大津市でもワクチン接種が始まりました。担当される方々の精励、ご健康をお祈り申し上げます。非常時に浮世離れした話で恐縮ですが、また芭蕉です。「行く春を 近江の人と 惜しみける」。元禄3年、唐崎の舟遊びで詠まれた句。これに対し、なぜ「行く春」に「近江の人」か。「行く年」に「丹波の人」ではいけないかと弟子尚白が疑問を呈しました。近江人の末裔として無視できないところです。
さて汝はどう思うかと芭蕉に問われた去来が答えます。尚白の問いは愚問です。湖水がぼんやり霞んでいる景色こそ春を惜しむにふさわしく、まさにその場に臨んで生まれた一句であると思います。芭蕉いわく、その通りだ。古人も近江の地で春を愛でることは都において春を愛でることになんら劣るものではない。
そこで去来は返します。お言葉が心にしみます。もし師が年の暮れに近江におられたならどうしてこの感興がありましょう。また行く春に丹波におられたなら惜春の情すら浮かびません。このように風光が人を感動させるとは全くもって真実であります。芭蕉は大いに喜んで、去来よ、おまえは共に風雅を語ることができる者である。
以上は「去来集」の現代語訳を私が勝手にアレンジしたもので文献的な厳密さはゼロですが、「近江」と「惜春の情」の組み合わせに芭蕉がある種の必然性を認めていたことを示す記述です。これは近江の門人たちへの挨拶句ですが、より本質的には、先人を偲びつつ脈々と続く文芸の到達を踏まえるという伝統的な作法にならって作られた一句と見るべきでしょう。
すなわちこの地にかつて都(大津京)が置かれたこと、湖水を望んで延暦寺、三井寺をはじめ多くの名刹があること、古来多くの歌に詠まれてきた土地柄であること、源氏物語ともゆかりがあること等々、歴史・文化の分厚い集積が句作の背景にあるはずです。そしてこれらを大きく包み込むのが琵琶湖と山々からなる近江の自然であり、その典型例が大津市であると私は考えます。
県内各市が「琵琶湖はわが物」とアピールをするのは自由ですが、その主張がもっともふさわしいのが大津であるというのが私の持論です。たとえば私は大津と草津に長年住んでいますが、日常生活の中で琵琶湖の存在を感じるのは圧倒的に大津です。都市計画法では市街化区域(多くの人が住み活動する都市的エリア)と市街化調整区域(自然ゆたかなエリア)の区分がありますが、大津市は市街化区域の面積が広いうえ長い距離で湖水に接しており、これは県内各市と比べて際立った特徴です。つまり一口に言うと大津市は「町」が琵琶湖に接し、他市では「田んぼ」が接しています。また、山と湖水の距離が近い湖西地域、なかでも大津市(北部、中部)は「傾斜都市」であり、いたるところから青い湖面を望むことができます。
中国の瀟湘八景になぞらえて江戸初期に選定されたとされる近江八景が大津の地からの「見立て」であることもうなずけます。石山、瀬田、粟津、三井、唐崎、堅田、比良の7景は大津なのに矢橋だけは草津で残念と言う人もいますが、それは見当ちがい。「矢橋の帰帆」は、打出浜あたりから対岸に戻る船(私の想像では輝く西日に白帆を染めて)を見送る景色であり、主体が大津にあることに留意すべきです。以上が「琵琶湖大津」の理由です。「まちづくり」を考える上でいかに自然や歴史の要素が大きいか、大津の人々はいかに大きな遺産を相続しているか、職員であった頃はこのことを痛感したものです。
ちなみに冒頭の句のピーター・J・マクミランによる英訳が朝日新聞(4月11日朝刊)に載っていました。
With the people of Oomi
―ancient and now―
I lament the passing of spring.
―昔も今も― という説明を間に入れて訳者は歌枕をふまえた芭蕉の意図を伝えようとしています。私たちが読むシェイクスピアもこのようなものでしょうか。これは訳者というより読み手側の問題ですが、原文にない挿入句は翻訳の可能性と限界を感じさせます。
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