2021/02/21

134)公共の敵が公共であるとき

  このタイトルをご覧になって、本ブログは早くも越批判に回帰したかと思われたやも知れません。確かに「大津通信」は、公共の敵許すまじという思いからスタートしました。そして当該人物は、「一部の市民」の「一時の利益」しか目に入れず、目的のために手段を択ばぬ強引・稚拙な手法で「公」を踏みにじった張本人です。しかも今は、朝日新聞滋賀版で自分史の修正に余念がない。コ氏が故紙でコスいコジつけ。そんなヒマがあるなら、いやヒマがなくても、大津地裁に出廷して自らの行為を証言すべき人物です。

 しかし、私はすでに述べたとおりこの人物への言及を止め、もう少し広い世界で「公」考えたいと思っています。朝日地方局への論及も時間のムダです。これらにはもう煩わされることなく論を進めていくことを改めて申し上げます。内容の不出来、不十分は重々承知していますが、今後とも平気の体で綴ってまいります。

「公共の敵が公共であるとき」とは韓国の作家パク・ミンギョの言葉であるとブログ「あざみ日和」に教えられました。私はこの作家を知らずフレーズを孫引きしていますが、かの国もこの国も似た政治状況にあるものと推察します。公の敵が公自身であるとは由々しき事態ですが、考えてみれば自身の中に敵を内包していることが「公」の基本的な性格なのかも知れません。

 本来「公」は「民」より生まれ、「民」に尽くすことによって「公」に昇華するものであり、その過程には「反公共」の契機がいくらもあると考えます(そうした意味では「公」の対義語は「民」でなく「反公共」?)。しかし一方で、今日の「市場化社会」や「オンライン社会」に大きく広がる影の部分を見ると、いま述べた「公」の解釈はいかにも古くさいと自分でも思います。グーグル、アマゾン、フェイスブック、アマゾンなどの巨大企業が公共の敵となり得る時代です。

 これらの企業は「民」ですから話の筋が不明瞭になってきました。やはり順をおって「公」の定義づけから始めるべきでしょうが、論考でなくお喋りしかできませんのでご容赦ください。近年における「公共の敵である民」の代表格は東京電力でしょう。おおもとの問題はコントロール不可能なものを扱い、かつ産み出していく原子力発電そのものにあって、国、規制を行う機関、リスクを評価する機関などひっくるめて同罪。「官民一体」が公共の敵です。

 コロナウイルスや大地震は社会の脅威ですが公共の敵ではありません。公共の敵の「適格性」はそれが人為であること。したがってこうした社会の脅威に対していかに立ち向かうかという場面から「公共の敵」が立ち上ります。したがって政治も「敵」となりかねません。これよりは小さな話ですが首相の子息が役人を接待したと報じられています。当人らが認めているので事実なのでしょう。決して驚きはしませんが恥ずかしいことです。このケースにおいて公共の敵はいったいどこまで及ぶでしょうか。







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