起きてから寝るまでの一日の時間の推移は身体感覚でつかめるし、何より時計が正確に教えてくれます。仕事はたいてい5日間を必死で泳ぎ土日にフーッと息をつく「週単位」、カレンダーをめくれば月が変わり、新しく買い替えると一年が過ぎます。誕生日は年ごとに訪れ、記念日も毎年ひとつずつ数を増します。しかし私たちが実感できる時の流れはこの辺りまで、せいぜい長くて百年を大きく超えることはありません。とすれば千年は想像を絶するほど長い歳月ではありませんか。
単なる時間の「長さ」なら地球誕生は46億年前、日本列島の形成は2000万年前、古琵琶湖は400万年前と古い事象はいくつもありますが、これらは人間のあずかり知らぬ天然自然の話です。「時の流れ」は、人の営為と結びつくことによって私たちに訴えかけてきます。ツタンカーメンの棺に置かれた花束がなお色をとどめて発掘者の心を揺さぶったように。そこまでロマンチックではないけれど郊外に広がる「田んぼ」だって、数え切れない歳月を耕され続けて今そこにあります。
さて、1165年の昔、智証大師円珍が唐から持ち帰った数々の文書がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。おめでたいことですが、これは何よりもまず、長い歳月、幾たびもの兵火をくぐり抜け文書を守ってきた園城寺三井寺の代々の僧たちに捧げられた花束です。福家俊彦長吏は「多くの先人たちの努力に敬意を表する。こういう文化を伝えることの意味を再認識した。」と述べられたよし。篤い信仰とゆるぎない使命感。無信心の私さえ粛然たる気持ちになりました。(佐藤市長と三日月知事のコメントからも文化を重んじられる姿勢が伺えました。このお三方の意見交換がありました。さぞ有意義な場であったろうと思います。)
しかるに! この名刹から西へわずか300mに位置する大津市役所では、かつて前市長越直美氏により公文書とデータの不法廃棄が行われました(今の市政と無縁の犯罪です)。さらに西へ80㎞行った神戸では、重要な裁判記録がむざむざ捨てられていたことが分かりました。東へ400㎞離れた霞が関では、自公政権のもとで数々の公文書が「隠滅」されています。法により、または社会の要請により保存すべき文書を、悪意をもって、または怠慢のために棄損したこれらの関係人は急いで三井寺に駆けつけて円珍関係文書を拝観し、文書を伝える意義を知るべきでしょう。7月4日からは大津市歴史博物館で展示されるのでそちらへ回ること。誘い合って15人以上で行くと団体料金が適用されます。
私はいちはやく新緑したたる境内の文化財収蔵庫でお宝を見せていただきました。経典の数々は国宝指定、唐時代のパスポート「過所」の原本なども大変貴重な史料だとか。円珍の書は空海のような端正な手ではなく、子どもが書いたような不揃いの味があります。壁面には彼が辿った航路が図示されていました。当時の旅は困難を極めたに違いありません。たとえば難破の危機(実際に台風で台湾に漂着しています)、船酔い、通じない言葉、気の遠くなる徒歩行、肩に食い込む荷物、足にできた肉刺(まめ)、蚤やしらみ、食あたり、追いはぎの出没等々。一方で、高僧との対面、教義の伝授、経典の受領といった感動の場面もありました。
さて、どんな偉人も、その人自身と比べると「平凡」な両親のもとに「普通」の赤ちゃんとして生まれ、育ちます。やがてその資質が明らかとなり、才能が開花し、あるいは努力が実り、もしくは至難の行いをなすことによって、人生の途上で(多くの場合は没後に)「偉人」に変身します。生まれてすぐにすたすた歩き「天上天下唯我独尊」と宣言したお方は別として、一般的には人は偉人に「なる」ものです。智証大師円珍も恐らくそうであったと思います。
とここまで書いて円珍の母は弘法大師の姪であったことを思い出しました。そういえば洋の東西に「非凡の系譜」がありますから私の「説」もいい加減です。Anyway、円珍は15才で比叡山に入り12年におよぶ厳しい修行を続けました。三井寺のパンフレットには、「籠山修行中、大師一生の信仰を決定づける黄不動尊を感得されました。これこそ今日も秘仏として伝わる国宝・黄不動尊(金色不動明王)画像です。」とあります。つまり「黄不動尊の感得」が彼の入唐や天台寺門宗の開闢につながる重要この上ない契機であったことが分かります。あえて言うと「偉人化」の第一歩です。
しかし、私は仏教にうといので「感得」と「画像」の関係が不明瞭であり、そもそも「感得」とはどういう体験なのか見当がつきません。三井寺にお尋ねするのが一番ですが、こんなことで電話してヒマ人と思われる(その通りですが)のは避けたいので、ある浄土真宗のお寺の住職(高校からの友人)に教えを乞うこととしました。彼はすぐに返事をくれましたが、その説明メールに成程と感心したのでざっとご紹介します。
~ 密教の世界はよく知らないが、円珍は不動明王の姿を直感的に体得した、簡単に言えば、心の中で見えたという体験をしたのだと思う。見えたというより出会ったという方が近いかも知れない。円珍はそれを絵師に描かせた。それが三井寺に伝わる黄不動明王だと伝えられている。黄色というのは表面が金色であったことによるが、色自体に特段の深い意味はない。ご存じのとおり、真理そのものである「如来」(仏)、それを衆生に伝えて救おうとする「菩薩」、菩薩の教化も敵わない衆生を怒りの形相で仏道に導こうとするのが「明王」。このうち真言密教の最高仏である大日如来が明王と化したのが「不動明王」である。
円珍が不動明王の姿を直感的に体得したこと、これが「感得」だろう。それはおそらく視覚的に見た、出会えたというだけではなく、その精神・本質も一挙に体得する、真理と一体化するという神秘的な体験であったと思う。こうした体験は宗教者にとって魅力的であり、それを目ざすことが宗教的実践の目的とされる節がないでもない。しかしそれは一部の修行者にしか叶わない難事であり、しかも実際になし得たかどうか不確かである。さらに言うとすべての衆生の救済を説く仏教の教えにもそぐわない。法然や親鸞が天台の修行を捨てた理由もここにある。
ちなみに「阿弥陀仏像」はガンダーラで発見された仏像の台座に刻銘されていたらしいから起源は2世紀ごろか。いずれにせよ言語化できない真理(言語道断)を言語化したものが経文、視覚化したものが仏像だが、そうした仏様(ほとけさま)が西方浄土におられると実体化して今に至っている。それを言語の限界を意識しつつ言語化し、実体化の誤りを是正してなおかつ今を生きる「生」に焦点を当てた仏説を唱えたのが親鸞である。~
友人の話は仕事がら次第に熱をおびて「実体化の瑕疵によって人を惑わせる一部宗派」への懸念に及ぶのですが引用はここらで終了します。要するに円珍が修行により高い精神的境地に達して仏様の姿をありありと感じとり、それを細かく絵師に伝えて描かせた肖像画が今につたわる黄不動尊である、ということです。この絵もそうだし、唐から持ち帰られた各種文書にしても、本当にモノは長生きです。和紙と墨書の長寿も驚異的です。これらに比べて人の命のはかないこと。坂本龍一さんが芸術は長い、人生は短いと言ったことを思います。
ところで円珍は草鞋(わらじ)を履いていたはずです。江戸末期に歩き回った伊能忠敬も草鞋履きでしたからそれより古い時代に別の履物があったと思えません。足袋はあったのか素足だったのか。いずれにしても草鞋で何百キロ、何千キロを歩いたら足がどんなに傷むでしょう。昔の人の身体能力は私たちを遥かに上回っていたと想像されますが(乳幼児期そのものがサバイバル、日々の生活は過酷なトレーニング、三食すべてオーガニック)、それにしたって足にマメくらいできるでしょう。
私は桐生を歩きすぎて「魚の目」ができました。足裏の皮膚が筋状に角質化して痛みが増すため皮膚科で切り取ってもらおうと思っていたある日、深部に円いカタマリがあることに気づき単なる魚の目だと分かりました。そこで「80年以上にわたり日本人の足のトラブルに向き合ってきたニチバンのスピール膏」を貼ったのですが、一時は普通に歩けませんでした。厚手の靴下と軽登山靴をはいていてもこの有り様ですから遠路の草鞋履きはいかばかりか。
私が魚の目と闘っていたのは今年の早春から晩春にかけてのこと、山はうぐいすの声に満ちていました。行く春や、鳥啼き、魚の目は泪。その頃この句がくりかえし頭に浮かび、芭蕉は「魚の目」に二つの意味を持たせたのではと半ば本気で思ったほどです。いまこれを書くにあたって確かめると、元禄2年3月、奥の細道への出発前に詠まれた句ですから、芭蕉は魚の目に悩まされていたわけではありません。改めて思うに、水中でまじまじと目を瞠っている魚の目を涙で潤ませるとはさすがに芭蕉です。
今回は友人のメールに寄りかかった「他人のふんどし記事」となってしまいました。ジモティーがらみのエピソードが溜まったので別にまとめて書きたいと思います。最後に草鞋ばきの偉人に奉る一句。 ~ ニチバンで み足の痛み ぬぐわばや ~
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