2025/05/02

273)会津隆吉と青梧堂

 『会津隆吉と青梧堂』という本(清水久子著、ネコオドル発行、2025年4月刊)が大変よかったので感想を記します。「会津隆吉」はペンネームで本名は石原直温、彼が興した出版社が「青梧堂」。石原直温氏は東京帝大仏文科を卒業後、横光利一に師事し作家・社主として活躍します。ところが昭和19年(1944)に33才で応召、補充兵として中国に送られ翌年に戦病死しました。光芒は一瞬です。

 当時、日本軍は中国内陸部にある米軍航空基地の攻略と南北陸路の確保を目ざし、51万の兵力で2400キロにおよぶ「大陸打通作戦」を展開しており、会津隆吉はここに動員されました。兵士らは重い装備をかついでひたすら歩くばかりの毎日、補給がないため食料は現地調達(つまり略奪)によらざるを得ず、栄養失調と病気により多くの兵が亡くなりました(今回の記事中、事実に関する部分は『会津隆吉と青梧堂』から引用しています)。

 こうして否応なく国家に奪われた人生がどれほど多かったことか、その無念と残された家族の悲嘆はいかばかりであったかと思うけれど、その私の「思い」がうわすべりした観念的なものに過ぎないとの自覚もあります。ともあれ死者は足早に遠ざかっていくし、敗戦からすでに80年、戦争で亡くなった一人ひとりの輪郭は百万、千万の数字のなかに溶融しているというのが一般的な状況でしょう。

 いや死者が遠ざかるというより、私たちが死者を遠ざけているという方が正しいかも知れません。それが証拠に政府は被爆者の支援(これも本来は贖罪と補償)に一貫して消極的であり、また国内外の海や野に捨ておかれた兵士らの遺骨を省みようとしません。戦時を比較的平穏に過ごし得た人々もありますが、そうした一族の歴史においてすら、今を生きる人は自身の祖父母(わずか2世代前!)がどんな日常を生き、何を感じ、何をなしたのかについて往々にして無頓着であると私は考えます。

 この本の著者である清水久子さんは「死者を省みるにいたった人」です。もちろん私はだれもが先祖のことを知るべきだと主張するものではありません。良し悪しは別の話です。清水久子さんは会津隆吉が亡くなって三十数年後に会津の娘の娘(孫)として生まれました。そして中学生の時、祖父の五十回忌の際にその代表作とされる『北京の宿』に出会います(祖母すなわち会津の妻が復刻版を作って親族に配布したもの)。

 これがきっかけで清水さんは祖母から断片的な話を聞くばかりであった祖父について興味を持ち会津隆吉の文献調査を始めました。町立図書館の司書となり専門スキルをみがいたことも助けになったと本にあります。さもありなん。巻末に示された参考・引用文献の数は134にのぼり官公文書、研究論文、組織内資料(記念誌、校誌等)、小説、随筆、書簡集など多岐にわたります。それらも一次資料、二次資料といった区分により厳密に扱われているもよう。

 じつは私は会津隆吉を知りませんでしたが、彼の周辺に横光利一をはじめ川端康成、菊池寛、中山義秀、金子光晴、住井すゑ、、吉屋信子、宇都宮徳馬、青野末吉など私も知る著名人がいたことをこの本に教えられました。第一回の芥川賞(昭和10年)は石川達三がとりましたが、「次は君だよ」と選考委員の一人であった横光が会津に予言(激励)したという逸話が紹介されています。会津はそれほどの書き手であったのでしょう。

 ちなみにこの時、選にもれた太宰治がたいへん悔しがった話が有名です。かつて太宰ファンであった私は石川達三より太宰治のほうがずっと才能があったと思うのです。選者の一人であった川端康成が太宰の破滅的な生活ぶりを「暗雲がたちこめている」と評したことに太宰がつよく反発しました。私も作品に無関係な話を持ち出した川端は間違っていたと思います。太宰も会津も芥川賞と無縁で終りました。ところで近年の芥川賞受賞作はもう読む気が起こりません。

 会津は他に2つのペンネームがありました。本名で発表した作品を含めて短い生涯に発表した作品は74。清水久子さんは本名から筆名への変更と作品および周辺状況を丁寧にたどりながら会津の作家活動、出版活動を紹介しています。その中で会津が「日本赤十字社の従軍看護婦である宮川マサ子」という架空の人物になりすまして『大地に祈る』という記録小説を書いて一大ブームを巻き起こしたことが明かされています。時に昭和15年。

 「奥地従軍看護婦芸術的感涙文学」と銘うたれて版をかさねたこの小説は戯曲化・映画化され、慰問袋に入れて戦場に送られ、いっとき日本を染めました。そして2002年に「戦時下の女性文学」シリーズの第3巻として復刻され、その後に「従軍看護婦と南方慰問作家ー女たちの見た戦場と異郷」(沼沢和子)や「銃後ー利用された言葉の力」(和佐田道子)でも取り上げられ、あらためて近代文学史に位置づけられました。

 清水久子さんはこの経緯を克明に調査、検証したうえで「(前略)だから女性文学シリーズに『女性になりすました男性作家』が書いた小説がまぎれ込んでしまったとしても、しかたのないことだ。ただ、身元不明の無名作家の作品を復刻することには、このようなリスクもあるということだ。」とサラリと書いています。ことの真相は、まず戦意高揚という国家の要請があり、文壇がそれに応じ、大御所を通じて秘かに会津に依頼が届いたもののようです。

 それにつけても「正しく知ること」は重要このうえないけれど容易くもないということでしょう。会津が中国大陸で落命した3か月後、家族が住んでいた広島に原爆が投下されました。家は跡形もなくなりましたが、幸いにも嫁いでいた会津の姉と妹、出征中の弟、宮島にいた弟は難をのがれ、妻と娘も無事でした。その娘を母として戦後かなりたって生まれたのが清水久子さんです(清水さんは私の子どもくらいに当たる世代だと思われます)。

 彼女はこの本を文献調査によって書き上げました。事情を知る人への聞き取り(取材)を行わなかったのはコロナの影響にくわえて時間的な制約があったと明かしています。調査手法の両輪のうち片方が抜けているという見方もありえますが私はそう思いません。人間の脳の分泌物という点で両者は同じだし、文献は写真のように当時の姿を固定して提示します。話が飛びすぎるけれど、イエスの存在も福音書を始めとする「文書調査」の結果として人類の財産となりました。

 この本の最後で著者が広島を訪れます。一族の家はとうになく、あたりの景色も80年分の変化をとげています。中国で無念のうちに亡くなった会津のたましいはどこへ帰ってくるのだろう。大学入学以降、作家、出版社主として過ごした東京にいまはよるべがない。広島に帰ってきても迷子になってしまうのではないかと孫は懸念します。そして平和公園に移植され青々と繁っているアオギリを見て、おじいちゃんが帰って来るならここだと直感しました。アオギリには梧桐(ごとう)という名前もあります。

 この本を教えてくれたのは畏友早田リツ子さんで、彼女もまた近代史の中から大津の出版社を「発掘」しました。その記録である『第一藝文社をさがして』(早田リツ子・夏葉社・2021年)は前に書きました(記事170・第一藝文化社のこと)。清水さんも早田さんも腕利きの探偵です。1冊の本のうらに膨大な作業が潜んでいるでしょう。

 ところで「ネコオドル」は清水さんの営む書店の名前でもあります。ネコオドリでもオドルネコでもなく、主語プラス動詞であるところに私は面白みを感じています。郵送いただいた本にそえられたカードには頭に本をのせて踊るネコのイラストがありました。清水さんは同名のブログも書いています。

 最後に私と会津隆吉のエニシを書きます。会津が通学した広島第一中学校は現在の国泰寺高校で、アヅマは一年生までここに在籍、二年生のときに大津に引っ越してきて私の高校の同級生となりました。それが私の人生を左右したこともすでに書きました。会津が進学した広島県高等学校は現在の広島大学で、私の親しい友人はここの卒業です。このエニシは漱石との縁よりまだ薄いかも知れませんけれど。

 もう一つ、『介護民俗学へようこそ』(六車由美・新潮社)について。グループホームでの「聞き書き」を通して介護の現場が見違えるほど変わった(利用者もスタッフも)という話ですが、高齢女性二人が「女学生のころ風船爆弾を作った」という思い出を語ったそうです。昭和19年に作られた秘密工場は千葉、茨城、福島にあり、私の祖父は三か所を統括する立場でしたから、いずれにせよその女性らにきつい作業を強いた総責任者であったわけです。

 こうした経緯を記した本もありますが(『風船爆弾』鈴木俊平)、いま読み返してみると清水久子さんのような克明な調査にもとづく記録とは隔たりのある物語だと感じられます。私もまたわずか2世代まえの先祖について深く知らない人間の一人です。人は記憶のなかに生き続けます。会津隆吉こと石原直温氏は、なかなか孝行者のできた孫娘であることよと喜んでいるでしょう。いっぽう孫娘は孫娘でまみえることのなかった祖父への情愛を抱いており、それがこの本に温かみを添えています。





 



 

 

 

 

 





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