高裁での死刑確定から起算して44年間にわたり検察寄りの判断を維持しました。しかし各機関の代表者から「時間がかかって悪かったね」という挨拶しかありません。

 法的な救済策として国家賠償請求がありますが、報道によると弁護団は刑事補償請求を行う予定のようです。また国と静岡県に対して損害賠償請求を行う見込みであるとも言われています。それはもちろん大いにやるべきだと思います。しかし最終決着までにはなお時間がかかるだろうし、仮に決着しても袴田さんの58年は戻って来ません。「とりかえしがつかない」とはこういう事を指すのでしょう。

 かと言って何もなしで済ませることは出来ません。制度的な救済策に加え、私は、袴田さんをこの状況に至らしめた警察、検察、裁判所の関係者(直接担当した存命者および各機関の長)に一人ずつ反省文を書かせ袴田さんに提出させるべきだと思います。内容の公表まで求めません。それが本件に関係した組織と人間の最低限の責任の取り方です。第三者が好き勝手なことを言うようですが、それ以外の方法を私は思いつきません。

 私も「公」の一端で仕事をした経験から組織の建前や面子をどうでもよいことと思っておらず、また組織の正義と構成員の正義が必ずしも一致しない現実を知っています。しかし、公の組織の妥当性を担保するのは、法令以外には「個々の構成員」でしかありえないでしょう。まずは司法部門においてこのような冤罪を繰り返さないため、再審の法整備(証拠の全部提示と手続きの明確化)を行うと共に、職員一人ひとりが我が事として自省することが重要であると思います。

 袴田事件では事実関係が争われましたが、記憶に新しい京都アニメーション放火殺人事件では犯行の事実が明らかです。青葉真司被告は自分の行為を認め、本年1月、京都地裁は死刑判決を下しました。36人もの殺害ですから「量刑相場」に照らすと死刑判決は理解できます(私はこれまで述べた通り死刑に反対です)。事件の起きた5年前に私は京都市南部にいて、異常な数の救急車と消防車が南へ走っていくのを不安に感じたことを思い出します。弁護団は被告に責任能力がなかったとして控訴しています。

 国家による究極の暴力行使に「戦争」と「死刑」があります。前者は基本的に国外の集団を、後者は国内の個人を対象としており、その是非を判断する法的な枠組みも異なりますが「国が人を殺す」という点は同じです。そしていま日本は戦争を手繰り寄せつつあるように見え、一方で海外の流血になすすべがありません。また、OECD加盟38か国のうち死刑を行っているのは日本と米国だけです。ショパンを聴きつつこれを書いている安穏な私に重い事柄を論じる資格があるかどうか知りませんが、ともかく国が人を殺してはならないと強く思うのです。

 話は変わって兵庫県知事を失職した斎藤元彦氏についてひと言。私は報道を鵜呑みにできないと身に染みて知っていますが、斎藤氏自身が認めている事実の範囲においても同氏は知事として不適格です(前の大津市長・越直美氏と非常に似通った資質を感じます。越氏がテレビ番組で斎藤氏に関する意見を述べていたのには仰天しました)。斎藤氏のパワハラ・おねだり疑惑も問題ですが、公益通報を行った職員を探し出して懲戒処分を与えたことが最大の過ちであったと思います。同氏の自我の肥大化と保身の欲求が背景にあったのでしょう。

 知事を支えられなかったと泣いて辞職した片山安孝副知事にも問題があります。涙は亡くなった二人の職員のために流されるべきものだと部外者の私は思いますが、「知事の苦境は副知事の責任」というのが片山氏の考え方なのでしょう。確かに知事をめぐって県庁内に生じている混乱について副知事には職員として最大の責任があります。また、うがった見方をすれば副知事は、知事と職員の距離の大きさを自分のパワーに転化していたかも知れません。ともあれ片山氏も公益通報への対応を誤ったようです。

 知事選に出馬すると表明した斎藤氏が、自分には「即戦力」があるとアピールしています。何をか言わんや。




2024/10/03

249)木登り名人のこと等

 天狗岩の上で風に吹かれてお茶を飲み、ひとしきり湖南平野の眺望を楽しんだあと尾根筋ルートで下山するとします。遥か彼方に霞んでいるのは恐らく宇治の山々、右手にはどこまでも続く琵琶湖の水面。つい景色に目が行くけれど足元は痩せ馬の背を踏むがごとく、砂の撒かれた滑り台を立って下りるにも似たり。滑ったり尻もちをついたりしながら急斜面を下ること1時間、山道は突然コンクリート舗装の林道にぶつかります。

 その林道の手前は粘土を切った十段ほどの階段になっており最後の注意ポイントなのですが、ある日ここを下りていてふと徒然草の「高名の木登り」を思い出しました。以来2年ほどそれが習慣となりました。木登り名人が弟子に命じて高枝を切らせた際、目のくらむような高所では黙って見ており、弟子が軒先の高さまで下りて来た時に「あやまちすな、心して降りよ」と声をかけたという例の話です。

 理由を問われた名人いわく、危険な所では本人自身が注意しています、ところが地面近くまで下りてくると油断が生じる、そこで注意を与えます。なるほどと兼好法師は頷き、卑しい身分の者だが聖人の教えにも匹敵すると記しています。やや上から目線ですね。しかし私も兼好さんに同感です。また、鎌倉時代に「木登り」という職業的領域が存在していたことも味な話です。

 さてこの山道が終わって林道に立った時、後ろをふり返って山に一礼したくなることがあります。山と平地の境界が明瞭であることが一因です。競技を終えた運動選手が走路やフィールドに頭を下げるのに似ているかも知れません。いま自分が活動を終えた舞台への感謝の気持ちといいますか。実はこうした仕草は私の趣味ではありませんがココロは分かります。アニミズムの残滓でもありましょう。一神教の社会の人々はこうした感情を持つものでしょうか。

 前回の記事「もう苦しまなくてよい」に対して友人から思わぬ反応がありました。ご家族(長く勇敢な闘病生活を送られた方)を亡くして日の浅いAさんは、イエスの言葉が胸に迫ったとメールをくれました。浄土真宗の僧侶であるBさんは、イエスは病人を治すと同時にその存在を肯定したのだという解釈を語りました。医師であるCさんは、観念のみにとどまる神はヒトに救いを与え得ないなど多くのワードをメモにして送ってくれました。

 3人とも私と同年代で、私を別として思索と経験を重ねてきた人々です。それゆえ彼らは信仰のあるなしに関わらず宗教的思惟に無関係ではありえないのだろうと私は思いました。こう書くと僧侶たる友人は「当たり前やんけ」と憤慨するかもしれませんが、世の中にはそうではないお坊様もいらっしゃるでしょう。いずれにせよコメント欄を閉じてから読者の感想を伺う機会が減ったので嬉しい反応でありました。

 話は変わって自民党議員は石破氏より高市氏が好き(まし)のはずです。決選投票で石破氏が逆転したことについて、靖国参拝を公言する高市氏では中国、韓国との緊張が高まるだろうから自民党議員がその回避に動いたと言われています。しかし私は、これは単に目先の選挙対策にすぎないと思います。穴がたくさん開いたボートより穴の数が少ないボートの方が沈む確率が少ないという判断です(「穴」の数は国民の目を借りて自民議員が数えるとして)。

 しかし石破氏のボートの穴も少なくことが早くも分かって来ました。それでも内閣支持率が46%ですから世の中には鷹揚で度量の広い人々が多いと感じます。裏金も統一教会も水に流すのでしょうか。この国の安全保障は今の路線でいいのでしょうか。能登半島のほったらかしはいいのでしょうか(福島も沖縄もあるけれど)。

 石破氏の噛んで含めるような、自分の言葉を味わうような喋り方が私は好きではありません。しかし岸田氏のように原稿棒読みでない点は大いに評価しています。野田氏との論戦も多少は楽しみです。たとえ弁論が下手でも話が支離滅裂でも結局は担ぎ手の多い神輿が勝つわけではありますが、それでも言論は無力ではありません。石破氏、野田氏、その他の人々に言葉の力を見せて欲しいと願います。




2024/09/21

248)「もう苦しまなくてよい」

  池澤夏樹がこう書いています。~ 信仰は魂に属するが宗教は知識である。あるいは、自分の信仰は言うまでもなく自分の魂の問題だが、他人の信仰はそうでないと考えるべきか。魂は余りに個的であって、その内奥は推し量りがたい。(中略)若い時からずっと、ぼくは宗教に強い関心を持ってきたが、その関心はついに哲学の範囲にとどまって信仰に到達しなかった。ぼくの側に準備と努力が足りないのか、あるいは上天から声が掛かるのを待っている他ないものなのか。

 この問い方はすでにキリスト教の範疇に属する。上からの声とはいわゆる召命だろう。いくつもの宗教を覗いてきたが、それらは啓示宗教とそれ以外にはっきり分かれている。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が啓示の宗教であり、それ以外はそれ以外だ。この3つは歴然と他と異なっている。(この後、池澤は、フランスで暮らす間にキリスト教が「人が生きる現場」において機能する場面を多く見たことや自身の祖父母らが伝道師であったことにふれ、次のように続けます)。

 こういうことが重なって、ぼくをキリスト教の方へ促す。しかしことは今もって知識の範囲、知的・哲学的関心の範囲に留まっている。召命はまだない。ではその関心にそってもう少し探求を進めてみよう。(次いでユダヤ・キリスト・イスラム教について述べ)すべての源泉は聖書だ。旧約と新約。古い約束と新しい約束。神と人間の契約。こういうことについて一定の知識を得てはじめて、世界の正しき姿が見えるだろう。まずは知的関心に沿ってことを進めるべく、ぼくは碩学・秋吉輝雄の門を敲いた。 ~

 以上が池澤夏樹の著作(秋吉輝雄との対話集)「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」(小学館文庫)の前書き抜粋であり、私がキリスト教に抱いている気持ちを千倍ほど高く深くすると、不遜ながらこの前書きの趣旨に近づく気がします。秋吉輝雄は聖書(新共同訳)の執筆も分担した比較宗教学の研究者であり、池澤夏樹は「素人代表」を楽し気に演じながら案内上手の腕前を発揮しています。まことに面白い一冊(本体700円プラス税)。「これを読んで更によい説法をせよ」とある寺の住職をけしかけました。高校の友人なので遠慮いりません。

 ところで唯一絶対の存在の教えるところに基づく啓示宗教たるキリスト教と、「目覚めた人」である仏陀の教えに導かれ一般衆生も仏になりうると説く仏教はまことに好対照です。宗教の大本が「人の苦悩とそこからの脱却」であるなら、キリスト教と仏教は「登山ルート」が違うだけの話なのでしょうか。いやそんな単純な話ではないでしょう。神と神々の違い、契約と念仏の違い、審判と浄土の違いなどは異なる地平にあるかに見えます。ともあれ私は人生の終盤になってようやく宗教(仏教もさることながらキリスト教)に目が向くようになってきました。

 理由は幾つかあって、ある機会に若い友人が幼少期からクリスチャンであると知ったこともその一つです。その人に接していると「人となり」と信仰とが無関係であると思えない、しからばキリストの教えとはどのようなものだろうと思ったわけです。この友人は教会の説話の動画をみてごらん、色んな考えがあるよと言いました。その提案に従ってみると、語られる神と人との「距離の近さ」が私に新鮮です。

 この流れで遠藤周作を読みなおし、カトリシズムが彼の骨格であったことを改めて知りました。「沈黙」はもちろんですが随筆のたぐい、例えばキリスト教を身に合わない服に例えた「合わない洋服」も率直平明な述懐です。そしてどの著作であったか、ガリラヤ湖畔を訪れたイエスが、指から血がもれる病気に長年悩んでいた女性を救った挿話が印象に残りました。彼女は人混みにもまれ、逡巡しながらイエスの衣の端にふれます。イエスは振り返って彼女を見て言います。「もう苦しまなくてよい」。

 この話はマルコ伝、マタイ伝、ルカ伝にそれぞれ少しの差異をもって記されています。女性は12年もの長きにわたって指先から出血する奇病に悩み、治療に財産を使い果たし、最後の望みを抱いてイエスに近づきます。そして思わず背後から手を伸ばして衣にふれたものの恐ろしくなり、震えて地面にひれ伏しました。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず元気に暮らしなさい。」と言いました。宿痾は本当に治ったのです。

 聖書(新共同訳)には「もう苦しまなくてよい。」と書かれていません。これは遠藤周作が親しんだであろうフランス語やラテン語の聖書からの翻訳でしょうか。あるいは遠藤の意訳でしょうか。私には不明ですが何やら「遠藤訳」のイエスの言葉の方がしっくりきます。イエスに病気を治してくれと頼んだ人は何人もいます。キリスト教では現世利益をどう評価するか知りませんが、イエスはそれらの望みを叶えました。病苦に限りません。「もう苦しまなくてよい。」という言葉は胸に迫ります。

 話は変わって、かくも無残な虐殺を続けるイスラエルに対し、欧米諸国があれほど弱腰なのはなぜか。どうやらアウシュビッツの記憶だけではありません。2000年を超えるユダヤへの排斥と、神に選ばれたイスラエルに対する畏怖の念がごっちゃになって諸政府の手足を縛っているようです(これまた付け焼刃の聖書の知識。内田樹「私家版・ユダヤ文化論」も齧じりました)。

 幸か不幸か日本はこうした事情に一切関係がありません。かつてアジア諸国に非道を働いた日本もユダヤに関してはイノセント(のはず)です。そしてNATOの一員でもありません(政府は「名誉会員」になりたがっているけれど)。誇るべき平和憲法もあります。こうした立場を生かし、日本が独自の仲介役を果たすことは十分に可能です。ロシアとの関係はもっと複雑であるにしても同じことが言えます。

 まっさかりの自民党総裁選。候補者たちはしょせん汚れた「いけす」の中の魚だ、私たちはもっと広い海に目を転じて有権者たる責務を果たそうではないかという趣旨を高橋純子氏が述べていました(8月24日朝日新聞「多事奏論」)。まったく同感です。しかし一方、みんなこんなに愛想のよい人々だったのか、と思わせるような「肉声」を各候補者があげています。財源なき夢物語はよして、わが国はイスラエルやロシアにどう働きかけるかについても語るべきであると思います。

 追記(2024年11月20日)
 私は、日本がユダヤ人問題に関してイノセントであると書いたのは間違いでした。1940年に三国同盟を結び、見返りを当て込んでナチスドイツの国内外における非道な行為を承認したのが我が日本です。うっかり偉そうなことを書いて反省しています。







 

2024/09/11

247)順番違いはアリません

 順不同という言葉があるけれど物事にはたいてい順番があります。食事の前が手洗い、後が歯磨きだし、1号車の次に2号車が連結され3、4号車と続きます。特に複雑で精密な作業は順序や手順が重要だし、誰も経験したことがない危険作業の場合は尚更です。しかし東電は、福島第一原発の爆発から13年を経てどうにか漕ぎつけた耳かき1杯分のデブリのサンプル採取をお粗末なミスで中止しました。パイプの接続の順番間違いです。

 福島第一原発の1~3号基では、空焚きで溶融した核燃料が原子炉の底を突き破り、炉外の設備まで飲み込んでドロドロの溶岩状になった後、格納容器の中で(外にも?)冷え固まっています。この燃料デブリ(推計880トン)の放射線はロボットが故障するほど(人が近づけば即死)で、その性状や分布範囲が不明のため取出方法も決まっていません。いまなお「敵情視察」の段階です。

 今回は、長さ22mの「釣り竿」の先端からケーブルを垂らして3グラム弱の砂粒状のかけらを摘まみとる予定でしたが、直前になり「竿」を押し込む5本のパイプ(各1.5m)の1本目が誤って4番目にセットされていると判明。並べ替えようにもパイプには既に電力ケーブルが通されており、防護服を着た従事者(48人が6人ずつ交代作業)も長く建屋内に留まれないため作業中止となりました。ちなみに1~4号基の建屋は毎時12,000ベクレルの放射性物質を大気中に放出しており、敷地内で毎日4500~4600人が働いています(ほとんどが下請け、孫請けの雇用者)。

 これら5本のパイプは形状が異なり接続順が決まっています。しかし作業手順書に「パイプの順番を確認する」という項目がなく、関係者は1か月ほどパイプを目にしながら間違いに気づきませんでした(こうしたミスは過去に何度もあります)。9月10日に作業が再開されましたが、採取したサンプルの放射線量が毎時24ミリシーベルトを超える場合は「隔離箱」からそのまま炉内に戻され、次の一手が検討されます。これが「とっつきやすい」2号基の話であり、1号基、3号基のデブリ調査はまだ先です。

 人為的なミスは必ず起こります。スリーマイル事故(1979年)はシステムの不具合と運転ミスにより冷却不能となったことが原因で、チェルノブイリ事故(1986年)は黒鉛炉の特性と運転ミスが重なって核暴走を起こしました。福島事故(2011年)は津波による電源喪失が引き金となりましたが、その後の対応ミスが被害を拡大しました。浸水被害を免れた1号基の非常用復水器が作動していると誤認したことを指揮にあたった所長が認め、深い反省を述べています(吉田調書)。

 これがメルトダウンを加速させて1号基建屋の水素爆発をもたらし、2号基、3号基の電源復活を頓挫させることとなりました。吉田所長は本社の指示を無視して海水冷却に踏み切り英雄視されましたが、後の検証で長時間にわたり海水が炉心に届いていなかった(冷やせなかった)ことが判明しています。なお前記の非常用復水器は「最後の砦」ですが、原発設置後に作動訓練が行われたことは一度もなく、操作に習熟した職員がいなかったことも判りました。

 福島第一原発は放射能で汚染されていて(汚染は環境に緩慢に拡散中)満足な現場検証が行えないため事故の全貌が不明ですが、現場の人々が死を覚悟し不眠不休で対応にあたったことは明らかで、彼らを非難することはできません。しかし少なくとも人類史上ワーストスリーの原発事故に人為的なミスが深く関わっていることについて、私たちは銘記すべきであると強く思います。

 ネジを作るにも帳簿をつけるにもミスはあります。無いに越したことないけれどゼロにはできません。それが人の常ですからミスを犯した個人を過度に責めることは不適切です。また多くのミスは取り返しがつきます。しかし「ミスをくり返す組織」は問題です。今回の東電の「パイプ間違い」は単体としては軽微なミスで、「3週間の時間のムダ」と「税金や電気料金で賄われている経費のムダ」で済みました。

 東電の「軽微でない」ミスや事故は、公表の範囲内で最近1年足らずの間に「ALPSの洗浄水による作業員被爆」、「高圧焼却炉の壁面配管からの水漏れ」、「廃棄物滞留ピットでの蒸気噴出」、「掘削作業によるケーブル損傷と停電」、「作業員の転落」など8件あります。これから数十年かかるとされる廃炉に向けてデブリの調査に入りますが、先に進むにしたがってミスは重大な結果を招きます。東電という組織の文化や思想が生まれ変わる必要があると私は思います。

 デブリ取り出しについて東電は当初、放射線の遮蔽に有利な「冠水工法」を想定していましたが、格納容器にモレがある(すなわち高濃度汚染水が漏出している)と分かり、今は粉じんの飛散が避けがたい「気中工法」を想定しています。先行事例であるスリーマイルの場合は事故炉は1基だけで溶けた核燃料(130トン)は炉内に留まっており、11年をかけて大半を仮置き場に搬出しました。チェルノブイリでは取り出しを断念して「石棺」で閉じ込め、ステンレスのシェルターで覆いました。

 政府や東電は廃炉完了を「2051年(27年後)」とか「数十年かかる」とか言いますが、おそらく施設の耐用年数等を踏まえた希望年数でしょう。複数の専門家は百年たっても無理だと指摘しており、残念ながらその見解の方が説得力があります。いずれにせよ言った人々も聞いた人々も見届けられないずっと未来の話です。デブリは長い年月、無防備な状態で存在し続けるし、その間に次の地震や津波が来ないという保証はありません。

 そもそも廃炉とはどんな状態を意味するのかさえ明らかにされていません。デブリは仮に取り出せても持っていく先がない(使用済み燃料さえ行き場がない)し、巨大なプラントを解体しても様々な程度に汚染された膨大なガレキを持っていく先がやはりありません。これらの作業がうまくいったと仮定してもデブリやガレキは原発敷地内に恒久的に「暫定保管」されるでしょう。この可能性について政府も東電も口を閉ざしています。

 政府の専門機関が「石棺」も選択肢の一つに入れて柔軟に検討すべきだという報告書を出して政治問題化したことがあります。福島県知事が怒り(それは当然でしょう)、政府がそれに配慮した結果、「石棺」という言葉はタブーとなりました。おそらく内部では「どんな困難があってもデブリを取り出すべきだ。石棺は敗北主義だ」という意見と、「現実をふまえて全ての選択肢を検討することが責任ある態度だ」という意見が対立したはずです。

 デブリは本当に取り出せるのか? 取り出したあと処理できるのか? それらが人と環境に及ぼす影響はどうか? 国家予算をこえるだろう経費の概算額はどれくらいか? の4点について科学的根拠にもとづくオープンな議論が真に求められています。いまからでも遅くありません。耳かき一杯のデブリを取り出し分析してから「石棺」を含めた情報提供と議論を行ってほしいと思います。

 いずれにせよデブリは将来世代へのツケです。というより原発の存在自体が重い負債です。作家の池澤夏樹は宗教学者、秋吉輝雄との対談で「原罪というのはなかなか分かりにくい概念で、僕はいまの日本に生まれる子供が自動的に一人当たり数百万円かの国の借金を背負わされるという事態を想像してしまう」と述べています(「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」2009年・小学館)。その発言から10年以上が過ぎた今は国債の国民一人の負担額は1000万円を超えました。池澤さんにならえば将来世代にとって「原発も原罪」です。

 自民と立憲の代表選挙で原発の廃止を明確に述べた人は誰もおらず、むしろ平素のスタンスから後退していました。苦い現実です。一筋の望みをかけるとすれば、小泉進次郎氏が首相に選ばれ、父純一郎氏の教えを守って脱原発に大きく舵を切ることしかないけれど、これは笑い話の類いです。今回は更新の間があいて本来のペースにもどってしまいました。 




2024/08/24

246)一日4合はアリですか?

  一日に4合のお酒なら、今の私は残念ながら首を横に振らざるをえません。もしそれがお米であれば4合はおおアリ、おおいに結構。1日に玄米4合と味噌と少しの野菜。ご存じ「雨ニモマケズ」に描かれた宮沢賢治の質素な食事です。4合は十分な量に見えますが副食はないに等しく、しかも彼は当時35才の青年でした。といっても既に彼の晩年です。ああ、もっとご馳走を食べ身体をいたわってくれたらよかったのに。

 私たちが宮沢賢治の足跡をたずね岩手各地をめぐったのは夏の盛りのことでした。強い日差しの中、写真で何度も見た生家や住居、農学校、農場、川べり(イギリス海岸)、彼の設計した花壇などの現場を歩き、記念館では残部わずかの教え子たちの回想記「先生はほほ~っと宙に舞った」にめぐり会うなど二人に忘れがたい夏となったものですから、何年もめぐった同じ季節に賢治について少し書こうと思います。

 宮沢賢治の生涯と作品を考える時、彼が日蓮宗の熱心な信者であったことに留意すべきだと皆が言うし、私も浄土真宗を信じる父との相克にふれました(記事197「2冊の本」)。この「雨ニモマケズ」もまた、周囲から「デクノボー」と呼ばれる一人の人間を姿を具体的に列挙した上で「そういう者に私はなりたい」と締めくくられた短詩であり、彼の信仰宣言として読むことが可能です
(実際に発表を予定しない私的メモとして書かれました)

 それはその通りなのですが、法華経信者なら誰もが賢治のように、あらゆることを自分を勘定に入れず、よく見聞きして忘れず、簡素な小さい家に住み、西に病気の子どもがあれば行って看病し、東に疲れた母があれば代わりに稲束を背負い、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、ほめられもせず、苦にもされず、、、という自己像を目ざすわけではありません。この詩には(結局はその全作品に)唯一無二の宮沢賢治という個性が息づいています。

 ぜひこの機会に「雨ニモマケズ」を再読して頂きたいのですが、「その人」は目立たず静かに暮らしているけれど孤立せず、むしろ社会に積極的な連帯感を示します。様々に苦しんでいる人々の所に出かけて助力を試み、人為を超えた干ばつや冷害の際には農民の「なすすべの無さ」を分け持ち、同時にそうした自分がどんな意味においても他人を煩わさないことを願うのです。社会における一人の人間の稀有の在り方。この詩はいつも胸に迫ります。

 花巻農学校の教え子に向け賢治は次のように書きました。「この四ケ年がわたくしにどんなに楽しかったか、わたくしは毎日を鳥のやうに教室でうたってくらした、誓って云ふがわたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない」(『生徒諸君に寄せる』断章)。それから70年の歳月を経て冒頭に記した回想記が編まれました(『先生はほほ~っと宙に舞った』写真・塩原日出夫、文・鳥山敏子、1992年、自然食通信社)。

 その目次に15人の教え子(もちろん高齢)のインタビューから抜き出した一言がタイトルとして並んでいます。いくつか紹介します。「ひょっこり藪に入って、まともに歩かないんですよ、先生は」、「先生の精神はいっこうに心から抜けないで、ありがたいことだと」、「先生のいうとおりの百姓になんねえで今日まで来てしまった」、「百姓の生活をなんとかよくしたいという先生の決意は固かった」、「急に『泳がねすか』と言うんです。十月でしょう、季節が」、「自分はニセモノの教師。先生はもっとゆったりやったじゃないか」。

 この本は宮沢賢治の「直接体験者」の証言集として貴重ですが、同時に、「一人の人が他の人の中でいかに生き生きと生き得るか」を示す実例集でもあります。ページの中で生徒と賢治が笑っています。久しぶりにこれを読み、先日読んだ別の本の言葉を思い出しました。「人から人へ何かが真に影響するとき、受け取った相手は影響を与えた人を模倣するのではなく、よりその人らしくなっていくものだ」。若松英輔氏による遠藤周作論の中の一節です(読んだばかりなのに書名忘却)。伝達の神髄を表すこの言葉は、布教や伝道にも通じる気がします。

 話は変わります。このほど3つの大きな平和祈念式典がありました。戦後生まれが人口の9割を占め、戦争を自己の記憶として持つ人はこの世に僅かとなりました。テレビや新聞がその声を掬っています。「報道特集」(金平さんの番組)は、中国での三光作戦に従軍した元兵士のインタビューを報じました。概略は次のとおりです。

 ~ 村を焼き払ったあと部隊の後をどこまでもついてくる5、6歳の男の子がいた。家族を殺され家を焼かれて他にどうしようもなかったのだろう。上官がその子を「処分」せよと命じ、私(元兵士)はそれに従った。戦争が終わり元の生活に戻ったある日、乗っていた電車に幼稚園児の一団が乗りこんできた。私は突然パニックに襲われ次の駅で飛び降りた。似たことをくり返すうち電車やバスに乗れなくなった。やがて幼稚園児に成長した孫の姿を見るのが苦痛となり、来訪が分かったら家を空けるようになった ~

 別のテレビで澤地久枝さんが語っていました。~ 満州で敗戦を迎え命からがら帰国したあとも困難と屈辱が続いた。長く黙っていたが、朝鮮にいた叔父の一家は敗戦を知って自決した。戦争になったら国は自国民を見捨てると身をもって知った。何が何でも戦争は回避しなければならない。これだけは言っておきたい。語ることが自分の責務である  ~

 また別に、沖縄戦の生存者が、姿の見えぬ米軍より日本軍が恐ろしかったと語りました。
8月だけが「平和月間」であることの是非は別として語り伝える記憶は大切です。安倍・菅政権の「積極的平和主義」をさらに「積極化」させた岸田首相の次を担おうとする自民党議員が多数います(こんなに後ろが詰まっていたとは!)。まずはこれらの人々に上記のような話をじっくり聞き、その上で感想文を提出してほしいと切に思います。できれば新学期が始まる前に。

 宮沢賢治とアジア太平洋15年戦争の間に関りはありませんが、どちらも私の「8月の記憶」です。最後に1冊の本について書きます。近ごろ本は借りると決めていますが「情報の歴史」だけは手元に置きたくて注文しました。この本の帯には「古今東西の情報の『関係線』がまるまる見える」とあり、「アルタミラから鬼滅の刃まで、ソクラテスからマトリックスまで、フランス革命から三島由紀夫まで、カバラから iPS細胞まで、蒸気機関からゲノム編集まで、ジョイスからレディーガガまで」という言葉が並んでいます。
 この本が届いた日に編集者である松岡正剛氏の訃報を知りました。このブログでとりあげた「近江ARS」(記事232記事236)の中心人物でもあります。知の巨人がまた一人去りました。その仕事の価値が十分に理解できない私でさえ心から惜しいと思います。

 このところ毎週のように更新してきたけれどそろそろ息切れ、書きたいことは山ほどあるのに文字化がうまくいきません。残暑きびしい折からゆっくり歩いて行こうと思います。皆さまもどうぞご自愛くださいますよう。




 

 
 

 

2024/08/16

245)一日市長はアリですか?

 この表題はもちろん反語で「一日市長」などアリエマセン。さる8月2日、炎上商法の石丸伸二氏が彦根市の一日市長に就任しました。先の都知事選において彦根市長の和田裕行氏が石丸氏を応援したことがきっかけだそうです。話題になるなら何でもやってのけるご両人とお見受けしました。ささいなことに目くじらをたてるな、これはシャレだ、笑って見ておけ等と仰るなかれ、実は「公」という樽の中の一個の腐ったリンゴかもしれません。

 「大津通信」という名のブログながら公共に関する考察が本来の趣旨(はるかな目標)ですから、いつぞやの東近江市長の発言(フリースクール暴論)と同じく、今回の彦根市長の行動にも言及しないわけにいきません。と言っても過去の彦根市長であった井伊氏、獅山氏、大久保氏らは何となく「人となり」が知れるのですが、3年前に就任した和田氏はあまり知りません。

 私は、以前からSNS上でよく見かける自己中心的でセンテンスの短い言葉が気になっており(遠慮なくいえば多くは不快)、大げさに言うとネット上で公私の区分が溶融しつつあるという危機感をもっています。SNSは本来的に「つぶやき」の共有・拡散サービスであり、私もブログやラインを使っていますからこれは言うのも空しい話ですけれど。ともかく今回、私は和田市長と石丸氏がネット上に発信している言葉を拾い読みしました。

 二人ともよく似ています。「愛する郷土のためにビジネスマンから市長になった」という経歴だけでなく、SNSを頼みの綱として社会に働きかけ一定の成功を収めている点が同じです。「恥を知れ」と議員を一喝する動画で名を上げた石丸氏は「悪名は無名にまさる」とうそぶき、石丸氏に市長のイスを貸した和田氏は「ユーチューブだけで市長になった男と言われている」と自己紹介しています。

 和田氏が石丸氏を城下町に招いた理由は「地元を盛り上げるため」であったそうです。私が想像するに和田氏は恐らく次のように考えたのでしょう。「石丸ちゃんは165万票とりよった、滋賀県は赤んぼ入れても140万人、これはえらいこっちゃ、ほんまにSNSで世直しが出来るど、これからも石丸を大事にせなあかん、そや一日市長かましたれ、何でも話題や、ネットにもばんばん流すでえ」

 和田・石丸氏と違って私はSNSが民主主義を劣化させる危険があると考えます。SNSのユーザーは和田氏が「オールドメディア」と呼ぶテレビや新聞を参照しません。どのメディアも手段に過ぎず、ことの真偽は私たち受け手側が判断しなければならない点では何を情報源としようが大差ないでしょう。でもこれまでも述べたようにネットは「私」をとめどなく肥大化させるツールでもあります。五輪選手に賞賛とバッシングの嵐が交互に吹き荒れたことや、石丸氏のやり玉にあがった安芸高田市の議員が殺害予告を受けたことはほんの一例です。

 自分と異なる価値観を認めることと対話することは、ともに難しいけれど社会という寄りあい所帯で共存していく合理的な手段であり、民主主義の基本的態度です。ところがSNSは政治参加への道を広げる一方でこうした民主主義マインドを蝕んでいます。これを問題と考えないどころか相手を打ち負かす格好の武器として使用しているのが石丸氏であり、それに倣おうとしているのが和田氏であるというのが私の意見です。

 彦根には陸上の桐生祥秀選手や水泳の大橋悠依選手などのスーパースターがいます。もし仮に一日市長なるイベントをやりたいなら彼らの方がふさわしいし、何より印象が爽やかです。あるいは夏休みの高校生の中から希望者をつのってもよい。彦根市の新採職員から選ぶのもありかも。石丸一日市長より百倍は良いはずです。

 しかしそもそも論から言えば、選挙で選ばれた市長という職名を市民の承諾なしに勝手に他人に貸すことは、たとえ一日の儀礼的イベントであっても適切ではありません。しかも和田市長はそれを自分の売名のために行ったと私は見ています。本人にその気がなくてもこれは公私混同です。ビジネスの論理に基づく「改革」を叫ぶ新自由主義的ポピュリスト市長(大津にもいました)がよく犯す過ちです。

 ちなみに石丸氏は本を出しています。議論術、思考、政治観を語った一冊だそうで、その名も「吾往かん」。お前は青年将校の亡霊か、お盆は済んだぞと私は心の中で言いました。恥を知れとはお前のことだと付け足しました。いやまったく、海ゆかば水づくカバネ、という軍歌が聞こえそうです。あるいはナメクジが100匹ほど這いまわっているバスタブに入ったような気持ちと言いましょうか(もちろん裸で)。

 書名はまことに雄弁です。この書名だけでも石丸氏が自分にうっとりするタイプ(臆面ない自己陶酔の人・自省のない人)であることがよく分かります。それは石丸氏の勝手だけれど、この言葉がネット上で受けると彼が判断したことが気がかりです。その判断だけは正確でしょう。こうした安手の言葉が共感を呼ぶ空間は平板でとても危なっかしいと思います。

 最後に、彦根はとてもよい町で私は好きです。何でもありの大津(これを言い出すと長くなる)と違って個性がキラリと光る城下町です。なんといっても彦根藩35万石は近江の顔、明治初期においても彦根が県内最大の町でした。県域南端の大津町に県庁が置かれなければ彦根が県庁所在地になったでしょう。明治と昭和に2回にわたり県庁移転運動もありました(1回目の時は県会がもめて内務大臣が裁定に入ったとか)。いまはひこにゃんが大活躍しています。ひこにゃんなら「1年市長」でも構いません。




 

 



2024/08/11

244)老人ノ外出ヲ禁ズ  

 赤道直下のような日本です。「不要不急の外出をするな。特に高齢者は用心せよ」とテレビに脅されながら日々桐生をさまよう私であります。それ以外の用事、例えば買い物は最小回数で済ませるし、飲食店に久しく入らず、図書館は月に2回ほど、雨あがりの増水した川を見に出かけることもありませんが桐生だけは別なのです。こんな自己都合の炎天散歩で救急隊のお世話になるわけにいきません。

 すると、私が足のマメに悩んでいた時(これも桐生がらみ)に尿素配合クリームが効くと教えてくれた若い友人が、今度は「塩飴をもって行きなさい」と言いました。なるほど。私はザックに雨具、着替え、救急セット、懐中電灯、十徳ナイフ、呼子を入れていますが、すぐ塩飴を7つ道具に加えました。汗をかきかき食べるとおいしいのです。高熱作業のような尾根歩きもこれで安心、しかも美味。

 しばらくするうち塩分補給を一歩進めたくなって、家を出る前、土俵で仕切りをする力士のように塩をなめることにしました。数日続けたあと、これはきつい、小分けにすべきだと考え、ペットボトルのお茶に塩を入れることを思いついて即実行。ボトルの小さな口からスプーンの塩を入れている時(コツがいります)、ここまでやるかと我ながら思ったら「君はゆくのか、そんなにしてまで」という歌詞が浮かびました。「君はゆくのか、あてもないのに」と続きます。

 ご存じの方もおられるでしょう、「若者たち」という歌です。桐生彷徨者への問いかけのようでもありますが、これは全体として、やむにやまれず突き進もうとする若者に対する賛歌であって、最後には「君のゆく道は希望へと続く」と予祝されます。まったく同感です。若者の未来は希望に輝いてほしいと思います。一方で私の桐生の道はどこへと続くのか。もはや問わないことが私の「老人の知恵」です。

 桐生から帰宅したある日、ポストに二つ折りの事務封筒が入っていました。その前に電話があった新聞の購読延長の書類だと思って机の上に投げおいて用事を済ませ、夕方に中を見ると敬老会の案内状でした。コミュニティセンターでの落語と音楽とお弁当。Oh my God ! 私が健康長寿課長であった時、各学区の敬老会にずいぶんご挨拶に伺いました。挨拶文は人任せにせず私なりの言葉で人生の先達への敬意と感謝を申し上げました。時はめぐります。ともかく私は欠席にマルをつけた葉書を投函しました。

 8月6日広島、9日長崎の平和祈念式典の両市長と岸田首相のスピーチを読みました。市長の言葉がまっとうであったことと、岸田氏の言葉が例によって貧弱であったことが対照的でした。公的スピーチには原稿がありますからこれは「原稿合戦」でもあります。政府は一自治体より大きなものを背負っているのだと粗末な原稿の作者および首相は思っているでしょう。ならば一層まっとうな言葉を連ねることが被爆国の政府の役割(欲せず抱えた使命)であろうと考えます。





 




早速それにいくと


す(よく効くので毎日せっせと手にもすり込んでいたら指の皮膚がふやけてしまったけれどこれは私の責任)。

 

 

2024/08/04

243)オリンピック

 宇宙に知的存在があって地球を眺めたなら、地表にハビコっている人類がさぞ不可解に見えることでしょう。異なる種を亡ぼしたり保護したり、同種内で殺しあったり助けあったり、エネルギー蕩尽のカラ騒ぎを繰り返しながら、全体では自分たちの生存環境の悪化を着実に進めつつある「不合理な生物集団」というわけです。異常気象や戦争のかたわら開かれたオリンピックについて書きますが高所からの意見ではなくささやかな不満です。

 私はかつてカール・ゴッチに心酔するプロレス少年であったし(布団の上でスープレックスを練習して首をねんざ)、その後テニス、サッカー、ラグビー観戦などを経て今は筋金入りの大相撲老人です。中年の頃はマラソンに飽き足らず70キロや100キロレースにも出ました。このとおり私はスポーツをするのも観るのも好きなのですがオリンピックだけは話が違います。この国別対抗戦が社会にもたらす「にわか愛国ムード」が気持ち悪いのです。

 先棒をかつぐのは例によってマスコミで、この時ばかりは偏向報道、感情移入、依怙贔屓、ほめ殺し、浪花節、涙の秘話、肉親情報など何でも許される(むしろ好感をもって迎え入れられる)と彼らは知っていますからアクセル全開です。この身も蓋もない演出と計算まじりの無邪気さが頂けません。先の戦争で「敗退」を「転戦」と報道したのは国家統制だったでしょうが今は主体的な確信犯です。彼らが好きな「サムライ」や「なでしこ」の言葉もセンスに欠けます。

 一方で日本の観客が日本選手を応援するのは自然だし、日本選手のパフォーマンスに一喜一憂するのも人情ですが、それにしても、頭髪にさす赤丸の小旗、手にかざす赤丸の扇、顔のペイント、殿様ちょんまげ(?)の被り物、息の合った手拍子、「ニッポン」の絶叫・連呼などは余りに過剰に思えます。もっともそれが選手の励みになっているようだし、他国も同様ですから私が文句をいうのは余計なお世話かも知れませんけれど。

 マスコミや観客の応援は、「同胞たる選手への共感」と「自国への愛着」の表現である、すなわち愛国心の発露であるとみんな言うでしょうが、私の「愛国」はもっと日常的なものです。すなわちゴミを捨てない、信号を守る、あおり運転をしない、道や席をゆずる、家族と友人を大切にする、投票する、原発について事実に即して考える、憲法を守るといった地味な事柄です。それはオリンピックと無縁です。

 ではオリンピックの応援は悪いのかと色をなして問われると、いえ祝祭に水をさす気はありません、言葉が足りませんでしたと私は気弱く謝ってしまいそうです。これは「取扱い注意」の話題ですが、熱狂はホドホドがよいと思うのです。とくに選手や関係者への賞賛と脅迫が並んでヒートアップするSNSの模様をみるとその感を深くします。これと関係してメダル競争にも疑問があります。

 子どもの幸福(よい学校を出てよい会社に入ること)は、親の経済力と愛情(子どもの運しだい)であることを「親ガチャ」と言うそうです。親にも子にも辛い言葉ですが、この伝で行くとオリンピックのメダルは「国ガチャ」であり、これは過去の国別メダル獲得数をみれば一目瞭然です。たとえばアンゴラ、コンゴ、ドミニカ、マダガスカル、バングラデシュ、パラオ、バヌアツなどの失礼ながら経済的に余り豊かでない国は出場しても表彰台に立ったことがありません。

 阿部兄妹だって「わたがしペア」だって、毎日数時間をかけて水汲みにいったり赤ちゃんや山羊の世話に追われていたらメダルを取れたはずがありません。まして現代の選手強化は金に糸目をつけず科学的知見を総動員して国家的プロジェクトとして行われます。ゆえにメダルが国力の威信となりますが、これも白ける話です。私は、とくに団体競技の場合、選手の練習環境があきらかに厳しい国を日本より応援したくなります。

 日本の選手たちは多くのものを犠牲にし人生をかけて挑んでいるだろうし、その陰に出場できなかった多くの選手がいるわけですから、そのことも忘れるわけにいきません。私は冷房のきいた部屋でテレビをみて好きなことを言っていますが、オリンピックはいつも但し書きつきです。この熱狂は日本が勝つこと、すなわち他国を打ち負かすことによって煽られます。まるで武器を持たない戦争に私たち国民が自発的に動員されているような気がするのです。

 最後に小咄をひとつ。
 大谷翔平選手が、調子のいい時はボールが止まって見えると言ったら、松山英樹選手が、それはスゴい、でもオレなんかいつでもそうだよ!と話したとか。おそまつでした。






2024/07/26

242)ハリスの旋風

 このたびトランプ氏が命拾いしたのは(彼がどんな人物であるかを別にして)本当に幸いでした。抱えられ立ち上がった姿、顔の流血、何やら罵詈を吐くらしき口元、突き上げるこぶし、青空にはためく星条旗をテレビは何度も流しました。「ほどよい傷を負った奇跡」が彼の名を高めました。コメンテーターで食っている橋下徹氏が、トランプ氏の強運と迫力に畏怖せざるを得ないと言ったそうです。

 橋下氏は他にプーチンと習近平の名をあげ、独裁的指導者が身に帯びる圧倒的な迫力について語ったとか。彼は「政治をやったことがある者」の実感として学者を批判する文脈でこの意見を述べました。彼の言いそうなことだし確かにそれは一面の真実でしょう。ヒトラーやムッソリーニも凄まじいオーラを放っていたはずです。しかし重要なのは、そうした力を賞賛するか否か、その力の源泉を肯定するか否か、その力により社会が導かれることを是認するか否かという理念上の問題ではありませんか。

 この銃撃事件より少し前のこと、自民党の茂木敏充氏が、「もしトラ」になってもちゃんと手を打ってあるから日本は大丈夫だと語り、また自分自身もトランプ氏から「タフな男だ」と言われたことを自慢しました。まるで「お前って意外とけんか強そうじゃん」とジャイアンにおだてられ鼻を高くするスネオです。他人事ながら恥ずかしい。橋下、茂木ほか多くの業界人が力の信奉者であるようです。

 ところで茂木氏は米国の大統領が誰になっても日本の国益が(今より)損なわれないよう準備していると言いますが、では、駐留米兵による性犯罪にフタをして次の犯罪を呼び寄せたかのごとき政府の対応は、国益と人権を損なっていないのでしょうか。昨年12月、沖縄で米兵が女性に性的暴行を加え、本年3月に那覇地検が起訴、同時に外務省が駐米大使を呼んで抗議しましたが沖縄県はカヤの外。6月の県議選の後(!)にマスコミに突かれて政府は初めてこの経緯を認めました。

 この重大犯罪を隠していた理由は「プライバシーの保護」であると政府は言うけれど、小学生のヘリクツです(県職員の死亡の事実を伏せていた兵庫県も同じ)。社会に警鐘が鳴らされず沖縄でさらなる同種事件が起こりました。30年前に米兵3人が少女(小学生)への暴行事件が起こった時は沖縄はもちろん全国が怒ったはずですが、政府だけは忘れていたようです。
 総責任者たる岸田氏は事あるごとに「先送りにできない課題に全身全霊で取り組むのみ」と言います。どうも私たちは空疎な呪文に寛容すぎるのではないでしょうか。

 バイデン氏が撤退しました。他人が見る眼と自分の自覚は、とくに加齢の問題において大きく食い違うもののようです。私自身を振り返ってもそのように思います。権力者には極めて困難であろう決断を下したことは、長い目でみてバイデン氏の評価を高めると思います。私の子どもの頃、「ハリスの旋風(かぜ)」というちばてつやの人気漫画がありました。これから米国でカマラ・ハリスの旋風が吹くことを期待します。




 

 

2024/07/20

241)桐生雑感

  雨粒に叩かれ頭を下げっぱなしの庭の葉むらを横目に見ながらブログ(前回記事)を書き終えたらちょうど雨がやみました。7月12日の午後おそく。雲は厚いけれど出かけるなら今。パソコンのふたを閉じ、巨大なキュウリや黄色く熟れたゴーヤの始末はまた今度と決めて車に乗りました。めざすは桐生です。

 東に向かって空いた道を10分あまり走ると目的地ですが、駐車場には珍しく1台も車がなく、キャンプ場やオランダ堰堤にも人の姿はありません。歩き出すと木々の間に靄がかかって見通しがきかず、濡れた落ち葉からむせるような香気が立ちのぼります。いつもうるさいほどのウグイスも鳴かず聞こえるのは私の足音ばかり。今日は自然が濃いと感じたのは、いま思えば予感であったかも知れません。

 桐生には1時間ほどで1周できる遊歩道があって、そこから狛坂寺跡、天狗岩、落合滝、鶏冠山などにいたる山路が分岐していますが、この日は時間もないので「遊歩道プラス逆さ観音への寄り道」と決めました。雨で垂れ下がった枝をよけながら行程の半分まで来たとき、少し先を小型犬ほどの茶色い塊が横切って大木の向こうに回り込みました。イノシシの子どもです。足跡はよく見かけるけれどその主を見たのは10数年ぶりのこと。

 きっと近くにママがいるだろうと思って一瞬立ち止まると斜面の上で枯れ枝を踏むような音。すぐにリュックサックのベルトから唐辛子スプレーを引き抜いて手に持ちました。これは私の山林放浪を案じて息子が取り寄せてくれた熊にも有効だという逸品、一年近く携行していますが使ったことはありません(庭で試射しオレンジ色の霧が数メートル飛ぶと確認済)。周囲を見ながら歩き続けてその場を離れました。結局親イノシシの姿を見ることはありませんでした。

 近ごろ町なかにも現れるイノシシは、本来のすみかである山中でめったに見ることができません。用心深い彼らも、雨続きでしばらく人が来ないことに安心したのでしょう。私はスプレーの安全ロックをかけてホルダーに戻し、帰り道を急ぎました。逆さ観音を過ぎ遊歩道に戻って20分ほど進んだ時、今度はカーブのすぐ先で大きな鹿が3頭現れました。山から谷川に下りようとしたところに私が行き合わせたようです。お互いびっくりです。

 奈良公園にいるような茶色い綺麗な鹿が、遊歩道を横切って先を争うように急斜面を駆け下り姿を消しました。歩道の簡易舗装(粟おこしのようなコンクリート)を幾つもの蹄が蹴る音は荒々しく重量感があって、もし彼らがこちらへ向かってきたらとてもかなわないと感じました。今回はスプレーを取り出す余裕もありません。私が数メートル進むと右手の山にはやや小さい1頭の鹿がいて、あわてて上の方に逃げていきました。私が4頭の群れを分断したことになります。

 ほどなく山頂の方角から仲間をよぶ鹿の鳴き声が聞こえました。状況が分かるだけに哀切に響きます。「奥山にもみじ踏み分け啼く鹿」です。いまは梅雨のさなかだけれど。ところで彼らの五感は私たちの比ではないし、何といってもここは彼らの庭先ですから、ほどなく彼らは合流したに違いありません。

 家に帰って缶ビール片手に2つの遭遇を振り返りました。雨にとざされたと感じるのは当方の勝手な思いであり、森も生き物も、人が来ないために自由満喫、本性発揮です。「自然が濃い」とはそんな感じです。自分が知らなかった友人の別の顔を見た時、あるいは楽屋のドアが開いていて役者の素顔が見えた時の感覚に似ているかも知れません。それはなかなか良いものでありました。唐辛子スプレー持参で侵入して能天気なことを言うなとイノシシや鹿は怒るでしょう。そこはひらにお許しいただくしかありません。




2024/07/12

240)ついてけまへん

 ある日、散歩からもどった祖父が言うには、いま堤防で「Hマンに注意しましょう」という看板を見た、Hマンとは何か? 何かの頭文字らしいが狐は「F」だし狼は「W」だし、だいたいケモノが町なかに出るはずなかろう。母が笑ってそれは痴漢のことですよと説明したけれど祖父は一向に釈然としない様子でした。小学生の私も知っていた「H」という言葉。それから60年の星霜を経て因果はめぐる糸車、いま祖父と同じ道を歩く私です。

 「ぴえん」、「がん見」、「リア充」、「バズる」、「JK」等は見当がつかず、「推し」、「盛る」、「ドン引き」、「映(ば)える」等は字面から意味を憶測するばかり、「ざっくり」、「ほぼほぼ」、「どはまり」、「エモい」、「ささる」、「ディスる」、「バズる」、「ばり」、「まじ」、「やばい」、「~なう」等はどうにも語感が軽薄・下品です。しかもこれらの新語の多くはすでに死語だとか、もうついて行けません。

 私がついていけない、すなわち「今どきの言葉」になじめないのは、まず自分の年齢のせいだと自覚しています。これはいたしかたなし。
 理由の2番目は、「今どきの言葉」が身にまとっている「時代の空気」が私にはあまり快くないという事情があります。「それこそ年寄りの証拠だ」という人もいるでしょうが、実はそうとばかり言いきれないモヤモヤ感があるのです。説明が難しいけれどおよそ次のような次第です。

 歴史をヒモトクと一つの国がずっと発展し続けることはなく、内部の覇権争いをくり返しながら全体としては爛熟、停滞、衰退し、時に蘇ったりするようです。そして日本は近代国家となって160年、いまや人口や経済の指標に明らかなように後戻りのできない停滞局面に入っています。このまま衰退すると思いませんが、かつてのような「今日より明日が良くなる」という社会的気分はとうに失われ「内向マインド」が優勢になっています。

 とくに若い人々は炭鉱のカナリアのように鋭敏ですから、この気分を先取りしているように思います。例えば複数の意識調査(国際比較)によると、日本の若者は、欧・米・韓・中の若者と比べ社会志向、職業観、自己評価、自分や国の将来像などの面で顕著にネガティブな傾向を示しています。良し悪しを別に一言でいうと日本の若い衆は内向きで自信がなくペシミスティックなのですこのことに私たち大人が深く関与していますが、しかし、若い人はたとえ根拠に乏しくても楽天的であってほしいと願います。

 さて、こうした内向社会における仲間意識とナルシズム、その反面の排他意識、現世利益願望、刹那的感覚などのメンタリティが、若者言葉やネットスラング等の新造語の誕生・流通と深く関わっている。さらにはいじめや差別などの事象につながっている。これは好ましい状況ではないだろう。私はこのように(根拠に乏しくても)考えており、それがモヤモヤ感につながっているのです。私もその社会の一員だし、一方で日本社会に美点が沢山あることは言うまでもありませんけれど。

 次に「言葉の使い方」について感じるところを書きます。
 たとえば「大丈夫」という言葉。バナナの皮ですべって尻もちをついた、後ろを歩いていた人が駆け寄って「大丈夫ですか」?と聞く。 転んだ方も照れ笑いしつつ「いやどうも、大丈夫です」と答える。あるいは「これから鬼退治に行ってきます」、「お前一人で大丈夫かえ?」、「 大丈夫です、きび団子があれば十人力!」、、、これが本来の「大丈夫」です。
 しかし今どきの人は美味しいかと尋ねられて「大丈夫です」と答えます。毒見役でもあるまいし。「差し支えありませんか」に替えて「大丈夫ですか」とも使われます。

 「なります」も珍妙です。「これが四国霊場のジオラマになります」、「次にお見せするのが井伊家の家宝になります」、「お待たせしました、コーヒーになります」という具合。「なる」という言葉は「ヤゴはトンボになります」という時に使うものと決まっています。用例はすでに古事記に見えます。イザナミの身体の「なりなりてなり合わぬ」一部分と、イザナギの身体の「なりなりてなり余れる」一部分が結合してこの国が誕生したという国産み神話です。

 「かな?」も違和感に満ちています。「みんなが弾丸登山禁止のルールを守ってくれるとありがたいかな、と思います」のように。なぜ「ありがたいです」とか「ルールを守ってほしいです」といえないかな?

 「させていただく」も too much です。「お客様が新幹線に間に合うよう急がさせていただきました」、「この映画に出演させていただいて嬉しかったかなと思わさせていただきました」。

 「よろしかったですか?」や「よろしかったでしたか?」は不思議な過去形です。「よろしいですか?」が普通だと思うのですが。

 「私の中では」も聞きづらい表現です。「その話は私の中ではちょっとおかしいんじゃないかなーと思っていてー」と使われます。「の中で」という言葉は不必要、無意味、蛇足、冗長、無駄、邪魔でしかありません。

 「なってございます」は不快なうえ文法的に誤りです。たとえば「このドアは顔・音声・指紋の3重ロックの安心安全なシステムとなってございます」のごとく。「いる・います・おります」と、「ある・あります・ございます」の2系統の使い分けは小学校で習うでしょう。国会答弁でもよく耳にする間違いです。

 「どうぞこちらへ参られてください」も時おり耳にします。「参る」は「行く」の謙譲語で
すから相手に対しては「お越しください」と言うべきところ。お坊さんがいう「おまいりください」は「詣る」の方です。

 「いまお客さまが申されましたように、、」も同じことで、「お客さまが仰いましたように、、」と言わないと私のような年配客のカスハラを誘発します。

 「視聴者の皆さまもご参加してください」と先ほどテレビが言いました。「ご」は体言の前に置く接頭語ですから「ご参加ください」と言ってほしいものです。
 当たり前のことをクドクド言うな、あまり細かいことを言うな、とのお声が聞こえそうですからこの辺でやめます。

 これらの言い方には共通して表現の「間接化・婉曲化の意図」が感じられます。それは残念ながら礼節や洗練への志向ではなく、多数の人々の自衛意識の現れ、すなわち今の世の中は怖いという警戒感を示すものであろうと思います。その背景に前回記事(カスハラクレーマー)のような事象があり、またSNSがいつでも危険地帯に変わりうる現状があります。こうしたわけで時代の気分と深く結びついている「今どきの言葉」に私はよけいについて行けないのです。

 まるで自分一人が正しいように書いたけれど勿論そんな気はありません。折ふしに感じることどもを分かち合う無上の人がいないゆえ自然と溜まった小さな不満を連ねた次第です。今後は、海外からの移住者の増加が日常語の平板化をもたらすかも知れず、生成AIが従来とまったく異質の表現を普及させる可能性もあります。総じて言葉の変化は早まるでしょう。

 若者に楽天的になってほしいと書いた私ですが、こと言葉に関する限りあまり明るい未来を想像できないのです(文学ではなく言葉について語っています)。そして60年前、Hマンに首をかしげた祖父はおそらく一抹の寂寥を感じていたのであろう、いま私はそのように思います。

 <最後に都知事選の感想をひとこと>

 蓮舫氏は、候補者の中で一番よいと思っていたのに3位どまりで残念です。ささいな話ですが同氏が演説で若い人々のことを「若い子たち」とか「この子たち」と呼んだことが気になりました。これは親愛の情ではなく優越意識の表れでしょう。しかしそれでも、蓮舫氏には政治状況を変えるため今後も力を発揮してほしいと思います。

 小池氏(さらに自信と自己愛にあふれた人)は、現職の強みを存分に発揮しました。実績が一定の評価を得ましたが、そもそも行政は税金の再配分ですから住民に利益を供与して当然(積極的な不利益を与えることが不可能)だという基本的性格があります。この面から見て都民の目は少し寛大すぎると感じました。

 石丸氏(これまた自己陶酔の人)は、断片的な演説だけで無党派の若者を引きつけました。同氏の唯一の武器であるSNSは「劣情の培養装置」でもあるという負の側面をもっています(劣情とは文字の通りで性的なものばかりを意味しません)。今や「注目が力」の世の中です。石丸氏ばかりでなく都知事選全体がその様相を呈しました。まじやばい!

 若者が痛感しているのはここ10年から20年ほどの日本の政治の不毛でしょう。既成政党は信頼できないと思って当然だし、まったく豊かさを実感できない社会です。石丸氏はその不満をうまく掬いました。彼が今後どうするか私の知ったことではないけれど、165万票を得た者として、自己の政治思想について社会にむけきちんと語る責務があります。
 また野党には自民との対立軸だけに依らない自己改革が求められているし、海の向こうのバイデン氏は若手に道を譲るべきだと思います。

 暑さや雨で桐生に行かない日が増えてブログ更新がはかどりました。そろそろ息切れで月2ペースに戻しますが、時おり覗いて頂けたら幸いです。時節柄どなた様もご自愛くださいますよう。