2023/01/04

196)こころ

 いつも記事を書いてからタイトルを考えますが、今回は「こころ」という題を先に決めました。これまで数回にわたり「ケア」を論じ、ケアという依存・被依存の関係において当事者はもちろん周囲の人々の「こころ」が大きくものを言うと感じました。そもそも人は、友情、恋愛、仕事、親戚や近所との付き合い等々、何によらず「こころ」に差配される部分が小さくありません。かように「こころ」は大切です。夏目漱石も「こころ」を書きました。

 この話は、多義的で曖昧な「こころ」の意味を明らかにしないと前へ進みませんが、これが難事業です。ここでは「利害損得と少し距離をおいて発動する喜怒哀楽の情」というほどの意味を込めています。「勘定」ではなく「感情」です。おなじく漱石の「草枕」の冒頭にこうあります。~山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。~「こころ」は漱石のいう「情」に近いと思います。

 それにしても「こころ」はどこにあるのでしょうか。心は脳の活動だからあえて場所を問われれば頭の中にある、というのが科学の立場でしょう。しかし私は、「こころ」は胸の中にあるように思えてなりません。「理知」は頭の中にあり、一方で私の中に居すわり、また去来する制御不能な「こころ」は心臓のあたりにあるという実感です。日々私は息をするように悲しいのですが、頭ではなく文字どおり胸が痛みます。

 桐生の山道を歩くと、いのししが地面を掘ってミミズを探したあとをよく見かけます。時にはアスファルトやコンクリートの上に堆積した落ち葉の層が丹念に掘り返されていることもあって、鼻先を冷やし傷つけて餌を得られなかったいのししの徒労を私は気の毒に思います。これも胸に感じる極小の痛みです。ミミズに感情移入しないのは手前勝手な話ですが。

 えらく情緒的なことを書きましたが人には勇猛な心もあります。12世紀のイングランド王リチャード1世は戦いの中で一生を過ごし「獅子王(獅子心王)」と称されました。私たちが高校で英語を習ったK先生は、いつも部厚い英英辞典を抱えて美しい風のように登場されました。私は怠惰な生徒でしたが、先生が黒板に「Richard the lionhearted」と書き、リチャード獅子王であると説明されたことだけを不思議に記憶しています。語尾に「ed」をつけず「リチャード・ライオンハート」とも言うようです。

 ついでながら(は失礼ですが)、高校で忘れがたいのは民主主義を熱く語られた私たちのクラス担任のO先生のこと。最初の日に「このクラスでは民主主義と言論の自由を保証します」と宣言されました。「保証」という言葉は何やらしっくりこないけれど先生の意図されるところはよく分かる、高校生の私はそのように受け止めました。O先生ご夫妻にはその8年後、頼み込んで媒酌人を引き受けて頂きました。妻と私が出会った3年9組の担任がO先生でありました。

 ところで私が十数年「ライオンハート」のオードトワレを愛用しているのは英語の授業とは関係なく、「ファッションアドバイザー」であった妻の助言によります。シャツもネクタイも靴もすべてそうでした。私は助言の「し甲斐のない素材」ではありましたが、言われたことには「なるほどそうか」と従ってきた次第で、無職のいまは香水1品だけ教えを守っています。そういえば、「管理職らしい人がカラーシャツを着ているけれど、市役所であれは許されるのですか」と新採職員が聞きに来たと人事課の人から教えられたことを思い出しました。

 頭と心は、「オズの魔法使い」(フランク・ボーム著)の主要なモチーフとなっています。ブリキのきこりは、魔女に呪いをかけられた斧で自分の手や足を切り落とし、次々にブリキのパーツに交換します。ついで胴体を切ってブリキにかえた時に心臓を入れてもらえず、恋人を愛する「こころ」を失ってしまい、なんとか心を取り戻そうとドロシーの一行に加わります。わら(藁)でできた案山子は「脳みそ」がほしい、臆病なライオンは「勇気」がほしい、竜巻で飛ばされてきたドロシーと愛犬トトはふるさとカンザスに帰りたい。オズの魔法使いならきっとみんなの願いをかなえてくれる。

 一行がエメラルドの宮殿をめざす道中、それぞれが自分に欠けているものがいかに重要であるかについて語りあいます。きこりは、「心があって人を愛していた時は、僕は世界で一番幸せな男だった。脳みそは人をしあわせにするわけではない」言います。かかしは、「心をもらっても脳みそがなければ、どうやってそれを使っていいか分からない。脳みそが一番大切だ」と応じます。

 ご存じのとおりこの物語はハッピーエンドを迎えます。オズ大王は魔法をつかう前日、ブリキのきこりに言いました。そもそも心を欲しがるというのが間違っている。心はむしろたいていの人を不幸にしてしまう。それさえ分かれば心がなくて良かったと思うはずだ。これに対しきこりは、そういう考え方もあるかもしれません。しかし僕としては心さえ貰えればあとの不幸はいっさい文句をいわず我慢します、と答えました。印象深いやり取りです。

 次の日、実は人間であったオズ大王は、かかしの頭に針やピンを混ぜた「小麦ふすま」を詰め、ブリキのきこりの左胸には、きれいなシルクにおがくずを詰め込んだ「ハート」を入れ、ライオンに美しいビンに入った不思議な液体を飲せます。オズ大王は物を通じて心に働きかけ、みんな自分に欠けていたものを手に入れて大きな自信と満足を得ました。ドロシーとトトは少し遅れ、本物のよい魔女の助けを借りてカンザスに帰ることができました。

 かつてカンザス州生まれの女性がわが家によく遊びにきていました。竜巻はよくあるのかと聞くと、なにもない広い草原を風がふきあれよく竜巻が起こる、民家には竜巻よけの地下室があると言っていました。何やら昔のことが思い出されます。いまは異常気象でわが国でも珍しくなくなりました。オズの魔法使いの記述は新潮文庫版(河野万里子訳)を参考にしました。

 「頭(智)」と「心(情)」を対比的に書いてきましたが、「智」と「情」は相互乗り入れしている複合体であり、この二分法はあくまで図式的、便宜的なものです。そのうえで私は自分を「智」より「情」の人間であると感じます(よしあしは別)。前回の記事にもつながりますが「持って生まれたもの」によるところがあるのでしょう。

 政治に「こころ」が欲しいと思います。すなわち、「政治家の倫理観(国民すべてと未来を見る眼)の向上」、「制度の結果的公平性(強者と弱者の差を小さくするもの)の担保」、「これらを通じて増進する社会福祉」です。昨今の政治には「こころ」どころか「智」もありません。子どもと高齢者と現役世代(ようするに国民すべて)にあてるべき財源を軍事(攻撃能力の向上)にふり向け、科学的に破綻している原発促進に舵を切りました。公務の担い手としてひそかに恃む省庁役人の「こころ」も執務ビルの外には出ないようです。

 いま、アマゾンの朗読サービス(オーディブル)を聞いています。漱石は読んでよし聞いてよし、特に耳で味わう漱石の文章はおいしいお酒です。図書館まるごと聞けるようですが、読むよりは時間がかかるので書架の一段分も寿命がもちそうにありません。








 

 

 

 
 

 
 


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