2021/02/07

132)宮沢賢治と「公」

 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、、あらゆることを自分を勘定に入れず、、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、、皆にでくの坊と呼ばれ、、そういうものに私はなりたいと 宣言した詩人。「星めぐり」の作詞作曲者。風変りだけれどすごく偉い人だと生徒の尊敬を集めた教師。妹の最期の喉を潤すため「曲がった鉄砲玉のように」雪の中に駆け出した兄。読む者の魂に深く届く固有の声をもった作家、宮沢賢治。

 彼の作品においては、火山を爆発させて冷害を食い止めたしたブドリ(グスコーブドリの伝記)、川に落ちた同級生を救ったカムパネルラ(銀河鉄道の夜)に見るように、我が身を賭して他者を救う自己犠牲が重要なモチーフとなっています。一方、「よだかの星」や「土神ときつね」では、自分の命をつなぐため、或いは一時の激情によって他者の命を奪った者の悔恨が痛切に描かれています。

 そして「世界ぜんたいが幸福にならないうちには個人の幸福はありえない」という「農民芸術概論要綱」の言葉。また、「本当の幸いとは何だろう」と繰り返される問いかけ。こうした表出に触れ、また、周囲を照らし続けて早く燃え尽きたろうそくのような彼の生涯を思うと、この不世出の詩人が短い人生をかけて希求したのは、利己と利他を超越した大きな人間集団(人類)の幸福に他ならなかったということができます。

 彼が帰依した日蓮宗の影響は大きいでしょう。法華経1千部を印刷して友人知己に配るよう言い遺した事実は知られるところです。しかしそれだけではない。生家が裕福であったのに、いやそれだからこそ、身売りや口減らしと縁が切れない当時の農村の人々の苦しみに子供の時から心を寄せた人物です。宮沢賢治は、まるで遺伝子に刷り込まれたように生来的に他者の幸福を考える人間であったと私には思われてなりません(裕福な家庭に生まれ、それと格闘した太宰治の生き方とは少し似て大いに非なるものがあります)。

 私は、宮沢賢治こそ「公」の人であったと言いたいのですが、「公」はシステム論でもあります。そこで少し控えめに、賢治の本質であり、同時に彼が命をかけて追求した至高の目標でもあった「まことの幸い」と「公」を基礎づける思想とは、深く相通じるものだと申し上げます。私たちの国にはこうした稀有の人がありました。彼が設計した花壇が花巻に復元されています。そこを訪れ満開の花々を眺めたことがあります。彼が人々に見せようとしたのは「幸いの花」であったと思うのです。


  
 結婚式で「ミニ植樹」をしたあるカップルがそれを新居に持ち帰り、もし枯れても二人の未来には関係ないと言いかわしつつ、土をかえ場所をかえて育てました。それから数年。鉛筆ほどだった苗木が次第に伸びて、ついに十数年に一度しか咲かないという花が咲き、我が家に写真が送られてきました。香りもよいとか。名前は「幸福の木(ドラセナ)」だと聞きました。     

 


 

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