「台湾有事は日本有事だ(自衛隊を出すかもよ)」という高市発言は、中国を激怒させ、米国に迷惑がられ、国内にかなりの経済打撃と意見対立を生じさせたことによって集団的自衛権行使のリスクを国民に予習させてくれました。この一点をのぞいて危険で愚かな発言です。国民民主の榛葉氏は「質問者が悪い」と筋違いを言い、勇気を得た高市氏は「聞かれたから答えたまで」と開き直っています。ならば裏金問題もきちんと答えるべきでしょう。政治の劣化を示す状況です。
もし私が中国人民の一人で、かつ漢民族のうるさ型の老人だったら次のように思うでしょう。~ わが大陸の沖合いに浮かぶちっぽけな島国の住人は根っから恩知らずの連中だ。第一に彼らは、稲、鉄、漢字など中華の恵みを受けて文明国の仲間入りをしたことをきれいに忘れている。「風呂意図」なる学者が唱えた「記憶の抑圧」かもしれん。やがて国がまとまり有力者が現れたら「日出づるところの天子」を名乗って煬帝皇帝に書状を寄こした。夷狄の分際で何たることか。
時がすぎペリーにおどされて開国した日本はさっそくわが国を攻めてきた。それも奇襲だ。大清帝国は日本のごとき軍事国家ではなかったため(これが痛恨の不覚)惜しくも敗れて台湾をとられた。台湾は因縁の島だ。今また鷹一首相がこれを蒸し返す妄言を吐いておる。台湾のみならず中国本土も日本兵の泥靴に踏みにじられた。日本の若者は自分らの爺さん、ひい爺さんが南京でしたことを聞いたか。「マルタ」のことは知っているか?
いま日本は米国べったりだが歴史は浅い。つい80年前、中・米に完膚なきまでに叩きのめされたことはよもや忘れないだろう。先日の中・米の指導者の電話会談でもこの話が出たそうだ。日米同盟と中国ロシアの東西対立は一つの見立てにすぎない。「米国はどんな場合でも日本を守ってくれる」というのは勝手な思い込みかも知れんぞ。鷹一首相は歴史と地球儀を見るがよい。身の程を知れ。わしらが教えた「仁」、「義」、「礼」、「智」、「信」に思いをせよ。~
この老人の上から目線は気にさわるけれど一理あります。長い歴史を振りかえると、元寇(文永・弘安の役)があったにせよ日本は中国から大きな恩恵を受け(差し引きプラス)、反対に日本は中国に対し恩恵より災いを多くもたらしてきました(差し引きマイナス)。マイナスの側はそれを忘れません。この民族的記憶は何かのきっかけで顕在化します。ゆえに私は「習近平忖度」という見方は表面的だと思います。時に相手の立場に立ってみることが個人間でも国家間でも重要です。
では習近平氏はどう考えているか。~ 怒髪衝天!我四千年継続国家的指導者也。十二年にわたり十四億の多様な民を導いてきた私だ。そっちはたかだか1億の箱庭国家の新米首相だろう。初対面の挨拶もそこそこに新疆ウイグルや香港について偉そうなことを言ったな。今度は台湾か。わが国の問題に口を出すな。もし私が「辺野古の埋め立ては許さない」と言ったらそっちはどう思う。言い訳より撤回をせよ。過ちて改めざる、これを過ちという! ~
ついでトランプ氏です。~ Oh my God ! ハリキリムスメニモコマッタモンダ。いま米中が大事な局面だと知っているだろう?番犬は吠えすぎてはいけない。きっとサナエは、「日本は米国に言われなくても自らの意志で行動する。軍備増強も強気外交も首相判断でやっている。私は主体的で力強い奈良の女である」と言いたいんだろう。いい心意気だが勢いあまって私の手のひらから落ちてはいけない。助言ならいつでもするぜ Baby ~
みんな言いたい放題です。人の心、特に独裁者の腹の中はこんなものでしょうか。しかし、文明はそもそも水と同じく高いところから低いところに流れるもので日本は下流に位置しただけです。へいこらする必要はありません。それどころか遣隋使や遣唐使を派遣して進んだ文化、制度、技術を取りいれ自分のものにしました。私はそんな先人の知恵と力に尊敬の念をおぼえます。その結果、中国や米国にない美点を有することとなった日本に生まれたわが身の幸いも感じます(だからアヅマに逢えました)。
さて私は「国の誇り」とは何かと考えます。高市氏を支持する人は「主権国家の首相にふさわしい発言だ。自衛の意志を明確に示すことは他国の軍事介入の未然防止に役立つ。それでこそ国民が誇りをもてる国だ」と思うのでしょう。その気持ちは分からなくもありません。しかし他国、特に中国と北朝鮮も同様に考えているはずで、この路線をつき進むと東アジアの緊張がいっそう高まります。国と国の誇りの衝突はごめんです。
すべての国が相互依存せざるを得ない中で食糧やエネルギーの自給率がひくい日本の他国依存度は際立っており、また、休止中であっても格好の標的となる原発を多く抱えています。もし戦争となればわが国が「人一倍」困ることは明らかで、緊張緩和の必要性は他国より大きいはずです。日米同盟およびそれを軸とする集団自衛の「傘」はどこまで頼りになるでしょうか。米国はすでに理念外交を捨てています。
「自由で開かれたインド太平洋構想」も一つの傘ですが、中国も自分の傘を広げているから私たちはなかなか安心にたどり着けません。さしあたり今の枠組みの中で日本ができることは何か。それは日本国憲法の看板を改めて掲げなおし、「力によらない平和」をめざす姿勢(80年前に一億人がそうありたいと念じた姿勢)を内外に明確に示すことだと考えます。そんな日本なら私は誇りに思います。憲法制定時と今では国際情勢がちがうとの意見があるけれど、理念なき現実追随は危険です。「積極的平和主義」でなく「絶対的平和主義」をとるべきです。
外交も民間交流も歴史をふまえ長いスパンで考えることが肝要です(他国にもそうしてほしい)。その上で冷静、明瞭にものを言うこと。これを続けて行けば「ああ、日本人も自分たちと同じ普通の人間なんだ」とアジアをはじめ諸国の人は思うでしょう。これが外部による信任の第一歩であって日本人の誇りに根拠を与えます。「地産地消」の誇りは脆弱です。こうした考えは素朴すぎるでしょうか。しかし市民の感覚と首相の言動は、どこかに小さな接点があってもよいはずです。
高市発言にもどって、発言の中身自体は政府内の常識でしょう。これまで何十通りもの「存立危機事態」をシミュレーションしているはずです。一番の問題は発言の結果であって、もし中国がスルーしてくれていたら「また高市節だ」で済んだかもしれません。しかし政治は結果がすべてです。甲子園で涙をぬぐいながら砂をかき集める球児には、結果なんて二の次だ、よくやったと肩を叩いてよいけれど政治家はそうはいきません。
どこかの市長による「学歴の勘違い」や「ホテルでの協議」など首相の過ちに比べたらナンボのものでもありません。つぎの一手を大きく読み違えて日本に継続的な損失とリスクをあたえ続けている責任を高市さんはどうやって引き受けるでしょう。ごめんというのが筋ですが、私は実は率直にあやまるのは次善の策だと思います。誠意を示しつつそれ以外の合わせ技も繰り出してはやく何とかするべきです。どうしたらよいか見当がつかないけれど、それは政府の仕事です。中国の対応は過剰ですがタネをまいたのは高市氏です。
ところでこの機会に私たち国民はパンダへの偏愛をやめてはどうでしょう。その代わりに熊を生け捕りにしてパンダ模様にぬりわけ、各地の動物園で飼育・展示してはどうかと私は半ば本気で考えます。脱線ついでに日ごろ思うことを書きます。パンダに限らず「惑星探査機はやぶさへ」、「みゃくみゃく」、「ゆるキャラ全般」、「カルガモの親子」、「雪の妖精シマエナガ」等々への私たちの感情移入はすこし過剰です。「みんなが一つのことに入れあげていい気分に浸っていること」に対する自覚が少ないのです(えらそうに済みません)。
このように無生物にまで優しい私たちは、一方で熊は撃つし、鳥インフルが出たら鶏舎ごとみな殺しにします(平素でも鶏舎のニワトリは身動きできない狭いカゴに押し込められてひたすら卵を産み、コスパが悪くなると締められます)。これらはそれぞれ理由と必要があってのこととはいえ余りにアンバランスではありませんか。
人間の命と熊の命のどちらが大切かは自明ですが、双方とも哺乳類で誕生、繁殖、育児、個体の死という基本は一緒だし、脳により行動が制御される点も共通し、喜怒哀楽もかけ離れていると思えません。ともに地球上に出現した奇跡の生命体です。この点では人間の命も熊の命も等価でしょう。真宗が「悉有仏性」を説くとおりです。ゆえに私たちは本来、熊を殺してはいけないと考える「べき」です。「生命は至高のものである」、「生命に序列がある」という二つの原理は並立しません。ホロコーストが否定的にこれを証明しています。
しかし現実問題として追い返しても戻ってきて人を傷つける熊を殺さないわけにいきません。この「命の選別」に対する補償的措置として、私たちは熊の死に価値を付与する必要があります。レジャーとして熊狩りをしたわけではないことを確認する作業です。それは心の中で熊に手を合わせるだけでは不十分で、肉を食べる、薬にする、動物園のえさにする、毛皮を使うなどの「活用」が求められます。しょせん人間の自己都合ですが感情移入や自己満足とは異なって、「命は大切である」という理念を維持するための社会的な手続きです。大がかりなお芝居とも言えるでしょう。
アイヌ民族の熊祭りもお芝居だというと語弊がありますが、深い根っこは同じであり、自然と共に生きていた人間の叡智が感じられます。また、こうした観念的な問題ばかりでなく、「殺して埋めて一件落着」をくり返しているうちに社会全体の心理的抵抗が小さくなり「命をうばうこと」への感覚が鈍磨します。では爬虫類や両生類や鳥類を殺す時はどうかと問われると「基本的には同じ」と答えざるをえません。カメムシはどうか、ナメクジはどうか、、、このあたりは真宗の僧侶である友人I君に聞いておきます。
この記事で「集団の熱狂」について批判的に書いたのは、それがえてして少数者を排斥する方向に向かったためです(非国民のレッテル、軍神崇拝、赤狩り、「井戸に毒を入れた朝鮮人」狩り、コロナ初期の村八分など)。もちろん他面で多くの人が思いを寄せて実を結んでいる例はいくつもあります。やや情緒的ながら「がんばろう神戸」、「がんばろうフクシマ」、個人を対象とした動きとして中村哲氏を支援した「ペシャワール会」、袴田巌さんの支援団体などが印象的です。マスコットキャラクターにも言及しましたが、私は「おおつ光ルくん」は好きです。

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