瀬田唐橋、大津事件と昔話が続いたので次回は多少なりとも系統だてて「公」を論じようと勉強しかけた4月半ば、妻の母(95才)が心不全で倒れて入院し、5月初めに退院したものの一人暮らしはもう無理でそのまま我が家に同居することとなりました。幸い介護や看護の訪問サービスを受けることができ大助かりですが私も毎日付ききり状態。3週間すぎて何とか生活が回り出し、ようやくパソコンに向かっています。
以前に私は、駅前広場でハンドマイクを持ち通りゆく人に語りかけるような気持ちで「大津通信」を綴ると書きました。メインテーマも「私」ではなく「公」です。こうしたことからブログ上でなるべく私事を遠ざけてきました。しかし、昨年はわが身より大切なひとを喪って私の人生もいったん終了したと痛感しました。そのことに触れずに記事を書くことは出来ません。そこで思案のうえ個人的な事情を明らかにしつつブログを再開した経過があります。
しかし考えてみればブログをご覧くださるほとんどの方々は私をよくご存じであり、私的独白もたまに許されるかもしれない。また、私の記事は公務員という私的体験に多く基づいていますから公私の切り分けがそもそも難しい。これからは公的サービスの「受け手」という私的立場から「公」の一側面が見えてくるかもしれない。とすれば多少の「公私混同」はアリかな、、、と一人合点して今回は母のことを持ち出し一時休止の事情説明とさせて頂いた次第です。
いま思っていることを二つ書きます。
まず「人生を振り返る」ということについて。
人の一生を春夏秋冬の四季になぞらえるのは類型的ながら、時間の経過とともに変化する活力や熱量のカーブを思い描くと頷ける見立てです。雪の夜、暖炉の前の安楽イスに身を沈めて遠い夏の日々を懐かしむ。人生の終盤にはそんなシーンもありましょう。過ぎさった時間の密度と長さの積(ボリューム)と残された時間のボリュームのあまりに大きな落差。これが老境の人をして人生を「振り返らせる」のではないでしょうか。年寄りの昔話のゆえんです。
広い世間にはヨットの堀江謙一さんのような敬服すべき例外もありますが、実は彼も一般の人と同じく、いやそれ以上に「振り返らされている」のではないか。堀江さんは24才で太平洋単独無寄港横断という圧倒的な「ボリューム」を達成しました。しかし、いくら何でも青年が早々と安楽イスに座るわけにはいかない。彼は背後の大きすぎる「重心」に抗するため前方に新たな冒険という重りをぶら下げてバランスをとり、それを何度も付け足して今日まで現役であり続けてきた。その動機は「振り返り」である、という解釈です(憶測です)。
私自身も圧倒的な時間の集積が背後にあり、今は振り返ってばかりの日々です。また多くの方が同感されると思いますが、近しい人と長年ともに暮らすことは二人そろってタイムカプセルに入っているようなもの、相対速度がゼロゆえ互いに年を取ることがありません。ところが人生後半でカプセルが壊れると玉手箱を開けたように突然老いを感じざるを得なくなります。それが身体にまで現れるので近ごろ病院通いを始めましたが、わが家には安楽イスがありませんからもう少し頑張らなければなりません。ともあれ、こうした懐旧マインドもあり前回は昔話を書くこととなりました。
もう一つは、5月からお世話になっている看護師、介護士さんたちのお仕事ぶりについて。1日に2~3回、若い女性たち(10人余の方が曜日と時間帯により分担)が我が家に来られ、耳の遠い母に明るく大きな声で話しかけながら要領よく様々なケア(健康チェック、着替え、全身の清潔を保つための様々な手当て)をしてくれます。その中には家族である私が容易に行えない世話が含まれています。それがプロだと言ってしまえばそれまでですが、自らの手で他人の肌にふれて働きかけるサービスの直接性、身体性の強さを見て、私は「かなわないなあ」とたじろぎつつ感謝するのが常です。そこに言葉をこえる力を感じます。
その彼女たちが帰り際、例外なくにこやかに「ありがとうございました」と母に声をかけてくれます。それは「利用客への儀礼的な挨拶」以上の意味を含んでおり、行為者と受容者の緊密な関係によって成り立つ「介護」という時間を共にした相手に対する「ねぎらい」ではないかと私は考えます。介護サービスを必要とする理由は人それぞれですから一概に言えませんが、たとえば母のようにある日を境として全面的な身体介護を受けるに至った場合、その心中は察するに余りあります。 ~ 今日は嫌なこともよく頑張りましたね。そのおかげであなたの心身の状況は改善されたし私のミッションも果たせました。どうもお疲れさまでした~ このように彼女らは語りかけています。これは提供されるサービスの特質を物語るものでもあります。もちろん母も私も感謝の言葉しかありません。
病気と闘っている辺見庸は、長生きして書き続けてほしいと私が最も強く願う作家ですが、彼自身の透徹な「被介護」体験記や、彼の友人らが身をもって体験している肉親介護の深い闇のエピソードを想起すると上記の私の述懐は介護初心者の公式論に過ぎないかもしれません。
肉親介護の「闇の深さ」は、誰しもある程度は想像がつきます。また、介護保険の理念である「介護の社会化」には当然ながら常に可能性と限界が併存しています。「集団」に支えられる「個」のあり方、そうした場における「個」の尊厳といった実存的テーマもあります。ここにも「公」の問題が横たわっていると感じますが、ともあれ今の私は試行錯誤と感謝の日々であります。
それにつけても大津市保健所の皆さん、あんしん・すこやか相談所の皆さんはどうしているかと思います。私は事務職でしたが現場で働く人々の職務の直接性に敬意を払ってきました。いま私もそうした支援を受け(自治体は違うけれど)、健康保険部で一緒に仕事をした頃を「振り返って」います。保健所に限らず人のために行う職務は相手の心に響き、その暮らしを助けます。コロナその他で大変でしょうが「現役が花」ですぞ。どうか元気に機嫌よくお仕事をされますよう。いつもながらOB職員の手前勝手なエールをお笑いください。
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