2024/02/02

227)ハジカミ生姜と市民党

  派閥は「政策集団」なのだそうです。「スルメはアタリメ」どころでありません。まるで暴力団を「任侠尊重実力行使型疑似家族集団」、原発を「脱炭素多重防護安全発電施設」と呼ぶようなものです。岸田派は「事務的なミスの積み重ね」で裏金を溜め、萩生田氏らは「会計処理をめぐって地元や関係者の皆さまにご心配をおかけ」しました。にわか造りの「政治刷新本部」から裏金議員を外すことは「排除の論理であり不適切」なのだとか。もっともカラスの森に白い鳥はいませんが。

 これらの議員はあえて法を犯したにも関わらず「今後は再発防止に努めなければならないと考えて」おり、核心を聞かれると「今の段階で何か申し上げるのは差し控え」ます。まったくセンセイ方の言語能力には脱帽ですが強心臓ぶりも際立ちます。気が小さくて不整脈の私は二重に羨ましく思います。 けれども、しかし、彼らの口をこじ開けてドラえもんの「恥噛み生姜」を齧らせてみたら突如「恥」に目覚めて心臓も人並みに戻るかも知れません。そんな生姜があったとして少なくとも一人あて10本は必要でしょうけれど。

 政党自体がそもそも「政策集団」ではないのでしょうか。それを小分けにする目的は党内における覇権争い、すなわちポストとカネ目当ての多数派工作しかありません。「大臣になりたい時はワンワン言う」と二階氏が言うとおり。昔の派閥はもうちょっと立派(?)でしたが、自民政権が続いて根腐れが進んでいます。政治資金規正法がザル法だと改めて知りましたが、与党政治家の廉恥心と倫理観が社会の一般的レベルを大きく下回っていることの方が重大です。

 いまこそ野党は大同団結してもう一つの選択肢を国民に示すべきですが、ありきたりの手法では勝てません。そこで提案ですが「じみん党」の汚濁を清め濁点を取り払って「しみん党」を立ち上げ、野党各党が派閥として参画するのはどうでしょう。与党派閥のステルス化への真っ向勝負です。立憲民主党は「泉派」、国民民主党は「玉木派」、共産党は「タムトモ派」等と改名しますが蓄財はなし。外国人記者クラブには「Citizen Party」を立ち上げたと伝えましょう。ついに2大政党時代の幕開けです。

 夢物語はおいて、裏金ばかりでなく秘密保護法、集団的自衛権、合同演習、武器輸出、国会不開催、国債依存、サクラ・モリカケ、統一教会、原発回帰など一連の政治状況や政権の動きを見るにつけ、またこれらを巡る国会論議の空疎さを思うにつけ(政府答弁はAI音声の方がマシ)、私たちは「政治的虚無におちいる権利」があるとさえ思えてきます。安心安全に暮らし、国土と次世代を守りたいという当たり前の願いをもつ多数の人々が無力さを感じているとしても不思議ではありません。

 前の記事で「投票率の低さはコスパ的発想によるのではないか」と述べた続きです。いまの世を見わたすと、精神より物質が優位である、あらゆるものの商品化がグローバルに進んでいる、消費者は「王」でありつつ常に消費に駆り立てられている、社会的行動全般に占める消費行動の比重が高まっている、これらを背景として「対価への欲求」が高まり続けている、消費行動の容易さが私たちの「待つ力」を削いでいる、といった状況があります。

 思いつくまま並べましたが、こんな事情が「コストパフォーマンス的発想」の背中を押しているかに見えます。「費用と効果との比較考量」は合理的な態度ですが、度が過ぎると「民主的社会の維持」や「国土の保全」などそもそもコスパの領域外のテーマが軽視されることとなり、またコスパに「今だけ・ここだけ思想」が結びつくと誤答に導かれます。こうした中で一票のゆくえが見えず「投票はコスパに合わない」と思う人が増えているのではないかと想像するのです。

 さて、東京地検の捜査が一段落しました。安倍派幹部は死者を踏み台にして非常口から逃れました。今ごろ安倍、細田の二会長に手を合わせているでしょう。それも織り込んでの捜査着手であったはず。各派と議員の裏金の総額は(もう足し算する気になれません)十数億円でしょうか。時効前にさかのぼると100億の大台を超えるかも知れません。タガが外れたどころか政治の底が抜けています。自民党をここまで「育て上げた」私たち有権者の責任も重大です。

 検察審査会への審査申し立ても検察には想定の範囲でしょう。何といっても状況証拠だけで起訴もするし時に平然と捏造を行う組織ですから今回の「手加減」は明白であり、同時に彼らは多数の証拠押収により当分は政界に睨みが利くという実利も得ました。そしてこの捜査の背景には大川原化工機事件の失点を回復したいという地検の思惑もあったと思います。

 記憶に新しいこの事件は、警視庁公安部と東京地検が事実無根の犯罪をでっち上げて噴霧乾燥機製造会社の代表者ら無実の3人を逮捕拘留したあげく、公判が始まる前に自ら公訴を取り消し、まるで最初から何もなかったことにしようとした恐ろしくもお粗末な一件です。3人のうちの1人は拘留中に重病を発し十分な治療を受けることなく亡くなりました。この一件で公安部、東京地検、担当者から謝罪や反省の言葉はありません。裏金捜査で一定の成果があってもこの過ちは帳消しになりません。検察の「活躍」はそれこそ括弧つきで見る必要があります。本件国賠訴訟の経過を注目したいと思います。

 いま国会で「政治改革」が議論され(これで何度目?)、岸田氏がナマコ答弁を繰り返していますが、ともかく全議員の責任において裏金の全容(各派における当初からの経緯や全所属議員の受領額と使途)を解明することが出発点です。そうでなければ自民金権政治の耐久性が増すばかり(ワクチン接種を受けたごとく)です。では国民は何をすべきか等と大それたことは申しませんが、もし「現に与党である」という理由から自民党を支持する人がいたら今こそ再考の時だと思います。野党が頼りないと嘆くばかりでは山は動きません。

 ところで、すべての機関・組織は個人の集合体ですから「全体と個」の視点で論じることができます。たとえば内閣と閣僚、派閥と所属議員、省庁と職員、裁判所と裁判官、検察庁と検察官、市役所と職員という相互関係における「在り方論」です。機関・組織にはそれぞれの法的根拠と使命があり、また集団のルールや伝統文化がありますから、その「全体性」の中で個々のメンバーはまことに微力です。そのことを承知で言うのですが、私は集団の中における個人の振る舞い(その人の価値観に基づく行動)が、その個人の尊厳と集団の健全性を保つ上でとても重要だと思うのです。私が「個人の資質」を問題にするのはこうした事情によります。

 家族の前で、友人知人の輪の中で、あるいは地域住民の一人としてはとても出来ないようなことを組織の一員として個人は行う場合があります。ダイハツの技術者もそうであり袴田事件記事221・シャツの味噌漬けや大川原化工機事件を担当した警察官や検察官もそうです。更に言うと兵士も同じでしょう。組織への忠誠心や高次の目的が個人の良心の呵責をなだめてくれます。こうした事情を批判する資格が私にありませんが、組織の一員たる個人は「全体に吸収されない残滓のような自分自身」にもっと顧慮してもよいのではないかと考えます。

 個人の力を重視する私の見方は素朴過ぎるかも知れません。組織の中における自己実現は簡単ではなく、個人が集団を変えていく道筋も描きにくいのが現状です。逆に個人が集団の中で成長することの方が多いわけだし、個人的な感性が常に集団よりも鋭敏である保証はありません。すぐれて「公」の問題である集団と個のテーマをどちらか一方からの視点で論じられないとも思います。

 話が一般論に流れてしまいました。国会議員は国民の代表者として手厚い身分保障を受ける自由度の高い立場であるにも関わらず、自民党議員の中に派閥の不正を糺そうとする者が誰一人おらず、大半が派閥の傘の下で不当利得を貪っていました。しかも露見してなお隠ぺいと責任転嫁に汲々としています。党としての事実解明も仲間内の「なあなあ調査」です。こうした人々の一人ひとりの口に「恥噛み生姜」を押し込みたいと私は思っています。

 「桐生から」というコラムを時おり末尾につけるつもりでしたが、悠長なことを書いておられず今回も見送りです。しかし桐生は日常の半分ちかくを占めるのでまた書きたいと思います。「半分弱」から「范文雀」を連想しました。私の若い頃に一世を風靡した人ですがご存じの方は少ないでしょう。時代はめぐります。




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