2022/02/04

165)個人的なこと 4

 ためらったあげくに個人的なことを書き始めもう4回を数えます。これで終わりですが今後は個々の記事の公私を峻別せず、全体として「公」というテーマを考えていきます。
 2つ前の記事で、これからは残された私の「単独行のブログ」であると書いたところ友人がメールをくれました。~これからも幾子さんは変わらず治さんに語りかけ、治さんと共に生きていくと思います。けっして「単独行」ではないと思うのです。~
 痛いほどに不在である彼女と、実際のところ私は日々話しています。「単独行ではない」というのは真実ではなく、真実でもあります。真実である方向に私の背中を押してくれる友人をありがたく思います。

 長田弘もまた妻の好きであった詩人です。パウル・クレーの「忘れっぽい天使」が表紙に描かれた詩集「黙された言葉」、グスタフ・クリムトの絵が美しい「詩ふたつ」などよく読み返していました。いま探してもわが家の小さな書棚から「詩ふたつ」がどうしても見つかりません。買いなおそうと出かけたジュンク堂にも丸善にも在庫がなく、取り寄せを頼んだ上とりあえず「長田弘全詩集」(みすず書房)を買って帰りました。

 「長田弘全詩集」に収められた詩集「詩ふたつ」から「花をもって、会いに行く」という詩を転載します。これは詩人が亡き妻に捧げた詩ですが、そこに漂っている懐かしさ、切なさ、甘さ、そして澄明な明るさの前に私は立ち止まらざるを得ません。それは今の私に不可思議であり蠱惑であり大きな救いでもあります。
 詩人の妻と私の妻とは奇しくも没年が同じです。長田弘は、妻、長田瑞枝さんの残した6年の時間を生き、2015年に75才で亡くなりました。

 長田弘による「あとがき」から一部を引きます。
~亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだという、不思議にありありとした感覚。「詩ふたつ」に刻みたかったのは、いまここという時間が本質的にもっている向日的な指向性でした。心に近しく親しい人が後にのこるものの胸のうちに遺すのは、いつのときでも生の球根です。喪によって、人が発見するのは絆だからです。~


 花をもって、会いにゆく

春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。  
きれいな水と、 
きれいな花を、手に持って。

どこにもいない? 
違うと、なくなった人は言う。  
どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。  
いつも、ここにいる。  
歩くことは、しなくなった。

歩くことをやめて、  
はじめて知ったことがある。  
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、 遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。  
そうではないということに気づいたのは、

死んでからだった。もう、  
どこにもゆかないし、 
どんな遠くへもゆくことはない。

そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、 
ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。 
この世からいちばん遠い場所が、 
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だということに。 
生きるとは、年をとるということだ。 
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ 
人生で最初の友人は、 
いまでも十歳のままだ。

病いに苦しんで 
なくなった母は、 
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が 
じぶんのなかにのこしていった 
たしかな記憶を、わたしは信じる。

ことばって、何だと思う? 
けっしてことばにできない思いが、 
ここにあると指さすのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、 
語らうことができると知ったのも、 
死んでからだった。

春の木々の 
枝々が競いあって、 
霞む空をつかもうとしている。

春の日、あなたに会いにゆく。 
きれいな水と、 
きれいな花を、手に持って。 







  
  

0 件のコメント :

コメントを投稿

1月9日をもってコメント受付をすべて終了しました。貴重なご意見をお寄せ下さったことに心からお礼申し上げます。皆さまどうも有難うございました!なお下の(注)はシステム上の表示であり例外はございません。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。