この4例とも「かな」を抜いて十分に通じるどころか抜いた方が文法的に正しいでしょう。「かな」は助詞の「か」と「な」に分かれますが、問題は「か」です。漢字で「乎」と書くこの助詞は、広辞苑(第2版補訂版)に「自己の疑問をそのまま表現する。また自分の迷い・惑いをこめた感情を表現する意」とあります。いっぽう「な」は、「文節の切れ目、また文の終止した所へ接続して、軽く詠嘆し念を押す気持ちをあらわす」と説明されています(ネット辞書も大筋でこれに倣っています)。
したがって(と言うまでもなく)先の文例で「かな」の所に念押しの「な」を入れることはアリですが、「か」や「かな」を入れると「自分の意志を述べながら自らそれに疑問を呈する」ことになってしまい普通はアリえません。理屈上は「自問自答」や「自己否定」があるけれど、これらの文脈に沿わないことは明らかです。なぜ「月の石を見たいと思って来ました」と言わないのでしょう。「どっちでもいいじゃん、言葉は生き物だし」という意見はもっともながら私は半分反対です。
言葉は時をつなぎ人を結ぶものゆえ「通用してなんぼ」です。その基本条件が「変わらないこと」であるのは言うまでもありません。この条件が守られているからこそ私たちは古事記、日本書紀、万葉集、源氏物語などを(専門家の助けを借りれば)読むことができます。言葉が猫の目のように変わっては(最近は使われない言い方)、私たちの共有財産である日本語のアーカイブはすかすかになります。
私たちが意思を通じ合うばかりでなく文化の恵みに浴するうえで言葉というツールが変わっては困ります。しかし一方で、私たちの祖先は舶来の事物や思想、すなわち新しい言葉を取り入れて世の中を進めてきたし、平安期の「今様」のように内から湧いてくる新たな表現スタイルもあるわけですから言葉は変わらざるを得ません。イエスも新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだと言いました(マタイ福音書9章14節)。
「ほんならどっちやねん」とO君に突っ込まれそうですがここが難しいところです。抽象的な言い方になるけれど、言葉の変化は古い秩序(規範)と新たな息吹(逸脱)が衝突した結果としてもたらされる一種の「実り」であることが望ましいと私は思います。冒頭にとりあげた「かなかな話法」は言葉の「幹」や「枝」でなく「葉っぱ」の変化に過ぎませんが、その背後にある時代の空気は「逸脱」というより「萎縮」です。衝突の結果は「実り」ではありません。
例によって私は調べたり考えたりせず思いつきのままに書いています。それにしても言葉は大事だと実感します。感情があってそれを言葉に表現するのではなく、言葉によって自分の感情を教えられるのだとエラい人が言っていましたが納得です。また、語彙の豊富さ(多いか少ないか)と犯罪行為の発生率(とくに若者)には明らかな相関関係があるとNHKのテレビ番組が指摘していました。一言でいうなら何でも「やばい」のひと言で済ませていると他人どころか自分の心さえ理解できなくなってしまうということ。私はこれを差別の発想だとは思いません。
ともあれ。私は言葉に関して年ごとに保守的な感覚が増してきたと自覚しています。心は青年のまま(のつもり)ですが言葉に関しては頑固じいさんになってきたかも知れません。もちろん若い人との会話は内心の赤ペンをもたずに楽しんでいますし、そもそも自分自身が青臭い言葉を使っていた記憶も確かです。しかし個人レベルはさておき、社会の言葉の変容については私なりの感想を抱かざるをえません。どうあればよいか。言葉はほどほどに(ややゆっくりと)変わっていくのが好ましいかな。
今回の写真は友人I君の撮ったヤマツツジです。先日、彼の要望に応えて桐生を一緒に歩きました(もちろん初心者コース)。カメラが趣味の彼は「なんでシャッターが下りひんにゃろ」とつぶやきながら一眼レフをのぞき込んでいましたが、その作品は私の目に beautiful です。ちなみにT君は対照的にカメラを持つと考え深そうな表情で言葉少なにシャッターを押します。T君の写真も美しいと思っています。映像について私の語彙が少ないことが残念です。
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