2024/05/27

234)光る君へ

 私が通っていた小学校に紫色がとても好きな先生がおられました。年がら年じゅうカーディガンやスカートなど身につける何かが紫色。いつしか生徒の間で「むらさきばばあ」と呼ばれるようになりました。私がこれを面白がって祖母に話したところ「ユーモアがないね、あんた方は。どうせなら紫式部とおっしゃい」と一蹴されました。紫式部が百人一首のお姫様の一人であること位は私も知っていました。それから60年、古典の知識はさっぱり深まりませんが昨今の「紫式部ブーム」を大津応援団の一人として喜びつつこれを書きます。

 ちなみに祖母はさばけた面白い人で、戦地におもむく祖父(すなわち夫)から「子どもたちをくれぐれもよろしく頼むぞ」と言われ、「任せてください、増やしはしても減らしはしません」と答えて一族の語り草になっていました。子や孫や知人に喋りかけるような口調で多くの手紙も書きました(便箋に跳びはねていた青いペン字)。職業軍人であった祖父は帰国後に風船爆弾部隊の指揮をとり、自分の戒名は「丸風(マルフ)渡洋米爆居士」にすると宣言しました(風船爆弾はフ号作戦あるいはマルフと呼ばれた)。祖父母とも長寿でしたが、祖父の遺言は後に残った祖母に一蹴されました。
 
 いま大津はじめ宇治や越前などが恩恵をこうむっている「NHK大河ドラマ」の感想を少し書きます(悪口になってしまうけれど)。今回はじめて「光る君へ」(20話)を見て紫式部が「まひろ」という名であることに少しがっかりしました。なんだ勝手な名前をつけて、という気分ですが、これほどの尋常ならざる人といえども当時の多くの女性の例にもれず名前が分からず、また最初から「紫式部」あった訳ではないのでこの命名は致し方ありません。違和感は他にもあってセリフがどうも不自然に感じました。

 時代劇は、描こうとする時代と人物を「どれくらい程よく現代によみがえらせるか」のさじ加減が重要です。「光る君へ」の脚本家も、当時の人が話したであろう言葉の再現と今それを聞く私たちの受容度とのバランスに留意したはずですがこれがイマイチ。宮中などで人々が話す表向きの言葉は「中途半端な平安時代風」であり、家族友人と交わす内輪の会話は「平安と令和のちゃんぽん」です。この落差が意図されたものとはいえ、特に後者の場面におけるセリフが嘘くさくて私には興ざめでした。

 またズームアップした顔が意味ありげに大きく頷いたり、一呼吸おいて高笑いするといったお決まりの演出や余計なナレーションが付されていたのはいかにもNHK的でした。「愚かな大衆に娯楽を与えつつ、一方であまり先鋭的な感覚は養わないよう加減し、統治者が好ましいと感じる温和な集団に導いていく」ことがNHKの秘められたミッションです(前も書きました)。それはニュース報道からさえ感じられますが、その他の番組(娯楽、教養、ドキュメンタリー、天気予報など一切)において一層明らかです。

 しかし多くの視聴者は「もし仮にそうであったとしても、楽しむに足りるところだけ楽しめばよい」との合理的かつ寛容な姿勢でNHKをご覧のことと思いますし、そのお蔭で石山寺界隈が賑わい大津への関心が高まっているのだから私も小うるさい文句を控えるべきでしょう。ドラマの次あたりは花火大会のメイン会場である打出浜が登場するかも知れません。 996年(長徳2)、紫式部は越前守に任ぜられた父・藤原為時に従って越前の武生に移りますが、往路は平安京の端、粟田口から逢坂山を越えゆるい坂道を下って「打ち出でた浜」から船に乗り塩津まで湖上を進みました。都人の一行は青く広大な水面に感嘆したに違いありません。

 なお打出浜からの水運は石山寺の観音参りにも利用されました。京都から半日以上かけて陸路(徒歩、駕籠、牛車)で来た身には船が有難かったことでしょう。藤原道綱の母は願掛けのため夜明け前に徒歩で家を出発、山科で夜が明け、走井で弁当を食べ、打出浜でぐったりしたと書いています(蜻蛉日記)。他に有名どころは宇多法皇、円融上皇、菅原孝標の娘(更級日記)、藤原詮子(一条天皇母)などの石山詣で記録があります。私の手作りカヌーの経験に照らすと船をこぐ人には打出浜から石山寺(下り)が楽で、逆コースはきつかったと思います。琵琶湖はゆっくり流れています。

 もとに戻って、紫式部はかねて文を寄こしていた藤原宣孝(複数の妻子ある20才も年上の遠縁の男性)と結婚するため父より先に帰京する途上、琵琶湖上から伊吹山を遠望して「越前住まいで白山を見慣れた目には伊吹山などしょぼいものよ」と詠みました。~ 名に高き 越の白山 ゆき慣れて 伊吹の岳を なにとこそ見ね ~ 滋賀県人としては何もそこまで言わなくても、、と思ってしまいますけれど。

 ところで平安中期は藤原不比等に始まる摂関政治の全盛期でしたから、宮廷も京の都も地方機関も要職は藤原一族が独占していました。紫式部も藤原氏の一人で数代前にさかのぼると夫の宣孝、パトロンであった道長らと共通の祖先・藤原冬嗣にたどり着きます。もっと近い親族結婚も一般的であったらしく(天皇家のように)、何か不都合が生じなかったか気になりますが、「通い婚」から「婿取婚」になっても一夫多妻の基本形は長く続いたでしょうからDNA方面の問題は比較的少なかったかも知れません。

 ついでながら天皇をしのぐ権力を誇った藤原氏も、その後に台頭した平氏源氏の武家勢力、さらに下って信長、秀吉、家康に至るまで武力で天下をとった者は自ら天皇にとって代わろうとせず、天皇を温存してその権威を利用する道を選びました。この統治の工夫は興味深いけれど、結果としてこの国は2つのヘソを持つ時代が長く続き、今も国民と象徴、民主と非民主、現代と前近代が「併存」しています。一方で仏教と神道、和魂と漢才、和魂と洋才という二重基準がありました。こうしたいかにも日本的な「伝統」を良しと見る人が多いのですが、私は全面的には賛成できません。

 また、天皇の権威の源泉は血統、なかんずく男系男子によって受け継がれることになっているけれど「その方面の環境」が様変わりした現代は後継者確保の困難さが増しています。今まさに皇位継承問題が論議されていますが、日本は平安時代(さらには奈良時代)から変わらない生物学的命題を今後もずっと引きずっていくのだろうかという疑問が頭をもたげます。これは憲法、民主主義、天皇自身の「人権」などとも関わる重要問題ですからいずれ改めて書きたいと思います。

 さて紫式部の結婚生活は夫の病死により短期間で終了し、それが源氏物語起筆の一つの動機となったようです。彼女は幼時に生母を亡くし、父が他の女性たちのもとに通って異母兄弟が生まれ、父から漢籍の教育を受け、夫に先立たれ、逡巡したうえ宮中での仕事(政界と芸能界を足したような職場?)につきました。身近な存在となった右大臣道長からも女性遍歴の自慢話を聞かされたでしょう。こうした陰影に富む経験と天賦の才があいまって源氏物語の誕生につながりました(と多くの本に書かれています)。

 源氏物語誕生の文化的背景は何と言っても平仮名の創出でしょう。文字を持たなかった我らの祖先が中国渡来の漢字に接した時にはびっくり仰天したはずです。そしてこの際いっそ日本語をやめて中国語に乗り換えてしまおうと考えた人々がいたかも知れません。話し言葉は書き言葉より原初的であるという事情に反するけれど、統一された別の言語体系の中に引っ越した方が結局はラクだという判断は十分にあり得たと思うのです。しかし、有難くも「接ぎ木」の道を選んだご先祖は、万葉仮名を経て平仮名、片仮名を編み出しました。

 最初は漢字の「真名」に対し「仮名」と称され、漢字を知らない女性が私事を綴る際の補助的ツールと見なされましたが、そんな愚見は枕草子や源氏物語の登場で吹っ飛んだでしょう。実用面で考えても源氏54帖のトータル文字数は94万字を超えますから、これを万葉集のように1音ごとに漢字1個を当てはめていては書く方も読む方も大変だし、光源氏と姫たちの逢瀬の色香も褪せたはずです。仮名はまことに偉大な発明でした。アルファベット26文字の簡素さと比べて漢字かな混じりの日本語は習得が大変ながら、私たちはその豊かな恩恵を受けています。

 源氏物語には自筆の初稿本と改稿本があり、女房(女官)らによる浄書本がありましたが、これらの料紙は何千枚にも上ったと推定されています。紙は大変な貴重品でしたからこの一事からも道長の強力なバックアップがあったことが伺えます(早く続きを書くよう急かしまでしたとか)。浄書本から数多くの書写本が作られ皆が争って読んだといいますが、平安期の写本は現存せず、鎌倉時代に藤原定家らにより校訂された青表紙本、河内本などにより稀有の物語が生きのびました。

 ところで私はこの書写という行為に心をひかれます。その書物を我が物としたい、人にも伝えたいと願って一文字ずつ忠実に書き写していく行為は人間の根源的な欲求を感じさせます。印刷術の発明はそれを最大限に満たしたけれど、一方で人から手間ひまをかけ慈しむ時間を奪いました。技術の進歩により私たちは常に何かを失います。例えば今や私信としての手紙は絶滅危惧種です。いまこそ若い人が手紙を書けばよいのに(ラブレターなら尚よし!)。手紙は明後日ごろ相手に届く独白です。投函してから取り戻したくなる場合が往々あるにしても、手紙は書き手にも受け手にも時間の恵みをもたらします。

 源氏物語の英訳本は英国のアーサー・ウェイリーにより1923年~33年に刊行され、見事な訳文が伝える不思議の国の王朝の恋物語に西洋世界が驚嘆したそうです。時がたち米国のサイデン・ステッカーがウェイリーの仕事に賛美と疑問を呈する立場から新訳を世に問いました。これら二つの訳を読んだV・Sプリチェットが「レディ・ムラサキ」という面白い小説批評を書いています(出渕博訳、丸谷才一編著「ロンドンで本を読む」所収)。そこから一部を引用します。

 「われわれが出会うのは、儀礼、祭祀が支配し、禁忌が介入する世界である。災禍、不行跡、悲劇は人の一生の中で前世からの輪廻によって惹き起こされ、それに対しては自分で責任を負えない。紫式部は宗教的な気質ではなく、彼女にとっては、宗教とはしきたり、立ち居振る舞いをきちんと正しく守ることに他ならないし、葬儀はしかるべき格式に則ってとり行われることを好んでいる。」

 「性的な行為の描写はまったくない。肉体的な愛の喜悦は、ごく形通りにさえ呼び起こされることはなく、『千夜一夜物語』の中でうんざりするほど描かれるのとは対照的である。ここでは恋人たちは御簾ごしに会い、芸術的な技量を示すために琴を爪弾いたり、歌を交わしたりする。」

 「恋する男が室内に入ることを許されたり、侵入したりすると、召使は退き、われわれは貴婦人の衣服と髪についての詳細な描写を読ませて貰えるが、肉体についてはいささかも述べられることがない。掛け布団が引きのけられると、次にわれわれが知るのは、夜が過ぎゆき、男は朝まだき、袖を露でしとどに濡らしながら、絶え間ない靄に隠れて立ち去らなければならないということだ。」

 なるほど! 源氏物語(の一部)の簡潔、明瞭な説明です。宇治十帖にも面白い言及がありますが割愛します。この書評から考えさせられるのは、2種類の英訳本の比較から端を発して「翻訳はいかにあるべきか」という問題です。詩人でもあったウェイリーは自分が退屈だと感じた箇所はばっさり削り、好きな所を優雅で壮麗な文章にする流儀。学者のサイデンステッカーは単語レベルから原文に忠実に訳す流儀ながらその表現は簡潔で、ウェイリーの本よりページ数が少ないのだそうです。

 こうなると私は本当にシェークスピアやマークトウェインやカフカを読んだのかと心許なくなってきます。これは日本語圏内でも同じことで、「源氏」の現代語訳は与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、今泉忠義、田辺聖子、橋本治、瀬戸内寂聴などによる多種類の訳本がありますから、「原作の意味と味わいをどこまで再現した優れた読み物であるか」という成功度もマチマチのはずです。そしてごく普通の読者にはどの訳が優れているのか(紫式部がOKしてくれるのか)見当がつきません。何冊もの本を読み比べる人も少ないでしょう。

 音楽は抽象度が高いけれど似た事情があります。たまたま私が数曲を聞き比べてきたモーツァルトのレクイエムにしても指揮者と歌手とオーケストラによって大きく異なります。この場合は結局「好みの問題」に収斂されますが、はたしてそれでよいのか、もっと深く面白い世界があるのではないのかという疑問もわきます。その際に宗教の問題を無視することができません。前記の「レディ・ムラサキ」では平安時代を特色づけた観音信仰や浄土信仰にはあまり言及がありませんでした。

 さて大津市歴史博物館の企画展「紫式部と祈りの世界」の感想です。市役所の組織はどこも同じく大事ですが、中でも博物館、図書館、各支所、病院、保健所、すこやか・あんしん相談所などは私になじみ深い所です。そして歴史博物館は今がかき入れ時、市内の名刹等からお宝を拝借して連続的に充実の企画展を開いています。「祈りの世界」展では、998年(長徳4)に道長が書写した法華経とそれを収めていた金色の経筒、紫式部が仕えた中宮彰子の手になる経箱がひときわ目を引きました(どちらも国宝)。大きな紫式部の肖像画や神々しい仏像群もインパクトがありました。

 こうした古い文物を見るたびに、風雪に耐えよく残ってきたものだという驚きと、人の願いは変わらないなという感慨を覚えるのが常ですが、さらに平安貴族にとって来世がいかにリアルな存在であったかについても考えさせられました。人の世において極めた栄華が永久不変であることを求める心理が篤信の底にあったのでしょう。書写された経典はもちろん漢字ですが、道長が添えた願文(趣意書)も漢字づくしです。同じ時代に流麗な仮名文字による女性たちの表現が花開いていたことと好対照であると思いました。

 「歴博」には次回を期待申し上げます。観光部局を含めての課題ですが、歴史・文化を生かしたまちづくりは、そのことで知名度が上がり入込客が増えるとしても、最終的には市民の生活と人生における満足度・幸福度を高めることに資するべきであり、それを念頭においた取り組みが大切だと思います。「光る君へ」が一年で終了しても大津には「光ルくん」いるから大丈夫でしょう。あらためて光ルくん頑張れ!(記事206)

 もうひと言。道長はお寺を建て出家しました。紫式部の父・為時も兄弟も三井寺の僧となりました。古来、貴族や権力者が仏門に入った例は多くあります。よく知らないけれど、最澄や空海、法然や親鸞の教えに導かれてのことだったのでしょう。先日、浄土真宗の僧侶である友人から「念仏を称えれば救われる」という教義の説明を受けました。ついで若い友人から「愛神、愛隣」という言葉を聞きました。その人が通ったミッションスクールの仲間がたまさか集まると、ごく自然にお祈りがあり讃美歌が歌われるのだそうです。これらの話が私には遠いけれど何やら眩しく感じられます。 

 今回もたくさん切り捨てたのにダラダラ文となりました。人の書いたものはいくらでも突っつけるからいい加減なものです。次回は鳥の声(鳥との友情)について書きたいと今のところは思っています。





 

 

 

 

 
 

 
 

 

 

 源氏物語は今の週刊誌の連載記事

 

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