2023/09/22

216)3つの出来事(② 焼肉)

 <鶴橋の焼肉>
 開高マティーニを味わった翌週、今度は金時鐘さんご夫妻から焼肉をご馳走になりました。それまでも「飯を食べに来い」と電話をいただきながら、夫婦で何度も伺った懐かしいお宅に足が向かず、長くお目にかかりませんでした。その日は親しい知人を交え鶴橋で焼肉でも食べようとのお話。気合いを入れて随分早く鶴橋駅に着いたら、金さんはもう改札口の柱を背に立っておられ、笑みとともに差し出された手をとって私はしばし言葉につまりました。

 炎暑の通りを歩いて席に着くなり金さんは、いま酒を止められている、今日はビール半分にするから残りを飲んでくれと言われました。詩人の酒豪ぶりをよく知る私はまさかと思いつつ一応「はい」と答えました。煙をあげる焼肉、熱く澄んだ牛スープ、ナムル、キムチ、ここ数年の相互の消息の交換、、。まもなく金さんは事もなげにジョッキを空け、なめらかに焼酎(濃いお湯割り)の部に移っていかれました。やっぱりな。私もつい嬉しくなって杯を重ねました(ともに掟やぶりです)。

 釜山に生まれ済州島で育ち、来日後は日本語で詩を書いてきた金さんの仕事は日本で認められ多くの賞を得ましたが、今では韓国語に翻訳され母国でも多数の読者に支持されています。昨年12月には韓国が設けているアジア文化殿堂「国際文学賞」が授与されたことをこの日に知りました。愛読者の一人である私にとって嬉しい話ですが、後でふれる金さんの人生と日韓の近現代史を考え合わせるとたいへん複雑な思いがするのです。

 前回記事(215・3つの出来事)を読み、金時鐘がかつてアパッチ族の首領であったと知って驚かれた方があるかもしれません。実際に彼は「武闘派」でもありました。同じ詩人といっても、谷川俊太郎は絹のハンカチで磨き上げられ(おそらく)、金時鐘は鋼のヤスリでこすられました(間違いなく)。背筋はまっすぐ、若い日に鍛えた左右のこぶしは空手家のように部厚く扁平です。

 17歳で迎えた「1945年の夏」を金さんは繰り返し語っていますが、著書「朝鮮と日本に生きる」(岩波新書)にはこうあります。「(玉音放送を聞いて)天皇陛下への申し訳なさに胸がつまって肩ふるわせてむせびました。決して誇張でなく、立ったまま地の底へめりこんでいくようでした。青年団員たちが戦闘帽の汗を口元をほころばせながらぬぐっていたのにも、気力がずるずる抜けていきました。」

 「白日にさらしたフィルムのように私の何もかもが真黒にくろずんでしまって、励んで努めて身につけたせっかくの日本語が、この日を境にもう意味をなさない闇の言葉になってしまいました。それでも私は今に神風が吹くと、敗戦の事態もまた変わってゆくと、何日も自分に言い聞かせていたほど、度し難いとしかいいようがない正体不明の朝鮮人でした。」

 「『解放』に出会ったとはいうものの、実際はこれがお前の国だ、という『朝鮮』に、いきおい押し返された私でした。なにしろ私は植民地統治という言葉すら知らなかったばかりか、『内鮮一体』といわれていた大日本帝国への帰属を、近代開化から取り残されている自分の国、朝鮮が開明されることだとむしろ自負めいたものをもちつづけていました。」

 金さんはまことに純真な皇国少年でした。日本は美しい唱歌「ふるさと」や勇ましい軍歌「海行かば」として自分に訪れたと彼は語っています。植民地統治は暴力で制圧するばかりでなく、行政、産業、文化、教育などあらゆる面で展開され、さらにその力は個人の情感の機微に及んでいくことが金さんの話から実感されます。これは「洗脳レベル」を超えています。

 かたや金さんの父は、親日派が幅をきかせる町なかを民族服を着て平然と歩く人でした。金さんは、父が殴られたり墨汁をかけられたりすることのないよう、その外出の度に願掛けする癖がついたと語っています。肉親の情愛が底流にあったとしても、民族の誇り高き父と皇国少年の父子関係が損なわれることは避けられません。家庭で民族教育を行うことが危険な時代です。父子の間に立って心を痛める母。当時こうした家族が朝鮮に一体どれほどあったことかと思うのです。

 さて、日本敗戦の夏を境に金さんは手さぐりで新しい困難な道を歩き出します。それは、昨日までの自分との決別であり遠ざけられていた朝鮮語の回復でしたが、やがて民族詩人「李 陸史(イ ユクサ)」を知ることとなります。李陸史は植民地支配への抵抗運動を続け(17回の逮捕・投獄)、1944年、関東軍支配下の北京監獄で40才の生涯を閉じた悲運の人ですが、慕い集まってくる若者たちに「亡国の民は拳ぐらい強くなくてはならない」といって拳闘を奨めたのだそうです。

 この逸話に強くつき動かされた金さんは、板を立てて荒縄を巻き付け、かさぶたが固まって手が変形するまで殴り続けました。かねて親しんでいた剣道にも打ち込み、木刀で木の葉をきれいに二つに切断するまでに腕をみがきます。米ソ対立のはざまで朝鮮が南北に分かれアメリカ軍政下にある朝鮮南部において反共の機運が高まりつつある時期、たちまち息を吹き返した親日派(憲兵、警察、右翼等)の暴力に島民がおびえていたという背景もありました。

 1948年4月3日、済州島では米国が主導する南朝鮮単独選挙を阻止しよう(南北分断の恒常化を回避しよう)と島民たちが蜂起します。これが「四・三事件」で、済州島は「アカの島」とされ韓国臨時政府の軍警察と反共グループの手により島民への弾圧、虐殺が繰り返されていきます。金さんは南朝鮮労働党の一員(「山部隊」への最年少の連絡員)として活動し、ある事件をきっかけに指名手配をうけました。2度にわたって命拾いし、父の奔走により密航船に潜んで奇跡的に日本に脱出します。こうして1949年6月から金さんの「在日」が始まりました。

 大げさな言い方ですが、金さんの詩も、金さんの存在自体も、日本人である私(私たち)に向けられた匕首であり贈り物であると思っています。ですから書きたいことは山ほどあり、例えば金さんを手がかりに「権力による個人の内面の支配」を考え、ついで「公」を論じることもできそうだし、「日本の情緒」を探ることも可能かもしれません。それはまたの機会としていまは金さんの「身体活動面」に話を絞ります。

 日本に上陸した金さんは同胞の多く住む大阪の町、猪飼野(東成区、生野区界隈)で暮らし始めます。私が焼肉をご馳走になった鶴橋も、アパッチが闇夜を駆け巡った杉山鉱山(大阪城公園)も金さんのホームグランドです。この地で金さんは働きつつ詩作を始め、やがて仲間と詩集「ヂンダレ」を創刊しますが、それが民族虚無主義的であると朝鮮総連の批判を受けます。ついで一切の表現活動を制限され、しようことなしに「酒を飲んでばかり」の一時期を過ごします(その後すべての組織と決別)。

 そんなある時、金さんが喧嘩の仲裁に入ったら相手がヤクザで、短刀を抜いた三人に「殺したる」と追われ、街路樹の根元にあった棒切れを手に取って全員を叩きのめす「事件」がありました。遠巻きに見ていた群衆は拍手かっさい、翌日の新聞に「丸腰の市民が一人で三人のやくざを撃退した」と報じられたそうです。また、腕自慢の大男から喧嘩を売られ一撃で倒したこともあるよし。この手の武勇伝は幾つもあり、私は金さんの知人の「証言」も得ています。

 金さんがアパッチの荒くれ男たちに一目おかれていたのは、組織活動家としての統率力ばかりでなく腕っぷしの強さによるものであったろうと思います。鉄を「笑う(盗掘する)」のは重労働のうえ最後に堀を渡らなければならず、取り締まりの強化もあって長くは続きませんでした。誤解なきよう申しますが金さんはきわめて心優しい人です。しかし、人生の途上で売られた喧嘩は買う(ふりかかる火の粉を避けない)時期があったようで、鍛えた身体と修羅場をくぐった胆力が金さんの窮地を救ったことは間違いありません。

 誰しも生まれた国と時代の影響から逃れられませんが、金時鐘さんの人生を左右したのは祖国朝鮮ではなく宗主国日本でした。私にとって金さんは日韓近現代史の生き証人です。ふりかえれば1910年の「韓国併合」によって多数の朝鮮人が日本にわたり、労働の底辺を支えました。1923年の関東大震災で虐殺されたのはそうした人々の一部(といっても多数)です。しかし政府は公的記録がないと嘘をつき、都知事は学者の管轄であるとうそぶき、チマ・チョゴリのおばさんと揶揄する議員がいます。彼らの取り巻きはクニに帰れと叫びます(米軍基地の前で言ってもらいたい)。

 これら「愛国者」が、私が金さんに出会ったような「出会い」を経験すれば良いのにと思わずにいられません。しかし残念ながらそんな僥倖はもう多くないはず。こうした中、たかだか数十年、百年ほどの自分たちの歴史をどうやって手繰り寄せるか。それが問題です。徴兵も空襲も軌道をえがいて戻ってきます。香ばしい焼肉がきな臭くなりました。「三つ目の出来事」は次回にまわします。
 ちなみに1998年、金大中政権下でようやく金時鐘さんの済州島訪問が可能となりご両親の墓参も実現しました。彼が島を出てから49年が過ぎていました。






 

 

 

 

 
 

 

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