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2025/10/29

292)世界の真ん中で咲き誇る

  安倍晋三氏にならって高市首相も「世界の真ん中で咲き誇る国」と言いました。やはり並みの人ではありません。まるでローマ帝国(他にモンゴル帝国、大英帝国、スペイン帝国、ロシア帝国など)の皇帝の亡霊のようです。すこし小粒ですが「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という藤原道長の心情に通じるものもあります。

 また「世界でもっとも偉大な日米同盟」と高市首相は言いました。言い過ぎです。どさくさ紛れに防衛費の前倒し増額も口にしました。こうした勇ましい発言が世に受けています。内閣支持率は高いし、日経平均株価も上昇、5万円を超えてクス玉が割られました。私もアヅマも株とまったく無縁の暮らしでしたが、こんなことならどこかの株を買っておけばよかったと内心思わなくもありません(いまさら始めませんが)。 

 トランプ氏へのオモテナシも過剰でした。首脳の個人的関係が大切なのはもちろんだし、特に相手は小児的で計算高い独裁者ですから「トランプシフト」の必要性は理解します。政府関係者も苦労したことでしょう。それにしても日本はいちおう独立国であって高市氏はその首相です。親しさの中にもう少し「対等感」を出して欲しかったと思います。高市氏がトランプ氏を肩でついたり原子力空母の上でぴょんぴょん跳びはねたは「国辱」だし、ノーベル賞の推薦にもげんなりしました。

 この滞在中、トランプ氏は自前の特別車両から市民に手をふり(歓迎一色、デモもなし)、高市氏と仲よく特別ヘリに乗って六本木の基地から横須賀基地に飛び、並みいる兵士らの前で高市氏の肩を引き寄せました。両氏とも軍事同盟イケイケです。トランプ氏にとっては対立と銃があふれる米国内での遊説よりずっとくつろげる日本だったことでしょう。裏庭感覚です。「ここはいい『州』だぜと」感じているに違いありません。

 商談も進みました。日本有数の企業のトップらが夕食会で貢ぎ物を発表しました。契約書はまだにしても60兆円の投資です。企業にとっては手をあげなければ儲けるチャンスがないけれど、話が具体化するにつれトランプ関税のように無理を言われる可能性があります。この大金を別に使ったほうが国や企業のためになった!という事態が生じないことを祈ります(どこに使ったらよいか見当もつきませんが)。

 つい悪口めいたことを書きましたが米国との関係は大切だし、今回の首脳外交はおよそマルであったと思います。ただ巨大な隣人である中国との関係も同じく大切です。台湾有事で米軍が出動しても危ないのは米国本土でなく日本です。一本足打法(昔なつかしい響き)はだめでしょう。そのためにも平和憲法があるはずです。これを変えるなどもってのほか。トランプ氏が大事なのは米国(米国民の票)であることを忘れてはならないと思います。問題はこれからです。

 高市氏はトランプ氏から手土産をもらったかどうか知りませんが、私からはSMAPの歌「世界に一つだけの花」をプレゼントします。 
 ~ 花屋の店先に並んだ 色んな花を見ている 人それぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで バケツのなか誇らしげに しゃんと胸を張っている(中略) そうさ僕らは 世界に一つだけの花 一人ひとりちがう種をもつ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい(中略)小さな花大きな花 一つとして同じものはない ナンバーワンにならなくていい もともと特別なオンリーワン ~

 アヅマのいた研究室の学生の結婚式に招かれ、この曲のギター伴奏をしたことを思い出します。ピアノと沖縄の三線も加わって会場は大合唱になりました。もう20年以上まえの話です。




2025/10/22

291)魔女が笑う

  「鷹位置内閣」が誕生しました。少なくとも日本初の女性首相として意義があります。性別より中身だという意見もありますが、歴代の男性首相の中身を見るとそうとばかり言えません。よかれあしかれ憲政史に新たな1ページが加えられました。これがこの内閣のたった一つのプラス面かも知れません。もちろん土居たか子氏が衆議院議長になった時のような感慨は私にありません。

 マイナス面(懸念事項)はいくつもあります。自民は「保守」の旗を、維新は「改革」の旗を掲げ本来は水と油のはずなのに両者とも基本理念が一致した主張するのは「打算」と「打算」が一致しただけでしょう。夫婦別れした家に早速入り込んできた後釜がちょいと危険な人物で、前妻(前夫)に去られた夫(妻)が「前の相手より相性がよさそうだ」と喜んでいるような状況です。結果として夫婦の危険度はアップしました。

 維新のいうセンターピン(なんとも軽薄な表現)である議員削減法案を臨時国会に出すそうですが、これは民主主義のルールにかかわる課題ゆえ何とも乱暴な話です。また、安保関連の3項目も前倒しで進める、防衛費もすみやかに増額すると高市氏は息巻いています。財源は「責任ある積極財政」で補うらしいけれど一体どうするのか理解が困難です。自衛力を高めることに一定の理由はありますが、それは戦争の回避より招来につながる可能性が大いにあって、その議論を深めなければなりません。

 物価対策もたちまちの手当てばかりでなく、経済が強化され円の価値を上げるための道すじが明確に示されなければなりません。外国人との共生も夫婦別姓もさらに遠のくでしょう。スパイ防止法案も危険と隣り合わせです。副大臣らには裏金議員も名を連ねています。「決断と前進」の内閣はいいけれど、「何を」が肝心です。高市氏の野望が私には空恐ろしく感じられます。高市内閣の第一印象を記しました。ハイペースの更新でしたが今後はボツボツ書いていきます。





 

2025/10/19

290)「嫁」をめぐって

  猫の目のような政局です。国民民主の玉木氏がもったいぶっているうちに維新に先を越されました。「企業団体献金廃止」の表看板を一夜にして「議員定数削減」に書き変えた維新も猫の目です。自民・維新タッグに参政・N国も加わるとか、世も末じゃあ。これまでの野党結集の動きを「野合」や「数あわせ」と非難して来た自民党が今それを励行中です。ここ10年ほどの各党党首の約束や言明を一覧表にしてくる人はいないでしょうか。SNSより投票の参考になるはずです。

 今回は前の記事(シゲルとサナエ)のサイドメニューである立憲・本庄氏の「麻生家に嫁入りした高市さん」発言をとりあげます。「この発言は女性蔑視だと批判を受けているがレトリックとして上出来だ」とO君は言いました。麻生派の力で自民党(伝統的な家族形態を重んじる党)の総裁となった「男まさり」の高市氏が、いまや麻生家の「嫁」のように窮屈な立場に追い込まれているという本庄氏の比喩をO君は面白がっています。

 これは高市氏の自業自得であり、私はO君の意見に半分同感ですが、「嫁発言」はよしとしません。大人になってから私は、自分の意見を表明する際に「嫁」という言葉を使っていません。なぜなら、社会の中で長きにわたって足を踏まれ続けてきた女性の立場を象徴する言葉の一つが「嫁」であること、そして今もその残滓が濃いことを私は認識しており、「嫁」という言葉を今あらためて自分が使うことによって反射的に旧弊をかつぐ側に回ることになると思うからです。

 たとえばある社会構造的な状況(しかも理不尽で極端な状況)があるとします。すなわちシンボリックな状況です。それをさして「これは基地に苦しむ沖縄みたいな状況だね」と言うことは妥当ではないでしょう。「嫁発言」はこれに似ています。しかし一方で私は、ニコニコしながら「嫁」とか「嫁さん」という言う若い人々に対し注意も反対もしません。私には他人を「教育」する考えも資格もありません。

 「言葉狩り」には賛同しません。人の「嫁発言」を厳しく咎める人は、「嫁」という黒歴史を背負っている言葉が世間一般に通用しているかぎりその実体も生きのびる。したがって「嫁」と言ってはならないと考えています。一種の言霊論です。私は優柔不断ながらこの考えにも半分賛成、半分反対です。もしこの立場にたつならば「鬼嫁」は絶対アウトだし「花嫁」も不適切表現でしょう。

 しかしジューンブライドはどう訳せばよいでしょう。「6月に結婚するカップルのうち女性の方をいう」と言うのでしょうか(女性どうしの結婚の場合はさらにややこしい)。また、昔なつかしい「はしだのりひことクライマックス」の「花嫁」(花嫁は夜汽車に乗って嫁いでいくの~)や小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」は放送禁止でしょうか?(これらの歌詞が低俗であることを別として。)

 戦争は絶対悪だからこの言葉を社会から抹殺しよう。もし戦争という言葉をつかう必要が生じた場合は「せ」と言うことにしよう、という風刺小説を読んだ記憶があります。筒井康隆だったと思うけれどいま調べてもわかりません。この例にならうと「奴隷」という言葉も絶対悪です。「恋の奴隷」だったら許されるでしょうか。

 また昔は身体的・精神的な不全をさす直截な言葉が平気で使われていました。活字として広く流通した例に記憶の範囲で内田百閒の随筆があります。この作家は、友人である宮城道雄(少年期に失明した琴の名演奏家)に対し、今なら「目の不自由な人」に相当する言葉をストレートにぶつけ、二人の会話がそのまま楽しく続いていく場面がありました。二人が親しかったという理由だけでなくそれが社会の風潮でもありました。

 もう一つ安倍公房の小説(題名は記憶せず)も思い出します。この小説の中で朝鮮半島出身者をさす言葉の前に「不逞」の文字をつけた4文字熟語が何度か出てきました。この言葉もまた当時は広く使われ、関東大震災の際も井戸に毒を投げ込んだ容疑者は彼らだとして警察の記録にも載せられています。

 いまは総じて表現がマイルドになっていることは社会の進歩でしょうが、一方でオブラートに包まれた中身(無理解、偏見、蔑視など)が根強く残っている例は少なくありません。人が言う「嫁」という言葉をスルーすると先ほど言った私ですが、いま挙げたようなきつい言葉を友人知人が使った場合はさすがに注意すると思います。

 また私は、「盲目」は実体を示す言葉として理解するけれど、それを形容詞的に使う「盲目的」、「盲従」、「盲信」などの言葉を近ごろは使いません。目の見えない人に対してあまりに失礼だと思うのです。不適切だと感じる言葉は人によりマチマチです。それに言葉は文脈に応じて意味も変わります。ゆえに私は「不適切用語」について一つの尺度をもつことができません。正解はなく複数の「解」あるのだと思っています。以上が前回記事の積み残しです。

 次回を書くまでには首相が決まっているでしょう。ほんとうに政治の節目だと思います。





 

2025/10/16

289)シゲルとサナエ

  「 高市さん、真っ先に自民党の本領発揮で清々しいですね。公明党が気高く見えるような展開に目が離せません。野田さんの節操のなさも印象深いことです。次々善の政治で未来につながればまだしもです。」とは 友人T君の弁です。「大津通信」の専属無給カメラマンでもある彼は、きのう秋の写真を4分割してメールで送ってくれましたが、各メールに1行ずつ上記の言葉が付されていました。

 また友人O君は、わが家の修繕費と総裁選の結果を嘆いた前回記事(番外編)を読んで次のメールをくれました。「1000万のほうが高市よりタイヘンや。その営業マン、ようまあ、そんな金額をシレっと言えたもんやな。立民の本庄が『麻生家に嫁入りした高市さん』と云うて、女性蔑視やと責められとる。俺は上出来のレトリックやと思うけどな。『嫁』の一文字は高市の立場を射抜いて雄弁やで。茂呂の高市論はいかに?」とあります。

 T君もO君も私の気のおけない友人であり二人ともうまい書き手ですが、おかしいほど文体が違います。考えてみると私を含め大抵の人はT君のように「書き言葉」で書きますから、肉声をそのまま文字に移した「テープ起こし」のような文章をつづるO君を異才と呼ぶべきかも知れません(彼は記事287でも活躍しています)。二人の声を受け私も政局について少し書きます。

 「公明離脱」に色々と裏事情があるにしても、同党が裏金問題を重要視していることは間違いないでしょう。「政治とカネ」は大きくは政界全体の課題ですが、自民党においてはそれが体質と化しています。だから反省しようがないのでしょう。このままでは泥船だと公明党が考えたのは当然です。もちろん四半世紀にわたり与党であった公明党がひとり清廉潔白であったとは思いません。

 ヘリコプターの尻尾の先についている小さなプロペラの役割を公明党は果たしていました。本物のヘリなら墜落しますが、自民党は落ちないかわり右旋回するでしょう。「えいくそ、こうなったらとことん行ったるでえ」と奈良の女は思っているかも。参政党は「ええぞええぞ」と喜んでいます。現金なもので玉木氏は急に態度が大きくなりました。節操がないとT君に評された野田氏にとっては野党第一党の真価が問われる正念場です。

 この騒ぎをよそにペキンダックの石破首相が輝きを増しています(消える前に強く光る星のように少し切ないけれど)。石破氏の戦後80年の談話は、いくつか問題があるにしても全体として良かったと思います。いまに生きる私たちは、日本が負けると分かっている戦争にレミングの群れのように突っ込んでいった恐ろしい過去を「知識」として知っていますが、その歴史を決して忘れてはならないと石破氏は強調します。

 そんなこと当たり前と言ってしまえばそれまでですが、「議会やメディアが政府を監視すべきこと及びその基盤には歴史に学ぶ姿勢がなければならないこと」を首相が語った意味は決して小さくありません。彼はまた「無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たねばならない」と訴えました。これは首相自身のこの一年の反省であり、同時に後任者に向けたメッセージでしょう。高市氏は「そんなもん知るかい」と言ってはなりません。

 この談話には欠落もありました。先の大戦をめぐって帝国憲法下の議会、政府、軍などを論じる際に天皇制を避けて通れません。「天皇陛下バンザイ」と叫んで戦死した兵士が何人いたか知りませんが、そうした行為が推奨、称賛されたという事実一つとってもそのように思います。しかし石破氏は「天皇機関説」について少し触れただけで「天皇」についてはまったく言及しませんでした(やはり言いにくかったでしょうか?)。

 近代の天皇は明治の国づくりの中で「誕生」しましたが、当時の社会に広く共有されていたであろう封建的精神の残渣と新国家への期待感がそれを後押ししたはずです。ゆえに天皇は西洋の君主と少し異なる力を有していたと思います。こうした国民感情(崇拝の念)とアメリカの打算とにより1945年に「国体」が護持されました。そんな日本を外から見ると、「戦争の落とし前を国民が自力でつけることなく、戦前戦後の苦しい断絶も経験せず、ひたすら繁栄を求めてきた自分勝手な国」と映るかも知れません。どの国も利己的であるとはいえこの見方は実態に近いと思います。靖国神社や慰安婦の問題がいまだに「尾をひく」原因はこれでしょう。

 戦後50年に出された「村山談話」は、こうした海外の眼(とりわけアジアの眼差し)に向き合い、日本の行った植民地支配と侵略を謝罪したうえ平和憲法のもとで国際協調の道を歩みつつある日本の姿勢を説明する点に意義がありました。戦後70年に際し、安倍首相はこの言葉のニュアンスを変えつつ「子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言いました。そして石破氏もまた、戦争の歴史を語るうえで避けて通れないアジア(とくに朝鮮半島、中国大陸)に言及しませんでした。これも石破談話の欠落です。

 政府は「いいかげんに謝罪をやめたい」と考えているでしょう。しかし最近の報道をみても、朝鮮半島出身の戦死者の靖国合祀を取り消して欲しいと遺族が訴え、また、1942年の長生炭鉱の落盤事故で生き埋めとなった労働者183人(うち136人が朝鮮半島出身者)の遺骨を回収して欲しいと関係者が切望していますが、政府はまともに取り合っていません。これでは近隣国から「まだケリがついていない」と言われても仕方がありません。思いを態度で伝えるべきことは個人も国家も同じだと思うのです。

 ホメたりケナシたりしましたが、日本が置かれる安全保障環境が厳しいからこそ歴史に学ぶべきだという石破氏の言葉を銘記したいと思います。どの国もそうあるべきです。被害国である韓国も一方で加害の歴史を持っています。朴正熙政権はベトナム戦争(1955~1964年)に32万もの兵士を繰り出し、その一部が民間人を虐殺しました(ソンミ村事件と同様)。この事実は軍事政権下で長く伏せられていましたが、1999年、韓国の研究者であるク・スジョンの調査により明るみに出て社会に衝撃を与え、国の歴史に位置づけられました。

 第2次大戦末期、日本の占領下にあった仏領インドシナが「解放」されたあと、独立を宣言したホーチミンと再占領をめざすフランスとの間に戦闘が起こり、ベトナムは北緯17度線で南北に分断されます。北は社会主義陣営、南は自由主義陣営がテコ入れして大戦争になりましたが、これは朝鮮戦争と同じ構図です。朴正熙大統領は、朝鮮戦争を経済発展の足がかりにした日本を見倣うかのようにベトナム戦争に参戦しました。その過程で現れた戦場の野蛮と狂気です。

 この韓国軍の蛮行をいかに償うかについて韓国内で謝罪と慰霊の運動が広がり、2020年、韓国政府を相手どって「ベトナム戦争民間人虐殺」をめぐる国家賠償訴訟も提起され、2022年、韓国軍が70人余の民間人を虐殺した事件で家族を失い、自らも重傷を負ったベトナム人のグエン・ティ・タン(当時8歳)に対し、ソウル中央地裁は「被告大韓民国は原告に3000万ウォンとこれに対する遅延損害金を支給せよ」との判決を下しました。

 これら一連の経過については「韓国の今を映す、12人の輝く瞬間」(イ・ジンスン著、伊藤順子訳、クオン発行)に収められているク・スジョン(韓国軍の虐殺を明らかにした研究者)のインタビュー記事で知り、それに寄りかかって書きました。ク・スジョンのほかに11人の「輝く人」が登場し著者のインタビューに答えます。

 この本の帯に「誰の人生も完璧に美しくはない。だが、誰にも美しく輝く一瞬がある。韓国社会の片隅で確かな光を放つ122人の声を拾ったハンギョレ新聞の連載の一部を書籍化。」とあります。本の表紙に印刷された12のワードの幾つかは次のとおりです。「セウォル号」、「救急医療の最前線で」、「官僚のジレンマ」、「映画監督イム・スルレ」、「性的マイノリティ」、「民主化後の学生運動」、「障害者と生きる」、「フェミニズムアート」など。

 日本にも韓国にもすごい人がおり、誰の人生にも輝く時があると分かって言うのですが、韓国のすごい人って本当にすごいなと私は感じ入りました。著者(聞き手)のイ・ジンスンもすごい人です。よい本でした。話があらぬほうに行きました。記事を書くのに手間どっていたら、またO君から「おはよう。参議院で自民党がNHK党と会派を組んだな。これもびっくりやった。」とメールが来ました。








 

2025/10/04

番外)がっくり

 高市氏が自民党総裁に決まりました。前回記事で5人の候補とも石破氏に劣ると書きましたが、おのずから程度の差があります。よりによってこの人が選ばれるとは。 決選投票が行われている最中、わが家にハウスメーカーの人がやって来ました。見積書を示して「外壁塗装と屋根補修でざっと1000万、ソーラーパネルの一時移転は別途いります」と言うので腰を抜かしたら、ちょうどその時にテレビが高市当選を告げました。Oh  my  Buddha !

 私が「わあダブルパンチやあ」というと、若いセールスマンは動じる様子もなく(それはそうでしょうが)、「ほう高市さんですか、でもこの頃は親中の政治家が多いらしいですよ」と応じます。いや数の上では圧倒的に親米ですよ、それはSNSの情報でしょう?と尋ねると、彼はSNSしか見ていないと答えました。高市氏を支持した地方票も「日本人ファースト」のSNS世論により積み上げられた気がします。

 高市氏の右翼性(自己陶酔的な「日本愛」)、無責任な積極財政論、ポピュリズム体質、つくり笑いなどが私は嫌いですが所詮ごまめの歯ぎしりです。多数の自民党員が高市氏を選んだという事実は重く受け止めなければなりません。旧安倍派の議員たちはヨッシャまた日が当たるぞと喜んでいるでしょう。政治とカネの問題はどこにいったのでしょうか。まずは党内人事が注目されます。

 1000万と高市総裁という二重の衝撃を先ほど家族ライン(共感を得る場)にぶちまけました。ついでこのブログにも書きます。まとまりませんが今日はこれにて。前ならウイスキーか焼酎をあおるところですが(ビールでは足りない)、禁酒は続行中です。さて明日から奈良公園で「シカの腹をけり上げる外国人」が減るでしょうか。






 

 

 

2025/09/27

288)ペキンダック

  友人O君(言文一致男)からメールが来ました。「石破さん、国連総会に出席してええこと言うとる。首相はこの人がいちばんええと思うたわ。石破茂のラストスピーチやなあ。」とありました。たしかに良い演説でした。石破氏は安保理がロシアのウクライナ侵攻を止められていないと指摘し、「この瞬間も罪のない人々の命が失われていることを我々は強く認識しなければならない」、「分断よりも連帯、対立よりも寛容を」と訴えました。

 それを言うならロシアと同様に拒否権を有するアメリカのせいでイスラエルのガザ侵攻を止められていないことも指摘するべきですが、まあよしとしましょう。しかし常任理事国という「勝ち組特権」が今も温存されていることについて、その他多数の国々は不満をつのらせているはずです。つまるところ国家間のエゴの問題ですが、その事実は国連という枠組みの重要性を逆説的に証しています。

 そのような場で石破氏は自分の見識を語りたかったのでしょう。国内の平和祈念式典では封印した思いでもあります。私の知るかぎりで石破氏は日本の行った戦争について客観的な認識を有し、それを政治に生かす志をもつ人であると思います。内では旧安倍派に忖度し、外では米国大統領の顔色をうかがっていた首相ですが辞めると決めて吹っ切れました(遅きに失したけれど)。彼をレームダックと呼ぶのは失礼です。ペキンダックの値打ちがあります。

 それにひきかえ5人の候補者は資質・見識の点で見劣りするうえ、失点を恐れて話が小ぶりになっています。とにかく総裁になろう、その後で好きにやればいい、今は我慢の安全運転だと彼らは思っているのでしょう。本来なら日本の現状をどう見るか(価値の創出がうまくいかず停滞基調にあると私は思うけれど)、自民党によるここ30年ほどの国家の舵取りをどう評価するについて自分の意見を述べ、それから具体論に入るべきでしょう。

 これで議員・党員・党友の支持が得られると候補者は思っているわけですから、投票権を持つ人は「馬鹿にするな、大きな話をせよ」と怒らなくてはなりません(1年前の総裁選も似たようなものでしたか)。ところで今回の総裁選は、参政党が主張する「日本人ファースト」に引っ張られている点に特徴があります。票を得たいという下心だけでなく、5人の候補が等しく持っている地金が現れたように思います。濃淡の差はあれ彼らは参政党に共鳴しています。

 ところでマスコミの一部が「進次郎さん」という呼称を使っていることに不快感を覚えます。かつては父親と区別するために姓でなく名を呼んだのかも知れませんが、いま当人は七光りでなくコシヒカリで頑張っています。他の人と同様に「小泉さん」と呼ぶべきです。マスコミのこのような節操のなさ、馴れ馴れしさが私は嫌いです。これも小さな偏向報道です。

 思うことはいろいろありますが、ぐずぐずしていたら総裁選が済んでしまうのでアップします。次回に記事を書く時には総裁が決まっています。議員・党員・党友のご判断を注目します。






 

 

2025/09/18

287)次はだれか?

 粘り腰の石破氏がついにギブアップし、待ちかねていた人たちが舞台に出てきました。次期総裁を決める必要があるのは百も承知だけれど、やれやれまたかという感じです。自民党と無縁な私ですが、どうせなら石破氏より政治家として優れた人がバトンを受け継いでほしいと思います。

 そんな目で候補者を見ると、逆に石破氏の美点が浮かび上がってきます。噛んで含めすぎる話し方はさておき、石破氏は自前の言葉で話せる数少ない政治家の一人です。議論低調の国会において、石破氏と立憲・野田氏の応酬は聞く人の耳を傾けさせるものがありました。自分の考えを人に通じる言葉で語ることは政治家の基本資質ですが、この点で石破氏に並ぶ候補者がいるでしょうか。

 かつて石破氏は自民党主流派に異論を唱えて党内野党と呼ばれました。多数に与せず正論を述べんとするその姿勢を評価する声は確かにあったし、党内の「リベラリスト」に擬せられる存在でもありました。また安倍、麻生、二階、萩生田氏などと比べて「金権度」が低くてクリーンなイメージがありました。1年前の自民党はこのような人物を求めていたわけです。

 しかし石破首相は「石破らしさ」を出せずに終わりました。党内の期待は第一に「選挙に勝つこと」だったでしょうし、国民(少なくとも私)は石破氏が「正論」を少しは実行することを期待していました。しかし、「日米地位協定の見直し」は米大統領との会談で「ほのめかし」すらされず、「核兵器禁止条約会議へのオブザーバー参加」は見送り、「選択的夫婦別姓」も先送りとなりました。「金まみれの腐敗議員」も不問のままです。

 いやそんなことより選挙に負けたことこそ問題だ、トップは責任をとるべしいうのが自民議員の本音でしょうが、そのような思考回路だから選挙に負けたのであって、2回の国政選挙の結果は、参政党が良かったのではなく自民党が悪かったことを示しているのだと思います。この結果を「党首の辞任」でチャラにできるという考えが虫がよすぎます。

 サントリーの新浪会長がややこしい薬に手を出して辞めたのは「引責辞任」として理解できるけれど、石破首相が辞めることは、いったい誰に対して、どのような責任を果たすことになるのでしょう。「けじめ」や「落とし前」のレベルを超えた論議が求められるけれど、いずれにせよ自民党内の話です。それよりこの2カ月ほどの政治の停滞については誰が責任をとるのでしょうか。

 自民党は自ら選んだ石破氏という人間を生かせずに終わった、という見方もできます。一年たって潮目が変わったとも思えないけれど、今度はどのような人を選ぶのか、選ばれた人はうまくやれるか、党はその人を生かすことができるのか。与野党の関係も変わるだろうし、国民の目先も変わります。とにかくマシな人が選ばれてほしいと思います。

 私は各候補者の政策を比較検討するつもりはなく(そこまで興味がない)、たんに彼らが石破氏より資質的に劣っているのではないかという私見により書いています。かといって石破氏が優れた政治家だとも言いません。世の中に本当に優れた高潔な人がいて、それを私は社会の一員として有難く思いますが、そのような人はたいてい政界の外にいます。政治とはなにか、いや権力とはなにかという問題につながる現実です。

 話は変わって、前回の記事(スマホ厳禁)を読んで友人O君が感想メールをくれました。彼は、うなぎ店主の頑固さに一定の理解を示したうえで、店主があわせ持っている独善性や偏狭さを指摘しています。そしてそんな店がつぶれず営業を続けているのは、店主の流儀を結果的に受け入れている「東京の客」の根性がないからだと論じています。以下にO君のメールを引用します(例のとおり驚異の言文一致体です)。

「うなぎ屋の記事おもろい。そんでもおやじに共感できるとこもあったわ。俺が鰻屋でもうまいもん食いに来たことを楽しんでほしいやろな。スマホさわってな済まんような気でおられたら場所と時間の意義を分かっとんかい、て感じ。そやけど、客ちゅうのは不特定多数の他人やんか。おやじには共感を伝える工夫が足りひんな。しかるべき表現手段できちんと客の理解を求めたら、社会への提言にできそうな気がするわ。それに茂呂のケースは必要に迫られたスマホの使い方で、おやじがそのニーズまでツベコベ言うたらアカン。その辺歩いとる奴らのすることにいちいち文句言えるの?やんか。

 おやじは視野が狭いし思考が鈍い、それが土台の横柄さがある。それが証拠に茂呂が食うのやめることまで、おやじは予測できとらへんた。ふつう食うのやめるに決まっとるやんけ。そいでもトラブルになる一歩手前で無関心に逃げ込むちゅうのが東京流で、客がおとなしいし従順や。『もうリピはないねえ』とかキザったらしい言い方しよって仕返ししたつもりになっとるねん。リピせん前にひとことおやじにひと言文句言うて来いと俺は言いたいわ。」(引用おわり)

 ご覧のとおりO君はばりばりの関西人ですが、東京の大学を出て関東圏で仕事をしていたので私より見聞が広く、また同い年と信じられないほどインターネットへの造詣が深いのです(凝り性で新し物好き)。たったいまO君に電話し、ブログで総裁選のことと君のメールを書きたいがいいかと聞くと「おお、かまへんで」と快諾し、同時に石破氏を惜しむような言葉を発しました。私と似たような気持ちだろうと推測しました。





 
 
 

 

2025/09/05

286)スマホ厳禁

 自由民主党はその素晴らしい党名にふさわしくない政党であると私は常々思っています(ほかの政党より名と実の乖離度が大きい)。この党の金権体質および強者優先の政治姿勢は、長く政権与党であることで強化されてきました。見方を変えれば最も力量のある政党でしょう。その党内で「解党的出直し」をめざす論争が盛んですが、党も議員もずいぶん小粒になり内向きになりました。東では「はやくしろよ」、西では「はよせんかい」とみんな怒っています。

 これを待つ間(?)にワタクシゴトを連ねます。私は桐生をさまよう体力があるのに不整脈をかかえています。これは明らかに労災ですが今は詮ないこと。何年も不整脈につきあって来ましたが、このたび根本治療を受けると決め、東京は井の頭沿線にある専門病院に出向きました。朝一から各種の検査を受け、今後の方針を相談し、納得して病院を出たら午後2時でした。そこで駅への道すがら小さなうなぎ屋に入ったのです。

 小さな引き戸を開けると狭い客席に店主が一人すわって新聞を見ながら遅い昼ご飯を食べていましたが、どうぞと立ち上がり、読みかけの新聞を寄こします。鰻丼か鰻重だけ、どちらも3800円ですと言われ、私は鰻丼を頼んで新聞に目をやりました。大谷選手の写真がでかでか載っていたので、大谷はやりますねというと、そうだよ凄いもんだよ体もひけとらないしさ、と応じる店主は70代後半と思われます。

 私がいま行ってきた病院の評判をきくと(ぬかりはありません)、はやってるねえ、外国からも患者が来てるよ、中国人とかヨーロッパとか、との説明でした。ふむふむ。出されたまずいお茶を飲んでいると、ご近所らしき女性がやってきて持ち帰りのかば焼きはまだかと腰をおろしました。店主は、はい仕込んでるよと答えて狭いカウンターでごそごそやっています。私はスマートフォンを取り出し、次の目的地である横浜への行き方を調べかけました。

 そこへ店主から声が飛びました。「この店はスマホ禁止です」。私は迷惑電話を注意された気になってあわててしまったのですが、まてよ、黙って見るには誰の迷惑にもなりはしないと思い直し、「ちょっと調べものですが」と説明しました。すると「それもだめです、店の写真をとる以外のスマホ使用はお断りしています」との返事。「このごろの人は座るやいなやスマホをいじくってる、うなぎ食べに来たんでしょう、その間ぐらいやめらんないかなあ」。

 私は言いました。その点は同感だけど、人にはそれぞれ都合がある。あなたの考えで人の都合を左右するのはおかしいでしょう。大切な用事だったらどうするんですか?店主いわく、それだったら店の外に出てやってください。ここで私は腹が立ちました。「この暑い中わざわざ往来に出てスマホをやれというんですか。食事中ならマナー違反かも知れないが、鰻丼が来る前に見てるだけでしょう」。これに対し、「これは私の店です、うちはこれで50年やってんだから」

 私は立ち上がってカウンター越しに言いました。「私もこの年だから大声は出しません、しかしあなたは間違ってるよ、なんの権限で人の都合を差配するのか、店の方針なら貼り紙しとけばいいでしょう、だいたい50年前にスマホがあったか?あなたはいい気になってる、少し考えたらどうです」。先方は、「ここはうちの店なんだから」と譲りません。「もういい、こんな店では食べられない、もう帰ります」と私。

 「ええ?もう用意はじめちゃったけど」、「もちろん払うよ」(と財布をだす)、「いや食べてないのにもらえない、うちはそんな商売やってません」、「どっちなんですか、請求するのかしないのか」、「一円も結構です」、「ああそう(と財布をしまう)、、、ではこれで帰る、お邪魔さま」、「はい、どーもありがとうございました(不承不承)」

 店を出た私は駅の手前のラーメン店に入りました。中華そば1000円。最初からここにしておけばよかったけれど後の祭りです。うなぎ店主は世直しがしたいのでしょう。気持ちは分からないでもないけれど、それは仲間うちのルールにすべきです。私は争いを好まないけれど、ごくたまに正面衝突を起こします。まあこの件は貰い事故ですけれど。

 ところで病院では医師から禁酒を強く勧められました。先生のご本にはタバコは厳禁とあったけれどお酒への言及はなかったですよ、冷蔵庫にビールを冷やしてきました、と私は抵抗を試みましたが、そのあとにアルコールの有害性の知見がふえたんです、心臓にはだめ、毒を飲んでるのと一緒です、今後の処置がおわって安定したら控え目に飲んだらいいんです、1年は禁酒、その後は節酒です!

 この日の夜、私は若い衆の家に行きましたが、そこで彼らの健康管理に意見をのべる場面が生じました。その時の勢いで「君らは育児、仕事にかまけて健康をおろそかにしてはならない、ぼくも酒をやめる」と啖呵を切りました。翌日、草津に戻ってきて今日で断酒8日目、これはこの半世紀で初めてのことですからブログに書かないわけにいきません。

 友人T君にこの次第をメールし、秋にお越しの際、私に構わずどうぞビールを飲んでねと早々と予告しました(2カ月先の話です)。T君の返事にいわく、1年は飲まないというところが正直というか、いじましいというか突っ込みどころだな、患者さんにはお酒を飲まない人もあって自分も反省することがある、11月には静岡のお茶をもっていくよ。
 すっぱりとお酒をやめた私に対し、T君が尊敬の気持ちを抱いた可能性が若干あると私は考えています。しかし1年の「暫定ゴール」はずっと先です。


【棚から言の葉】

~ それでも地球は回っている ~

 決心から8日がたった私の心境です。そういえばかつて同じ言葉を発した人がありました。ガリレオは異端審問をうけましたが、功罪ともに大きいキリスト教ではあります。




 

 

 

2025/08/24

285)「ボランティア」続報

 ボランティア活動は「よいこと」とされており私もそれに賛同しますが、活動の主体が自分自身である場合は少し話が変わります。なぜか「私もボランティアをしています」と言いにくい居心地の悪さがあるのです。そこでタイトルも括弧でくくりました。これは「公」と「私」の関係をめぐってブログのテーマにも関わる問題ですが説明が易しくありません。ボランティア初心者の私に力みがあるのでしょうか。

 とりあえず活動報告です。私は草津市社会福祉協議会の事業への協力を主目的とする2つのグループ(いずれも数人規模)および「フードバンク事業」に参加し、これらと別に草津川公園「であい広場」を管理する市民グループ「グラッシー」のメンバーになったので出かけ先が4つになりました。一見多忙ですが、それぞれの活動は月1回(たまに2回)なので出ずっぱりではありません。

 まだ2か月の活動で気づいたことを書きます。先日、フードバンクの食品の賞味期限の確認と数量カウントを手伝って寄付品が雑多なのに驚きました。缶詰、レトルト食品、乾物などはいいとして、「駄菓子」のたぐい(ミシン目で数珠つなぎになったお菓子で袋の数が減っているもの、「あてもの」の景品みたいなもの等)や1個ずつ包装された丸餅(大きな袋を破いてバラバラにしたもの)、その他いろいろあって「こんなものまで寄付するのか」と思いました。

 捨てるのがいやだから寄付しておこうと考える人があるのでしょう。貧者の一灯も混じっているかもしれません。そして社会福祉協議会はその性格上、市民の善意を取捨選択することができません。チリも積もれば山となって必要な人に分配されるし(これもボランティアが従事)、全体としてフードロスも減ります。「三方よし」だがそれにしても、、、と私は考えます。あまりに華がないのです。中にはキャビアやフォアグラの缶詰、伊勢海老のレトルトスープが混じっていてもいいではないか。

 そんな高級品を寄付したことのない自分を棚にあげて言いますが、私は、社会のさまざまな「福祉」の場面において「けち臭さ」や「みみっちさ」を感じることが少なくありません。「福祉」を受ける側の人々に対して「ありがたく思え」というその他大勢の集合的な意識(むしろ無意識)が存在しているかのようです。これは健康で文化的な最低限度の生活(憲法25条)とは何かという問いにつながります。ボランティアの意義を問うことでもあります。「私たちはどこまで分かち合えるか」という問いです。

 これに対し「ガザやウクライナを見ろ。そんな贅沢が言えるのは平和ボケの証拠だ」という意見も出るでしょう。戦争は止めるべきだし人は殺されてはなりませんが、それとこれとは話が違います。これは昨今の意見ではなく私が長く感じてきたことです。もちろん福祉の多様な担い手をけなすつもりはなく、むしろそうした人々に私は親愛の情をいだいています。しかし福祉にたずさわる人はこの問いを忘れてはならないと思います。「これってダサくない?」と自問することでもあります。

 「人はパンのみにて生くるものにあらず」と聞いて「そうですコメです。備蓄米や新米です!」と言うのはぶっ飛び農水大臣ぐらいのもので、ふつうの人は(私も)、これは精神の重要性を説く言葉であると了解しています。しかし人において肉体(物質)と精神は相互補完的ですから、草の根をかじって心の安寧を保つことは困難です。パンも食べたいし心の充足も得たい。胃袋と心を充たすために「福祉」はいかにあるべきか。このように問うこともできます。

 私たちは、アウシュビッツやラーゲリにおいてさえ崇高な行為や自由、不屈の精神が存在したことを知っています。しかし、それとこれとも話が違うと思うのです。極限状況を引き合いにして平時の社会システムや思想を論じたら何でもOKになってしまいます。

 また別の日、公園の草刈り作業でえらく腹を立てている人がいました。臨時の招集(ラインの案内)があって私が出かけると、その人はもう作業を始めていました。定刻になって事務所の前に集合すると彼は事務所の人に食ってかかりました。作業を呼びかけた人が来ていない、開始時間に会議が行われているのはおかしい、どこを作業するのかの説明がない、すべて無責任である等。実はこれらは主に彼の勘違いによるものだとわかり作業が始まりましたが、彼の怒りはしばらく収まりませんでした。

 その様子をみて、この人は現役の時もこの調子でやっていたんだろうと私は思いました。「俺がちゃんとやってるのになぜお前たちはちゃんとしないんだ」という姿勢です。正義は自分にあると信じる分だけ憤りが増します。これらはあくまで私の想像ですが、そんな「義憤パワー」を彼は発していました。もしボランティアで過去を引きずっているならみっともない話です。課長だの部長だのは組織内の暫定的役割(ごっこ遊びのようなもの)に過ぎません。

 またある日、私は、高齢者施設が地域に開放しているサロンにでかけてギターを弾きました。ここは毎月の出前先なのですが(ゲームやヨシ笛。お客さんも熱唱)、新メンバーの私が伴奏に加わることになったのです。曲目はポピュラーなものばかり(平和堂の歌を含む)でコードも単純なので何とかなると思ったけれど、ヨシ笛と音が合わないので慌てました。ヨシ笛の「ド」はピアノの「ミ」の音程なのです。

 打ち合わせの時にこれが分り、家に帰ってからヨシ笛の楽譜コードをすべて(正常に)書き変えました。しかしヨシ笛の中には「ファ」の音を「ド」とする別の流派があると知り、念のため二回目の音合わせをお願いして当日を迎えました。さて結果はどうであったか。ヨシ笛2本とお客さま(私と同年配か年長の女性達)の大合唱にかき消され、マイクなしのクラシックギターの音が聞こえたのは前奏部分だけ!という始末でした。いやはやまったく。

 別の日、ある町内会(夏の終わりの3世代交流会)に風船をふくらましに行ったら、世話役の人が市役所の先輩でした。採用3年目の私は社会福祉課保護係のケースワーカー、先輩は老人係(今はこの名前はないはず)の係長、何年か近くで仕事をさせていただきました。30年か40年ぶりの再会でしたが、先輩の元気よくテンポよい話し方が変わっていないことは何よりでした。

 風船(ペンシルバルーン)はふくらませてから口を結ぶのが大変です。私の役目はお手伝いにすぎないけれど前日に自宅で30本ほど作って会場に行きました(リーダーも同様)。これは大盛会のうちに終わりました。当初、私はこうした「出前」はせずにキラリエ(社協の入る複合施設)内での単純作業にだけ従事するつもりでしたが、2団体ともメンバーが少ないため、なかなかえり好みしにくい雰囲気なのです。

 また、月1回の定例会議の時に当てられたら発言もしますから、「いいですね。じゃあご当地クイズは茂呂さんやってください」といった具合になります。そこで9月は「にこにこカフェ」のクイズ担当になりました。こうして「深み」にはまってきましたが、個人活動として始めたことなので、今後どこまでグループとして動くかが問題です。ボランティアを募ったり招いたりする側はグループを相手にする方が都合がよいという現実もあります。

 続報は以上で、しばらくはこの話題からはなれます。いま記事を読み直すと、私もまた昔の経験をかざして若い人々に講釈を垂れています。しかも「公私論」はきわめて不十分です。しかし言いたい放題は隠居の特権とさせてください。始めると止まりにくいのです。ご当地クイズもすでに作ってしまいました。明日は臨時の草刈りヘルプ要請があったので朝から出かけることにします。






2025/08/14

284)「なめられてたまるか!」

 石破首相の啖呵はまだ記憶に新しいところです。7月10日、千葉県船橋市での参院選の街頭演説で彼は言い放ちました。「 いまトランプ関税で国益をかけた戦いをしている。たとえ同盟国であっても正々堂々と言うべきは言う。なめられてたまるか!」。私は、よくぞ言った、でも相手は太平洋の向こうだから少し惜しい、思いました。

 これは「なめられている」と実感しているゆえの発言であり、赤澤(格下)大臣はいざ知らず、米国政府と向き合う多くの政治家に共通する思いでしょう。一般人の私さえ不愉快です。しかし政治家たるもの、その思いは心に秘めて交渉力に転化させるべきでした。口に出した以上、相手が感情を害しても構わないというメッセージになります。相手は感情的でしたたかな独裁者です。これは短慮の発言であったと思います。

 「日本と米国はパートナーシップで結ばれた同盟国である」と政府は言いますが自己欺瞞はもうやめましょう。まるで序二段や三段目の力士が大関や横綱を友人扱いするようなものです。あるいは少年野球のエースが大谷翔平選手を「君づけ」で呼ぶようなものかも知れません(これは愛嬌があるけれど)。この80年の日米関係をふりかえると、どう見たってアメリカが親分で日本が子分でした。トランプは遠慮会釈がないだけです。

 対米依存は経済や軍事をテコに内政まで及びます。基地を経由して米国関係者はいくらでも密入国ができるし密出国できます(ふつうは成田経由だとしても)。スパイ天国です。いや米国はロシアや中国に対しては真剣に諜報活動を行っても、手のうちにある日本には本気モードにならないでしょう。まことに腹立たしいけれど日本は属国です。ふつうに考えてそのように思わざるを得ません。

 520人が亡くなった日航機墜落事故にしても原因者であるボーイング社の責任を追及できないまま40年が経過したではありませんか(米軍基地を原因とする数々の犯罪もしかり)。草の根の市民交流は大切だし私もアメリカの友人がいるけれど国家関係は対等ではありません。関税交渉の合意文書を作れなかった理由はこれにつきます。スピードを重視したという首相の言い訳は「ああ、アホらし!」のひと言です。

 案の定、8月1日に米国が日本製品に一律15%の関税を上乗せすると発表し、あわてた日本政府は「強く遺憾の意」を表明しました。この件は近いうちに何とかなりそうですが、NHKの世論調査の結果では「日本側もよくやった」と回答する人が目立ちました。まったくもって寛大な人が多い日本です(とくに自国の政権に対して)。自他の状況をもう少しリアルに見たほうが「国益にかなう」と思う次第です。

 赤澤(格下)大臣が「ベッちゃん、ラトちゃん」と書いたらしいけれど、恥ずかしいのひと言です。政権担当者の役割は国民に対して率直に事実を伝えることであるはずです。一緒に夢にひたってはいけません。こう考えると、広島と長崎の大切な式典において、原爆投下がまるで「自然災害」のように語られることにも疑問を感じないではいられません。これは未曽有の災いではありましたが、多数の実行者、協力者、因果関係者が引き起こした人災ではありませんか。

 いま、石破氏は仲間に「なめられてたまるか」と頑張っています。リーダーが弱りだすと群れの餌食になります。このあたりは政治家はとてもリアルな感覚を発揮します。「共食い」を見かねたのか内閣支持率が上がりつつありますが一寸先は闇。とにかく政治家諸氏には国民のために頑張ってほしいと思います。
 若い友人Nさんが「地域デビュー読んだよ。えらいね。続きを待ってるよ」と(丁寧な言葉で)励ましてくれました。私は私益しか背負っていないけれど頑張らねばなりません。










いまこの言葉を蒸し返すのは意地が悪いじゃないかと思う「愛国者」もおられるでしょうが、私は自民党の有力者の中で石破氏はよい部類に入ると思っています(旧安倍派の人々と比べると明瞭)。

2025/08/03

283)選挙結果について

 参院選の結果について少し書きます(書きかけては中断していました)。自民敗北は自然の流れであったと思います。もともと有権者の多数は政治権力に対してあまりに寛容(もしくは従順)でしたが、さすがに近年の自公政治に愛想が尽きたのでしょう。モリ、カケ、サクラ、裏金、物価高、米騒動、米追従など罪科はいくらもあります。私は原発推進こそ最大の過ちであると考えていますが、これは選挙の争点にもなりませんでした。

 ともかく「自民票」が新しい保守勢力である参政党と国民民主党に流れ、「新規票」のオマケまでつきました。老舗の共産党は振るわず、社民党はもはや絶滅危惧種です。多党化というより右傾化です。私はとくに「左」に肩入れするわけではないけれど、これは日本の民主主義にとってよくない状況だと思います。参政党はSNSを駆使して伸びたと言われますが、実は彼らの主張に共感する人が多かったのが勝因でしょう。

 参政党は「占領下で生まれた憲法は認められない」として憲法を一から作り直す「創憲」を主張しています。改憲論者の好む理屈ですが、これは過去に書いたのでここでは繰り返しません(記事117「終了のご挨拶」をご覧くださると幸いです)。
 参政党の憲法草案が彼らの政治的嗜好をもっともよく表現していると見て差し支えないでしょう。それは教育勅語のゾンビのような前文から始まり、第1条で「日本は天皇のしらす君民一体の国である」と宣言します。2条も3条も天皇条項です。

 第4条は「国は主権を有し、独立して自ら決定する権限を有する」、第5条は「国民の要件は父または母が日本人であり、日本語を母国語とし、日本を大切にする心を有することを基準として法律で定める」となっています。私はこれらをまともに論じる気になりません。いっそ面白いぐらいの内容ですが、参政党の人々は2年をかけて真面目に議論してきたのだそうです。

 日本国憲法で定められた法の下の平等、思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由、裁判を受ける権利などはあっさり捨てられました。それで大丈夫ですか?とテレビ番組の司会者から聞かれ、草案作りの責任者は「これまでの判例もあるので問題ありません」と答えました(先日の「羽鳥慎一モーニングショー」)。しかし、憲法が変われば前憲法のもとで蓄積された判例は規範力を失うはずではありませんか。まことに言いたい放題です。

 この党は日本人ファーストを標榜し、「父母のどちらかが日本人であること」を日本人の要件としています。小池都知事の都民ファースト(なんと下劣な言葉!)に対しては「ああそう、わしら滋賀県人だもんね」と返せますが、日本人ファーストとなると、この国で暮らしている人のうちに行き場を失う人が出ます。有名どころでは孫正義、ラモス瑠偉、白鵬、ボビーオロゴン、リーチマイケルなど。参政党は彼らの日本国籍を認めません。力のある人々は不快感を感じるだけで済むでしょうが(それでも申し訳ない!)、生活の不安を実感する人々もいるはずです。

 書くだに馬鹿らしい話だし、怒りと怖れも感じます。選挙の翌日、若い衆が「こんな結果になってうちの子ども(自らの幼い子ら)に済まない気持ちだ」とラインを寄こしました。絶望するのは早いぞよと返事しましたが、それは私自身にも言ったつもりです。本来は各党の主張と獲得票数の推移を見比べて全体を俯瞰する必要がありますが、それは誰かがやるでしょう。この記事は一党にしぼって感想を書いており「切取印象」にすぎません。コメント受付をやめて久しいので読者の教えやお叱りを受ける機会が減りました。今回はこれで終ります。




2025/07/14

282)地域デビュー

  6月のある日、私は草津市の社会福祉協議会に行き「何かお手伝いできることはないでしょうか」と尋ねました。さんざん迷ったあげくです。係の女性にうながされカウンターをはさんで座りました。「ボランティアのご希望ですね?」、「はい、スキルはないけれど動くのは苦になりません」、「ご希望の分野などありますか」、「齢も齢ですが、できることなら何でも、、、」、「いっぱいあります。90歳の方も活動されてますよ」、「ぎょぎょ」

 こうして100以上あるボランティア団体の一つにつないでもらい、翌週から活動に参加しました。この団体は草津市社協の事業支援に特化したグループで「キラリエ」という複合施設で活動しています。当面の業務は、市内の小中学校はじめ各施設のトイレに配置する生理用品の小分け作業です。段ボール箱から取り出し1個ずつビニール袋に入れるのですが、SOSの連絡先が書かれたカードを同封します。単純きわまりない反復作業です。

 この日のメンバーは私をいれて4人でみんな手を動かしながら挨拶しました。代表者は私より一まわり上の男性、女性の一人は次に学童保育の仕事に駆けつける人、もう一人の女性は複数のボランティアを掛け持ちし、私に手話グループに入れと勧めてくれました(にこやかにお断りしました)。2時間作業してあっさり解散。なかなかいい感じです。この団体はバルーンアート(細長い風船細工)の出前もしていますが、私は今のところこの作業だけ参加するつもりです。

 草津市社協の人との立ち話の中で、大津市社協のXさんの名前が出て驚きました。Xさんは別組織から大津市社協に出向していた人で、私が高齢福祉担当課長であった時、出向期限の延長について「親元施設」に頼みに行ったことがあります。もちろんこの件は黙っていましたが世間は狭いものです。Xさんの名は草津市社協でも売れています。いまは新天地で活躍されているそうです。

 別の日、私は草津川の河川敷公園(であい広場)の管理事務所を訪ね、草むしりをさせてくださいと言いました。ここでは「グラッシー」という市民団体が活動しています。10数年まえのこと、アヅマと私はその団体の設立会議に参加しました。公園のグランドデザインに携わった人が私たちの知人であった縁によります。当時は時間の余裕がなく、いずれ参加しようという話で終っていました。

 さいわい私の申し出は笑顔で受け入れられ、次の土曜日に初出動しました。そのエリアを受け持っている数人の人と一緒に植栽の根元の雑草をぬきました。両側が堤防ですから、お湯を抜いた長い湯船の底で熱気につつまれ這いまわっている感じです。係の人が大丈夫かと声をかけてくれますが、私は家でもっとキツい作業をしているので平気です。

 2回目の活動では除草してから草花の苗の植えました。前回あいさつした女性から、あなたはぜひレイカディア(龍谷大学の市民講座)に行きなさいと言われました。いや勉強は苦手ですと答えたら、そんならガーデニングや陶芸教室が向いていると二の矢が来ました。ホームページを見て考えますと答えましたが、次回は態度を明確にさせなければなりません。

 こうして6月から地域デビューを果たしました。私は人嫌いではないけれど(むしろ逆)、これまでは家族との時間に満ち足りていたので友人以外にあえて世間の人と交流する気が起こらなかったのです。しかし世間なんてどうでもよいと思いません。人の役に立ちたい気持ちは人並みにあります。70歳で献血できなくなった時は門前払いをくった気がしました。ならばとユニセフのマンスリーサポート(毎月寄付)も始めました。

 一方で、アヅマの手さばきを思い出しつつ料理をつくり息子一家にクール便で送りつけています。毎回とても好評ですが、私の腕がいいのか彼らが優しいのかというファクトチェックが難しいところです。あまり調子に乗ってはいけないと自戒する間もなくメニューが尽きてしまいました。しからばいかがいたそう。私は要するに、自分のためにだけ時間を使うことに飽きたのです。結構な身分やなあと思う方がおられても甘受するしかありません。

 このような経過があって今回はじめて世間にアプローチしました。「迷ったあげく」と冒頭に書きましたが、実際に行ってみれば皆とても気楽そうに楽し気に活動しています。いや確かにこんな世界もありました。私の市役所時代(企画、協働、まちづくりなどの分野にいたとき)親しくお付き合いさせていただいた人々の世界です。あの時から時間がたち、立場が変わり、場所も変わって、「そちら側」に仲間入りした気持ちです。
 今週はもう一つの団体を見学させてもらう予定です。私事ばかり書いてしまいました。


【棚から言の葉】

~ いやあ、こんだけ暑いと帰ってシャワーあびて「これ」やらなあかんねえ!~

 桐生でいつもすれ違うおじさんの言葉。互いに名前を知りませんが、最初から「よい人オーラ」を発していたこの人は、最近私を見かけると旧友に再会したような笑顔をみせてくれます。先日はおじさんが東屋に座っており、私が前をとおり過ぎる間ずっと会話がありました。おじさんが「これ」と言いながらジョッキを傾ける真似をしたので、私もふりかえりつつ同じ仕草で答えました。もう友達です。







2025/07/08

281)センタクの夏

 抜けるような青空いっぱいに無数の白シャツがはためく光景。それはかつて洗剤のテレビCMの定番でしたが、あの映像がもたらす爽快感や清涼感は、夏の暑さが尋常である時代の産物であったと今にして思います。さかのぼると「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」につながる感覚です。昨今の夏はここから逸脱し禍々しいほどの暑さです。地球「温暖化」というマイルドな表現を私たちは改めるべきでしょう。

 今年は「選択の夏」でもあります。参院選の投票日を迎える前に思うことを少し書きます。時節がら各党とも物価対策と生活支援を重視し、方策として給付金と減税のどちらがよいかが議論になっています。確かにこれらは当面の課題ですが、どうして物価が高く、賃金が低いのか、すなわちなぜ日本はうまく回っていないのかという「そもそも論」を説明する責任が政治家にあります。しかし先日のNHKの党首討論で各党首は、ガマの油売りのような口上を言うばかりでした。

 「これでいいのか日本」と思うことは多々あるけれど、私はトラック転落事故に衝撃を受けました。本年1月、埼玉県八潮市の町なかで県道に突然、穴があき、たまたま通りかかったトラックが転落した例のいたましい事故です。壊れた下水道管に周辺の土が流れ込んで地下に大きな空洞ができていました。転落の翌日、穴は直径40メートルに広がって救助は困難をきわめました。トラックと運転者が引き上げられたのはなんと3か月後でした。

 救助のため真摯な努力がなされたことに疑いはありませんが、山でも海でもない街のど真ん中の県道を走っていたトラックが下水道でできた穴に落ち、衆人は環視するばかりでその人を救えませんでした。これは「下水道の点検不足」や「救助技術の不足」以前の問題、すなわち私たちの社会の在り方の問題ではないかと考えます。このような社会が道路に穴を開け、落ちた人を無策のうちに見殺しにした、とは言い過ぎでしょうか。

 近年、道路の陥没は各所で起こっています。地下鉄工事やトンネル工事も原因の一つでしょう。水道管の破裂もめずらしくありません。ガス管の事故もありました。管渠ばかりでなくトンネルは崩落しないか、橋は落ちないか、線路はゆがまないか心配はつきません。そもそも日本は国土の大半が軟弱地盤であるうえ地震大国です。あらゆる施設の経年劣化は着実に進行します。さまざまな現場で技術の伝承が困難になっているとも聞きます。事故の手前のニアミスはいくらでもあるでしょう。

 もちろん自治体や国には図面と修繕計画があり、それにもとづき年次的に維持管理が行われているはずですが、実際にはどことも予算と人手が圧倒的に足りません。すでに出来上がって何とか機能を果たしている(ように見える)構造物より、医療、福祉、介護、教育など「人がらみ」の施策の優先度が高いでしょう。うちの道路や橋は大丈夫と胸をはって言える都市はないはずです。

 日本のインフラは戦後復興期から経済成長期にかけて多く整備されました。公共事業のラッシュで手抜き工事が社会問題化したこともあります。これらのインフラはそろそろ寿命です。一斉更新など不可能ですから、だましだまし、かしこく、地道に維持管理を続けていかなければなりません。そうした維持管理は現に行われているはずです。しかし八潮市でトラックが転落しました。偶然が重なったのではなく、起こるべくして起こった事故のように見えます。

 この社会(私たち市民、とりわけ政治家)は、あまりに将来への想像力に乏しいと思います。形ができればハイおしまい、今日がよければそれでハッピー、国債が増えても何とかなるさと世の中が回ってきました。ふりかえれば15年戦争につっこんでいった時も、おなじノリではなかったでしょうか。トラック転落で私はこんなことを思いました。暗い気分です。

 そうしたら作家の高村薫が朝日新聞(7月3日朝刊)で同じテーマを深く鋭く論じていました。タイトルに「穴は至る所に」とあり、見出しには「 〈今〉に興じる我ら、先見通せぬ残念気質、なにもかもガタがきた」とありますが、これらは編集者がつけたのでしょう。うまく中身を切り取っています。

 同氏は、「くだんの陥没事故を目の当たりにした時、私は一抹の淋しさとともに突如、これこそ自分が生きている社会の掛け値なしの実相というものだと腑に落ちていたのだ」、「一言で言えば、何もかもが古くなってガタがきている感じ・・・だろうか」と述べたうえ、例をあげて日本の国力の衰退を指摘しています。残念だけれどすべて指摘の通りです。

 終わりの方を引用します。
 「最新の日本の相対的貧困率はアメリカや韓国にも抜かれて15.4%であり、先進国でもっとも貧しい。それでも群を抜いて国内の治安はよく、私たちは生活不安を抱えながらも、グルメだの『推し』だのとそれなりに生活を楽しみ、街ゆく人々の表情も明るい。
 しかしそれもそのはず、私たちはそうして〈いま〉だけを見、見たくもないものは見ない。その結果全盛を迎えているのがフェイクニュースであり、切り取り動画である。
 〈いま〉を大切にしたい老若男女が日々の刺激を求めてウェブに集まり、それが時に一過性の潮流をつくったりもする。おそらく日本の社会も政治もそうして漂流していくのだと思うが、では厳しい現実はどこへ行くか。どこへも行きはしない。」

 高村氏は、言いっぱなしで終ってはいません。日本の現実(1323兆円の政府債務残高、国家の信用力の低下、気がつけば台湾防衛の最前線に立たされていること、戦争するカネがないこと、狭く逃げ場のない国土などの事実)を肝に銘じておけば、〈いま〉しか見ない私たちでもたぶん、なんとかなると語り、参院選に話をつなげています。

 そこで私が思うには、すべての議員が政治的理念をもっているとします。とすれば彼らは、理念の実現には議員の身分が不可欠であると考えているに違いありません。この考えは正しくないけれどきわめて現実的です。そこで議員にとって当選することが何より重要になります。理念の実現は時間がかかるから当選を続けなければなりません。すると議員には「当選=理念」となります。議員という職業がオイシイことも背景にあります。

 いまさら当たり前のことを書きましたが、私は政治家が本当に理念を持っているかどうか疑っています。もし政治家としての理念があるなら、それは必然的に客観的な歴史認識(過去があって今があり、今が未来を準備するという認識)を基礎とし、同時に30年先、50年先をリアルに思い描く想像力を伴うものでなければなりません。それに加えて他者の痛みに共感する力が政治家の基本資質として求められます。なぜなら、政治的に右でも左でも、政治の根本目標は「人々が安んじて暮らし続けられる環境づくり」につきると思うからです。

 このように考えると、トラック転落事故を自己の政治的理念に関わる重大問題だと捉え、社会に警鐘をならす議員が百人単位でいてもいいはずですが、私の知るかぎりそんな人物はいません。とすれば、ほとんどの議員は理念を持っていないことになります。これが政治の劣化なのでしょう。コメも賃金も社会保障も大事だけれど各論です。まずは理念に基づいて総論を語るべきではありませんか。これを政治家だけに要求してはなりませんが、少なくとも選挙に出るなら国のビジョンを持つべきでしょう。

 私には最善の政党と候補者が見当たりませんが、すでに投票を済ませました。棄権すればずるずる後退してあとがなくなります。このブログをご覧の方々、すなわち一個人のたわごとにお付き合い下さっている限りにおいて世の中に絶望していない人々は、きっと棄権されないでしょう。それ以外の人々(ほとんど社会全体)が、よく品定めをして投票されるように祈ります。
 
 【棚から言の葉】

 ~ くり返して申しますが、私たちは『とにかく治す』ことに努めてきました。いまハードルを一段あげて『やわらかに治す』ことを目標にする秋(とき)であろうと私は思います。かつて私は『心の生ぶ毛』という言葉を使いましたが、そのようなものを大切にするような治療です。そのようなものを畏れかしこむような治療です。(中略)分裂病の人のどこかに『ふるえるような、いたいたしいほどのやわらかさ』を全く感じない人は治療にたずさわるべきでしょうか、どうでしょうか。 ~
 
 精神科医・中井久夫の神戸大学医学部での最終講義の一部です。「中井久夫拾遺」(高 宣良・金剛出版)の中に、「みすず書房『最終講義』」からの引用として書かれていた部分を孫引きしました。この一節は素人の私の胸に迫りました。これから時おり、たまさか出会った言葉をコラムのように書き留めたいと思います。これが第一号です。





2025/07/01

280)宙ぶらりんに耐える

 たまたま読んだ本「ほんとうの会議」が良かったのでさっそく記事(276277)にしましたが、さらに他の本を読み友人らの話を聞くにつれ、私が感心したネガティブ・ケイパビリティ(negative  capability・消極的能力)の概念は日本でも以前から広く論じられていると分かりました。知らぬは私ばかりです。前回の友人の意見に続き、今回はI君の見解をご紹介して一連の記事を終わります。

 I君は浄土真宗のお寺に生まれ、高校の世界史の先生になりました。そのかたわら大学院で心理学を学び、カウンセリングの知見を教諭の仕事に生かしました。いまはお寺一本となり檀信徒を集めて真宗の勉強会を開いていますが、ネット視聴できるその講義が面白いのです。彼は勉強家で専門家です。その昔、仲間内でのマージャンに負け、罰ゲームとして電車通りを前転(でんぐりがえり)して渡った人ではありますが、今はカソケキ威厳を漂わせています。

 I君の意見の要旨はこうです。 
~  カウンセリングはネガティブ・ケイパビリティ(NC)そのものだといってよいですね。不登校の子ども・親御さんとの対話はもとより、カウンセリングが深まれば深まるほどNCの要素が強まり、両者とも底の見えない池の藻のように絡まっていく感じがします。絡まったままでは共に溺れてしまう。カウンセラーの専門性は「絡まりながら絡まっていることに気づけること」にあると思います。

 このようにカウンセラーとクライエントの間の境界があいまいになる程に治療効果も上がりますが、クライエントの精神状況と問題の深さにカウンセラーの能力が見合っていないと、カウンセラーが精神をやられることがあります。その際の危機管理の手立てもあるけれどそれはさておき、NCは「諸刃の刃」です。ギャンブラーズ・アノニマス等のグループも同じで、ファシリテータの管理能力とカウンセリングや教育分析の経験量が求められるでしょう。

 私(I君)の体験を二つ書きます。カウンセリングのトレーニングとして教育分析を20回ほど受けたことがあり、分析者は私のカウンセリングの師匠でした。ある時、私の一人語りのあとに長い沈黙がきました。私は空っぽの状態で下を向きカウンセラーも黙ったまま。10分も過ぎたころふと顔を上げたらカウンセラーと目が合いました。その時の目や表情、後ろの背景まで今も脳裡にくっきり残っています。ついで「では終わりましょう、、お気をつけて帰って下さい」と言われました。その場を辞し、身体と心の疲れと一種の高揚感を感じながら夜の烏丸通を歩いたことを覚えています。

 この体験は、「絡みつく藻」の感触と少し異なっていて、「中身がいっぱい詰まった空洞」みたいな感じです。そして「藻」や「空洞」が得体の知れない何かをはらんでいる。次に何かが生み出される。それがNCの産物であるかもしれません。そしてこのような事情と言語とはどのように関係するか。この「言語化」をめぐって私の二つ目の体験を述べます。
 
 大学院での面接の際、確かカウンセリング場面での子どもの「語り」について問われた時でした。私は、ある生徒さんとの相談場面を想起しながらこう話しました。その人の中で何かが生まれようとする時って、深い井戸につるべを垂らし、それを引き上げるような感じがします。何が出てくるかわからない。思い出したとか、隠していたことを明かすのでもない。言葉になる以前の何かが二人の前に現れてくる。整った文章はありえず、単語の羅列、同じ言葉の繰り返し、宙を見つめるようで交じり合わない視線・・・。それでいて新たに何かに遭遇したような感覚、・・・と言えばいいでしょうか」~

 ここでI君の意見の引用を終わります。なるほどそうか、さすがにI君。素人目には「石のお地蔵さん」のようなカウンセラーですが、つるべを引き上げてのぞき込むには専門家の助けが大切だし、私たちは「あいまいさを同定する」うえでも他者の存在が必要である気がします。I君はよい教師であったろうと思います。彼はNCの観点から見た浄土真宗についても感想をくれましたが、それはいずれ宗教の記事でふれたいと思います。

 ところで鶴見俊輔もNCに言及しています。関川夏生との対談「日本人は何を捨ててきたのか」(筑摩書房・2011年)において「受け身の知的能力」について語り合っていますが、その一節を引きます。

 ~ ネガティブ・ケイパビリティというのは、パアーッと投げられた時に柔道でいう受け身ですね。自分の思想をグッと押し出すのはポジティブ・ケイパビリティなんだけれども、ここにいる人の影響を受けて、自分を変えていく能力がネガティブ・ケイパビリティです。両方とも大事なんです。このネガティブ・ケイパビリティを尊重することが、日本の文化の重大なものを保つ所以だと思う。連句などもそこから出てくる。イギリスの批評の中に「ポジティブ・ケイパビリティというのはキャラクター」で、「ネガティブ・ケイパビリティはパーソナリティ」だとね。(中略)パーソナリティというのは自分を変えていく能力でしょう。それなんですよ。~

 鶴見俊輔はこのように述べています。連句の話は象徴的です。一座のなかで前の人の句を受けて自分も即興で句を詠む。一回の句は五・七・五または七・七の短さです。興趣を深めるためのルールが幾つも設けられており、それに従いつつ何巡も繰り返して長い「巻」にします。前の人の句を受けるといっても、付きすぎるのは野暮だし、離れすぎては物語にならないし、しかし時に飛躍や転換が好ましいし。友人を招きアヅマや私で素人歌仙を巻いたことを思い出します。(連句については記事199「夢は枯野を」に書きました。同じことを書くところでした)

 ネガティブ・ケイパビリティから多くのことが論じられそうですが、このあたりで終了します。「ほんとうの会議」で、多くの場合まとめは不要であることを教えられ、また「答えは質問の不幸である」という言葉を学んだので、書きっぱなしにします。










 

 
 

 


私には新発見ですからもう1回だけ書きます。


(私が知らなかっただけですが

に学ぶところが多く感激して記事にしましたが、その後あれこれ読むにつけ皆さま先刻ご承知のことばかりだと知りました。これはいつものことで何事もひとさま(他人様)の肩車に乗っかっているわが身であります。今回は友人I君のネガティブケイパビリティについての感想を中心にすえます。

 

 

(ほんとうの会議:

2025/06/21

279)老人と山

 久しぶりに桐生の話題です。ここは私たちの庭でした(何度も恐縮です)。もう20年ほど前、山の斜面を横切っていくイノシシの親子に出会いました。ママが先頭、よちよち歩きの子どもが数匹の一列縦隊で、時おりピタリと立ち止まって周囲の様子をうかがいます。歩いたり止まったりをくり返し、舞台で見得を切る役者のように上手から下手に消えました。私たちは笑いをこらえながら小さな谷をはさんでその一部始終を見届けました。

 ああ、あれはどこであったか。およその見当はつくけれど木々がずいぶん成長して景色が変わり、記憶も薄れつつあるので、それらしき三つの地点から一つに絞ることができません。ここしばらく、その道を通るたびに、あれはここだったっけ、いやあこっちかな、やっぱりわからんねえとアヅマと会話します。人から見れば独り言をいいながら歩く少しおかしな老人です。

 遊歩道の奥に林野庁がたてた大きな丸木柱のモニュメントがあり「治山の森」と大書されています。これをアヅマは「治の森」と読んで笑っていました。昨今のこと、そのモニュメントに歩みよると、手前に張り出した紅葉の枝先が「山」の一文字を隠してアヅマの読み方どおりに見える絶妙ポイントがあると気づきました。モニュメントの下まで行き、丸木柱の根元をぽんと叩いて挨拶をおくることが習いとなりました。

 6月に入ってアブやハエがうるさいのです。また山ふかくのシダの生い茂る日陰には薄茶色の蛾が無数に潜んでいます。そこを通ると前後左右から湧きあがって私の周囲を無音で飛び回るのです。まるで慕うように取り囲んできます。鱗粉を吸いそうなので足早に通りすぎますがしばらく追われます。毎回きまってそうです。

 たしかファーブル昆虫記に、かごの中で飼われている一匹の蛾が森の奥の仲間の存在を感知してばたばた騒ぐという記述がありました。繁殖期におけるフェロモンの作用だと書かれていたように記憶しますが(不確か)、私の体から類似物質が出ているかと思うほどです。蝶にかこまれて微笑む少女なら絵になりますが、ときおり独り言ちて蛾の群れの中を急ぐ老人はいただけません。直言トークのO君なら「そら気色わるいで!」と言うでしょう。

 さて先日、駐車場までもどったところで保育園児の一団に会いました。お揃いの帽子をかぶって20人ほどがお散歩中、彼らにはよく出会うのです。地元のお寺が運営する桐生の保育園は、園庭が広い、プールも大きい、駐車場も広大、スピーカーは大音量、お花見も川遊びもし放題といいことづくめで、園児たちのごあいさつもバッチリです。おはようございます、こんにちは、と使い分けて叫んでくれます。こちらも笑顔で挨拶を返します。

 この日もひとしきり挨拶を交わし合ったところで最後尾の男の子から「おじいちゃん」と呼ばれました。「はあい」と答えてすれ違いましたが、待てよ。私の服装は長袖シャツ、長ズボン、帽子、メガネ、軽登山靴で露出が少なく、すたすた歩くので一見して年齢不詳のはずです。現に「であい広場」でブルドッグを連れていたおじさんは「ホラお兄ちゃん(私のこと)に撫でてもらい」と寝そべる犬に言ったほどです。でも保育園児は私の顔のしわを見て瞬時に識別したのでしょう。おそるべし幼児の目。

 帰宅途中に栗東の平和堂でストロングチューハイを買いました。この店で酒類を買うといつもレジで「年齢確認おねがいします」と言われます。私も「20歳以上ですか・はい・いいえ」という画面に機械的にタッチするのですが、この日ばかりは、見りゃ分かるだろ、これが未成年の顔か?と言いたくなりました。いやほんまに。

 今回の標題は「老人と山」としました。ヘミングウェイをもじるとは不届き千万とお怒りの声が聞こえそうです。名作「老人と海」が世に出た1952年はサンフランシスコ条約発効の年で、その6月21日(本日)が私の誕生日です。「成人」となって53年たちます。いやはや。

 ところで先日の記事(ほんとうの会議)でオープン・ダイアローグ(OD)とネガティブ・ケイパビリティ(NC)について書きました。私はこれらの考え方(手法)に深く感銘を受けたのですが、友人はいったいどう思うか聞いてみました。私自身の勉強のため少し紹介させてください。

 Nさんいわく。OD、NCともエッセンスはシンプルだ。大切なことは昔も今も、どんな場面においても共通しているが時代や領域によって実践が難しい。とくにわが国では「名前」(それもカタカナ言葉)がつかないと注目されにくい。ODは発祥の地であるフィンランドにおいて精神科の長期入院や多剤処方(薬漬け)に一大変革をもたらした。日本ではまだまだであるが、精神科医の斎藤環氏などがその価値を積極的に発信している。

 NCをめぐる状況もよくはない。ネット検索ですぐに解決、うまくいかないとすぐにリセット、タイパ重視で即決が当然という環境で生まれ育つ若い人々には、「答えのない曖昧さに耐える力」が育まれにくい。私(Nさん)は、講演や相談の機会に親世代に対し「子どもに試行錯誤する経験を保証しましょう」と伝えている。ダイアローグについても、会話と対話が異なることを指摘した上で対話の大切さを強調している。(以上がNさんのコメント。斎藤環氏の名前がでて成程そうかと思いました。この人については過去の記事もご覧ください)

 T君いわく。うん、それもそうだが、金銭バラマキや減税を「物価高対策」と表現する与野党には心底落胆している。どう思う? 日本の物価は先進国レベルでは明らかに安い。もし一流国(?)への到達を求めるなら、目指すべき目標として 5キロ5,000円 のコメを普通に買える賃金上昇への施策こそ必要ではないか。

 農業政策等の不備あってのコメ価格上昇に拘泥して問題を矮小化することなく、今や力ずくの競争社会である世界に大きく後れを取った昨今の過程や現状をどう考えどう対応するのか。この国を構成している人々の今後の選択に私は安心できない。(以上がT君のコメント)

 バラマキについては私も怒っています。あまりに露骨な選挙対策です。「あんたらどうせあほや」と私たちは言われているようなものです。2万円はトヨタの会長にも麻生太郎にも渡るのでしょう。税収が上振れしたならば今後は下振れの可能性もあるはず。いっそそのまま残したほうがマシです。トランプとの関税交渉にしても選挙にらみの説明に終始しているものと想像します(用心深く行われている隠蔽、弥縫、変形、作話、言い換え、小出し等々)。

 T君に引っ張られ脱線しました。ネガティブ・ケイパビリティ等についてはNさんの指摘どおり今日的な重要な課題であると思うので改めて書きたいと思います。そもそも人間存在そのものが「答えのない宙ぶらりん」ではありませんか。カウンセラーで真宗のお寺の住職でもあるI君からたっぷり見解を聞きました。その質・量とも私にヘビーであったので再読のうえ記事にする予定です(このところ友人に頼りっぱなしです)。









2025/06/13

278)兵庫県はあかんたれ(?!)

 また梅雨がやって来ました。どこにも豪雨被害が出ないことを祈ります。豊かだけれど湿潤な東アジアモンスーン気候です。西洋にジューンブライドなる美しい言葉があるのは、かの地に梅雨がないことと関係しているでしょう。アヅマも私も同じ年の6月生まれですがこの時期ばかりは「西洋いいじゃないか」と思います。アヤハディオで「お花・苗木2割引き」のプレゼント券をもらいブルーサルビアを買いました。しばらく室内で楽しんで庭におろします。

 バンダナ教授・上脇博之氏が兵庫県知事らを刑事告発したので「桐生あれこれ」を延期します。告発は誰でもできることといえ、私なら目立つことのリスクや慣れない手間ひまを思うだけで気が萎えます。思い切って清水の舞台から飛びおりても一市民の告発などスルーされるかも知れません。というわけで私は上脇氏に心から敬意と謝意を表します。同氏については記事262・裏金講演会をご参照下さい。

 おさらいですが第三者委員会は、「知事らはパソコン内の元県民局長の私的情報をつかんだ」、「元総務部長はそれを議会筋に流せば内部通報の信用性が薄れると考えた」、「知事も同じ考えで元総務部長に根回しを指示した」、「ついで副知事も同じ指示を出した」、「そこで元総務部長は複数の議員に情報を伝えた」と認定し、知事一人が関与を否定しています。

 以下は私見です。元県民局長が公用パソコンで私的文書を作成したのは目的外使用であり、それが執務時間内に行われていたなら「職務専念義務」の違反です。本来なら知事はこの点を本人に確認し注意するべきでした(懲戒マターではありません)。しかし知事はこれを飛ばして保身に走りました。議会への「根回し」の後も当該情報について「わいせつな内容であった」との見解を公けにしました。

 第一に、知事が指示したのは間違いないでしょう。知事部局と県議会は、県民の幸いをめざすという高い目標で一致しますが、仕組み上は完全な別組織であり、またそうでなくては双方の職責が果たせません。もし両者が「なあなあ」、「ずぶずぶ」の関係にあっても、一職員が独断で知事サイドの重要情報をもらすことはありえません(根回しが成功するかどうかもその時点で不明だったはず)。これは公務員の常識だし部外者にも頷ける話でしょう。

 しかるに斎藤氏は「自分は指示したという認識はない」と言い続けています。彼がいちいち「認識」の言葉を使うのは、本件を事実でなく認識の問題にすり替えることが目的で、バレた時への備えです。彼は元官僚ですが、官僚という人種が自己保身のためにいかに驚くべき知恵を発揮するか、私は市役所時代の見聞により嫌というほど知っています。これは知事主導の組織犯罪(守秘義務違反)です。

 第二に議会のだらしなさに落胆します。上述のとおり知事を糺すのは議会の役目ですが、兵庫県議会はSNS世論にたじろいで責任を放棄しています。事態収束を図ろうとする知事の給与削減提案は何とか継続審議としましたが、姑息な時間かせぎをすることなく知事に辞職勧告を行うべきです。その際に議会全会派の総意として「SNSなどによる言論の暴力を断固として許さない」とのコメントを出すべきです。

 あきれたことに県は県で、内部情報が漏れたことについて容疑者不詳のまま刑事告発を行っています。知事らが内部通報者(元県民局長)を探し出した経過が週刊文春に漏れたことと、元県民局長のパソコンの中身がSNSで拡散されたことが許しがたいというわけです。しかし一つ目(情報漏洩)は、それ自体が「公益通報」です。二つ目(情報拡散)は、維新からNHK党にくら替えした二人の「恥知らず県議」の仕業であったはず。県の告発は斎藤知事の目くらまし戦法でしょう。

 ここまで書いたところで斎藤元彦に厳しくビワマスに優しいO君からメールが来ました。私が「おい今回の件どう思う?」と聞いたので、いつものべらんめえ口調で(しかし丁寧に)答えてくれました。彼の了解を得てその返事をのせます。どうみてもこれがメインディッシュです。

<O君のメール>
 ~ 斎藤元彦の悪徳性はとっくにもう確定済みやんか。あいつがどう悪いかはいろんな人がちゃんとしたこと言うてはる。俺がいまいちばん考えたいのは、なんで兵庫県はあんなにあかんたれやねん?ということ。
 
 82人の弁護士さんが違法と考えてはるわけで、それだけでめっちゃ違法やてわかるやんか。
そこまでの出来事、ほんまは自浄作用で乗り越えなあかんのに、情けない話や。上脇先生のおかげで県議会は楽できたやろと思うわ。むしろ地方自治体ってそんな程度の正義感か?と俺が茂呂から教わりたいくらいやで。
 
 ベランダ越しに、いや越しはあかんな、ベランダの向こうにしとこ。近所の屋根やら道路やら見てるわけや。雨は降っとるけど穏やかで安心できる光景や。理不尽発生を予測しようもない景色で、なんの心配もない。兵庫県のことがあって以来、この安心感は市政のおかげやと思い始めてん。草津市が法令遵守で公正に仕事してくれてるちゅうこと、べつにわざわざ思わんでも思うてるやんか。法が法の通りに実現されてこそのもんやで。法を法の通りに実現するのが行政の役割やと思うねん。
 
 県議の内心は多かれ少なかれ斎藤元彦かもしれへん。職員の内心は多かれ少なかれ井ノ本千明(元総務部長)かもしれへん。そやし、元県民局長とか竹内県議とか、真っ直ぐな人の知事批判が命と引き換えにならざるを得んかった。そういう気がするわ。けど、兵庫県だけやないやろ。現に大津市がそうやったわけで、真っ直ぐな人は天職を捨てて戦わざるを得んかった。

 会社でもそうやった。支店長と所長が手を組んで伝票操作をして、実際以上の営業成績を作っとった。そんなん絶対にあかんと俺が言うたら、一発アウト。めっちゃイジメられたで。的確な叱責もあったけど。
 
 これな、言うたら叩かれるかもしれへんけど、兵庫県の場合、阪神淡路大震災の復興と無関係やろか? 道徳の尊重とともに結実した復興もあれば、道徳の乱れとともに実現した復興もあった、と思う。きれいごとだけでは復興が進まへんたやろし、大きなお金が動き続けたやろし、誰がどれだけ得できるかの競争もあったと思う。

 あっちを立てればこっちが立たずで、職員や県議は何が最善かわからんままに、理念をだいじにしながら仕事する余裕がなかったと思うわ。これが30年間続いて来た。どう言うたらええのか、花より団子というのか、マキャベリズムというのか、黒いネコでも白いネコでも鼠を捕るネコがいちばんええネコの処世訓が広がっていったかもしれへんなと思うねん。これが斎藤元彦誕生の胎教やったかもしれへんし、斎藤元彦続投の生育環境かもしれへんなあ。あんまりまとまりのない話やけど俺はこう思うなあ。~

 以上がO君のメールです。市役所OBの私にも耳の痛い話です。一見して草津市職員にマルが、兵庫県職員にバツがついているようですが、注意深く読むと、彼が両者を等分に眺めていることは明らかです。私は、公務員の「隠れた労苦」にも思いをはせようとするO君の親身なマナザシを感じます。阪神淡路大震災における公務員の殉職(警察、消防に限らず)も踏まえてのことでしょう。

 それにしても「ベランダ越し」には思わず苦笑しました。ギャンブル症者のミーティングにならって聞きっぱなしで終ります。





 

 
 


 
 
 

 

 

2025/06/09

277)「ほんとうの会議」その2

 李在明氏が大統領になりました。「日本は敵性国家だ」と述べた人ゆえ日韓関係の悪化を心配する人もいますが、それは二の次の問題です。韓国の有権者の8割が投票し、前大統領の発した戒厳令を強く批判した李氏が当選したという事実が重要であり、隣国のことながら良かったと私は思います。同氏は高潔な印象がなく刑事被告にもなっていますがトランプよりましでしょう。

 「敵性国家」発言について思うには、日本は、敗戦という「歴史の事実」と、昭和天皇の戦争責任を不問にした「国民の態度」によって、被侵略国から無期限で苦情を言われる可能性があります。こちらが済んだ話にしたくても先方は忘れません。これに反発することが愛国の心情であると勘違いする人が少なくないけれど、こうした「事実」と「態度」があったことを心にとめおき、現在の友好関係の構築に努めることが国益にかなうと思います。

 今回の韓国の選挙で若い女性が「革新」支持、若い男性が「保守」支持とくっきり分かれました。専門家が驚くほどですから私に分かるはずがありませんが、政策レベルの問題ではない気がします。足を踏まれてきた側に溜まった集団的記憶のフタが戒厳令によって持ち上げられ、若い女性世代に噴出したような印象です。若い男よしっかりせよと思います。とうの昔に「私は女性にしか期待しない」と松田道雄(「育児の百科」のお医者さま)が喝破していますけれど。
 
 さて今回のテーマは前回の続きです。「ほんとうの会議」の著者である帚木蓬生は、ギャンブル症者の自助グループによる「言いっぱなし、聞きっぱなし」のミーティングこそ本当の会議であると言いました。これに対し「それも分かるが世の中には『商品開発』や『不祥事対策』などさまざまな会議がある。全部を一律に論じられない」という意見も出るでしょう。もっともな話ですが著者はこの差異を説明していません。

 そこで私見ですが、会社や役所で行われている一般的な会議は「組織の課題や目標について参加者が知恵を出し合うこと」が目的であり(伝達だけの会議も多いけれど)、自助グループの会議は「参加者個人の回復」が目的であって、そもそも出発点が違います。両者を「公的な会議」と「私的な会議」に分けてもよいでしょう。スタイルも「きっちり」対「ゆるゆる」です。水と油です。

 しかし問題の次元を繰り上げてみるとどうでしょうか。一般の会議はその母体である組織(会社や役所)の維持・発展をより高次の目標としており、ギャンブル症者の会議もまた参加者一人ひとりの回復を支える唯一の場である組織(自助グループ)の維持・発展を目ざしているはずです。ともに組織が衰退・消滅したら会議も参加者もあったものではありません。この点で両者は共通しています。

 こう考えると「会議はどれだけ参加者を成長させうるか」という問いが立てられます。何といっても人あっての組織です。この尺度ではかるとどちらが「ほんとうの会議」であるか自明でしょう。帚木蓬生が言いたいのは第一にこれだろうと思います。SNSの隆盛で相手をやりこめる議論に拍手する人が多いけれど、この世はしょせん寄り合い所帯ですから議論や対話は「共なる成熟」を頭の隅に置いて行われるべきだと思うのです。

 以上は私の感想ですが、帚木蓬生は精神科医として次のように指摘しています。すなわち、ギャンブラーズ・アノニマスの自助グループ会議は「オープン・ダイアローグ」の一種であるというのです(開かれた対話とでもいうのでしょうか)。彼によるとこれは1980年代にフィンランドの無医地区で始められた精神医療の取組みであり、「SOSが入ったら直ちに看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどが患者・家族の自宅に駆けつけてひたすら話を聞く」というものです。

 当時この地域は失業率が高く、精神の不調を訴える人が多いのに専門病院がないことが大きな課題でした。しかし、投薬や入院などは後回しにして「とにかく話を聞くだけ」で大きな効果が現れ、これに行政が着目してシステム化が図られました。患者・家族の話を聞く、時間は決めない、強制はしない、医療スタッフは二人以上が関わり個人として意見を言う、医師が加わる場合も診断を下さず参加者の一人として発言するというルールです。

 スタッフの身になるとしんどい気もするし、ある意味で専門性の棚上げなのですが、こうした取組みは1995年以降に「オープン・ダイアローグ」と命名され、いまでは教育や就労の場にも応用されているのだそうです。オープン・ダイアローグは参加者全員の発言(多声性:ポリフォニー)によるミーティングであり、どの発言も平等に扱われる場であって、自助グループの会議もこれだと帚木蓬生は言います。

 今ではオープン・ダイアローグは7本の柱に整理され、「今すぐの援助」、「社会とのネットワーク構築」、「柔軟な対応と流動性」、「チーム全体で責任をもつ」、「心の流れを断ち切らない」、「あくまで対話が中心」、「ネガティブ・ケイパビリティの視点」が重要であるとされています。このうち最後の項目に著者は注意を促しています。

 カタカナばかり続きますが「ネガティブ・ケイパビリティ」は英国の詩人キーツが初めて用いた概念で「不確実さや神秘さ、疑いの中に、事実や理屈に早急に頼ることなく居続けられる能力」のことであり、20世紀になって精神分析家のW・ビオンがこれに注目し、深化させたことにより医療をこえて一般的に広まったと著者は説明しています。

 帚木蓬生は、「何の結論もないけれど何やら心地よい会議に参加している自助グループのメンバー全員がネガティブ・ケイパビリティを発揮している、知らず知らずのうちに答えのない事態に耐える力を高めている」と指摘しています。さらに彼は「評価を行わないこと」の意義や「答えは質問の不幸である」という言葉にふれて論を進めていきますが、ここでは追いきれません。

 以上が帚木蓬生著「ほんとうの会議」の要約と読後感です。この本の値打ちの十分の一も書けませんでした、ああ残念。私は仕事の関係で何人もの精神科医と親しくなり内輪話も聞かせてもらいました。そして、メンタルヘルスの領域では「対話こそツール」であると理解していましたが、この本に示された対話はツールの域をはるかに超えています。

 前記のW・ビオンは弟子たちに「精神分析の理論、知見は邪魔になる。患者をこう治したいという欲望を捨てるべきだ。答えのない世界で徒手空拳で患者と向き合いなさい。対話を通して見えてくる世界があるはずだ」と指導したそうです。常識的には「治療の初期の段階における患者と治療者の相互理解を深め信頼関係を醸成するための手段」と解されますが、それにとどまらない話です。帚木蓬生は、「人の薬は人である」という言葉も引いています。

 私は後学のため、といっても先は短いけれど「ネガティブ・ケイパビリティで生きる」という本を読みました(谷川嘉浩ら哲学者3人の著作・さくら舎)。高度な統治、圧倒的な企業パワー、無法なネット空間が共存している現代社会に人間味のある視点を提示しています。小見出しのいくつかを書くと雰囲気が伝わるでしょうか。「陰謀論」、「SNSの告発」、「一問一答の習慣」、「業界人にならない」、「共感の時代と共感の危険性」、「アルゴリズム民主主義の落とし穴」等々。これも一読に値する本です。

 「平安の祈り」について書き忘れました。「神様、私にお与えください。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えていく勇気を。そして二つのものを見わける賢さを」という短い祈りです。ギャンブラーズ・アノニマスは米国発祥でキリスト教の影響を深く受けており、「神と対峙する卑小な私」という認識が治癒プログラムの随所に現れています。それが「自助」の原動力となっていることは私にも想像がつきます。

 では日本のギャンブル症者はどうか、無神論者はどうかという話になりますが、「平安の祈り」に示された理知的で謙虚な態度は普遍性を有しています。そこで呼びかけられる「神様」は日本古来の神にも仏にも置き替え可能でしょうし、浄土真宗の他力本願(念仏によってのみ救われる)の思想とも相性がいいでしょう。現に日本でギャンブラーズ・アノニマスが定着していることが何よりの証拠です。

 友人I君はカウンセリングの資格をもつ真宗の住職ですから一度意見を聞かなければなりません。T君とNさんはそれぞれ総合内科と児童精神科が専門であったし(たぶん)、先日久しぶりに電話で話したSさんは「越時代」に苦労を共にした戦友でかつ教育の専門家ですから、「ほんとうの会議」についてこれらの人々の意見を聞いてみたいところです。

 前回記事を見たRさんから、大谷選手の通訳を思い出したとメールをもらいました。私も水原一平氏のことが頭にありました。彼はサラリーマンの生涯賃金の何十人分かを盗んでつかまりました。今はおそらく本場のギャンブラーズ・アノニマス(GA)に入っているでしょう。しかし罪は消えません。大谷選手のとるべき態度について私は考えます。

 まず大谷氏は、安易に水原氏を許してはなりません。できる範囲でよいから一生かけて償いを続けるよう弁護士同席の上で伝えるべきです。水原氏が20数億円を返すには宝くじを買わない限り(それはあきまへん)数百年かかるでしょうから、いま完済を論じてもしかたありません。そして大谷氏は別途、アメリカのギャンブラーズ・アノニマス(GA)に寄付をするのです。10億円ほどがよいでしょう。

 勝手ながらその際の大谷選手のコメントを用意しました。
~  今回の出来事で私はギャンブル症が病気であることを学びました。これは決してミスターミズハラの免罪を意味するものではありません。犯罪は犯罪として扱われるべきあり、彼は自らの罪と向かい合わなければなりません。しかし私の国には「罪を憎んで人憎まず」という格言があります。私は彼を憎んでおらず、その病気の回復を願っています。そして同じ病気と闘っておられる多くのアメリカの友人の皆さまにも心からのエールを送ります。私のささやかな気持ちがギャンブラーズ・アノニマスの活動のお役に立つなら、こんな大きな幸いはありません。~(ショウヘイオオタニ)

 次回は久しぶりに桐生の話を書きたいと思います。






 
 

2025/06/03

276)「ほんとうの会議」

 「ほんとうの会議」は本の名前です。世の中の会議は全部ニセモノだと言わんばかり。実際、本の帯に次のとおりの言葉が並んでいます。~ 討論なし。批判なし。結論なし。「言いっ放し、聞きっ放し」の会議が、なぜこれほど人生を豊かにするのか? 私たちが囚われている「不毛な会議」観を根底からひっくり返す! ~ 

 ジュンク堂でこの本を見つけ、新書版ゆえ断捨離を気にせず買いました。著者は帚木蓬生、講談社現代新書、2025年3月刊です。多くの人と同じく私は何百回、何千回と会議に参加したし、ふりかえって思うところは色々あります(もう会議はないけれど)。この本を一読し、再読して、ううん、そうかあと教えられたことを書きます。

 帚木蓬生(ははきぎほうせい)は作家ですが、経験豊富な精神科医でもあると知りませんでした(現在は福岡でメンタルクリニックを開業)。彼は長年ギャンブル症の治療にもあたり当事者による自助グループのミーティングに関わっているうちに、「ほんとうの会議とはこれだ」と気づきました。まずギャンブル症とはどんなものか、著者はおよそ以下のように語っています。

 ~ ギャンブル症は、なるのはいとも簡単、そこからの回復はとても困難な病気である。患者は例外なく、自分の病気が見えない、人の助言を聞かない、自分の考えを言わないの三ザル状態であり、さらに自分だけ、金だけ、今だけよければいいという三だけ主義になっている。だから犯罪がつきもので、妻の財布から札をぬく、子どもの貯金を盗む、家財を売るは序の口で同僚からの借金、職場での横領、詐欺、闇バイトでの強盗などに手を染める。

 もっとも顕著な症状は、嘘と借金で、お金を手に入れるために朝から晩まで嘘をつく。嘘八百どころか八千、八万、いや八十万で、本人にも嘘と事実の境目があやふやになっている。また妄想じみた思考が特徴的で、「手元の1万円を賭ければ10万円、20万円になる」と思う。また「ギャンブルでこしらえた借金はギャンブルで勝って返さなければならない」と考える。これがギャンブル脳である。

 アルコールや薬物の過剰摂取によっても脳は変質するが、ギャンブル行為の反復によって意思決定や報酬に関する脳の回路(ドーパミン性の放射経路)が変質する「ギャンブル脳」の方が脳へのダメージが大きい。特定の経路が蓄積し固定すると元に戻らない。ピクルスはきゅうりに戻らないと表現する脳科学者もいる。要するにギャンブル症は治ることはない。治療によって回復(改善)が望めるだけである。

 現在ではうつ病、統合失調症、認知症、パニック症、不安症など多くの疾患に対して有効な薬があるがギャンブル症の薬はない。できるとしたらカウンセリング(認知行動療法や森田療法)くらいだが、三ザル・三だけ主義のギャンブル症者は受けつけようとしない。そもそもギャンブル症者には家族が何百回も説得を試みており、私(筆者)が知るかぎりこの説得が成功した例は一つもない。

 熟練した精神療法家の働きかけも効果がない。要するに聞く耳を持っていないので何を言っても無駄である。そうしたお手上げ状態の中で唯一ギャンブル症者を救うことができるのが自助グループである。自助グループのミーティングこそギャンブル症者をギャンブル地獄から救い上げるクモの糸である。~

 いったん引用を中断します。ギャンブル症がとても厄介で治りにくい病気であるという事実が「ほんとうの会議」の有効性を裏書きしているようなものですから長く引用しました。肝心の中身はこれからなのですが、この調子では先が見えないので以下はポイントのみ記します。

~・代表的な自助グループは米国発祥の「ギャンブラーズ・アノニマス(GA)」であり、いま日本では230のグループが活動している(厚労省調査によるとギャンブル症の有病者数は全国で196万人)。医療従事者の中には「素人が集まってガヤガヤ語り合って何ができるのか?」と考える人も少なくないが、実際に見学すると誰もが目からウロコである。

・GAのミーティングはふつう週に何度か開かれる(多いところは週6回)。著者の患者には、ギャンブルを「やめ始めて」から毎日どこかのミーティングに出ている人もいる(そうでないとボートやパチスロに行ってしまう)。ギャンブル症者を入院させている病院では3か月の入院中に毎日ミーティングを開いている。

・机はロの字型に並べ、和室なら円く坐って上座も下座もなし。ミーティングは1時間から2時間までで進行役は回り持ち。順番に自己紹介するが各自が「アノニマス・ネーム」を名乗る。それにより属性が消えみんな対等になる。

・まずテキストの読み合わせを行う。テキストは「GAの成り立ちと歩み」、「回復のためのプログラム」(12のステップからなる)、「20の質問」(ギャンブル症の判定項目でもある)、「新しいメンバーへの提案」(該当者がいる場合)の4つである。

・ついで「回復のためのプログラム」からその日のテーマを選んでみんなで体験談を語り合う。例えばステップ1ではギャンブルに対する自己の無力性、同2は自己を超えた大きな力の存在、同3は自己の生き方を大きな力にゆだねる決心、というように認識の段階が示される。それぞれにいくつかの話し合いの項目(視点)が例示されており、参加者は自分の選んだ項目に関して思ったことや体験談を語る。

・発言(3分~5分程度)が終わると全員が拍手し、次の人が自分の選んだ項目について発言する。その際に決して他の人の発言に言及しないルールになっている。あくまで「自分はこう思う。こうしている。こんなことがあった」と語る。

・一巡すると進行役は「まとめ」や「むすび」の言葉を言わず、次回の日時を確認し、進行役の希望者をつのる。手が上がらなければ指名して閉会となる。閉会のまえに全員で「平安の祈り」を読み上げる(たいていの人は暗唱する)。その祈りは次の通りである。

・「平安の祈り」
神さま、私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。
変えられるものは変えていく勇気を。
そして二つのものを見分ける賢さを。

・こうした言いっぱなし、聞きっぱなしの会議がギャンブル症者の「三ザル状態」、「三だけ主義」を跡かたなく消し去る。他人の話は身につまされることばかりである。軽症者の話は自分の過去を、重症者の話は自分の未来を思わせる。やっぱり自分は病気だと納得する。一方で横領で刑務所に入った人が今はギャンブルをやめて10年たつ等の例も耳にする。

・発言しなくても拍手をもらい、何を言っても批判されない経験をするうちに貝のようだった人に発言しようという気持ちが芽ばえる。うそをつく必要がないので本音を語るようになり、本音トークが快いと知る。やがて他のグループから依頼されてスピーチに行くような人も出てくる。

・ミーティングは「今だけ」でなくずっと継続することが前提となっている。自分以外のメンバーは「断ギャンブル」に向かってともに進む仲間であると意識される。かつて自分が周囲から浮いていた分だけこの意識は強まる。またGAに加わった時、すでに金銭管理は親族に任せているので「金さえあれば」という状況と縁が切れている。

・GAの全国大会の際に著者(帚木蓬生)が「あなたにとって自助グループとは何か?」というアンケートを行ったところ「心の家族」、「孤独からの脱出」、「仲間の力」などの答えが最多であり、次が「自分の性格の欠点の確認」、「自分をふりかえる場所」、「生き方を見つめ直す場所」などであった。

・その他には「人間回復の場」、「自分が真実の姿でいられる場」、「自己肯定の場」、「永遠のワクチン」、「予防自覚薬」、「自分の体の一部」などの答えがあった。こうした感想が出てくる会議など例が少ないのではないか。また自助グループが掲げる最終目標は単にギャンブルをやめることではなく「思いやり」、「寛容」、「正直」、「謙虚」という徳目である。このことに私(著者)は感銘を受けている。~

 「ほんとうの会議」の第1章の要旨は以上のとおりです。えらい分量になってしまいました。著者がさらに言いたかった「ネガティブ・ケイパビリティ」や、私自身の感想については次回に書くこととします。ご覧のとおり「読みっぱなし」ですが、それもアリだと思わせる本でした。








 








2025/05/27

275)米劇場と膝腰サプリ

  小泉進次郎氏が農林水産大臣になりました。この人も前任者と同じく政治家としての見識を感じさせませんが、政権はともかく流れを変えたいのでしょう。そろそろ潮目は変わるだろうし、少なくとも「何かやってる感」は出せるはずとの魂胆です。小泉氏もそれを承知で走り出しました。パフォーマンス倒れにならないよう祈ります。

 小泉農相の示した新たな方針は、備蓄米を30万トン放出する、60キロ1万円(5キロあたり833円)とし店頭価格は5キロ2000円をめざす、大手小売りと随意契約を結ぶ、輸送費は国が負担する、買い戻しはしない、今後必要があれば無制限に放出するというものです。私も2000円の米があれば買います。古々米と古々々米らしいけれどチャーハンや炊き込みご飯ならいけるでしょう。

 それにしてもこれまで備蓄米の放出とは最高値をつけた集荷業者に売り渡すことだったわけで、まるで火事場泥棒です。いつぞや国有地を大幅値引きして安倍晋三ゆかりの人物に随意契約で売り飛ばした時の損失(8億円)を少しでも取り戻そうと画策したのでしょうか。 たとえ入札が原則であっても今回の随意契約には大方の理解を得られるはずです。どうせなら肉も野菜も加工食品もビールも安くしてほしいものです。

 先回りしてケチをつけるようですが、これから安い米が店頭にならび、やがて米価全般を押し下げたとしても、それは無理を承知の大盤ぶるまいの結果であり政策の成功とまで言えません。しかし恐らくネットには「進次郎、突破力はんぱない!」、「さすがジュニアや、血は争えん」、「参院選の投票先きまったあ」といった声が流れるでしょう。国民なんてちょろいもんだと政府に思わせてはなりません。米騒動の根本原因は農政にあることを忘れないでおこうと思います。

 国が誤りをおかし、後にその過ちを正したときに、それをいかに評価するかについて私は思います。闇を見るか光を見るか、過去を見るか未来を見るか、一部を見るかすべてを見るか、天秤皿の右と左に何をおくか、天秤は釣り合うか、判定者は誰か、時は癒すことができるか、そもそも国は何か、私は何か等々。

 いま私は袴田事件、水俣病、黒い雨訴訟、福島第一原発事故、沖縄の基地などを念頭においていますが、言うまでもなくこれらは、「正しようがない(元には戻せない)」か、「いまだ正されていない」か、「何万年もにわたり正されない」ことが明らかな課題です。これらに比べたら「米騒動」は小さな問題であって政府には誤りを正す道が残されています。この場合の「正す」とは、マイナスをゼロに戻す以上のことを意味していませんけれど。

 話は変わって、 腰の痛みや脳の委縮について先の記事に書いたら、友人O君は「どもないか? 頭が鈴みたいカラカラ鳴ったらことやで」と心配し、Rさんは「老化はみんなに等しく来るけれど治さんは大丈夫」と励ましてくれました。T君(写真をくれるドクター)は、椎間板サプリに関する私の質問に対し4回にわたり学術論文のような人生相談のような答えをくれました。まことに持つべきは友。私事は控えると言いましたがこの流れで少し書きます。

 股関節の痛みは走りすぎ、首の痛みは大昔のプロレスごっこの後遺症だと勝手に思っていましたが、各種検査の結果、椎間板が老化により「へたって」神経を刺激していることが原因だと判りました。ついでに脳の萎縮まで見つかりましたが、「齢相応ですよ」と先生は優しく説明してくれました。脳はさておき椎間板の「へたり」は困ります。いま歩くことを取り上げられたら私に残る物はほとんどありません。

 折から膝と腰に効くというあるサプリメントの広告が目に入りました。米国有名大学との共同研究により「次世代型非変形性Ⅱ型コラーゲン」の配合に成功した、コンドロイチンやグルコサミンの比ではない、女優の誰それさんも愛用、今なら初回限定70パーセント引きの1980円という内容に私はふらふら来ました。これはいいかも。そこでT君に尋ねたわけです。

 サプリメントとうまく付き合うヒントに満ちた彼の答えをかいつまんで書きます。

 ~「コラーゲン」は長い繊維性タンパク質であり、人体はこの大きな分子をまるごと吸収することができない。アミノ酸またはペプチドに分解することにより初めて摂取可能となる。これが消化である。この消化吸収の段階ではロース肉も豆腐も「アミノ酸」という点で変わりはない。通貨であるお金に色がついていないのと同じことだ。~

 ~貴君お尋ねの「非変形性Ⅱ型コラーゲン」については、領域の専門家の見解等を紹介する「日本医事新報」で以下の問答が行われている。
質問「このサプリは膝や腰にきく機能性表示食品として販売されているが医学的効果はあるか?」
順天堂大学医学部N教授の回答「機能性表示食品として届け出ができるのは、疾病に罹患していない人の 健康の維持・増進に適するか役立つものに限られる。治療効果、予防効果を暗示する表現も許されていない」~
(茂呂解釈:病気が改善されるなら「薬品」として承認されているはずだ、したがって「健康食品の一つに過ぎない」ということでしょう)

 T君の答えを続けます。~  健康食品は嗜好品だと考えた方がよい。効き目があると信じる人、半信半疑の人、だまされたい人、一縷の「期待行動」だと自覚している人など様々である。メリット・デメリットの比重は人により異なるが、その利用の是非を他人が決めつけることはできない。趣味や道楽の一種で本人の思い入れや財力により各々がつき合い方を考えることだと思う。~

 ~ 効かないというエビデンスもないのだから改善が見込めない現状に一つの変化を取り入れ、少しでもよいと感じることがあれば未来に小さな灯がともったと思い、それが明日を少し明るく生きるきっかけともなれば、それまたよい「薬」かも知れない。逡巡、熟慮することは高齢者の脳トレにもなるのでゆっくり最適解を考えられよ。いささか上から目線でごめん。~

 引用は以上です。彼は紳士なので表現はもっとマイルドですがざっとこんな要旨でした。私はサプリを買わないことにしましたが、人によっては「それじゃ買おう」となるでしょう。その後に(今日から5日まえ)私はぎっくり腰になりました。一時は困り果てましたがたっぷりある時間を味方につけ、T君のメール見舞いを受けつつ(さっそく私がしゃべったので)今日は桐生のソロソロ歩くまでに回復しました。

 治りきったら体幹をきたえるつもりです。「君がため惜しからざりし命さえ長くもがなと思う」ほどの人はありませんが、私には、10歳をこえてなおご飯の催促ばかりする白猫がおり、アヅマの愛した庭と家があります。かなう限りコケないようペダルを踏んでいかねばなりません。つまるところ老化のなせるわざですが、抗わずにつき合っていきます。末筆ながらご同輩の皆さまの一層のご健康をお祈り申し上げます。サプリは飲むもよし、飲まざるもよしということで。




 


2025/05/19

274)米騒動

 トランプ騒動ではなく主食である米の騒動について書きます。これまた「食えない」話です。スーパーから米が消えたと報じられたのは二月ごろでしたか。でも私が住んでいるのは米どころ近江、全国屈指の水田率を誇る滋賀県です。ここはまだ大丈夫だろうとたかをくくって失敗しました。気がつくとハズイ西店(湖南地域の台所)にもアルプラザ(平和堂基幹店)にもお米がないのです。

 ものがなくなって買いに走る「後手後手ショッピング」を反省しつつしばらくお餅とパスタでつなぎましたがやはりご飯がほしい。農協直営の「青花館」に行っても無駄足でした。朝から並んではりまっせとお店の人に教えられ、翌朝、私もその行列に加わりました( まるで配給米!)。常連らしき人同士が「わしら銭(ぜん)ないぶんヒマあるしな」と話しています。たしかに私をふくめ勤め人らしき人の姿はありません。私は列をなして待つことが人一倍嫌いですが背に腹はかえられません。

 「米」と大書したプラカードをもった人が行き来して人数を数えていますが、「何人いける?」、「ひとりなんぼ?」、「何時あくの?」など質問が飛ぶうえ人が次々に来るので収拾がつきません。係の人は何度も数え直したうえで最後尾の人に「お客さん45番。おぼえてね」と下駄をあずけました。なるほどみんなが証人だし、次は46番から数えれば足ります(われらは競争原理のはたらく運命共同体)。同様に何人かが番号をもらい70人で関門閉鎖となりました。

 私は首尾よくお米をゲット、5キロの玄米を精白して4.3キロに減ったミルキークイーンが4,400円でした(ほかの銘柄は売り切れ)。そうだ息子一家に送ってやろうとこの日をふくめ4回の早朝出勤をしました。ヒマならあるし。しばらくたって5月なかばのお昼前、「青花館」に野菜を買いに行ったらまだお米が残っていました。値段は高いままですが極端な品薄は収まりつつあるようです。

 この米騒動で政府の危機管理の甘さ(短期課題)と食糧安保の危うさ(政策課題)が浮きぼりになりました。副食の豊かさが「米離れ」の要因とすれば米の消費量が減ったことを嘆かなくてもよいけれど、小さな川が簡単に溢れたり干上がったりするように流通量の減少は不安定さを伴います。だから備蓄米があるのにどうしてうまく使えないのか?

 私は経済にとんと弱いのですが、農水省にとって備蓄米は自在に使える「武器」だし、米の流通になお中心的な役割をはたしている農協は「仲間内」でしょう。日銀が通貨を操作するよりずっと簡単かつダイレクトに市場に働きかけられるはずです。それなのに何十万トンもの米を複数回放出しても一向にスーパーまで届かず、値段もつり上がったままではありませんか。

 なんと農水省は、一年後に同等同量の米を卸業者から買い戻す条件をつけていたそうです。つまり今年の秋にできる米はあらかじめ何十万トンだか(数字を忘れました)が国庫に入って品薄になると決まっているわけだから、卸業者はいま保有している貴重な米を市場に出す気になれません。一年で安易に帳尻を合わせようとした農水省の役人は、国民の食卓より自分の仕事のラクさを重視したわけです。

 すったもんだの末に「一年しばり」は五年に延長されましたが米騒動はまだ終息していません。農水省および政府は、この米不足の発生のメカニズムを分析、公表し、あわせてその対策(危機管理)の検証も行うべきであると思います。今回は小さな危機です。こんなざまではトラフ地震を乗りこえられません。大きな危機に対して国民的な備えは必須ですが、政府にはもっとピリッとして欲しいのです。「やってるふり」でなく「やって」もらいたい。

 もう一つは食料安保(農業政策)の問題であり、米騒動は日本の食糧事情の縮図だといえます。よく知られるようにわが国の食糧自給率はカロリーベースで37%です。米は、ミニマムアクセスやTPPによる輸入があるにしてもまだ国産が主力ですが、小麦、とうもろこしなど他の「腹の足しになるもの」はすべて輸入に頼っています。

 生産額ベースの自給率は60%をこえるし野菜にかぎってみれば80%になりますが、なにかの事情で海外調達ができなくなった時にイチゴやレタスばかりで飢えをしのぐわけにいきません。地球規模では明らかに食糧不足だし(飢餓人口は8億とか)、国際緊張がさらに高まればどの国も自国を優先しますから、車を売って食料を買うスタイルはもう危険です。

 自給率の高い野菜といっても種(タネ)は90%が輸入です(種苗会社が海外へ生産委託している)から、正味の自給率は80% × 10% = 8% となります。いまの野菜は交配による一代かぎりの品種(F1)であるため毎年タネを買う「自転車操業」にならざるをえません。化学肥料(リン、カリウム、尿素)もほとんど輸入です。卵は純国産ですがヒナ鳥は大半が輸入、エサのとうもろこしも100%が輸入です。危なっかしい状況だと言わざるをえません。

 幸いここ80年は国民規模での飢えはありませんでしたが、いまや抜本的な路線転換が必要です。アメリカとの関係を例にとっても、野菜の種子は同国のモンサント社(枯葉剤も製造。いまは社名変更)に牛耳られ、穀類も米国依存、ICTの根幹部分も米国大手企業の独占ですから、わが国の胃袋も頭脳もアメリカの支配下にあるようなものです。対米貿易は黒字だと安心していられません。

 井上ひさし(なつかしい名前!)が農業、農村、農家の意義をくりかえし語っていたことを思い出します。社会インフラのなかに不要なものはありませんが、たとえば道路敷、鉄道敷、工場の敷地など比較すると農地は「それ自体」がきわめて大きな価値を有しています。すなわち農地は米や野菜を生み出すばかりでなく、環境保全、生態系維持、景観形成、防災などの重要な役割を果たしています。

 だから本当はすべての土地を公有にすべきでしょうがそうもいかないから、山や川を保全するように国全体で農地を守る必要があります。政府はこれまでの減反、転作奨励、所得補償などの効果を検証し、農地保全と自給率向上をめざす農政の基本方針を明確にするべきだし、細かい点では農家はもっと農薬の使用を控え、消費者は作物の「見てくれ」に惑わされない眼をもつべきだと思います。

 おりから昨日(5月18日)、江藤拓農水相が「私は一度も米を買ったことがない。支援者が持ってきてくれる。わが家には売るほど米がある」と自慢しました。それを知って私の頭に「極刑ニ処ス」という言葉が浮かびました。これまでに書いた通り私は死刑廃止論者ですが脳内の反射は制御できません。こんな大臣がいることを一市民として情けなく思います。首相が厳重注意したそうですが、「もっと空気を読めよ」とでも言ったのでしょうか?

 今回もまた更新に手間どってしまいました。足の痛みで受診したことがきっかけで首(椎骨動脈)の検査まで受けることとなり、結果的に各所が老化している(脳も萎縮)ということが分かって、これに時間をとられてしまいました。ちょっとおもしろい経緯ですがあまりに私事なのでやめておきます。しかし私のどんなアホらしい話でも江藤拓よりマシでしょう。