2022/01/24

162)個人的なこと 1

  このブログは「公」について考えることを目ざし、たとえ個人的な体験であっても社会との関わりを意識して綴ってきました。しかし今回は例外として全く私的なことを記述します。お読み下さる方に恐縮至極、また私自身にも言葉にし難いことを文字にする困難な作業ですが、これをおいてブログも私も先に進むことができません。私にとって限りなく重要な私事を記します。

 昨年11月28日、私の妻が亡くなりました。その1年前(2020年)の10月に病気と分かり、以来最良の治療を受けながら、本人はもとより家族一丸となって闘病してきました。しかし遂に及ばず、心待ちにしていた初孫とのオンライン対面が実現した2日後、晩秋の庭の見わたせる居間で私と息子の手をとって穏やかな眠りにつきました。

 この1年余、病気と向き合って妻が過ごした日々は全くと言っていいほど従前と変わらず、持ち前のユーモアと笑顔が絶えることはありませんでした。心身ともに辛くないわけがありません。それを気遣う私に対して、その倍の心で私をことを案じていました。そんな時など、去りゆく者として私を見つめるまなざしの深さを感じないわけにはいきませんでした。そして彼女は、愚痴のひとつ、不安や恐れのひとかけらさえ口にしませんでした。それに私はすっかり甘えていました。いまこうしたことが胸に迫ります。

 「けふのうちに とほくへいってしまふわたしのいもうとよ」という痛切な呼びかけで始まる宮沢賢治の「永訣の朝」を私は想起します。深い絆で結ばれた兄妹。必死に看病する兄と、自分なき後の兄の魂の平安を願う病床の妹。とし子から賢治にむけた最後の願いは、松の枝に積もった雪をひとすくい取ってくること(あめゆじゆとてちてけんじや)でした。「はげしいはげしい熱やあへぎのあいだから」「わたくしをいつしようあかるくするために」「こんなさっぱりした雪のひとわんを おまへはわたしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」

 妻と私は高3の同級生として出会い、担任の先生に仲人をお願いして25歳で結婚、それから44年をともに歩んできました。世間知らずの未熟者であった私たちがこの歳月にほんの少しでも熟することができたとしたら、それは相互の対話によるところが大きかったと思っています。良くも悪くもいまの私をあらしめたのは二人の関係性であり、私にとって彼女は無二の親友、同志でもありました。ともに歩むことで喜びは本当に倍以上に、苦しみは半分以下になったのです。田んぼ道の散策もスーパーの買い出しもこよなく楽しいひと時でした。

 この1年余、私たちはその日一日を大切に生きることを心掛けました。過去は振り返らない。将来を見通さない。二人が共にあるこのひとときを大切にする。こうした生活を息子夫婦も精一杯支えてくれました。彼らが優しくまっとうな人間であることに私たちはどれほど喜びと力を与えられたかわかりません。妻は、これまでとても幸せだったし、いまも幸せだと言いました。それは努めた自己肯定ではありません。私もまったく同じ思いでした。

 いまは魔法がさめたよう。がらんとした部屋で、ひとり歩く道で、繰り返し名を呼び、話しかけるばかりの日々です。コーヒーカップ、香水瓶、ソファ、土曜日の「数独」欄、庭のクリスマスローズ、餌をねだりに集まる雀たちの声、キースジャレットのピアノ、、、見るもの聞くものに揺さぶられ、目を閉じるとあふれる記憶に溺れそうです。それにも関わらず私は悶え死ぬことも焦がれ死ぬこともなく、三度の食事をとり、排泄し、入浴し、夜は睡眠をとって2か月を過ごしました。もはや彼女が歩みを止めてしまったのに私一人が進み続け、日ごとにその地点から遠ざかりつつあります。そして一人で老いていくのです。私はこれを刑罰のように感じます。自分のかくも大切なものを喪ってしまったという私の罪に対する罰です。

 一方でこうした感覚は感傷であるとも知っています。感(覚)の傷という字義においても感傷です。妻が示したあの勇気と克己心、そして家族への深い愛を思うと恥ずかしい限りですし、共に生きようと私を励ましてくれる息子夫婦がもしこれを読んだらさぞ落胆するでしょう。また、世の中には震災による別れ、戦火の中での別れもあります。この2か月、そうした別れも頭に浮かびました。宮沢賢治は「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」の詩句に続いて「わたしもまつすぐにすすんでいくから」と告げています。不世出の詩人に倣うわけではありませんが、私も進まなければならないと思います。

 44年前、参列者の前で私たちが読み上げた「結婚の誓い」を忘れません。それは、「自らがお互いを選びとったことを忘れず、私たちと私たちにつながるすべての人々が幸せになるよう努力する」といった趣旨でした。若い私たちの平凡な決意表明でしたが、結果的に二人の人生の航路のベクトルとなったという点において空手形となることを免れた気がします。いや、より正確には、とりわけ妻においてこうした人生への態度が言葉を超えて内面化していました。この1年余を振り返ってそのように強く思うのです。

 不幸と悲哀は似て異なります。私は妻と出会い家庭を築き一緒に生きてきました。まるで神様のギフトのようです。彼女と同じく私も、これまでも、今も、幸せです。そして彼女の夫でありえたことを誇りに思っています。いずれ再会できると信じています。

 このブログの中心的な読者は私の友人、知人であるという事情にも背中を押され、今回はミもフタもないことを書きました。書き残したこと(ブログをめぐる事柄など)は次に回すこととし、やがて本来の形に戻したいと思います。私事へのお付き合いを有難うございました。












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