2022/04/08

176)急がば回れ

 タイトルを見て「今回は瀬田の唐橋か」と思われた方もいらっしゃるかも知れません。コロナ禍が始まる前、時おりクルマで通過するばかりの唐橋をぶらりと歩いてわたる機会があり、欄干の擬宝珠(ギボシ)に膳所城主や奉行の名が刻まれているものがあると気づきました。まことに歴史ある橋ではあります。

 「もののふの 矢橋のわたり近くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋」という歌は宗長の作とか。もののふ(武士)は「矢」をみちびく枕詞でしょうが、後は文字どおりの意味です。「矢橋の船は早けれど」とする資料もありますがどちらが正しいのか知りません。矢橋(草津市)から対岸の紺屋が関あたり(大津市)までは目と鼻の距離ながら比叡おろしの波高し、南に迂回し瀬田の唐橋を通った方が確かで早いとの見方には一理も二理もあります。

 ご存じのとおり唐橋は日本三古橋の一つで東国から京都に攻め上る軍勢の最後の関門と言うべきところ、壬申の乱(672年)をはじめ数多の戦乱の舞台となり、唐橋を制する者は天下を制すると言われました。要衝ゆえ江戸時代には幕命により膳所藩が管理し、架け替えの度に擬宝珠に年号のほか工事関係者(奉行、見廻、棟梁など)の名が刻まれ、今に残されています。ちなみに江戸期の架け替えは15回におよび、橋の「平均寿命」はわずか15年ほどであったことになります。

 唐橋が木造から鉄筋コンクリートになったのは1923年(大正13年)の架け替えで、滋賀県が大正11年に発行した薄い冊子「瀬田橋の沿革」に工事の模様が綴られています。それによると、この大事業は大正9年から13年の5年にわたって取り組まれ、予算総額は41万6,978円、3分の2の国庫補助を受け県費負担は約14万円、セメントは浅野セメント株式会社から購入、工事請負人は大阪の銭高組とあります。また電話、電灯、電力等の電線架設は「周囲の風致を損傷するものなるを以てこの際全部これを被覆ケーブル線に改め本橋に添架する」との記載があり景観に配慮したことが分かります。

 またこの冊子には、織田信長による「天正架橋」は現在より下流(南より)にあり、長さがなんと180間(327m)の一本橋であったこと、その後、今の位置に落ち着いて、中の島をはさんで大橋96間(174m)、小橋23間(42m)ほどの規模となり、同じ場所で架け替えが繰り返されたこと、近世の俗謡に「瀬田のから橋 唐金擬宝珠 水に映るは膳所の城」と歌われたことなども紹介されています。

 ご記憶の方もありましょうが、この名橋をめぐって2009年に「色彩論争」が起こりました。当時は1979年の架け替えから30年が経過し、滋賀県がそろそろメンテナンスの塗装工事をしようと準備を始めたところ、地元の観光協会や商店街から「どうせ塗るなら朱色にしてくれ」と要望が出たのです。県は、従来のまま白木を模したクリーム色に塗る予定でしたが、工事を延期して住民や関係者の意見を聞くこととしました。まことに正しい選択であったと思います。

 声はさまざま。「鎌倉時代の石山寺縁起絵巻には朱色に描かれておりこれに戻すべきだ」、「いや歌川広重の近江八景では木肌色である、これが正解」、「いっそこの際に欄干を木造に戻そう」、少数意見として「琵琶湖にふさわしくブルーがよい」、「橋の中間点で朱色とクリーム色に塗り分け論争を後世に伝えよう」、「今のままでいいから早く施工してほしい」等々。住民アンケートでは朱色が優勢でしたが多数決というわけにもいきません。

 こうした中、県は学識経験者等からなる景観検討委員会をつくり、半年にわたって史実、景観(近景・遠景、昼間・夜間)、地元の声などを踏まえた検討を重ねました。そして6つの茶系色(木造色、丁字色、枯草色、山吹色、木肌色、唐茶)を比較検討し、最も濃い唐茶(赤みがかった茶色)がふさわしいと知事に答申しました。これがいま私たちが見ている唐橋の色です。

 急がば回れを地でいった滋賀県(大津土木事務所)は一連の経過をウェブ上で公開し、検討委員会の意義を次のように総括しています。「情報提供がきっかけとなり議論の場ができた」、「情報公開を伴った合意形成ができた」、「相互信頼が醸成された」、「歴史的名勝をめぐる様々な知見を得られた」という4項目です。キーワードは「情報」と「議論」であり、住民と行政の協働による成功事例になったと思います。

 この色彩論争をかえりみて思うには、由緒ある建造物を維持・保存するにあたって歴史的経緯を尊重すべきことは当然であり、そのため史実を明らかにすること、それが今日まで生き残っている現実に敬意を払うことが重要です。それと同時に、時代は大きく変わっていますから周辺環境、社会経済情勢、市民の感情など「当世の事情」も考慮しなければなりません。特に「実用品」である唐橋においてはその比重が大きかったと思います。これが彦根城なら「白をやめて黒に塗れ」とか、熊本城なら「黒から白に変えろ」などという声は出なかったでしょう。

 ちなみに時の滋賀県知事は嘉田由紀子氏(1期目の後半)。この方も「目的のために手段を軽視する」ようにお見受けしますが、環境には一家言を有する人ですから色彩論争を都市環境の問題と捉えて住民の声を聞こうとしたのでしょう。惜しむらくはその姿勢を「私の娘だ」と公言してはばからない越直美氏(また出た)に伝えられなかったこと。ゆえにコ氏は市民センターや図書館等の問題で民意を聞かず大きな混乱を招きました。いまさら言っても仕方ありませんが。

 ところで矢橋の港から数キロ西に行った所に東海道52次、草津宿の「本陣」があります。大津に名所旧跡は数々ありますが、本陣は草津が誇る数すくない(?)史跡で私も何度か行きました。1861年(文久元年)10月のこと、唐橋を渡った皇女和宮の一行3千人はここで昼食をとって将軍家茂の待つ江戸を目ざしました。次に和宮が本陣を訪れた時はすでに明治、家茂に先立たれて仏門に入り静寛院宮となっており供回りはわずか10数名、これらが宿帳から分かります。高い身分の人の150年前の話ではありますが、こうした落魄、転変が私ごときの心に迫るのは年のせいかも知れません。諸行無常です




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