「初めに言葉ありき」はヨハネによる福音書の有名な冒頭句。ここだけ切り取って云々することは控えるべきでしょうが、それにしても至言です。言葉は人間の創造物であり、同時に人間は言葉の創造物であるという事情を端的に表しています。いまや人工知能と言葉の関係も同様になりつつあるでしょう。
「言葉は海のごとし」は私の迷言ですが、深さと果ての知れない言葉の海にクラゲのように漂う我ら人間であることよと思うのです(大槻文彦博士もその大著を「言海」に「大言海」と命名されました)。このように私たちは否応なく「言葉の海」に浸っているけれど泳ぐのは簡単ではありません。それに長けているはずの作家にも渡辺淳一、瀬戸内晴美、林真理子のような例外があり、一方で本業は別なのに見事な文を書く濱田庄司(陶芸家)、中井久夫(精神科医)、山下洋輔(ジャズピアニスト)のような人がいます。
偉そうなことをいう私自身は浮かぶどころかいつも溺れかけなのですが、それでも日々言葉をめぐって様々な感想が生じてきます。それを順序だてて書くことは到底できませんから思いつく断片を記したいと思います。今回は2つ。まず「言葉は変化するものではあるけれど日本語はむしろ退化しているのではないか」という疑問です。
現在、国会論議やネット言論(それを言論と呼べるなら)で空疎な言葉が行きかっています。前者は政府の露骨な議論回避とそれを糺すべき野党の言葉の力不足の「共同作業」であり、後者では「匿名の指先」の悪い面ばかりが目立ちます。ただ私は、こうした現状を嘆いて昔を懐かしむことはさておき、昔の日本語の方が今と比べて「意味の器」としても「味わう素材」としても優れていたのではないかと漠然と感じるのです。
小説でいえば百年以上前の漱石、鴎外にはじまり百閒、志賀、谷崎、中勘助、芥川、太宰、中島敦、大岡昇平、大江、開高、古井由吉あたりまでは一定の調子を保ち意味が通る日本語であったと感じられますが、私と同年の村上龍(限りなく透明に近いブルー)や中上健次あたりからついていけなくなりました。もちろん辺見庸や高橋源一郎など優れた書き手はいるのですが、全体を平均して言うなら表現の質の低下が進んでいるのではないかと私には感じられます。
私は言葉に関して保守的でありオーソドックスな文章に心地よさを感じます(いま述べた「質の低下」も私の勝手な見立てです)。書かれた文章だけでなく特に話し言葉については、どんどん変わっていくその変化を止めたいような気持ちさえあります。織田信長が東国武士団を引き連れて京都に入ってから「近ごろは言葉が乱れた」と公家たちが嘆いたとドナルドキーンの講演録にありました。これを息子に話したら「だから京都人はいかん」と怒っていましたが、私も平安貴族と同じかもしれません。シーラカンスです。
しかし、「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」という源氏物語の書き出し。「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」という枕草子の一節。「今日の修羅の敵は誰そ。なに能登の守教経とや。あら物々しや手並みは知りぬ。思いぞ出づる壇の浦の。」という能「屋島」の後シテの台詞。いずれも簡潔で美しく、しかも意味をたっぷり伝えています。
これらは別格とも言えるのですが、しかし、いつかの記事でご紹介した「家の記」は江戸前期にわが祖先が書き残した家訓(京町筋で煙草を商っていた一般の町人の私的文書)にしても、一定の調子を維持しながら要領よく語っている点で今どき少ない文章であると私には思えます。
高校の古文で習いましたが(これまた古い話)、掛詞、序詞、縁語、枕詞、本歌取り、省略など昔の日本語にはさまざまな修辞法がありました。これらについて「安定的で変化のない時代におけるマンネリズム」とけなす人も多いでしょうが、私は肯定的に見ています。加えて「話し言葉」から切り離されていた「書き言葉」としての独立性。こうした事情もあって古い日本語は「何だかいいな」と私に感じられるのかも知れません。骨董品ではないと思うのです。
どうも話の収拾がつかなくなりそうです。まず時代を明確にしたうえで現代に至るまでの様々な文章を比較して論じることが必要であり、作家の名前も出しっぱなしでは意味不明です。それに落語や講談などの話芸も視野に入れなければ「日本語が退化」したかどうか論じるわけにはいきません(最初から「論じる」ことは放棄していますが)。
先日のニュースで、日銀総裁が「私どもは2パーセントの上昇を見込んでございます」と語っていました。ちがうだろ、おりますだろと私は独り言ちました。「いる ⇒ います ⇒ おります」と「ある ⇒ あります ⇒ ございます」を混同する人が増えています。丁寧に言いたいという気持ちの現れでしょうが文法無視はいけません。
別の日、行列に並んでうまく入園できた人がマイクを向けられ答えていました。「朝一番に家を出たのがよかったかなと思います」。ちがうでしょ、よかったと思いますでしょ、と私(もはや小言じいさんです)。このような形で疑問詞を使うのも婉曲表現なのでしょう。
私にはこの手のことが気になります。日銀総裁が国民に対し丁寧な姿勢を示すことは当然ですが、より広く世間全般に「ともかく婉曲に丁寧に言っておけばよい」という風潮が広まっているように見えます。のぞみの車掌さんがドアの手前で振り返って深々と一礼するのも、食品売り場の従業員がバックヤードの出入りの際にお辞儀をするのも一緒です。そこまでしなくてもと私は思います。お店のトイレには「従業員も使わせていただきます。トイレでのご挨拶はご遠慮させていただきます」という貼り紙があります。
言葉をめぐる感想の2つ目は以上の通りです。市場原理(市場は絶対的でありお客は最高位に位置するというルール)が人の心の領域まで海のように浸しているかに見えます。ネット言論が野放図なのは、こうした状況に対する欲求不満の現れの一つかも知れません。言葉は社会の変化につれて変化するわけですから、もし本当に日本語が退化しているなら、それは社会が悪くなりつつあることを示唆するものでしょう。
ざっと読み返すとまことに古い人間の文章です。私にはニ、三百年前が向いているかも知れません。封建時代の庶民も大変だったことでしょうけれど。
今回も更新に時間がかかりました。母の家の整理のため「ジモティー」で多くの品を譲渡したのですが、私が慣れないうえに応募者多数で時間をとられました。しかし「いまどきの人」とのメールのやり取りは新鮮でした。
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