人工知能や通信技術の進展と共に社会のオンライン化が急速に進み、いまわしいウイルスがそれに拍車をかけています。距離や時間の壁を押し下げ、一人の知を速やかに社会の知となしうるインターネット。こうした可能性に付随するマイナス面を考慮しても利点がはるかに大きいというのが社会の常識で、最近はコロナを奇貨としてオンライン社会をさらに進めるべきだという主張を多く見受けます。
私はそれに半ば同意しますが、一方で、回線を通じて、いや、むしろ回線を隔てて繋がることの「間接性」に関する議論が世の中に不足していると考えます。いまやオンラインゲームからミサイル攻撃に至るまで数々の指令はイスに座って指ひとつ。目の前に相手の生身がおらず見つめるのはモニター画面、計算と思考はすべて機械まかせ。これらは「脳ミソの外部化」、「直接性・肉体性の収奪」ではないでしょうか。
社会の様々な場面でこうした状況が進んでいくと、人を支える要素の一つである「感性」に影響が及ぶのではないかと私は思うのです。たとえば民族・性・貧困などを理由とする差別、いじめ、パワハラ、DV等々の拡大再生産。これらの行為の根底にある「他者の痛みへの感覚の鈍麻」は、今日のオンライン・バーチャル社会の進展と無関係ではありません。
いや我々には「想像力」という力があるではないか、との反論もあるでしょう。しかし、想像力は私たちのもつ自然性、身体性の深部に根を下ろしており、それこそ問題の根は深いのです。「身体性」の重視はそれ自体が差別の契機となりうることに留意すべきですが、人間において精神性と身体性が相互依存的(相互支援的)な関係にあることを無視してはならないと考えます。
小学校では、政府方針により生徒すべてにタブレット端末が行きわたったことと思います。それは重要な施策ですが、次世代の健全な育成を目ざす総合的な施策として多面的な検証がなされているかどうか疑問です。こうした懸念は若い人にシーラカンスの愚問に見えるでしょう。私自身もやや古臭いという自覚がありますから。それにしても留めようのない社会のオンライン化をいかに評価すべでしょうか。
敬愛する詩人、金時鐘さんに「切れて、つながる」という言葉があります。日本占領下の済州島で少年時代を過ごした金さんは、日本の敗戦後、母国語を学ぶことから自己回復の歩みをはじめました。やがて4・3事件に関わって来日、南北に分断された同胞が日本という第三の場所で肩をよせあい、遠く海を隔てて二つの祖国を等距離に眺めるありようから「在日の思想」を紡ぎました。日本語の現代詩における孤高の詩人。この人の語る「切れて、つながる」ことの意味を自問せずにはいられません。
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