さて今回のテーマはロシアがらみの話とはいえ130年前の「大津事件」。昔話をしている場合ではないと思いつつ幾つかの視点を取り上げます。1891(明治24)年5月11日、国賓として日本を訪れていたロマノフ朝皇太子ニコライが大津町下小唐崎の京町筋を人力車で通行中のところ沿道警護の巡査津田三蔵にサーベルで切り付けられ側頭部を負傷! 大国ロシアの次期皇帝の暗殺未遂に明治日本がひっくり返りました。
まず参考資料の説明です。筆頭は「大津事件関係資料集」。これは宮内庁書陵部が保管する多数の資料を山梨学院大学が編纂出版したもので、記録は広範、記述は詳細を極めています。ニコライの応急処置に井戸水を4杯汲んで傷口を洗い晒木綿を巻き付けたこと、津田三蔵が取り押さえられた際に後頭部と背中に負傷したこと(イラスト付き)、事件直後の尋問の様子、皇太子への見舞品と献上者一覧なども記録されています。その他、保田孝一著「ニコライ二世の日記」、児島惟謙「大津事件手記」、礫川全次「大津事件と明治天皇」などに目を通しました。その上で吉村昭の「ニコライ遭難」も再読し、さすがに著者が綿密な調査、考証を重ねたと分かりました。
事件現場は下小唐崎町五番地まえ(現在の大津市中央2丁目6街区)で「此附近露国皇太子遭難乃地」の石碑が立つ十字路より20mほど東の地点です。大津は戦災にあわなかったのであたりの家並は昔のまま。家屋は建替えされたり解体されたりしていますが住戸ごとの区画も並びも当時とまったく変わりません。念のため法務局で新旧の公図を確認しても差異はなし。歴史探訪のまち大津です。
私事で恐縮ながら史料の中に周辺の見取り図があって「八番地 茂呂キク」との記載があり、これが私の曾祖母です(先祖代々この地で煙草商を営んでいました)。江戸末期に田上黒津のK家から嫁ぎ当時この家の主人であった「キク」が事件を目撃した可能性が高いのですが、その娘「シナ」の代から大津を離れたことや3代続けて男性の戸主が短命であったことから目撃談の言い伝えはありません。ともあれこうした事情もあって大津事件は何やら私に特別に思われます。
事件当日、皇太子一行は京都の常盤ホテルを人力車で出発、三井寺に立ち寄ってから琵琶湖を遊覧します。ニコライの日記には「到着後ただちに寺を参観し、茶碗でにがい茶を飲んだ。それから山を下りて桟橋に向かった。琵琶湖から山の中を開削した運河沿いに進んだ。これは本当のエジプト的工事だ。桟橋で汽船に乗って唐崎村に向かった。そこの岬には千年物の松の大木と小さな神社があった。」とあります。琵琶湖疎水(前年に完成したばかり)を「エジプト的工事」と評したのは彼が旅の最初に訪れたスエズ運河を想起したものでしょう。
続いて一行は滋賀県庁で熱烈、丁重な歓迎を受け、予定どおり京都に戻るため13時30分に出発します。車列は見送りの車を含め100台余り。先導は京都府警警部、滋賀県警警部、滋賀県知事でニコライの車は4台目、5台目には従弟であるギリシャ皇太子ジョージが乗っていました。北向きに進んだ一行は京町筋で左折、国旗、幔幕、提灯で飾られた通りを西に向かいました。下小唐崎町5番屋敷前にさしかかった時、その場に立っていた巡査(18mごとに配置)が挙手の礼をし、下ろした手で突如サーベルを引きぬき人力車の右側30㎝に走り寄ります。無言で打ち下ろす刀身。
鼠色の山高帽が飛んでも皇太子は前を向いたまま、梶棒をにぎった車夫は気づかず歩みを続けます。後押しをしていた別の車夫が駆けよって右手で巡査の左脇腹を突きました。よろめいた巡査が再びサーベルを振りあげ車に迫った時、皇太子は初めて巡査を見ました。次の瞬間、その無帽の頭に二太刀目が振り下ろされます。ニコライは声をあげて立ち上がり、ようやく異変に気づいた車夫が梶棒をおろしました。路上に飛び降り額を押さえて前に駆け出す皇太子。追いすがる巡査。
続く車に乗っていたギリシャ皇太子も車を飛びおり巡査に駆け寄って手にした竹杖(県庁物産陳列所で買い上げた草津名産の品)でその後頭部を激しく殴打、同時に車夫(向畑治三郎)が腰にタックル、倒れた巡査が投げ出したサーベルを拾った車夫(北賀市市太郎)がそれで巡査の背部を2回にわたって切り付けました。先へ行き過ぎていた滋賀県警部(木村武)ほかが駆けつけて「殺すな」と車夫を制し無抵抗となった津田三蔵を縛り上げました。
当日のニコライの日記より。「侍医のラムバクが最初の手当てをしてくれた。包帯をして止血したのだ。それから人力車にのって元の県庁に向かった。有栖川宮殿下その他日本人の茫然とした顔を見るのはつらかった。街頭の民衆は私を感動させた。申し訳ないという印にひざまずいて合掌していたのだ。」
二日後の5月13日にはこうあります。「元気よく陽気に起床し、新しい部屋着である着物を着て散歩した。日本の物はすべて4月29日(ロシア暦の事件当日)以前と同じように私の気に入っており、日本人の一人である狂信者がいやな事件を起こしたからと言って、善良な日本人に対して少しも腹を立てていない。かつてと同じように日本人のあらゆるすばらしい品物、清潔好き、秩序正しさは私の気に入っている。」
事件を知った明治天皇は直ちに京都の皇太子とペテルブルグの皇帝に謝罪電報を打ち、翌日には政府要人を伴って常盤ホテルに駆けつけた後、神戸に停泊したアゾヴァ号に戻るニコライに同行して「護衛役」まで務めます。皇太子あての電報は全国から1万通をこえ見舞い品も山のようであったといます。政府が恐れていたのはロシアの過大な賠償請求で最悪の場合は戦争。これが杞憂に終わったのは私たちの知るとおりですが当時は日本が震撼しました。ロシアへの謝罪のため京都府庁前で自ら命を絶った女性もありました。前段が長くなりましたが幾つかの論点を取り上げます。
<西郷隆盛という人>
西郷隆盛は教科書で読んだだけ、数年前の大河ドラマ(せごどん)も見なかったので、この明治の偉人についてはほとんど知りません。ちなみにNHKドラマは見ているこちらが恥ずかしくなるほど陳腐、凡庸であり、同放送局が娯楽を通じて国民の愚民化を根気よく進めているという私の偏見の根拠の一つとなっています(くどいクイズ番組やお節介な天気予報もしかり)。それはさておき西郷が私心なく人間的魅力にあふれた大人物であったことは確からしく、明治天皇からも愛されていたことが記録から分かります。
ニコライの来日前、西南戦争で10年以上前に死んだはずの西郷が実はロシアに落ちのびて、このたび皇太子の軍艦に同乗して帰ってくるという噂が全国に広まりました。悲運の英雄への哀惜は義経・成吉思汗(チンギスハン)説に通じる話です。一行が東京訪問を後回しにして鹿児島に寄港したのは西郷のためだと噂されました。折も折、大津事件の2年前に帝国憲法発布による大赦で名誉回復した西郷に正三位が追贈され、上野の銅像建設に際して宮内庁から500円が下賜されています。
明治政府が成立して20年余、不平等条約の改正や各種法整備が進む一方、伊藤博文らが華族令を制定(明治17年)し自ら爵位につくなど「維新」を進めた人々の「変質」も社会の安定化とあいまって進行しました。これを政治の劣化と見る少なからぬ人々には「西郷復帰」が一種の願望であったかも知れません。しかし西南戦争に従軍した津田三蔵にとってこれこそ悪夢に他なりませんでした。
<なぜ大津に来たか>
ニコライは長崎、鹿児島、神戸の順に寄港し神戸から汽車で京都に到着。大津訪問のあとは東京に向かい天皇に挨拶して日本を離れる予定であったと思われます。なぜ大津が限られた訪問地の一つとなったのか。大津市職員の皆さんは先刻ご承知ですが、江戸幕府が倒れた後も明治政府は大津を重要視して1番目の直轄地としました。水陸交通の要衝として米相場がたち(全国3番目)、商工会議所もいち早く設立されました。日本どころか世界に冠たる琵琶湖遊覧の玄関口でもあります(言い過ぎかも知れませんが古代湖として屈指のはず)。
さらに1890(明治23)年、国家事業である琵琶湖疎水1期工事が完成しており、大津の存在感は残念ながら今よりも格段に大きかったはずです。県庁があることも歓迎や警備に好都合であったと思います。こうして「選ばれた大津」ですから、出来れば皇太子一行にお泊り頂きたかったところですが、京都は何と言っても千年の都、しかも新築したての豪華な「常盤ホテル」があり、残念ながら今なお続く「京都のついでの日帰り観光」となりました。
これが大津の泣き所ですが、関係者の努力のかいあって大津ならではの魅力を知る観光客も増えつつあります。河原町二条の常盤ホテルは「ホテルオークラ京都」としていまも営業しています。
<なぜ切りつけたか>
襲撃の動機については尋問調書、関係者への聴取、津田自身が書き残した手紙等にもとづいて明らかにされており、どの本を読んでも似たようなことが書かれています。南下政策をとる大国ロシアへの不信と恐怖(国民共通の心理)、したがってニコライの目的は日本の国情偵察であるとの憶測、結果として東京訪問が後回しにされたことへの憤り(国賓としての礼を失する)、西郷復帰が実現すると西南戦争でもらった勲章がはく奪されるという恐れなど。
私としては三井寺にある慰霊碑がきっかけの一つになったことに「大津」と「事件」の因縁を感じます。1873(明治6)年に徴兵令が敷かれ、大津に置かれた第九歩兵連隊が政府軍として西南戦争を戦い441名の死者を出しました。その慰霊碑が三井寺の高台にあり、事件当日の午前にここに配置されていた津田は、下見にやって来たロシア随行員2人が慰霊碑に礼もせず前の柵に腰かけたのを目撃して憤りをおぼえたと供述しています。その後2人が石山、唐崎の方を指さし身ぶり手ぶりでしきりに車夫に問いかける様子を見て、やはり偵察だと思ったとも述べています。
2003年、大津市歴史博物館が大津事件に関する充実した企画展を開きましたが、その準備の過程で発見された53通の津田三蔵の書簡からその内面をうかがい知ることができます。同館のホームページを参考に書きますが、これらの書簡は「西南戦争従軍記」と呼ぶべきもので前年の神風連の乱、西南戦争の発端、焦土と化した熊本・鹿児島の模様、最後の城山攻撃、戦争が終わり自身が神戸港へ帰着するまでが特有の言葉づかいで詳細に記録されており、西南戦争への従軍と軍功が彼の人生の最も輝かしい局面であり誇りであったことが読み取れます。
このように見てくると「随行員の無礼」と「西郷復権による勲章はく奪の可能性」というロシアによる西南戦争の「重複否定」が津田を憤激させ、凶行の一番の動機となったものと思われます。当日家を出るとき彼は妻に「行列が早く過ぎれば早く帰れる」、「大津まで旅費が出るので助かる」等と語っており朝から覚悟を決めていたと考えられません。尋問で「危害を加えようと決意したのはいつか」と聞かれ「三井寺の西南戦争記念碑前だ」と答えているとおり、彼が元々抱いていた反露感情に火をつけたのが事件当日の三井寺での見聞であったと思われます。津田が精神錯乱状態にあった方が政府には好都合で精神鑑定も入念に行われましたが、異常を認めずとの結果が出されました。
<司法の独立>
事件翌日、京都へおもむく天皇を新橋停車場で見送ったあとに松方総理、後藤逓信、山田司法、陸奥農商務の各大臣と元老伊藤博文、黒田清隆が緊急会議を開き、津田を死刑にすることで意見の一致をみました。事件の詳細が分からず裁判も始まっていない状況下、政府首脳による「死刑決定」はあまりに乱暴ですが、彼らがロシアをいかに恐れていたかをよく物語っています。
法律上の論点は、刑法116条「天皇、三后(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子ニ対シ危害を加ヘ、又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」(大逆罪)に該当するかどうか、すなわちロシア皇太子を日本の皇太子と同一のものとみなせるかどうかであり、条文の冒頭に「日本の」という限定がないから外国の王室、皇室を含むとみなして差し支えないというのが政府の立場。これに対し大審院長の小島惟謙は、刑法草案には「日本天皇」と明記されていたが明治13年の元老院の議事で削除された、なぜなら天皇の称号は日本古来の独特のものでことさら「日本」の文字をつける必要がなかったからであると指摘し、大逆罪にあたらないと主張します。
刑法116条適用は政府自身も半ば無理を承知のこと、しかしなお国家安泰が至高の目的であり、国あってこその法律であるとの立場でした。ところが司法大臣の緊急命令で開かれた司法省高等官会議では全員がこれを否定し、通常謀殺未遂罪(最高刑は無期徒刑)に当たると結論しました。お雇い外国人の国際法学者パステルノートも同意見。大津地裁でも別個に事前協議が行われていましたが、全員が通常謀殺未遂罪とする見解でした。要するに司法界の常識としてロシア皇太子は刑法上「普通人」でありました。裁判終了後の新聞の論調や世論も法が守られたことを大いによしとするものでした。
こうした中、児嶋惟謙一人が「護法の神」と称えられたのは、やはり大審院長という立場によるものでしょうが、政府の切り崩しを受ける担当裁判官の一人ひとりに信念に従って行動するよう説得したことや、自ら大臣と渡り合った生々しい記録「大津事件手記」を残したことにもよると思われます。そこには「国家が先か、法が先か」という切迫した議論(とても興味深い応酬)が展開されています。
政府は、天皇が戒厳令(帝国憲法14条)を発して司法権を制限し津田を死刑にすることも検討し、児嶋惟謙自身もその手法があると司法大臣に進言したことが明らかになっていますが、ロシアに賠償請求の意思がないらしいと次第に判明するなかで奥の手が使われるに至りませんでした。しかし、裁判そのものは大津地裁でなく大逆罪を審理する大審院が行うこととなり、5月27日の一日限りの裁判で「被告三蔵ヲ無期徒刑ニ処スルモノ也」という判決が下されました。
判決後、青木外務大臣が迎接不行届、西郷従道内務大臣が警護不行届により更迭、司法大臣と陸軍大臣も交代となりました(滋賀県知事沖守固も免官)。ロシア皇帝は判決に満足したと伝えられましたが、本当は死刑判決が出されロシアが赦免を請うという展開なら面子がたったとロシア公使が語った記録も残されています。近代化をめざす日本は法治国家の面目をほどこすこととなりましたが、当時も権力の中枢を占めていた薩摩・長州閥に対する司法を含むその他勢力の抵抗という側面があったとも評されています。
<後日談>
未決のあいだ滋賀監獄(跡地はUR膳所公園住宅となっています)につながれていた津田三蔵は他の囚人とともに神戸から船で北海道に送られ、7月2日釧路集治監に収監されました。頭の傷はなかなか癒えず、逃亡を防ぐため外役にも出ることなく、体力回復のために鶏卵や牛乳など特別食を与えられました。しかし、本人は事件の責任をとり死をもって償いたいと度々口にし、そのうち物を食べなくなりました。
これほどの重要犯を死なせるわけにはいかず係官は手をつくしましたが、津田は体力の低下とともに病を発します。症状が悪化して囚人には例のない「危篤診断書」が書かれましたが、そこには、感冒の治療中に胃カタルを発し、ついで気管支カタルにかかり、気管支肺炎の症状で高熱、喀血、、、と書かれています。そして事件から4か月余り後の9月29日死亡。津田家の墓は伊賀上野の大超寺にありますが、彼は釧路分監墓地に葬られました。
ニコライを救った二人の車夫(向畑治三郎と北賀市市太郎)は時の英雄となり勲8等に叙せられて年金36円をうけ、ニコライから2500円の一時金と1000円の終身年金を受けました(巡査の初任給が8円の時代)。向畑は様々な事業に手を出し、日露戦争でロシアからの年金が絶たれたあとは一時待合を営んでいましたがそれも失敗、少女への暴行で逮捕されたりした後、1928(昭和3)年に死亡しました。
北賀市は故郷の石川県江沼郡の郡会議員となり、結婚して豪邸を建て一男三女の父となりましたが、やはり日露戦争でロシアからの年金が絶たれた後、国賊として村八分にされ家に閉じこもり、1914(大正3)年に死亡しました。いまもむかしも世間は移り気です。
ニコライは事件の3年半後、26歳で亡き父の跡をついでロシア皇帝ニコライ2世となりました。そして日露戦争後のポーツマス条約(1905年・明治38年)の際には、戦勝国日本の樺太割譲、賠償金支払いの要求を断固拒否。この結果日本は樺太半分の領有と賠償金要求放棄によって講和条約に調印しました。
1917年のロシア革命によりロマノフ王朝は崩壊、ニコライは妻子と共に幽閉され、翌年ボルシェビキの一隊によって家族全員が射殺されました(彼はその3日前まで日記を書き続けました)。裁判なしの処刑の実態は長く公にされませんでしたが、ソ連崩壊後の1991年に発掘された遺体のDNA鑑定が行われ、その際に滋賀県が保管する「血染めのハンカチ」からもサンプルが採取されました。他の資料を含めた総合的検証の結果、遺体はニコライであると断定されました。
明治日本の一大事件は結果として上首尾に処理されました。その過程に様々なドラマがあったことを今の私たちは知っています。また、加害者、被害者、多くの関係者は悲運の道をたどりました。その経緯は様々ですが、いずれにも「個人と社会」あるいは「個人と国家」の相克という側面が見られます。大津事件は年来のテーマでしたが、いざ書き出してみるとNHKの悪口を言ったくせに冗長な記述となってしまいました。これで時代物はいったん終了です。
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