2024/07/12

240)ついてけまへん

 ある日、散歩からもどった祖父が言うには、いま堤防で「Hマンに注意しましょう」という看板を見た、Hマンとは何か? 何かの頭文字らしいが狐は「F」だし狼は「W」だし、だいたいケモノが町なかに出るはずなかろう。母が笑ってそれは痴漢のことですよと説明したけれど祖父は一向に釈然としない様子でした。小学生の私も知っていた「H」という言葉。それから60年の星霜を経て因果はめぐる糸車、いま祖父と同じ道を歩く私です。

 「ぴえん」、「がん見」、「リア充」、「バズる」、「JK」等は見当がつかず、「推し」、「盛る」、「ドン引き」、「映(ば)える」等は字面から意味を憶測するばかり、「ざっくり」、「ほぼほぼ」、「どはまり」、「エモい」、「ささる」、「ディスる」、「バズる」、「ばり」、「まじ」、「やばい」、「~なう」等はどうにも語感が軽薄・下品です。しかもこれらの新語の多くはすでに死語だとか、もうついて行けません。

 私がついていけない、すなわち「今どきの言葉」になじめないのは、まず自分の年齢のせいだと自覚しています。これはいたしかたなし。
 理由の2番目は、「今どきの言葉」が身にまとっている「時代の空気」が私にはあまり快くないという事情があります。「それこそ年寄りの証拠だ」という人もいるでしょうが、実はそうとばかり言いきれないモヤモヤ感があるのです。説明が難しいけれどおよそ次のような次第です。

 歴史をヒモトクと一つの国がずっと発展し続けることはなく、内部の覇権争いをくり返しながら全体としては爛熟、停滞、衰退し、時に蘇ったりするようです。そして日本は近代国家となって160年、いまや人口や経済の指標に明らかなように後戻りのできない停滞局面に入っています。このまま衰退すると思いませんが、かつてのような「今日より明日が良くなる」という社会的気分はとうに失われ「内向マインド」が優勢になっています。

 とくに若い人々は炭鉱のカナリアのように鋭敏ですから、この気分を先取りしているように思います。例えば複数の意識調査(国際比較)によると、日本の若者は、欧・米・韓・中の若者と比べ社会志向、職業観、自己評価、自分や国の将来像などの面で顕著にネガティブな傾向を示しています。良し悪しを別に一言でいうと日本の若い衆は内向きで自信がなくペシミスティックなのですこのことに私たち大人が深く関与していますが、しかし、若い人はたとえ根拠に乏しくても楽天的であってほしいと願います。

 さて、こうした内向社会における仲間意識とナルシズム、その反面の排他意識、現世利益願望、刹那的感覚などのメンタリティが、若者言葉やネットスラング等の新造語の誕生・流通と深く関わっている。さらにはいじめや差別などの事象につながっている。これは好ましい状況ではないだろう。私はこのように(根拠に乏しくても)考えており、それがモヤモヤ感につながっているのです。私もその社会の一員だし、一方で日本社会に美点が沢山あることは言うまでもありませんけれど。

 次に「言葉の使い方」について感じるところを書きます。
 たとえば「大丈夫」という言葉。バナナの皮ですべって尻もちをついた、後ろを歩いていた人が駆け寄って「大丈夫ですか」?と聞く。 転んだ方も照れ笑いしつつ「いやどうも、大丈夫です」と答える。あるいは「これから鬼退治に行ってきます」、「お前一人で大丈夫かえ?」、「 大丈夫です、きび団子があれば十人力!」、、、これが本来の「大丈夫」です。
 しかし今どきの人は美味しいかと尋ねられて「大丈夫です」と答えます。毒見役でもあるまいし。「差し支えありませんか」に替えて「大丈夫ですか」とも使われます。

 「なります」も珍妙です。「これが四国霊場のジオラマになります」、「次にお見せするのが井伊家の家宝になります」、「お待たせしました、コーヒーになります」という具合。「なる」という言葉は「ヤゴはトンボになります」という時に使うものと決まっています。用例はすでに古事記に見えます。イザナミの身体の「なりなりてなり合わぬ」一部分と、イザナギの身体の「なりなりてなり余れる」一部分が結合してこの国が誕生したという国産み神話です。

 「かな?」も違和感に満ちています。「みんなが弾丸登山禁止のルールを守ってくれるとありがたいかな、と思います」のように。なぜ「ありがたいです」とか「ルールを守ってほしいです」といえないかな?

 「させていただく」も too much です。「お客様が新幹線に間に合うよう急がさせていただきました」、「この映画に出演させていただいて嬉しかったかなと思わさせていただきました」。

 「よろしかったですか?」や「よろしかったでしたか?」は不思議な過去形です。「よろしいですか?」が普通だと思うのですが。

 「私の中では」も聞きづらい表現です。「その話は私の中ではちょっとおかしいんじゃないかなーと思っていてー」と使われます。「の中で」という言葉は不必要、無意味、蛇足、冗長、無駄、邪魔でしかありません。

 「なってございます」は不快なうえ文法的に誤りです。たとえば「このドアは顔・音声・指紋の3重ロックの安心安全なシステムとなってございます」のごとく。「いる・います・おります」と、「ある・あります・ございます」の2系統の使い分けは小学校で習うでしょう。国会答弁でもよく耳にする間違いです。

 「どうぞこちらへ参られてください」も時おり耳にします。「参る」は「行く」の謙譲語で
すから相手に対しては「お越しください」と言うべきところ。お坊さんがいう「おまいりください」は「詣る」の方です。

 「いまお客さまが申されましたように、、」も同じことで、「お客さまが仰いましたように、、」と言わないと私のような年配客のカスハラを誘発します。

 「視聴者の皆さまもご参加してください」と先ほどテレビが言いました。「ご」は体言の前に置く接頭語ですから「ご参加ください」と言ってほしいものです。
 当たり前のことをクドクド言うな、あまり細かいことを言うな、とのお声が聞こえそうですからこの辺でやめます。

 これらの言い方には共通して表現の「間接化・婉曲化の意図」が感じられます。それは残念ながら礼節や洗練への志向ではなく、多数の人々の自衛意識の現れ、すなわち今の世の中は怖いという警戒感を示すものであろうと思います。その背景に前回記事(カスハラクレーマー)のような事象があり、またSNSがいつでも危険地帯に変わりうる現状があります。こうしたわけで時代の気分と深く結びついている「今どきの言葉」に私はよけいについて行けないのです。

 まるで自分一人が正しいように書いたけれど勿論そんな気はありません。折ふしに感じることどもを分かち合う無上の人がいないゆえ自然と溜まった小さな不満を連ねた次第です。今後は、海外からの移住者の増加が日常語の平板化をもたらすかも知れず、生成AIが従来とまったく異質の表現を普及させる可能性もあります。総じて言葉の変化は早まるでしょう。

 若者に楽天的になってほしいと書いた私ですが、こと言葉に関する限りあまり明るい未来を想像できないのです(文学ではなく言葉について語っています)。そして60年前、Hマンに首をかしげた祖父はおそらく一抹の寂寥を感じていたのであろう、いま私はそのように思います。

 <最後に都知事選の感想をひとこと>

 蓮舫氏は、候補者の中で一番よいと思っていたのに3位どまりで残念です。ささいな話ですが同氏が演説で若い人々のことを「若い子たち」とか「この子たち」と呼んだことが気になりました。これは親愛の情ではなく優越意識の表れでしょう。しかしそれでも、蓮舫氏には政治状況を変えるため今後も力を発揮してほしいと思います。

 小池氏(さらに自信と自己愛にあふれた人)は、現職の強みを存分に発揮しました。実績が一定の評価を得ましたが、そもそも行政は税金の再配分ですから住民に利益を供与して当然(積極的な不利益を与えることが不可能)だという基本的性格があります。この面から見て都民の目は少し寛大すぎると感じました。

 石丸氏(これまた自己陶酔の人)は、断片的な演説だけで無党派の若者を引きつけました。同氏の唯一の武器であるSNSは「劣情の培養装置」でもあるという負の側面をもっています(劣情とは文字の通りで性的なものばかりを意味しません)。今や「注目が力」の世の中です。石丸氏ばかりでなく都知事選全体がその様相を呈しました。まじやばい!

 若者が痛感しているのはここ10年から20年ほどの日本の政治の不毛でしょう。既成政党は信頼できないと思って当然だし、まったく豊かさを実感できない社会です。石丸氏はその不満をうまく掬いました。彼が今後どうするか私の知ったことではないけれど、165万票を得た者として、自己の政治思想について社会にむけきちんと語る責務があります。
 また野党には自民との対立軸だけに依らない自己改革が求められているし、海の向こうのバイデン氏は若手に道を譲るべきだと思います。

 暑さや雨で桐生に行かない日が増えてブログ更新がはかどりました。そろそろ息切れで月2ペースに戻しますが、時おり覗いて頂けたら幸いです。時節柄どなた様もご自愛くださいますよう。







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