越市長が書いた「教室のいじめとたたかう」を読みました。ご遺族があとがきで、越市長のことを、いじめと戦う同士だと賞賛されています。 あのいじめ報道当時、大津市に許されたのは、真相解明と真摯な反省だけでした。越市長は第三者委員会をたちあげ、いじめと自殺の関連性を調査。いじめが自殺の原因だったと認定されました。あの状況に身を置く市長として、自らが大津市、正確に言えば教育員会と学校を断罪するという道を選びました。 世論、マスコミが大津市を責め立てていました。しかし、越市長としては、社会を納得させるいじめ防止対策を打ち出したとしても、それだけでは不十分です。大津市長は裁判の被告になっていましたが、これを何とかする必要があり、その点、遺族目線の尊重に務めた越市長の方針は、現実的で合理的だったと思います。 ただし、それと引き換えに、市政に民意を持ち込むとはこういうことだという流れができてしまった気がしてなりません。すなわち、市長をサポートする第三者委員会を常設しておくような市政運営です。あの日以来、越市長はこぶしを振り上げたままです。 越市長が待機児童解消をめざして公費をつぎ込んだように、一定の民意が待ち望みながらそれが達成されていない状況、そうしたアンマッチを市政の重大な欠陥とみなすのが越流のようです。なにごとも、いじめ事件同様、鋭いメスを入れなければとなってしまう。けれども、市政のいまのあり方だって民意の結果ですから、市政にメスを入れているように見えて実は民意にメスを入れている。そのメスで越市長の価値観に合わない民意を切り捨てていくことになります。 私は、こういう市政は自作自演の劇場型(激情型)だと思います。いじめ事件のときは、市長が市を断罪するという特殊な関係性が容認・称賛されるような空気がありました。市長の存在理由が市の断罪に集約されたといっても過言ではありません。ところが、越市長は、あれ以降も、いじめ事件当時の存在理由をわざわざ作り出そうとしているように思えます。もめごと上等!の市政です。 こうした市政運営スタイルについて、親越派は、摩擦や対立をおそれず改革を進めているといいます。反越派は、聞く耳を持たず独善的だといいます。双方の主張から共通して浮かび上がるのは、従来の市政を是認したがらない越直美氏の姿です。 では、そのスタイルによっていったいどれだけのことができたのか。 このブログや市議会の様子を見ていますと、それほどたいしたことがない。「◯◯をやります」はいろいろあるけれど、どれも実現にまでこぎついていません。実現しにくいことをやると言い出すのですから無理が生じるのも当然です。そういうところを見るにつけ、越直美スタイルは自身の存在理由の自作自演、本当は無理から生じた波風を改革への逆風として市民に見せる手法ですから、劇場型だと私は思うのです。 私は、いじめ事件における越市長を高く評価しています。けれども、いまから思えば、越市長はあれで退くべきだったという気がします。あれだけの大問題に身を置いた市長の宿命とでもいうのか、市を断罪する選択は辞職の決意と一対でしか成り立たなかったように思います。 越直美氏は、首長よりむしろ議員に向いているのではないかと私は思います。価値観を共有できる層の代表者として尖鋭なドリルのごとく突き進む議員。市政なんてものは、あっちを立てこっちを立て、しまいには何が結論なのか分からない結論で納得せざるを得ないなんてこともよくある話です。それよりも、思いの強さが正義であり得る世界の越直美議員を見てみたいと望んでいます。 以上、一市民の思いとしてコメントさせてもらいました。
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越市長が書いた「教室のいじめとたたかう」を読みました。ご遺族があとがきで、越市長のことを、いじめと戦う同士だと賞賛されています。
返信削除あのいじめ報道当時、大津市に許されたのは、真相解明と真摯な反省だけでした。越市長は第三者委員会をたちあげ、いじめと自殺の関連性を調査。いじめが自殺の原因だったと認定されました。あの状況に身を置く市長として、自らが大津市、正確に言えば教育員会と学校を断罪するという道を選びました。
世論、マスコミが大津市を責め立てていました。しかし、越市長としては、社会を納得させるいじめ防止対策を打ち出したとしても、それだけでは不十分です。大津市長は裁判の被告になっていましたが、これを何とかする必要があり、その点、遺族目線の尊重に務めた越市長の方針は、現実的で合理的だったと思います。
ただし、それと引き換えに、市政に民意を持ち込むとはこういうことだという流れができてしまった気がしてなりません。すなわち、市長をサポートする第三者委員会を常設しておくような市政運営です。あの日以来、越市長はこぶしを振り上げたままです。
越市長が待機児童解消をめざして公費をつぎ込んだように、一定の民意が待ち望みながらそれが達成されていない状況、そうしたアンマッチを市政の重大な欠陥とみなすのが越流のようです。なにごとも、いじめ事件同様、鋭いメスを入れなければとなってしまう。けれども、市政のいまのあり方だって民意の結果ですから、市政にメスを入れているように見えて実は民意にメスを入れている。そのメスで越市長の価値観に合わない民意を切り捨てていくことになります。
私は、こういう市政は自作自演の劇場型(激情型)だと思います。いじめ事件のときは、市長が市を断罪するという特殊な関係性が容認・称賛されるような空気がありました。市長の存在理由が市の断罪に集約されたといっても過言ではありません。ところが、越市長は、あれ以降も、いじめ事件当時の存在理由をわざわざ作り出そうとしているように思えます。もめごと上等!の市政です。
こうした市政運営スタイルについて、親越派は、摩擦や対立をおそれず改革を進めているといいます。反越派は、聞く耳を持たず独善的だといいます。双方の主張から共通して浮かび上がるのは、従来の市政を是認したがらない越直美氏の姿です。
では、そのスタイルによっていったいどれだけのことができたのか。
このブログや市議会の様子を見ていますと、それほどたいしたことがない。「◯◯をやります」はいろいろあるけれど、どれも実現にまでこぎついていません。実現しにくいことをやると言い出すのですから無理が生じるのも当然です。そういうところを見るにつけ、越直美スタイルは自身の存在理由の自作自演、本当は無理から生じた波風を改革への逆風として市民に見せる手法ですから、劇場型だと私は思うのです。
私は、いじめ事件における越市長を高く評価しています。けれども、いまから思えば、越市長はあれで退くべきだったという気がします。あれだけの大問題に身を置いた市長の宿命とでもいうのか、市を断罪する選択は辞職の決意と一対でしか成り立たなかったように思います。
越直美氏は、首長よりむしろ議員に向いているのではないかと私は思います。価値観を共有できる層の代表者として尖鋭なドリルのごとく突き進む議員。市政なんてものは、あっちを立てこっちを立て、しまいには何が結論なのか分からない結論で納得せざるを得ないなんてこともよくある話です。それよりも、思いの強さが正義であり得る世界の越直美議員を見てみたいと望んでいます。
以上、一市民の思いとしてコメントさせてもらいました。