現代の極悪人はさしあたり米国大統領やイスラエル首相ですが、親鸞の悪人正機説によればこんな人物ほど極楽浄土に近いのです。浄土からこの世をご覧になる阿弥陀如来は、ウズウズして救いの手を長く差しのべられるのではないか?そうなると先方の唯一神も黙っているわけにいきません。「Hey you, this is my kingdom(おいここはわしのシマだぜ)」。阿弥陀さまが「知ったことか(Non of your business )」と言い返したら危険です。(実際にはサンスクリット語とヘブライ語の応酬のはず。なお私見ながらこうした際の調停は千手観音に依頼するのがよいでしょう)。
またぞろ宗教談義ですがあと一回おつきあいください。信仰でなく理屈としての「救済」について、私のうす暗い頭の中を整理しておきたいのです。かつて無関心であったキリスト教や仏教が今は少し近しく思われ、聖書や経典を後回しにして関連本を読みかけるとなかなか面白いという事情が背景にあります。長年の友人らもそうした年頃(?)なのか、柳宗義の浄土門論集「他力の自由」を論じた前回記事に何人かがメールで感想をくれました。およそ以下の通りです(引用が多いけれど人の言葉も借りたいと私はしばしば思います)。
T君の感想。
~ 宗教は救いを求め苦しんでいる人にこそ必要だと考え ると、 知識の乏しいあるいは苦しみ痛みで疲弊しきった精神にとって絶対 的な他力こそ合目的的だろう。 一方で信仰にいたらない無垢蒙昧無知混乱の人にと っては他力はあまりに藪から棒ではないか。 宗教は、 将来どこかで過酷な苦しみや悲しみに出会った際のセーフティー ネットとしての「宗教的感性」や、社会人としての「日常的な素養」を育むものとして、 原初的アニミズムより少し洗練された一種の宗教教育を幼い頃から 施すことは、個人の幸福に一定寄与するように思う。
T君はいつも静かに語りますが、お医者様ゆえ生死について思い、考えてきた彼と話すことは私の助けとなります。I君の意見(妙好人は好きだがあくまで念仏を称えることを大切にしたいという考え)に対するT君の見解にも賛同します。
ビワマスの神・O君はラインをくれ「うちは浄土宗だが、前回記事を読んでこれが他力の教えであると初めて知った。人生において自力で理解や克服できないことは幾らもある(生まれた理由、生きる意味、心に生じる際限ない欲望等々)。自分自身は『他力の人間』だと思う。信心深いおばあちゃんに育てられたお蔭もあると今になって感じる。」(原文は関西弁の話し言葉)。実は私も同じで、つい最近まで法然、親鸞の人物像や思想を知りませんでした。ここへ来て僧侶I君の株が急騰しています。
「トランプは成仏できるか」と聞くとI君は「できない」と言下に否定しました。阿弥陀如来の救済はすべての人に及ぶが、阿弥陀が誓願を立てた時に「わが名を呼べ」と言われたとおり南無阿弥陀仏という念仏を称えることが大切である、と彼は言います。それはそうだ、それが真宗の教えの第一歩であったと私も思うのですが、柳宗悦があまりに「他力の絶対性」を強調するものだから、ひょっとしてと思ったのです。
ではトランプ氏が「NAMUAMIDABUTSU」と称えたら成仏できるのか、日本人であっても個人的な事情で念仏を称えることのできない人は成仏できないのか、そもそも念仏は声に出す必要があるのか、心で称えるだけでは不十分か。私が小学生のような質問をするとI君は次のように諭してくれました。
「信心は心の問題であり声に出して称える必要はないと考えるのももっともである。教義の解釈は形而上的なものから実践的なものまで変遷もあるようだ。しかしあくまで声にだして称えるというのが親鸞の教えである。僕(I君)が師と仰いでいる人が、ダウン症のお子さんをもつ母親から『念仏を称えられないこの子は極楽へ行けるのですか』と問われて絶句した。その人が後で思うには『お子さんが極楽へ行けないような真宗ならば私は僧侶をやめます』と答えるべきであった、と語ったことを思い出す。また真宗には耳で聞くだけの念仏『聞法(もんぼう)』という言葉もある。」
私はI君の話を聞いて、教義(イデア)とその伝達者である僧侶(人間)の間にある距離を思わずにいられませんでした。距離があってはいけないという意味ではありません。親鸞や法然はそのワンランク上の伝達者であったわけですが、同じようなことを自分に問うた可能性もあるでしょう。
一方で「トランプは救われる」という立場の人もいます。五木寛之は、2015年に行った新潮講座「人間・親鸞をめぐる雑話」において「イスラム国の名で悪行をはたらく者も救われるか」という会場からの質問に「救われる」と答えました。そして、「親鸞の基本的な論理に従えば救われることになる。ただ親鸞の言葉を一言一句つきつめてそれを証明することは無理だろう。親鸞もブッダもキリストもその場と状況のなかで違うことや矛盾したことを言っている。親鸞一人をみても比叡山に入るまえ、山をおりてから、流刑の地にあったとき、京都にもどって和讃を書いた時などで発言は変遷している。彼の思想を固定化してとらえないほうがよい」と続けました。親鸞が悪人正機説にふれ「薬あればとて毒を好むべからず」と言ったことも紹介しました。
上記は「はじめての親鸞」(五木寛之・新潮新書)から引きました。この人の親鸞論や親鸞の大河小説を想像の産物にすぎないと見る人もいるでしょうが、学者も結局は文献研究により親鸞にせまるしかありません。また五木氏は研究者とも交流しながら自説を確かめており、一流の専門家であると私は思います。なにより語り口と文章がよいのです。この本で著者は、法然、親鸞が生きた12~13世紀が、天災、大火、内乱、犯罪、疫病などにあいついで襲われる苦難の時代であったと指摘しています。
仁和寺の僧が行き倒れの人の額に供養の梵字「阿」を書いて回ったら左京だけで42,300を数えたという「方丈記」の記述を引き、当時の庶民にとって生きるも地獄であったが、来世でも地獄の責め苦にあうのかというおそれが極めてリアルであったと五木寛之は言います。従来の教えは善行(寄進)、修行、戒律(殺生、盗、色欲などの禁)に反する者は地獄行きで、中でも殺生は武士から商人まで避けて通れませんから全員アウトです。
当時の仏教界は怨霊払いをするだけでなく、税金や年貢の滞納者を呪詛する「公務」も担っていたため、念仏を称えるだけで極楽に往生できると言われたら立つ瀬がありません。朝廷にとっても同じで、ゆえに法然、親鸞、弟子たちは体制の破壊者と見なされました。法然、親鸞の教えが屠畜を業とした「非人」を含むのは当然であったろうし、文字の読めない多数の庶民が往生のために今なすべきこととして「念仏を称えなさい」という取り組み可能な行為を示したことも理解できます。ちなみに五木寛之は、親鸞が「愚禿」と自称したことは髻(もとどり)を許されなかった非人の「かむろ頭」にわが身をなぞらえたのだろうと推測しています。
本の記述と私の感想がごっちゃになりましたが、いまの私たちの感覚で測り知れない重みを専称念仏はもっていたわけであって、それに思いを寄せると親鸞の教えに半歩近づくかも知れません。しかし形があると却って心が離れるのが人の常で、「口先念仏」になってはダメだろうと私などは思いますが、いや称えるだけでよい、本来は1回でよいがくり返してもよいというのが真宗の教義なのだそうです。
「ちょっと待て、称えるだけだと安易に考えてはならない」と知の巨人・鈴木大拙は言います。彼は「自力門」の禅をおさめ、フロム、ユング、ハイデッガー、ヤスパース、トインビー(すごい名前)等と交流し影響を与えたことでも知られますが、この人が1958年、ニューヨークのアメリカン・ブッディスト・アカデミーで行った講義録「真宗入門」(佐藤平訳・1983年・春秋社)を読みました。アメリカ人向けに英語で行った講義を舞台袖で聞いていた弟子が和訳したもので、分かりやすいだろうと思ったら違いました。
自力の鈴木大拙が他力の真宗を論じるのは畑違いの気もしますが、いずれも仏教の話であって彼がもっと大きな所を見ているのは当然の話です。この本の「自力と他力」という章から抜き書きします。
~ 他力は神学でいうシナージズム(神人協働説)と反対のモナージズム(精霊単働説)であって、アミダが唯一の重要な働く力である。我々はアミダの働きに自分自身のものは何もつけ加えない。我々は重々しく業障の罪を担わされており生死の河をわたる力が全くないが、アミダは彼岸から来て、我々を力強い誓いの船にのせ、つまりその本願によって運んでくれる。これが真宗の一般的な所説である。
しかし別な観点からすれば、どれほど愚かであっても、いかに無能無力であっても、彼岸にいたるための努力をすべて尽くさなければ、我々は決してアミダの手にすがりはしないだろう。また我々はその他力が自分自身の内に働いていることを自覚しなければならない。もしアミダの働きを自覚するのでなければ、我々は決して救われないだろう。その自覚を得るために我々はすべての努力を尽くさなければならない。~
鈴木大拙の他力はハードルが高いのです。彼は別の個所で「自己存在の相対性」、「無意味の意味」、「自然法爾(じねんほうに)」などについても述べていますが、哲学的であり禅問答を聞くようです。これらをそのまま親鸞の教えと受け取ってよいかどうか私に分かりませんが、大拙先生は難解な「教行信証」の英訳を行い、一方で「妙好人」の中に親鸞そのものを見いだした人でもありますから間違いはないでしょう。
歩くほどに霧が深まるけれど先哲や友人の助力で森の中を数メートル移動しました。「大津通信」は読者にコメントをいただく形式で始まり、一時は「大津市政の広場」が立ち上がった気がしますが、メインテーマが変わって一方通行のスタイルになりました。本当は常設の場で読者のご意見を伺いたいけれどこちらの力量が伴いません。私の連絡先をご存知の方が多いでしょうから、時おりメールかラインでご叱声を頂きたいと思います。
政府メンバーが核武装必要論を唱えました。木原官房長官は「非核三原則は変わらない」と言うけれど本音は別でしょう。私は有効性、合理性、持続可能性、正当性、正義などの面から核武装に200パーセント反対ですが、この際あらためて国会で事実をふまえた議論を行ってはどうでしょう。改憲、安保、国債、原発、政治とカネについてもそうです。はぐらかす政府、逃す野党、傍観するマスコミともいけません。SNSで言葉を投げ散らす国民が思わず粛然とするような議論を国会でやってもらいたいと願います。
今年の投稿は最後です。皆さまのご健勝をお祈り申し上げます。
柳宗悦による浄土門論集「他力の自由」をコピペして前回記事を書いた私は、まだその影響下にあって、だれでも救われる、むしろ悪人の方が
悪人でも往生できるならトランプはどうだろうと
。阿弥陀如来が生きとし生けるものを救うといっ

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