2025/02/21

266)金時鐘講演会(続き)

 金時鐘講演会「済州四・三事件犠牲者慰霊祭に思うこと」の続きですが、これがメインディッシュです。2月8日の東成区民センター6階ホール。大きな拍手に迎えられて登場した詩人は、客席に向かってずらりと並んだ若者の中央に着座し、一呼吸おいて静かに話し始めました。まず取り上げたのは時鐘さんが毎朝聞くというラジオ番組。1月14日の放送によると「66年前の今日」は南極犬タロ・ジロの生存が確認された日であったそうです。

 若い人はご存じないでしょう。かつて日本の南極観測隊は、犬ぞりに使役していたカラフト犬15頭を昭和基地に残したまま帰国したのです。カラフト犬は暑さに弱いので赤道を越えるには専用の冷蔵庫がいる、船にはそのスペースがない、氷が海面をおおう前に出航するには犬を安楽死させる時間がないといった理由があったようです(すべて予見可能なはずですが)。

 15頭は野犬化を防ぐために鎖でつながれ極寒のなか当分の餌と共に放置されました。一年が過ぎ昭和基地に戻った部隊が生き残っていたタロとジロを発見します。それが1959年1月14日のこと。そばに7頭の死体があり、首輪だけ残る6頭は脱出したのか仲間に喰われたのか不明のままです(時鐘さんは「共食いだった」と見ています)。衰弱していたタロとジロは隊員に「お手」をし、新聞は「かしこい犬」と書きたてました。この奇跡の生存劇に日本中が感動にわき、さなかにいた時鐘さんは「息が詰まった」と語りました。

 いともやすやすと感動になだれをうつ日本人よ、それでよいのか、犬を死地に追いこんだのはそもそも誰であったか。カラフトから極地に連れていかれ、重いそりを曳き、主人とあおぐ隊員に去られ、わけの分からぬまま鎖につながれ放置された『物を言わない』犬たちの『あがき』や『もがき』にどうして日本の人たちの思いは及ばないのか。自分の生理が反発するものをなぜ置き去りにするのか、と時鐘さんは言います。
 
 以下は私見ですが、時鐘さんが問う「日本あげての感動」は想像力の乏しさに由来し、「きずな」や「ふれあい」を留保なく受け入れる私たちの心性と地続きです。さらに言えば多数になびく個のありよう、弱い者に強く、強いものに弱い卑小な根性、よく考えずに賛同する軽薄さ等々。これらは私自身から敷衍した「日本人らしさ」です。もちろん私は日本人代表ではないし国民を一括りにもできません。しかしこのような「日本人らしさ」が存在しており、時鐘さんはそれに言及しているのだと思います(しかし私は惑星探査機が帰還したといって泣くタイプではありませんが)。

 その日本人が同胞(すなわち在日朝鮮人)に向ける眼差しは「差別」ではなく「蔑視」だと時鐘さんは指摘します。上下の区分である以上に蔑みであるとの意味です。そして「いまだに祖国の統一を果たしていない自分たちは責められるべき存在かもしれない。しかしそれを日本からどうこう言われることはない」と述べ、「それにしてもお互いに尊敬しあう関係を結べないものだろうか」と結びました。

 ついで時鐘さんは、1929年1月17日生まれの自分は、尊敬する李陸史(イ・ユクサ)先生の命日である1月16日を越えなければ自身の誕生日に行きつけない、これが毎年のことだと言います。抗日独立の運動家・詩人であった李陸史は、自分の囚人番号「264」の読みをペンネームとして活躍し、何度も逮捕されついに獄死しました。一か月後の2月16日は尹東柱(ユンドンジュ)の命日で、彼は朝鮮語で詩を書いたために逮捕され福岡刑務所で獄死しました(獄死が虐殺であったことは小林多喜二と同じです)。

 時鐘さんによると、尹東柱の家族が刑務所から受け取った通知には「期限までに引き取りに来なければ遺体は解剖用に九州大学に提供する」とあったそうです。自分の人生に重なる日付けの記憶によせて時鐘さんは二人の詩人にふれ(思わず絶句する場面もあった)、「私は日本が憎い。日本は大好きであるが憎い」と言葉をつぎました。日本人は折り目正しい、行きずりのことに優しい、深く交わらない、やすやすと感動する、日本軍の所業を知って知らないふりをする、とも言いました。

 このあたりから話は四・三事件に移りますが、概要は不十分ながら前編のとおりです。事件のさなかに身を置いた時鐘さんは「強いられた死のむごさ」を具体的に語りました。それは身の毛がよだつほどの醜悪な腐乱死体である、蛆が日に映えて黄金のしっぽをくねらせている、臭気は耐えがたい、自分は日本に来て長いが今でも眠りにつくと惨殺体の映像にしばしば脅かされる。これらの死体は果たして犠牲者か。

 犠牲者とはもともと大義名分に殉じることを指す言葉であり、さもなくば人の力の遠く及ばない地震、津波、洪水など天災による死者たちに当てはまる言葉である。あの虐殺は人為そのものであった。そのどこに大義があったか。逃れることもできず恐怖のうちに殺された人は無念を抱えて蛆に喰われた。これらの人々を「犠牲者」と呼び敬虔な気持ちにひたることが私たちに許されるか。

 いま私は、当日のメモと配布資料(金時鐘・「敬虔に振り返るな」)を参照しており、「すべて時鐘さんの発言どおり」ではないけれど大体は再現できていると思います。犠牲者とは?との問いに私は宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」を思い出しました。飢饉を回避するには火山を噴火させ、噴煙で気候を変えるしかない。しかし噴火を仕掛ける最後の一人は島を脱出できない。その役目をブドリは買って出ました。時鐘さんのいう「犠牲」にふさわしいあり方です。思えば宮沢賢治自身も自己犠牲の人でした。

 時鐘さんは次のように締めくくりました。~ 記憶は薄らいでいく。四・三慰霊祭は済州でも日本でも行われ、年と共に死者への敬虔な気持ちだけがつのっていく。しかし、何によって死者は死ぬことになったか。どのように死んでいったか。その『実態像』を思い描くことを怠ってはならない。済州島5万の無辜の死者を、身ぎれいなかたちで、神聖なかたちで祭ってはならない。私たちが抱えている犠牲者は腐りに腐って、近づくこともできないほど醜い肉体を晒して息絶えた浮かばれない死者たちである。私にはその犠牲者たちを敬虔に祈ることができない。~

 休憩をはさんだ第2部は、若者と時鐘さんのトークイベントでした。若者は「済州四・三を考える会・大阪」のメンバー30人で、年に一度は済州島に出かけ、月に一度の学習会を開いています(もちろん「金時鐘」も読んでいる)。そのうち5人がそれぞれ選んだ時鐘さんの詩を朗読し、感想をのべ、ご本人に質問するというスタイルで私は引き込まれました。若い人々は、そこらの大学の先生のように自分を賢く見せようとする邪念がないし、何より言葉が新鮮です。

 残念ながら朗読された詩も詩人とのやりとりもここに書き切れません。質問のほんの一部ですが「作中人物が居場所をさがしているのは詩人が在日コリアンとして自らの居場所を探してきたことの反映か?」、「故郷を意味する言葉が何種類も出てくるが、その使い分けの意図は何か?」、「背後をふりかえれないとはどういう意味なのか?」などが印象に残りました。

 詩人の答えのうち、在日同胞のよって来たった年月への思い、一世に強く見られた回帰思想、在所の生活臭への執着、時鐘さん自身の少年期に染みついた済州島の言葉や食べ物、身体で受け継いでいる衣食住すなわち文化、などの言葉を私は記憶しています。全体をふりかえってみると、人はさておきまず自分が想像することの大切さを時鐘さんは説き、それは若者によく通じたし、そんな若者に共感する客席にもよく伝わったと思います。

 在日コリアンが済州四・三事件を語ることは、自分のアイデンティティにじかに触れることであろうし、長い歴史のなかで朝鮮(さらには中国)から文物の豊かな恵みを受け、近代に入って恩を仇で返した日本人にとっても他人事ではない話です。こうした物言いを自虐的だと批判する人も日本人の中にいますが、私はこれを客観的な見方であると思っています。

 アヅマが「松明をうけとる」という言い方をよくしていました。直接には、むのたけじ氏の「たいまつ新聞」に喚起された言葉でしたが、彼女の社会を見る眼と心のありようをよく示していたと思います。バトンやタスキは渡した後に「手ぶら」になりますが、松明の火は先行走者も次の走者も共にかかげることができます。隣の人に分けることも可能です。この講演会において時鐘さんは、壇上の若い人々と客席の聴衆とに松明を渡されたのだろうと私は思いました。

<四日後の追記>

 記事を読んでくれた二人の友人のコメントをうけ少し追記します。二人とも長年、文学と共にある人で、女性史研究者のAさん(「裏金講演会」で一緒だった人)、時鐘さんにとても近い詩人Bさん(「金時鐘講演会」で一緒だった人)です。

 Aさんのメールには、『恩を仇で返した日本人』の一人という自覚とともに生きてきた、自分の小さな松明を誰かに受け取ってもらうべく努めているとありました(この人の松明は決して小さくありませんが)。また、在籍していた北海道大学の付属植物園でお散歩中のタロ(もしくはジロ)を何度か見た。初夏で、抜けた毛のかたまりが体にくっついていたとも書かれていました。ちょいといい話です。もう1頭もきっと安楽な余生を送ったのでしょう。

 Bさんとは電話で話しました。記事中の「アヅマ」の意味を問われたので私は、ヤマトタケルの妻恋の嘆きである「吾妻はや」を踏まえていると説明しました(大きく出ましたが)。分かる人には分かるだろうし、分からない人に分かるよう書くのは野暮ですからあえて注釈なしに使ってきた心深くからの言葉です。今その野暮なことを書きました。

 またBさんから、第2部の若い人々の言動をもっと書けばよかったのにという感想をもらいました。確かにそれをしっかり書いてこそ「松明」も輝くのですが、私の文章はとかく長くなるので端折ってしまいました。いま少し足しておこうと思います。

 若者はもう在日3世か4世ぐらいにあたるでしょう。韓国からの留学生もいたし、日本人も混じっていたと後で聞きました(四・三事件をメインテーマとする開かれた学習グループのようです)。詩の朗読には大きなスクリーンにハングルの字幕が映され、韓国語による朗読(美しい朗読でした)には日本語が添えられました。その他さまざまな資料も示され、心のこもった周到な準備によって充実したトークタイムとなりました。

 前回も書きましたが、若者らは時鐘さんの本をよく読んでおり、また時鐘さんにむける眼差しと言葉からその親愛の情がよく分かるのです。それが講演会をさらに忘れがたいものにしました。時鐘さんが若者に伝えたかったのは、朝鮮半島にルーツをもって日本で暮らしている事実を歴史の中でとらえること、とくに四・三事件や朝鮮戦争の実態を知ること、自分たちをとりまく(自分たちも共有しているかもしれない)集団的な感情を相対的に眺めてみることであったと私は思います。「慰霊祭についてもその上で考えてごらん」と先達は後輩に言っているかのようです。

 しかし、こうした視点はどこの国籍の所有者にも必要であろうと思います。その上で握手や抱擁をしたいものです。いやいや誠に言うは易し、行うは難しでありますが。やはり長い追記になりました。





 
 
 

 



に急かされ

の状況が張りかけ時間がなかった

昭和基地を引き上げる際に犬ぞり用のカラフト犬15頭を放置してきたのです。、船に積めないため

(そりを引かせていた)を鎖につないだまま置き去りに

0 件のコメント :

コメントを投稿

1月9日をもってコメント受付をすべて終了しました。貴重なご意見をお寄せ下さったことに心からお礼申し上げます。皆さまどうも有難うございました!なお下の(注)はシステム上の表示であり例外はございません。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。