2023/12/21

223)植物礼賛

 このご時勢にのんきな話ですが植物をめぐって思うことを綴ります。花を愛する人と人生を共にして私も花が好きになりました(もっとも花が嫌いな人はいないでしょうが)。長くわが家には花が絶えず、誕生日や記念日は「花束と何か」を贈りあったものです。今も毎週花を買います(夏場はひんぱん)。きょうも桐生の帰り道、30年来なじみの園芸農家に寄って薄紅のバラを一抱え手に入れました。出費傾向は「酒とバラの日々」です。

 この農家ではハウスで切ったばかりのバラがバケツに突っ込まれ、2つの大きな冷蔵室にずらり並んで「よりどりみどり」です。よく見れば白バラも白一色ではありません。鍋いっぱいの牛乳に赤や黄や緑の液体を数滴落としてかき混ぜたような淡色であったり、一つの花の中心と外縁、一枚の花弁の根元と先端で色が違ったりします。朱色、黄色、ピンク、オレンジ等のバラも鮮やかな原色からパステル調の中間色までため息の出そうな遷移があります。花の形、大きさ、香り、咲き方も多様でバラの世界は果てが知れません。

 ユリもまた良し。前はカサブランカ一辺倒でしたが、この頃は赤味がかった大輪のユリや八重咲の白ユリが気に入っています。青が欲しい時はデルフィニウムを選んでカスミソウと一緒に活けます。春はチューリップ、夏はヒマワリ、秋はコスモスを追加。この2年で切り花の扱いも習熟しました。茎に空気が入らないよう水切りをするのはもちろん、花瓶の水にキッチンハイター(塩素)を少し入れて雑菌の繁殖を防ぎます。花のエネルギー補給のため砂糖も少々。もはや市販の「長持ち剤」は使いません。

 かつて私たちは庭をバラ園にすることを夢みて沢山の苗木を買っては枯らしました。バラの大敵は細菌による黒星病やうどん粉病でこまめな消毒が欠かせません(枝葉はもちろん土の中まで)。しかし薬剤を撒くのは気が重く、つい間遠になっているうちにアマガエルの一族が住み着きました。つるんと薄い皮膚をトゲに引っかけそうで此方がひやひやしますが、彼らは何食わぬ顔で緑になったり茶色になったり。土の中がミミズ王国と化したこともあって消毒を放棄しました。それから10年ほどたちますが、かなりのバラが生き残って春秋に彩りを添えてくれます。

 それにしてもバラに限らず花は何故かくも美しいのでしょう。もっぱら虫や鳥を引きつけようと進化してきた花々を人が愛でるのはチケットを持たない只見のようなものです。しかも花ばかりでなく葉も枝も美しいし、桜やケヤキなど樹木全体も美しい。ついでながら孔雀やシマウマも美しい。こうした「審美」を文化的営為と言ってよいでしょうが、それが人間のもつ原初的な「自然性」にいかに深く根ざしているか大いに興味があります。たとえば20万年前のホモサピエンスは花を美しいと思ったでしょうか。

 かつて二酸化炭素が充満していた地球を「生命の惑星」に変えたのは植物であったとか。20数億年前、海中で誕生した原始植物のラン藻(シアノバクテリア)が光合成によって酸素を生み出し、それが水中から大気中に行きわたり、やがて上空にオゾン層ができて紫外線が遮られ生存環境が整いました。そこで植物が海から陸地に進出し、動物がその後に続いたのだそうです。私たち動物は、酸素供給と食物連鎖という2つの生命基盤を植物に依存しています。

 しかるに人は、植物が動かず黙しているため動物より格下に見てきました(植物状態という悪しき比喩もあります)。しかし植物が「動かない生き方」を選んで進化してきたことは相違ありません。動物のような個々の器官をもたず各部分が他と交換可能(モジュール構造)であるため体の大半を失っても生きのびて復活します。草むしりに果てがないゆえんであり、千年杉のように極めて長寿の種も多数あります。地球上でもっとも繁栄しているのが植物で全生物の重量比で99.9パーセント(起訴有罪率と同じ)を占めると推計されています。

 植物が「知性」を持っていることも明らかになってきました。周囲の状況を察知して枝や根の成長を統御するだけでなく、他の植物、昆虫、動物とも互いに作用しあい、化学物質を使って情報交換していると言われます。たとえばライ豆はナミハダニに食われると揮発性化合物を放って肉食のチリカブリダニ(ナミハダニの天敵)を呼び寄せ食害を防ぎます。多くの木はフィトンチッドという殺菌性の芳香を出していますが、樹皮がカミキリムシ等に食われるとフィトンチッドの濃度が高まり、それを感知した他の木々が樹皮の下にタンニン(渋味成分)を集めて食害を予防します。

 このように植物は「すごい生物」ですが、特に私は、動かないという生存のあり方に感銘を受けます。そのせいでしょう、動物園に抜きがたく漂っている憂愁が植物園にはありません(私は動物園も植物園も好きです)。近年の動物園は「檻づめ展示」から「生態展示」に変わってきましたが、動物を一定区域にとどめないわけにいきません。飼育動物がもう原野で生きられないであろうこととは別に、動物園は動物の本来のあり方を制限することで成り立っています。

 植物園にはこの「根本制御」がありません。私たちは様々な植物がくつろいでいる自宅を訪問するようなもので、植物園にはあっけらかんとした雰囲気が漂っています。こうした解釈が手前勝手の感情移入であることはもちろん承知していますが、同じ生物同士として植物を眺めるとき尊敬と感謝(のような)念が自然と湧きます。この観点から動物はかなり離れた二番手であり、人間は最下位というより番外です。地球への「貢献度」から見ても順番は同じでしょう。

 冒頭で「今日バラを買った」と書きました。それ以降、2度にわたってユリを買い、この末尾を書いている「今日」は、高校時代の恩師から見事な盛花を頂戴しました(今お礼の電話を切ったところです)。私は文章を書くのが遅いうえ落ち着いて座るのが苦手なため、この記事を書き出してから3週間が経過しました。その間に部屋の花も三巡して年末になってしまいました。次回のブログ更新は1月になりそうです。

 「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮だ」とアドルノに言わしめたホロコーストを生きのびた人々が建てたイスラエルがホロコーストを行っています。ともかくそれを一時中止させようという国連決議すら成立しません。かたやロシアのウクライナ侵略が後景に退いた感があります。来年はよい年でありますようにと言うことも空しい情勢ではありますが、少なくとも国内においては東京地検の職務遂行(正月出勤もどうぞ)によって金権政治が少しは是正されることを願うものです。
 
 私は花が美しいと書きましたが、それは「物を見ること(見えること)」の話です。これを書きながら視覚を有しない人にとって花は何であるかについて考えざるを得ませんでした(聴覚を有しない人と音楽の関係も似ています)。こうした問いに何らかの意味があるのか、そもそも私に問う資格があるのか分かりませんが、次回はこのことについて書いてみようと思っています。突然年賀状をやめて先輩、知人、友人に失礼をいたしましたが、末尾にご覧くださった方々のご健康をお祈り申し上げます。






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