天狗岩の上で風に吹かれてお茶を飲み、ひとしきり湖南平野の眺望を楽しんだあと尾根筋ルートで下山するとします。遥か彼方に霞んでいるのは恐らく宇治の山々、右手にはどこまでも続く琵琶湖の水面。つい景色に目が行くけれど足元は痩せ馬の背を踏むがごとく、砂の撒かれた滑り台を立って下りるにも似たり。滑ったり尻もちをついたりしながら急斜面を下ること1時間、山道は突然コンクリート舗装の林道にぶつかります。
その林道の手前は粘土を切った十段ほどの階段になっており最後の注意ポイントなのですが、ある日ここを下りていてふと徒然草の「高名の木登り」を思い出しました。以来2年ほどそれが習慣となりました。木登り名人が弟子に命じて高枝を切らせた際、目のくらむような高所では黙って見ており、弟子が軒先の高さまで下りて来た時に「あやまちすな、心して降りよ」と声をかけたという例の話です。
理由を問われた名人いわく、危険な所では本人自身が注意しています、ところが地面近くまで下りてくると油断が生じる、そこで注意を与えます。なるほどと兼好法師は頷き、卑しい身分の者だが聖人の教えにも匹敵すると記しています。やや上から目線ですね。しかし私も兼好さんに同感です。また、鎌倉時代に「木登り」という職業的領域が存在していたことも味な話です。
さてこの山道が終わって林道に立った時、後ろをふり返って山に一礼したくなることがあります。山と平地の境界が明瞭であることが一因です。競技を終えた運動選手が走路やフィールドに頭を下げるのに似ているかも知れません。いま自分が活動を終えた舞台への感謝の気持ちといいますか。実はこうした仕草は私の趣味ではありませんがココロは分かります。アニミズムの残滓でもありましょう。一神教の社会の人々はこうした感情を持つものでしょうか。
前回の記事「もう苦しまなくてよい」に対して友人から思わぬ反応がありました。ご家族(長く勇敢な闘病生活を送られた方)を亡くして日の浅いAさんは、イエスの言葉が胸に迫ったとメールをくれました。浄土真宗の僧侶であるBさんは、イエスは病人を治すと同時にその存在を肯定したのだという解釈を語りました。医師であるCさんは、観念のみにとどまる神はヒトに救いを与え得ないなど多くのワードをメモにして送ってくれました。
3人とも私と同年代で、私を別として思索と経験を重ねてきた人々です。それゆえ彼らは信仰のあるなしに関わらず宗教的思惟に無関係ではありえないのだろうと私は思いました。こう書くと僧侶たる友人は「当たり前やんけ」と憤慨するかもしれませんが、世の中にはそうではないお坊様もいらっしゃるでしょう。いずれにせよコメント欄を閉じてから読者の感想を伺う機会が減ったので嬉しい反応でありました。
話は変わって自民党議員は石破氏より高市氏が好き(まし)のはずです。決選投票で石破氏が逆転したことについて、靖国参拝を公言する高市氏では中国、韓国との緊張が高まるだろうから自民党議員がその回避に動いたと言われています。しかし私は、これは単に目先の選挙対策にすぎないと思います。穴がたくさん開いたボートより穴の数が少ないボートの方が沈む確率が少ないという判断です(「穴」の数は国民の目を借りて自民議員が数えるとして)。
しかし石破氏のボートの穴も少なくことが早くも分かって来ました。それでも内閣支持率が46%ですから世の中には鷹揚で度量の広い人々が多いと感じます。裏金も統一教会も水に流すのでしょうか。この国の安全保障は今の路線でいいのでしょうか。能登半島のほったらかしはいいのでしょうか(福島も沖縄もあるけれど)。
石破氏の噛んで含めるような、自分の言葉を味わうような喋り方が私は好きではありません。しかし岸田氏のように原稿棒読みでない点は大いに評価しています。野田氏との論戦も多少は楽しみです。たとえ弁論が下手でも話が支離滅裂でも結局は担ぎ手の多い神輿が勝つわけではありますが、それでも言論は無力ではありません。石破氏、野田氏、その他の人々に言葉の力を見せて欲しいと願います。
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