2024/06/28

238)カス・ハラ

 「ホワイトカラー」や「ブルーカラー」に比べると「ブラック企業」は新しい言い方ですが、それでも10年以上は使われているでしょう。今どきは「いただき女子」が「パパ活」にあきて「婚活」を始め、「妊活」をへて「保活」する時代です。社会の情報化はとどまるところを知らず「私語の社会化」も進んでいますから、新語が次々に誕生するのは当然です。もともと言葉に保守的な私はもうついていけません

 芸はないけれど便利な造語に、セクハラ、パワハラ、アルハラ、アカハラ、モラハラ、マタハラなど「ハラスメントシリーズ」があります。今回はその1つの「カスハラ」を取り上げます。これは「顧客による度を越した嫌がらせや要求」というほどの意味でしょう。新しい言葉はえてして軽佻な響きを伴いますが、他方で実態を浮かび上がらせる喚起力を持つ(場合がある)ことを認めないわけにいきません。

 かつて「お客さまは神様です」と三波春夫が言いました。キリスト教圏やイスラム教圏で驚きと怒りを招くであろうこの「見立て」が我が国で広く受け入れられてきた背景に、八百万もの神がおわしますことの曖昧さ(絶対性の欠如)があるでしょう。日本に仏像は多数あるが神像はほとんど見当たらないとは松岡正剛の指摘ですが、神はイメージしにくい不定形の存在であるゆえ置き替え可能であり「お客さまが神様」だって特に問題ありません。

 一方で神様はその曖昧さにも関わらず何やら畏れ多いものだと皆が認識しています。西行は「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」と詠んだし、近代においては立小便よけに鳥居の画が描かれました。初詣も地鎮祭も七五三もすたれはしません。こうした事情で三波春夫の名言は今なお立派に通用し、本人の意図と関係なくカスハラの肥沃な土壌となっています。

 もう一つに、日本をふくむグローバルな状況として、市場原理が社会の隅々まで行きわたっている現実があります。世の中のあらゆるモノとサービスに値札がつけられ市場に出品されています。そこでは「売れるかどうかだけ」が重要であり社会正義など知ったことではありません(トヨタその他の企業のように)。市場の審判者は消費者ですから、この点からも「お客さまは神様」です。

 しかしお客さまはしばしば荒ぶる神となります。ラーメン店で過剰な「トッピング注文」をくり返した客がある日それを拒否され、腹いせに丼の中に胡椒と爪楊枝を容器ごとぶちまけた、という防犯カメラの映像を見ました。店側が警察に相談したら火に油となって「殺すぞ」という連日の脅迫電話。店主は、何かあってからでは遅いと店を閉めたそうです。他にもお客の嫌がらせでタクシーの運転手が辞めたり、町役場の課長が病休になったり。カスハラを行うのはごく一部の客でしょうが事例は増えているようです。

 一歩ひいて「消費者」対「資本」の関係で見ると、後者の力がはるかに勝っていることは明らかです。GAFAは世界を制覇したと言ってよいし、国内ではトヨタ、東電、三菱UFJ、任天堂等々多くの企業が絶大なパワーを誇っています(表向きは消費者の顔を立ててくれますが)。「民」対「官」の関係においても「官」の優位は圧倒的です。これは逮捕、収監、召喚などに明らかだし、そこいらの市役所だって徴税、収用などの力を有します。この構図の中ではカスハラも起きようがありません。

 しかし、ラーメン店やヨガ教室や花屋の経営者を「資本側」と見なすことには無理があるし、役所の窓口の職員は「官」であるけれど、同時に「一人の生身の人間」として相手に対応しています。このような現場、すなわち顧客や住民に対面してサービスなどが直接的に提供される場面においてカスハラが起動します。

 カスハラ客にも三分の理屈があるでしょう。それに異議申し立てや抗議とカスハラの区別も容易ではありません。先ほど「度を越した嫌がらせや要求」と書きましたが、その境界線も相対的です。またカスハラ客は中高年男性に多いと聞きますが、もしそうなら私も予備軍です。一方で、福祉施設の職員が利用者にセクハラを行うという逆方向のハラスメント(人権侵害)もあります。ですからハラスメント論議には十分な慎重さが求められると思います。その上で言いますが、カスハラはカスタマーでなく「カス」によるハラスメントだと私は思っています。

 福沢諭吉が言いました(何で読んだか忘却のかなた)。ある日、道を歩いていて、行き違う相手の態度に2種類あると気づいた。どうやら自分(諭吉)が士族か平民かを値踏みしているらしい。試しに腰に二本差しているかのように武張って歩くと相手は腰をかがめて道を譲る。逆に、気弱そうにへいこらして脇によけると相手は黙殺して傲然と行き過ぎる。そうか相手が強いと思えば弱く出て、弱いと思えば強く出る。四民平等のご時勢となっても日本人の根性は江戸と変わらぬ。ああ文明開化いまだ遠し。

 確かこんな話でした。「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という彼の言葉については前にも書きました(記事205「言葉について 2」)。カスハラという行為は私に諭吉のエピソードを思い出させます。ひょっとしてカスハラ客も、自分の仕事中(得意先回りをしている時)は愛想のよい好人物かも知れないし、相手からいじめられているかも知れません。もしそうなら文明開化いまだ遠し。「ご同輩、怒りのエネルギーは共にもっと大きいところに向けようではありませんか」。カスハラ客に私はこう言いたいと思います。

 次回は続編としてクレーマーについて書きます。また、私が言葉の「保守主義者」として平素感じている違和感についても後日あらためて書くつもりです。







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