新春法談のゲストは、真宗寺院の17代目で自宅からお湯割り焼酎の水筒を持参したI君(一人酒の高僧)、ビワマスの生涯を見て諸行無常の悟りを開いたO君(川辺の哲学者)の二人です。専属カメラマンT君(大津通信の今森光彦)とキリスト教のお師匠Nさん(大津通信のマザーテレサ)は副業の医業が多忙のためお招きを控えました。この4人が私(迷える老羊)のよき話し相手です。
2月10日夕刻、拙宅。
〈私〉 今日は「もつ鍋を囲んで言いたい放題」です。宗教は天地創造、輪廻転生、因果応報など固有の世界像を持っており、その中で人間の救済を処方するわけだから、宗教を信じることは「世界をどう解釈するか、それに対してどんな信念を持つか」ということになる。するとそこに「真か偽か」、「合理か非合理か」という問いがついて回る。天国、浄土、輪廻、救済などをいかに解釈するか? 僕はそこで足踏みしています。
〈I君〉 仏教の世界観はスケール大きいよ。六道、三界、十界と話せば長い。釈尊は修行の末、瞑想によって老病死の苦悩から脱却したけれど、それは世界の本質を一撃でバッとつかむような覚醒だったと思う。だからどんな人の苦悩にも変幻自在に応えられた。説法で比喩や物語を多用したのは相手の内部に小さな「一撃」を起こすためではなかったか。
釈尊は「悟りを求める仏教」を説いたけれど、目的は人々を苦悩から救うことであったから「救済の仏教」だったとも言える。紀元前後、そのことに気づいた仏弟子が救済の側面に焦点をあてた大乗経典を続々と創作していくわけです。
〈O君〉 おれは死んだらしまいや思てんねん。何にもなし、一切なし。だいたい認識する自分自身がないやんか。それでかまへん。ビワマスは産卵したらヘロヘロになってもその場にとどまって卵を守る。ごつい魚が来たら私を喰うてちゅうわけや。最後はエビやらプランクトンに喰われる。わが身をさしだし他を助ける。卵は全部とはいかんでも孵って琵琶湖にくだり、戻ってきて産卵する。命のバトンリレーやな。死は「無」やけど「無駄」やないと思う。
〈I君〉 命のバトンか、ええこと言うなあ。死後に何もないという時の「無」は「有」の対義語で、つまり存在しないことを意味するが、仏教の空(くう)はそれと違って「有」と「無」から離れる。例えば、人もビワマスも元素で出来ているが死んでも元素は変わらない、移動や拡散しても消えたりしない、ゆえに生と死は形の変化にすぎない、ちょっと言い過ぎやけどこれが「空」の見方です。万物は変化する、不変の実体はない、固定的な自己もない。これすなわち諸行無常、水筒の中身もカラである。
〈私〉 早いなあ、すぐ熱燗おつけします。諸行無常は「虚しい」や「儚い」のニュアンスを含んで日本に根づいている。平家物語がそうだし和歌にも詠まれた。「色即是空、空即是色」ともいうね。この文句などあんまりカッコよすぎて逆にほんまかいなと思う。漢字に頼ってしか解釈できない僕らが本当にオリジナルを分かっているかという疑問です。根拠のない疑問。
〈I君〉 言語化の段階ですでに問題は起こっていて、聖書も同じだろう。しかし練りに練って絞り出した言葉が経典だから信頼していいと思う。原典研究はずっと行われてきたし、学者や宗教者の集合知みたいなものもあるしね。
〈O君〉 水筒はカラになったけど酒はI君の腹のなかに移動しただけや。次にそこから体内をめぐって別の場所に移動する。どこか分かるやろ、最後は琵琶湖や。一方でもとの水筒の中には「無」が生じた。移動も拡散も地球どまり、ものは見ようやで。
〈I君〉 仏教には「刹那滅」という考えがあって、一瞬で生と滅をくり返しているというものです。一瞬で前の私を死んで新しい私になる、その私も一瞬で死んで、、、とくり返す。
〈O君〉 分かった! 5分前に言うた言葉はもう消えてる。今も言う尻から消える。昨日のおれはもうおらん。さっきのおれもおらん。さっきのおれと今のおれが一緒やと思うのは錯覚ちゅうことや。一秒たたんと変わりっぱなしや。人も変わりっぱなし、人と人の関係も変わりっぱなし。世界全体が一つ所にとどまっていられへん。インドの賢者はそう言うたわけや。
〈I君〉 そういうこと。
〈O君〉 デジタルやな。ゼロ、イチ、ゼロ、イチの行列や。微分積分にもつながっとる。
〈私〉 O君ならではの瞬間解脱やな(笑)
〈I君〉 しかも外してへんしなあ(笑)。さっき「一撃でバッとつかむ」と言ったけど、O君の中で小さな「一撃」が起こっているような気がする。
〈O君〉 一瞬で異次元、ワープや。さっきビワマスの話をしたけど食物連鎖のピラミッドで人間を喰う動物はおらん。人間を喰うのは人間だけや。トランプもプーチンも習もネタニヤフもみんなそうや。高市も危ないちゅうか、もう行っとる。おれは人間もビワマスみたいに「利他」であるべきや思てるし自分でもそう努めてる。浄土行きとは関係なしやで。
〈I君と私〉 うーん、そうかあ!
〈私〉 経典に戻って、聖書はわずか1冊で日本語表記、仏経典は数千冊で漢文表記で理解しやすさがまったく違う。昔の知識人は中国語ができたけれど、明治になると柳宗悦でさえ「お経はさっぱり分からないが聖書はよく分かる」と言って一時期はキリスト教に深く入り込んだ。それから百数十年、いまの僧侶は分かってお経を読んでいるんだろうか。
〈I君〉 確かにお経はいくらもある。真宗では仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経の「浄土三部経」が基本やね。ぜんぶ理解しているなんてとんでもないが、大事なところは一応押さえているつもり。教えてもらってやけどね。
〈私〉 現代人は平安、鎌倉時代のように素朴な世界観を持たず、すべて科学のモノサシで測る。君らもご存知のT君は科学的、合理的な人で宗教を思想的、文化人類学的に眺めている。O君も僕も似ている。Nさんは理知的な人でクリスチャンの家庭に育ち信仰がずっと身近にあった。「私は宗教2世です」と笑ってはった。このように人それぞれだけどI君は迷いなく住職になったかどうか、そこを知りたい。
〈I君〉 そこへいくと僕ら「宗教17世」やもんね。そのせいか子供の頃から不殺生が身についてる。実際には殺生するけどアリは踏まへん、入って来た虫は逃がす。しかし寺を継ぐとなると話がちがう。高校、大学時分は悩んだなあ。親は黙って見てた。教師になってすぐ持ったクラスに寺のお子さんがいてね、彼もやはり悩んでいた。僕はそのころ「運命を愛せよ」というニーチェの言葉に出会って、その言葉を彼に伝えたことがある。
彼も僕も「選択できないこと」に苦しんでいた。しかし、選択できないことと自分の運命に「宝」があるかどうかは別だ、こういう風に考えて吹っ切れた気がする。その後に自分の両親や先代がどんな思いでこの寺をつないできたか知ることとなって、ここに生まれてよかったと思えるようになった。その子も寺を継いで頑張っていると聞いている。
〈O君〉 えらいなあ。歌舞伎や華道や茶道の跡取りと同じ苦労や。そしたら寺を継いだI君は浄土がある、阿弥陀さんがいはる、念仏したら浄土へ行けると信じるようになったわけや。
〈私〉 同じ質問だけど、I君は浄土真宗が教えている「世界のありよう」と「救済への道すじ」を信じるようになったのか、あるいは信じないけれどその教義に価値を認めて取り入れることにしたのか、どっちだろう。お寺の住職さんに聞く話ではないけれど。
〈I君〉 確かにそんなこと聞く人はまずないな。真宗を信仰してるかと聞かれてイエス、ノーでは答えにくい。「私は仏教徒です」と答えたい。「仏教は浄土真宗だ」と思うからね。「浄土真宗は仏教だ」ではないよ。さらに言うなら「浄土を真の宗(生きる方向性)であると見定めている仏教徒です」ということになる。
親鸞が「浄土の真宗は大乗の至極なり」と言ったように「一切の衆生の救済」という観点からは真宗以外に考えられないと思う。仏教イコール浄土真宗と僕は考えている。そうは言っても各宗派にはそれぞれ魅力があって、禅宗、唯識、密教なんかもっと知りたい。それとお寺はどこかの宗派に属しているけれど、もっと開かれた場所であっていいと思う。現代人の悩みは多様だから、寺の住職としては柔軟で幅の広いあり方に心が惹かれる。
〈O君〉 なるほどなあ。「浄土を信じるか」、「念仏したら浄土に行けるか」という問いにはどう答える?
〈I君〉 まず「信じるとは何か」から始めよう。ふつう「信じる」ことの中に若干の不信が含まれていて、それを意識的、無意識的に押さえ込んでいると思う。そこに不安がともなう。だから「固く信じている」という言葉が出てくる。このように思うので「信じる」という言葉は使いたくないわけ。しかし宗教において「信」は重要なタームです。
親鸞が「たとえ法然上人に騙されて念仏して地獄に落ちても決して後悔しない。もし念仏以外の修行に励んで仏になれるなら後悔するかもしれない。しかしどんな善行もできないこの私は地獄のほかに行き場がないのだから」と言っている。これが「信じる」の究極のありようだとされる。確かにそうだが、これはいわば「情的信」であって、親鸞は同時に「知的信」を持っていたと思う。
「知的信」とは何か。親鸞は「信は審なり」とも言っていて、「審」は「明らか」の意だから、「信じる」というのは「明らかになった」こと。つまり「私は一切の衆生を救うという阿弥陀仏の本願を信頼し念仏する以外に救われる道はないことが明らかになった」というのが「知的信」です。それを踏まえて答えると、「浄土や念仏を信じるか」と聞かれたら、「本当に浄土があるかないかは知らないけれど、そのように説かれる教えを信頼し、信順(したがう)しています」というのが僕の答えになるな。
〈O君と私〉 うーん、そうかあ!
〈私〉 ところで親鸞の自己評価は厳しいね。法然も親鸞も仏教界のエリートで学識が深く、弟子に慕われ、朝廷にも一目おかれた。専修念仏の教義が革新的すぎて迫害されたけれど生きのびて思索を深めた。「愚禿親鸞」と自称した。自省の心も人一倍強かったろうけど、どうして自分をそこまで救いがたい業の深い人間だと規定したのか、そこが不思議に思う。
〈I君〉 現代風に言うと親鸞も法然も自分の中のDNAに蓄積されてきた「縁起的悪」を見据えていたのではないかな。
〈O君〉 トランプは成仏できるかと大津通信にあったけど答えはイエスやな。さっきから聞いてておばあちゃんのこと思い出したわ。うちは浄土宗でおばあちゃんは信心深い人やった。生き物を殺したらあかんてよう言うてた。子どもながら身にしみた。大人になって釣りしてるけど全部リリースするねん。戻ってきたらまた釣れるしな(笑)。
〈私〉 今日は面白い話をたくさん聞いた。読み物ふうに多少なおしてブログに書かせてもらうよ。
〈O君〉 I君の対機説法やったな。その間に一人でどんぶり鉢のキャビア食うてしもた。ごめんごめん(笑)。
〈I君〉 僕は奥歯を忘れて来たけど、フォアグラうまかったなあ(笑)。
〈私〉 盛り上げてやろうという君らの友情には感謝するけど読む人に丸わかりだよ。ではこのへんで。今日はどうもありがとう。
~ 後 記 ~
話の中心が仏教になりました。劫(コウ/Kalpa)は100年に一度、大岩に天人が舞い降りてその衣の裾が岩にふれる、これを無限にくり返すうちついに大岩が磨滅して無くなる。それほどの長い年月のことであり、その5倍を超える時間をかけて阿弥陀如来は本願を立てたとされます。
その対極にある短い時間が刹那(クシャナ/Kṣaṇa)。どちらもサンスクリットの音訳ですが、どうやら古代インド思想はとことんまで行くタイプのようです。果ての先を見つめる感覚というか、仏教もそれを受け継いでいるかも知れません。ゼロの発見、負の数の発見もインドです。この国がIT人材の宝庫だとされていることも頷けます。
このたび対機説法をしてくれたI君が釈尊なら、O君はさしずめ一番弟子のアーナンダー、接待役の私はスジャータといったところです。両君に謝意と敬意を表します。ところでI君の息子さんは仏教の先生でいずれお寺を継がれる予定、お孫さんは儀式の際のパパやおじいちゃんの法衣姿を憧れの目で見ておられるとか、彼のお寺の未来は光明遍照です。
<追 記>
小説家の平野啓一郎が京都精華大学のオンライン講座で「自己と他者 ~自由の共有を巡って~」と題し講演しました。分断と対立の時代にむけての提言で、3月16日までYouTubeで視聴できます(ひょっとして動画公開にいたる経緯に私が一役買っているかも知れません)。次回はこの講演について書きます。いずれ「国論二分女」についても書かねばなりません。

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