2025/12/20

298)「他力の自由」

 タイトルをご覧になって「また生かじりの仏教談義だな」と思われた方は正解です。前回記事で生命に軽重はあるのか?という問いをたて「悉有仏性」に答えを求めました。しかしO君は「なんでカメムシに仏性があるんや俺には分からん」と言うし、私も実のところサッパリなのですが不明のままもう少し続けます(奈良の女はしばらく泳がせておきます)。

 「他力の自由  ~   浄土門仏教論集成」(柳 宗悦著・書肆心水)という本があります。今回はこれに寄りかかって書きます。いつもの「他人のふんどし」ですが、これと「他力本願」とは別物であるとこの本は教えてくれます。「他力」とは何か、「自力」とは何か、 キリスト教と仏教の違い、 浄土真宗の本来的な信者である「妙好人(みょうこうじん)」などについて著者は平易に縦横に語ります。言葉の達人です。

 柳 宗悦(やなぎ むねよし)は大正、昭和期に活躍した思想家・美術評論家で日常の生活雑器(無名の職人がつくった茶碗、皿、鉢、織物等々)が有する美に光をあて、「民藝運動」を主導した人として有名です(近江の信楽焼も高く評価してくれました)。鈴木大拙を師とあおぎ、バーナード・リーチを生涯の友とし、武者小路実篤や志賀直哉とともに「白樺」をおこすなど幅広く活躍しました。

 さて後知恵で偉そうに言うと日本はよく「かぶれる」国であり、長きにわたり「中国かぶれ」、明治に入って「西洋かぶれ」、敗戦後は「米国かぶれ」しました。明治22年に生まれ文明開化の空気を胸いっぱい吸って育った柳宗悦もまた、東洋的文化の否定から始まって西洋の宗教、哲学、文芸に傾倒し、とくに「将来日本を救うものはキリスト教だ」と考えて神学研究に打ち込みました。

 ついで彼はプロテスタント、カトリック、神秘思想へとさかのぼって14世紀のエックハルト神学の「無」や「空(くう)」の観念に出会い、それだったらとうの昔、「老子が無為を云々し、仏説が空を随処に説いているではないか」と思い至って大きく東洋に回帰します。彼の仏教論が素人にも取っつきやすいのは、思念がいったん西洋のフィルターで濾されているためであろうと私は思います。

 インドで生まれ中国で育った仏教は、大衆の救済をめざす「大乗仏教」と個人の悟りをめざす「上座部仏教」にわかれ、日本には前者が入ってきたと歴史の授業で習いました。受け入れてひと花咲かせるのがジャパンスタイルですから仏教は本家よりむしろ隆盛をみて多くの流派を生み、それらが自力宗(禅宗、天台、真言等)と他力宗(浄土宗、浄土真宗等)に大別されるのはご存知のとおりです。

 柳宗悦は次のように書いています。
 ~  禅門をくぐるのと浄土門をくぐるのとは東と西に分かれるように言われているが、至りつくすところは同じなのではないか。自力・他力、難行・易行、聖道・浄土とはっきり分けはするが、それは道すじの違いと言うまでで、いずれも頂きを目ざせば一処に会うのだと思われてならぬ。それゆえこの二つの道は一直線を右と左に分かれて進むのではなく、円の上を一つは右に、一つは左に歩いて行くに過ぎまい。ただ道筋が異なるから、おのずから現れる風景も異なる。~

 修行や善行を積んで迷いを去り悟りをひらく「自力の道」、阿弥陀如来の本願(誓い)によって救われる「他力の道」、二つはつまるところ同じだと述べながら、しかし柳宗悦は「他力の自由」という書名から推測されるように他力の思想、とりわけ法然、親鸞、一遍とつながる浄土門の教えに大きな意義を見いだし、それを尊重していることが明らかです。

 浄土系仏教(とくに浄土真宗)の中心におわしますのは阿弥陀如来であり、親鸞は「他力というは如来の本願なり」と言い切りました。蛇足ながら本願は「生きとし生けるものを残らず救い浄土に生まれさせよう」という阿弥陀如来の誓いです。これはなかなか有難い教えであると近ごろ私は思うのです。柳宗悦は、絶対的救済者である阿弥陀如来とイエス・キリストを比較して論じています。すこし長いけれど引用します。

 ~ 浄土三派はいずれも他力の教えを説くが、そのある面はキリスト教と著しく近似する。すべてをイエス・キリストに委ねることによって救いを見いだすのは全くの他力道といえる。イエスを阿弥陀如来に置きかえたら浄土宗があるともいえる。ただ仏法においては他力の考え方が絶対的なのである。あらゆる二元的立場を断ち切ってあるのである。

 キリスト教においては「神は愛なり」というが、同時に厳しい審判者として考えられる。審判者とは善悪をはっきりさせる分別者である。彼の審判によって正しきものは救われ、正しからざる者は地獄へ堕ちる。つまり正邪の二つが明瞭に区別されているのが審判である。これを仏教から思うなら、再び二元の考えに執着する考えと言わざるを得ない。

 浄土系の仏法における慈悲の阿弥陀は決して審判者を意味しない。彼の心に善悪、上下の別はない。善も容れ悪をも容れるのが弥陀である。だからそれは「凡夫成仏」の教えにまで徹する。罪から逃れえぬ凡夫を地獄に捨てるのが弥陀ではない。彼の慈悲は、凡夫に善人の資格を要求しない。そんな資格がないのが凡夫ではないか。その凡夫をどうあっても助けようと請願を立てたのが弥陀なのである。否、誓願そのものが弥陀なのである。

 「求めよ、さらば与えられん」などというのは弥陀の声ではない。求めぬ前に救いが十二分に用意してあるのである。求めるから与えられるのではなく、与えられるので求めると言った方が正しい。ここが絶対他力の所以である。ここまで考え及ぶとキリスト教は新しく多くのものを真宗などから汲み取ることができよう。なぜならキリスト教でまだ充分説かれていない他力の教えがここで十二分に説かれているからである。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人においてをや」という考えはそのよい例ではないか。

 日本の浄土系の三宗はもっと世界のためにその宗義を宣揚してよい。あの数々の妙好人の言行などは是非とも西洋に伝えたい。それは宗教の最も新鮮なる課題となるに違いない。十分に世界的意義をもつものなのである。~(引用おわり。二、三の表記を変えました)

 これは1955年(サンフランシスコ条約の3年後)に発表されたもので、明治期とちがった形で日本が国際復帰する時代に書かれました。いま仏教界には柳の声援に応えられる元気はないでしょう。この意見にクリスチャンから反論が出るでしょうが、私には分かりやすく感じられます。ちなみに柳宗悦は、浄土門の僧侶は親鸞の「非僧非俗」の生き方に倣うべきだ、本来は寺院すらいらない、真宗の最高指導者である門主(門首)はその地位を捨てよと言っています。ラディカルな人です。

 しかしながら、と私は思います。イエスは歩き、話し、ワインを飲み、弟子に裏切られ、主よなぜ私を見捨てられたかと問うた人であり血の通った人間です。私はクリスチャンである友人Nさんから「愛神」の言葉を聞きました。人を愛するように神を愛する、そんな存在が神でありイエスであるという意味でしょう(いまイエスの復活は横に置きます)。一方、阿弥陀如来は人ではありません。無量寿経に書かれた「無限の光と命をもち念仏を称える衆生を極楽浄土へ導く仏」です。イエスよりもっと遠い存在かも知れません。

 柳宗悦が好んで論じる「妙好人」もまた仏典に由来する「プンダリカ」の訳語で、泥から生まれて美しい花を開く「白い蓮華」を意味し、世俗にあって浄い心をもつ信心者のことであるとか。江戸末期に「妙好人伝」、明治初期に「新妙好人伝」、昭和になり鈴木大拙の「妙好人」が出されており、柳宗悦はこれらに描かれている妙好人の姿を、大衆のなかに埋もれ、絶対他力の信仰に生きて真宗を底辺から支えた存在であると見なして著作のあちこちで論じています。

 柳が紹介している妙好人の言動をいくつか引用します。
 まず浅原才一の歌。「わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる、なむあみだ仏。わたしゃあなたに眼の玉もろて、あなた見る玉、なむあみだ仏」。

 信女だれそれの挿話。~  女どうしでおしゃべりしていたら通りかかったお坊さんから呑気に暮らしていると明日にも無情の風が吹いて命を落とすかもしれん、備えはよいか、と諭されたので「親様が私を見過ごすじゃろうか」と反問し、お坊さんはいたく感銘をうけた。~

 畑泥棒に出くわした誰それの話。~  自分の畑に馬を引き入れて豆を食べさせていた盗人に、そこの豆は日焼けしておる、もっと奥のほうのよい豆を食わしてやんなされ、と声をかけたところ盗人は恥じてこそこそ立ち去った。~

 相撲見物にいって袋叩きにされた誰それの話。~  取組中に力士が負傷したため汚れた人間がいるためだということになり、貧しい身なりであった誰それが罪を着せられなぐる蹴るの乱暴をうけた。ほうほうのていで帰宅したが「わしが罪深いゆえなぐってもろうた、少しは償いができたかも知れん、ありがたいことじゃ」と妻に話して二人で喜び合った。~

 「それはマゾやんけ」とO君なら言いそうですが、柳宗悦はこうした妙好人の話を丹念にひろっており、日常雑器に美を見いだした人ならではの慈しむような視線を感じさせます。妙好人に共通するのは阿弥陀如来に寄せる無条件の信頼(母の胸に抱かれる乳児のような)です。それは自分の無力さ、卑小さに対する自覚(頭による)と実感(心による)と裏腹のものでしょう。ここで私はまたキリスト教の「愛神」の言葉を思い出します。頭がとっちらかってしまいました。

 まとめらしいことは書けませんが、「他力の自由」という考え方に私は惹かれるところがあります。「弱い者の自己肯定に過ぎない」とか「ラクな生き方だ」等とは思えません。また仏教で「凡人」でなく「凡夫」というのは「Human」を「Man」というのと同じで、漢訳もしくは和訳が行われた時代の一般的感覚であったのでしょう。聖典は人の手によって編まれますから時代が刻印されているようです。

 < 追 記 >
 友人I君(真宗僧侶)が感想をくれました。次のような要旨です。
 ~ 妙好人は真宗の僧侶や門徒の憧憬的存在である。一方で妙好人レベルの「信」を持ちえないことに苦しむ信者を生み出した。また、妙好人によく見られる回心体験や神秘体験をしないと「信」を頂くことができないという誤解を招く可能性も有している。私(I君)も妙好人さんが好きだけれど、ただ念仏を称える(称名念仏)という所に立っていないと危ないと思うことがある。~




 
 


 


妙好人にとっては阿弥陀如来はきわめて近い存在で



あって、柳宗悦は大衆のなかに現れては消えた信者たちとして「妙好人」について慈しむような筆致で描いています。

 




 

 

 


 

 




0 件のコメント :

コメントを投稿

1月9日をもってコメント受付をすべて終了しました。貴重なご意見をお寄せ下さったことに心からお礼申し上げます。皆さまどうも有難うございました!なお下の(注)はシステム上の表示であり例外はございません。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。