2024/11/02

253)そこまで高くていいですか

 高かろうが低かろうが本人の勝手であり他人がとやかく口を挟む問題ではない、と言われれば全くその通りですが、それでもいらざるお節介を焼きたくなります。テレビやラジオから聞こえてくる女性の声が不自然に高いのです。ニュースを読むアナウンサー、実況中継のレポーター、トーク番組のタレント、街角でマイクを向けられた若い女性その他いろいろ。

 一般的に若い女性は、不特定多数の聞き手を想定して話す場合、日常会話の声(地声)よりもずっと高い声を出すことが多いと見受けます。誰でも改まって話す時は声の調子が高くなりますがその極端な例だと言いましょうか。中には高い声が定着してしまったような女性もいます。聞きづらいねと私たちはよく話していました。ちなみに彼女は中音域の柔らかい声であったし、ふだん私が話す女性は(数少ないけれど)みんな「普通」の声の持ち主です。

 桐生の行き帰りによくNHK・FMから流れてくる「ミュージックライン」という番組で先日こんなやり取りがありました。「そこで印象に残った事なんてあったりしますかあ?」、「前に出させて頂いた時い、ナンバさんがあんまり可愛くてえ、こんな人いるんだあって思わさせて頂いてえ、もう私感激しちゃいましたあ」、「わあどうも有難うございますう」。二人とも倍速再生みたいな声の高さ。私などは「普通の声で普通に話せばいいのにい」と思います。

 そんなところに「日本人女性の声は『世界一高い』?」という記事を読みました(朝日新聞「論の芽」)。~ 海外の映画やニュースを見ていつも思うのは、女性の声の低さです。翻って日本では、細く高い声の人が多い印象です。「世界一高い」という専門家もいます。「声は社会の産物」と指摘する音声認知の専門家、山﨑広子さんにその意味を聞きました。 ~と前置きにあります。

 山﨑広子さんの論旨は以下の通りです。
 ~ 日本人女性の話す声は確かに世界で最も高音の部類だ。身長160㎝ほどの成人女性なら地声は220~260ヘルツ(ピアノの真ん中のラ~ドあたり)が自然だが、多くの日本人女性は300~350ヘルツ、場合により1オクターブ上の声を出している。これはほぼ裏声だ。本来もっと低いはずの人まで何故そんなに甲高い、喉をしぼった発声をするのか。それは社会が、もっとはっきり言えば男性が、それを暗黙裡に求めているからだ。

 高い声は生物の共通認識として「体が小さい」ことを表す。子どもにみる通りだ。つまり高い声は未熟、弱い、可愛い、保護対象などのイメージと結びつく。日本の女性は、そう自分を見せねばと無意識に刷り込まれてきたといえる。ジェンダーギャップの小さい国の女性の声は明らかに低い。日本でも「キャリアウーマン」の語がはやったバブル期に女性の声がぐっと下がった。声は、心身の状態だけでなく価値観や生き方まで映す「その人そのもの」といってよい存在だ。~

 この意見を別の角度から見ると「日本は甲高い声が女性の魅力として通用する国である」ことになります。同感せざるを得ません。多くの女性にとって不愉快、少数の男性にとっても無念の指摘であろうと思います。ついでながら若い女性がよく見せる身のこなし、例えばセーターの袖の中に手を引っ込めて「ダブダブ感」を表すこと、両手をひらひらさせて友人に親愛の情を示すこと、長い髪を捌くように頭を振ること等も同種の「サイン」であると意地悪ジイサンの私は思います。

 昔といってもつい20世紀まで、中国には纏足(てんそく)という奇習がありました。私はじかに知りませんが金子光晴がリアルに文字にしています。少女の足を包帯でぐるぐる巻きにして成長を止め、歩行能力を著しく制限された女性とその小さな足とを男たちが性的に愛でたという胸の悪くなる風習です。日本女性の不自然な声の高さは、目に見えないスマートな纏足であるとは言い過ぎでしょうか。

 もともと日本には可愛いものや小さなものを愛でる文化があります。清少納言は、瓜に書いた稚児の顔、雀の子、ゴミをつまんで大人に見せる幼児、ひな人形、小さな蓮の葉や葵などを列挙したうえ「何も何も小さきものはみなうつくし」と断じました。「うつくし」とは「可愛らしい」の意です。利休は四畳半の茶室を三畳、二畳と縮めてついに1畳半の空間に籠りました。一寸法師、盆栽、トランジスタラジオもその系譜にあると言えます。

 こうした伏流が新たなニュアンスを帯びて前面に出てきたのがここ30~40年程の「可愛い」という誉め言葉の隆盛であると思います。その「担い手」は男性から動物や無生物にまで及びますが主役はやはり「若い女性」です。そしてその内かなり多数が、意識的にか無意識的にか「甲高い声」によって可愛らしさを演じているというのが現状ではないでしょうか。

 「おんなこども」という失礼千万な呼称を発明した男は愚かです。天に唾を吐くようなものです。女と男は天秤の左右二つの皿です。ここは丁寧に書かなければなりません。セクシャリティが女性と男性の二分法でなく、事実としてもっと多様であるし、理念としてもっと自由であるべきだというのが今日の社会の共通理解です(現に私の息子夫婦も授かった子らの命名に際し、将来その子が異なる性を自認する場合も考慮して名前の文字と音を選びました)。

 ですから男女というより「性的な区別によって比較・対置される複数群」と言うべきですが、ここは私(女性である伴侶を得た男性の一人)の実感に引きつけて書たいと思います。日本は「女性差別国」として国連から注意されるほどの国ぶりで、これは女性ばかりでなく男性(女性以外の性)にも不幸なことだと思います。女性が生き生きと輝いていなければ男性もそのように存在できません。両者は見合った存在です。

 「甲高い声を絞る女性」と「それを可愛らしいと思う男性」の「相思相愛」は、長期にわたって当人である女性と男性に幸いをもたらし続けると思えません。「無理をする側」と「無理を強いる側」の関係はいずれ破綻します。これは社会構造的な問題ですが、考える手がかりは個人の内部にもあるはずです。纏足の包帯を女性も男性も引きちぎるべきだと思います。少なくともテレビの甲高い声はやめて欲しいところです。




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