2022/07/09

183)原発事故 2(原発との「出会い」)

 メインテーマの「公(おおやけ)論」は歩みが遅く未だに周辺を手さぐりしている状況ですが、この「公」とは、若い人や生まれてくる人によりよい形で私たちの社会を引き継いでいくための手順であり思想でもあるということができます。そして「未来へのバトンタッチ」という観点からも、私は「原発」を容認することはできません。その理由について少し遠回りしつつ順をおって書きたいと思います。

 そのむかし自宅の本棚にほこりをかぶった原爆の記録集があり、粒子の粗いモノクロの被害写真(人や町の惨状)をみて子供心に放射能と熱線は恐ろしいと感じたことを、いま思い出しました。学生時代には岩波新書の「原水爆実験」(武谷三男)を読んで、当時さかんに言われた「原子力の平和利用」における「閾(しきい)値」の概念を知りました。放射線被爆の「許容量」とは安全基準ではなく、利益・不利益を比較考量した「がまん量」であるという指摘です。一つは「戦争」、いま一つは「平時」における「核」の話ですが、世の中に災厄しかもたらさないという点において「原発」は「原爆」と変わるところがありません。

 私たちは1977年に結婚しましたが、その2年後にスリーマイル島の炉心溶融(レベル5)が、9年後にチェルノブイリの爆発(レベル7)が起こり、2つの事故の間に2人の子どもを授かりました。そうなると力こぶの入っている新米の親として気にかかるのは環境中の放射性物質であり国内の原発事情です。妻は「まず正しく知ろう」と本を読みはじめ(当時はネットなる便利安直なものはなし)、私が二、三歩遅れて追随し、やがて私たちの周囲に「動き」が生じました。

 こまかい経緯は忘れましたが久米三四郎さんや高木仁三郎さんに連絡がつき、久米さんは大津での学習会(平野市民センター)にお越しくださり、高木さんからは原子力資料情報室についてお話を伺う機会を得ました。ご近所の方たち(今でいう「ママ友」)と共に、米国のビキニ環礁での水爆実験の灰を浴びて亡くなった少年「レコジ」を主人公とする紙芝居を制作したのもこの頃だったと記憶します。学習会や署名活動は二人で取り組みました。やがて妻は小出裕章さんの知遇を得て京大原子炉実験所の研究者(熊取六人衆)の市民講座に足を運ぶようになり、私も五、六歩遅れて追随しました。

 金時鐘さんとも親しかった弁護士の藤田一良さんは、小出さんの依頼をうけ伊方原発訴訟の原告団長となり、国の安全審査の責任を鋭く追及しましたが、下世話には「とても金にならない弁護」です。ある日突然に事務所を訪ねてきた小出さんとの運命的な出会いを、まるでモーツァルトにレクイエムの作曲を依頼した「地獄からの使者」のようだったと一流のユーモアを交えて語っておられたことが思い出されます。この我が国初の「原発訴訟」は最高裁まで争われて住民側が敗訴しましたが、「3.11」以降、伊方原発で複数の運転差し止め訴訟が提起されています。

 金時鐘さんの御坊市の別荘は、関電の御坊発電所(人工島)に使用済み核燃料の中間貯蔵施設を建設する計画が持ち上がった時、反対派住民の拠点となった建物です。様々な交渉のあげく漁協も受入れ止むなしの腹を固めたその朝、何年も不漁であったイワシの大群が海をうめつくして地元は建設反対でまとまり、計画は白紙撤回されました。これは時がたって金さんから伺った話、私たち夫婦がよく泊りがけで遊びにいった別荘も今はありません。別荘から急坂を2分登れば「魚見台」に到達します。ここで一杯やりつつ時鐘さんご夫妻と沈む夕陽を何度も送ったことを忘れません。

 いけない、思い出話を始めると止まりません。ここで言い添えておきたいのですが妻はいわゆる活動家とは正反対のタイプで、礼節とユーモアはたっぷりあるけれど大変控えめな人間でした。しかしどういう訳か「人と出会う運」に恵まれ、さして多くはないけれど素晴らしい人とごく自然に知り合って心を通わせることができました。妻に比して多弁で外交的な私ですが彼女の真似はとうていできず、もっぱらそのお福分けに預かることで多少は己が人生を豊かになしえました。人としての芯の部分で彼女は私にないものを有していました。

 また、世間的に知られた人の名をいくつかあげたのは自慢ではなく、著名、多忙な科学者たちが無名の一市民の依頼に誠実に応えてくれた事実を記したかったまでです。それは、原発に対する誤りのない認識を世に広めるためには手間暇おしまないという科学者の良心の発露でもあったと思います。その爪のアカを煎じて、国に責任はないとした最高裁の3人の裁判官に飲ませてやりたいところです。

 こうしてふりかえると良くも悪くも「原発について考えること」が私たちの人生の一つの要素となっていた気がしますが、だからといって感情的に反原発を唱えるものではありません。理の当然としての原発廃止。いよいよ本論に入るところで力がつきました。駄文を弄しているだけなのですが時間ばかり過ぎます。

 明日は投票日ですが、「原発をどのように評価するか」は、私たちが政治家の合理的、理性的、公平公正な判断能力を判定するうえで有効な問いかけです。政党でいうと自公維新国民民主は完全にアウトでしょう。折からEU(欧州連合)は7月6日、原発は地球温暖化対策に役立つ「グリーン」なエネルギー源だという見解を示しました。こうした動きもひっくるめて、考える時間と空間が狭いと言わざるをえません。このような「今だけ、ここだけ、自分だけ」という物の見方は「公」に反するものであり、子孫を裏切るものです。
 憲法、経済、社会保障、外交等々争点はいくつもありますが、原発がリトマス試験紙であることは間違いありません。次回は国がウソをついてまで原発を進める理由について書くつもりです。

 一晩寝て追記します。
 安倍氏襲撃をめぐって、言論の封殺だ、民主主義への挑戦だ、暴力に抵抗を、戦前に回帰させてはならない等とマスコミも「識者」も「まちの人々」も口をそろえています。これは確かに許しがたい蛮行ですが、容疑者は、ある宗教団体に個人的な恨みがあって報復しようと思ったが近づくことができず、団体と関わりの深い安倍氏を狙ったと説明しているようです。
 もしそのとおりなら、これは政治・社会的な主義主張とは関係ない私怨にもとづく犯行であり、しかも安倍氏は教団代表者の身代わりとされたことになります。世間の受け止め方は見当違いもいいところです。なぜみんな、かくも素早く、かくも一斉に、たった一つの色に染まるのでしょうか。
 長く続いた安倍政権下でさまざまな出来事がありました。言論や民主主義という観点から問題ありと批判されていたのは他ならぬ安倍氏ではありませんか。それがいまや一転して礼賛の嵐です。私も惜別の情を十分に理解する人間ですが、ここで一つの声しか聞こえないことに違和感を禁じ得ません。こうしたムードは一票の行方にも影響するでしょう。
 あれやこれやを考えると、民主主義を内側から蚕食しているのは、むしろ私たち自身ではないのかという気がしてきます。




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