2021/10/12

159)たとえば「愛国心」について

  高校新教科「公共」に関連してもう少し書きます。為政者が「愛国心」の涵養、発露を国民に求めるのは、それが人権主張のブレーキになると期待してのことでしょう。何といってもその方が政府に好都合ですから。したがって教科書に載せる近現代史の「史実」は入念に取捨選択されており、教育現場への「指導」も行き届いているはず。しかし、それにも関わらず若い人々が真に「愛国的」な物の見方を獲得した時、その政権こそが「非愛国的である」という認識に到達する場合もあるだろうと私は想像します。それが授業の可能性でしょうし、本来知識とはそのようなものであるはずです。

 そもそも「国」とは何でしょうか。一般的な定義はさておき一人ひとりの国民が愛(もしくは憎)の情念を抱きうる対象としての国とはどのようなものか。それは「ひとりの人間」に近い存在であるように私には感知されます。その「ひと」はどのような思想を持ち、いかに生きていくのか。はたして弱いものを助けるか、仲間を大事にするか、よその人とも仲良くするか、力を恃んで人を脅すことはないか。こうして見ると、日本という国にとって憲法の存在が限りなく重要であることに気づかされますし、それが私にとって「愛国」の大きな理由でもあります。そんな私には、改憲を主張する人々が愛国を説くことが論理矛盾の見本のように思われます。

 また別に私の生活実感に即して「国」を定義するなら、それは「日本語で満たされ、その状態が継続している空間」ということになります。サンマを値切るのも日本語、愛を語るのも日本語、芭蕉も漱石も日本語、私が手探りで「公共」を考える手立ても日本語です。山紫水明よし、炊き立ての新米の香りもまたよし。しかし、私という卑小な存在が細々と根を下ろして養分を得ている地層は、つまるところ日本語という言葉の堆積ではないか。したがって私にとっての「国」の実体は、「日本語で満たされた空間」であるとしか言いようがないのです。これもナショナリズムの一形態ですから更に大きな視点からは一つの「腐れ縁」だということになるのかも知れませんが。

 日本はかつて韓国を植民地化して言葉を奪いました。その非道を改めて思います。しかもこの「国」は、自国民および他国民に対する戦争責任をあいまいにしたまま朝鮮戦争特需を皮切りとして経済繁栄の道を歩みました。それが朝鮮半島の人々の「愛国心」に火をつけるのは自然の理です。どうして「愛国的な」日本の政治家はこの歴史的事実に鈍感なのか。そのような人々には愛国を語る資格はないと思うのです。まずは国民に愛国を求める日本の政治家自身の「愛国」の論理をとくと聞いてみたい。それに比べて国民の「愛国」は、もう少し上等なのではないかと想像するものです。









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