2026/08/14

317)「世に棲む患者」

 ~  統合失調症圏の病を経過した人の社会復帰は、一般に、社会の多数者の生き方の軌道に、彼らを“戻そう”とする試みである、と思い込まれているのではないだろうか。しかし、復帰という用語がすでに問題である。彼らはすでにそのような軌道に乗っていて、そこから脱落したのではない。より広い社会はもとより、家庭の中ですら、安全を保障された座を占めていたのでは、しばしば、ない。はじめての社会加入の過程にあって、そこでつまづいた場合が多くても当然であろう。

 これは、言うまでもないことのように思える。しかし、私の言いたいのは、多数者の道に ー 復帰するのではなく ー  加入することが、たとえ可能だとしても、それが唯一の途ではないだろうということである。また、敢えて言えば、つねに最善の途だろうか。

 証拠は、ただ周囲をみわたせば足りるであろう。多数者に倣わせようと強いることは、成功したとみえる場合にすら、時に、何のために生きるかがはっきりせぬままに周囲の目を怖れる萎縮した人生に彼らを導くであろう。あるいは、たかだかB級市民の刻印の下に生きる道を彼らに示すにすぎないのではないか。

 考えてみれば、統合失調症を経過した人は、事実において、しばしばすでに社会の少数者である。そのように考えるとすれば、少数者として生きる道を積極的にさぐりもとめるところに一つの活路があるのではあるまいか。 ~

 これは精神科医の中井久夫が40年ほど前に著した「世に棲む患者」(中井久夫コレクション・ちくま学芸文庫)の冒頭ですが、ここを読むだけで知と情を深くあわせ持ったこの名医の基本姿勢が分かります。多数者と少数者の関係、より正確には「少数者がいかに損なわれることが少なく社会の中で生きていけるか」という課題は他人事でなく、特に精神的疾患を抱えた人にとって切実な問題でしょう。そうした人々に向ける中井久夫のまなざしは人としての共感に満ちています。

 また文章がいいのです。何といっても天から二物も三物も与えられた人ですから、患者に限らず人間全般の複雑で込み入った事情(すなわち機微)を、おいしい飲み物を差し出すように解き明かしてくれます(あくまで一般向けの著作を読んだ感想です)。今回、この本を読んで全文を書き写したいと思ったほどですが流石にそれはよして、もう少し「読みどころ」を抜き出します。

 ~ さらに言えば、統合失調症を病む人々は、「うかうかと」「柄にもなく」多数者の生き方にみずからを合わせようとして発病に至った者であることが少なくない。これは、おそらく、大多数の臨床医の知るところであろう。もとより、そのことに誰が石を投げうてるであろうか。~

~ 現実に、多くの患者が治療者や家族の思いもよらない生活世界を持っている。そして、そのことを人に語らないでいる。私が知りえたのも、彼らがうっかり漏らした言葉の端からであったことが多い。ところが、その生き方を実はすでに十数年前からしていたことが少なくなかった。時には何気なく告げられることもあるが、それは相当に信用されてからのことである。私の場合、十年くらいかかったであろうか。~

~ 治療者というものは常識と社会通念を区別して考えるべきであろうと私は思う。社会通念は、「精神科の患者は働かない人間であり働くことが先決である」と教える。しかし、視野をひろげれば、常識は必ずしもそう教えないだろう。急性期にはまず鎮静、その後は休息、それから探索行動、そして社会の中に座をみつける、という順序は「身体病」の場合には一般の承認するところである。どうして、精神科の病だけが例外なのであろうか。~

~ 私は、いわゆる“社会復帰”には、二つの面があると思う。一つは、職業の座を獲得することであるが、もう一つは“世に棲む”棲み方、根の生やし方の獲得である。そして、後者の方がより重要であり、基礎的であると私は考える。すなわち、安定して世に棲みうるライフ・スタイルの獲得が第一義的に重要である。「働かざる者は食うべからず」(パウロ)と人はいうだろうか。しかし、安定して世に棲みえない  ー そのような座を持たない ー  人に働くことを求めるのは、控え目にいって過酷であり、そして短期間しか可能でないことだろう。~

~ 患者の生活支援組織も、まずそのようなライフ・スタイルの獲得と保持への道をなだらかにすることが望ましいと私は思う。いうまでもないが、支援組織とは、どのようなライフ・スタイルであれ、患者に押しつけるものではなく、その患者が探索行動の結果、次第に獲得するライフ・スタイルを支持するものであり、その前提として、探索行動を行うことを(性急にあげつらうことなく)保証するものであってほしい。~

~ 多くの患者あるいは元患者が友人を持っていること、時には親友がいることに注目したいと思う。治療者には何か分からなくとも、彼らにはどこか魅力があり、それが人をひきつける力を持っていることを念頭におくべきである。この友人が利害のからんだ友人でないことだけはたしかである。むろん、これらの友人が自己満足のために友人となっていることは、つねにありうることだろう。しかし、それは他の場合にも言えることである。~

~ 長期的にみれば、病気をとおりぬけた人が世に棲む上で大事なのは、その人間的魅力を摩耗させないように配慮しつつ治療することであるように思う。「人好きのするように治す」(近藤廉次)。私はかつて、「心の生毛(うぶげ)」という、きわめて漠然とした表現を用いた。以後、それ以上、表現を彫琢できなかったが、この表現は、臨床にたずさわる者同士ではどうもよく通じることばのようである。
 それが摩耗すれば、周囲にとっても困ったことになるだろうが、患者の孤立は結果として非常に深まる。少なくとも、患者の探索行動の描く軌跡を尊重することと患者の寛解してゆく個人的ペースを乱さないことは、患者が、どこか人をひきつけるものをもって社会の中に座を占めるための前提である、と私は考えている。~

 引用はここまでにします。この本で中井久夫は退院後の患者の「探索行動」を10例ほど図示していますが、これも興味深いのです。その人の家や入所施設が基地となり、そこから様々な方向に探索の歩を進めていく軌跡が矢印で表され、運よく見つけた一息つける中継点が小さな丸印で示されています。基地から手さぐり式に伸びていく矢印と不規則な丸印。この図式をみたある動物学者は、「子ウサギがはじめて巣から外へ出る時の行動に似ている」と評したそうです。

 中井久夫は、こうした探索行動を、茎を横に伸ばして接地点に根をおろし、そこを第二拠点として広がっていく「オリヅルラン」に例え、探索は同心円的である必要はないと述べています。この「オリヅルラン」という言葉を私はずっと以前、大津日赤の精神科医から聞きました。当時、私は生活保護のケースワーカーで、ハナ子さん(仮名)の精神病棟からの退院を支援していました。その主治医が「茂呂さんの交友関係はオリヅルランのように意外な方面に展開しているのではありませんか?」と笑顔で問いました。いま思うとこの先生は中井久夫の論文を読んでいたに違いありません。

 ハナ子さんは紆余曲折のうえめでたく退院となり、自宅には戻れないため近くのアパートで独り暮らしをはじめました。といっても長期入院であったうえ家族のサポートもなく、生活用品は何もありませんから、私の実家に余っていたカーペットや小さな箪笥、なべかまの類などを運び込んで使っていただきました。まもなく担当替えとなったため、ハナ子さんが退院後にどんな探索行動をとったかを知る機会はありませんでした。

 別の精神科病院に入院していたサキ子さん(仮名)の退院にも関わりました。当時の精神科は長期入院の人が多く、家族とも縁遠くなるために軽快しても退院が容易ではありませんでした。サキ子さんも私が見つけたアパートで暮らし始めたのですが、そこで自室に火をつけて、2階建ての木造アパートが全焼してしまいました。幸いけが人は出ませんでしたが、私が入院歴を説明しなかったことに大家さんが激怒して市に乗り込んできました。

 私は守秘義務で通そうと腹をくくって大家さんを待ち構えましたが、上司に「君は出るな。かえってこじれる」と強く止められました。ついで市長面談となったけれど、私の出る幕はありませんでした。出鼻をくじかれた気がしたものの、私は自分が「かばわれている」ことを理解していました。ケースワーカーの仲間は総出で焼け跡の片づけに出てくれました。折悪しく私は家族の病気のために年休をとり、その作業にも参加できませんでした。

 ふりかえると私は大津市役所で多くの先輩方のお世話になりました。時がたつほどにそれが思い出されます。一方で私は後輩たちに同じことをしただろうかと思うと大変に心もとないのです。してもらったことは覚えているけれど、したことの記憶があまりありません。それが人の常なのか、私が至らなかったのか判別がつきません。親の恩も今になって思い返します。言うまでもなくアヅマからは格別の恵みを受けました。私の記憶は「もらいもの」で一杯です。

 さて、医師は人と深く関わる専門職の代表格ですから、技量はもちろん、人間的にも優れていることが望ましいと思います(私の友人はみんな及第点)。そして広い世間には、「腕はめっぽうよいけれど人として疑問符がつく外科医」がいるかも知れませんが、「人としての資質に欠ける精神科の名医」は想像できません。「人間性」とは曖昧な言葉ですし、外科と内科などを並べて標榜する医師もありますから、これは感覚的な話です。しかし、中井久夫という人を知れば知るほど、その人柄に惹かれます。

 中井久夫の弟子ではないけれど、彼への尊敬の念を公言している精神科医の斎藤環氏も、「人として真っ当なやり方」で治療を行っておられる気がします(ずぶの素人である私の見方ですが、たぶん正しいと思います)。氏が採用している「オープンダイアローグ」の手法は前にも書きました(記事277「ほんとうの会議」その2」。この記事は帚木蓬生氏に関するものでした。「業界別の水準」があるなら、わが国では政治家より医療関係者の方が上にランクされるでしょう。今回はこれで終ります。






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