2026/09/14

319)桐生の友

 たとえば海中を回遊していた1匹のマグロが漁師の針にかかって釣り上げられたとします。すると、それまでマグロが海中に占めていた空間は瞬時に海水にとって代わられます。魚体が隔てていた(あるいは媒介していた)周囲のプランクトンたちも空隙を満たすように相互に接近します。海水の水位もマグロ1匹分だけ低下するはずです。マグロの寿命がつき海中で大往生した場合も同様のことが緩慢に起こるでしょう。

 いま私は、1匹のマグロの消滅がもたらす変化について書きました。魚には親兄弟、配偶者、友人知人がいないので(それはあながち不幸ではありません)変化は物理的なものにとどまります。しかし人間は稠密な関係の中に生きる存在ですから、その非在化が周囲におよぼす変化は濃淡をともなってネットワーク上に広がります。まことに存在は常ならざるものであり、存在も苦、非在も喪失も苦であると言うべきでしょう。お釈迦さまのようですが。

 ところで私が遠方の友人T君(「大津通信」専属カメラマン)と長い時を超えて再会したのは、共通の友人の死がきっかけでしたが、その背景に「喪失を回復しようとする心情」が働いていた気がします。死者に贈られる言葉(追悼文)にも同様の側面があるでしょう。こうした「非在」についてはいずれ稿を改めて書くつもりです。今回は、政治や社会や気象の重苦しさをしばし忘れようと「桐生こぼれ話」を書きます。さわやかな友人の話です。

 先日、久しぶりに桐生を歩きました。オランダ堰堤は増水してナイアガラ瀑布のごとし。立ち止まってそれを眺めていた人が遠くから私に向かって大きく手をふりました。声に出すなら「おーい、こっちだよー」という感じです。しかし私は近視、白内障、イールズ病(網膜の病変)の三役そろい踏みですから見当がつきません。近寄ってようやくコトブキ断熱さんだと分かりました。「久しぶりやねえ、どうしてはったん」と満面の笑みで彼が聞きます。ハグしそうな勢いです。「やあひと月ぶりです。えらい水ですね」と私も笑って答えました。

 コトブキ断熱さんはその名を書いた軽ワゴンを駆って足しげく桐生を訪れる人で私と同年配、稼業は趣味程度に続けているらしき印象です。彼はもっぱら低い道を歩き、私は奥山に入るけれど基本ルートは共通ですから、ここ3年ほど何度も顔を合わすうちにすっかり仲良くなりました。いや、思い返せばコトブキ断熱さんは初めからとても友好的でした。話ずき、人ずき、いつも上機嫌な人なのです。

 この日、コトブキ断熱さんとしばらく一緒に歩いて右と左に分かれました。以前に聞いた話によると、彼はいつも桐生から帰ってシャワーを浴びた後、コーヒーカップを片手に安楽椅子に横たわって3時間から5時間ほどジャズを聴くのが日課で、「そしたら知らんうちに寝てしまうんやけどね、ほんまこれにまさる極楽はないよ」とのことであったので、近頃あたらしいレコードかCDを買ったかと尋ねました。

 「50年代のアメリカの女の人、ヘイゼル・スコットのジャズピアノ、これが何とゆうかね、新月の夜に音が漂うてる感じでふぁーっとして何とも言えへんねえ」と彼は答えます。その時代ならセロニアス・モンク、バド・パウエル、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンスなどが有名ですが、女性はアリス・マクロード(コルトレーンの妻となった人)ぐらいしか知りません。さすがにコトブキ断熱さんです。

 一人になった私は山奥に向かいましたが、久しぶりだったので適当に切り上げて遊歩道にもどると、東屋の下で休憩するコトブキ断熱さんに再会しました。真空管アンプの愛用者であると分かっていたので水を向けると、「電話を発明したベルね、あのベル研究所が母体になったウェスタン・エレクトロニックちゅう会社があって、そこが40年代に作って船内放送に使われてた真空管アンプを使うてる。管の中を電子が飛ぶやろ、その音がするんやねえ」

 続けて、プレーヤーはマランツ、スピーカーはダイアトーンと聞きましたが、カタカナばかりだったので私の記憶違いがあるかも知れません。ともかく、コトブキさんのこだわりはすごいのです。年に4台だけ真空管アンプを製作する個人の工房がどこそかにあり、予約をして新幹線で買いに行ったとの話も聞きました。「レコードなりCDが『5』とするやろ。再生装置も『5』としたら、5かけ5で25の楽しみが生まれるちゅうわけやね。ええもんやなあ」

 私はせっかち、コトブキさんはゆったりですから、話は中間の5分程度で終りますが、彼と出くわすのが桐生の楽しみに加わりました。お互いに名前も住所も知りませんが、こうした関係も散歩ならではでしょう。ひょっとしてコトブキさんは高市内閣を評価しているかも知れません。とすれば私と大いに意見が異なりますが、これこそ平野啓一郎いうところの「分人」の交流なのでしょう。人生において価値観も感覚も趣味も合致する出会いは稀です。私はアヅマとの出会いで幸運を使い果たしました。

 さて、私もジャズとクラシックを聴きますが、オーディオ機器の知識はなく価格的に「中の下」あたりで満足しています。作曲者と曲名も覚えられず、指揮者の好悪もありません。このように無頓着でも音楽に救われたり満たされる感覚はあるので、これも音楽好きの一形態でしょう。しかしコトブキさんの音響ルームを見たい気はします。素晴らしい音でしょう。お願いすれば笑顔でOKしてくれそうです。しかし、今の「分人」の関係で十分であると実のところ考えています。

 沖縄知事選で辺野古容認の古謝氏が当選しました。辺野古は実際に完成するのか、完成するなら何年後か、いくら血税を使うのか、それは「使い物」になるのか、その時に米国は本当に普天間を返還するのか、こうした議論がなされないままの当選が沖縄県の利益になると考えにくい状況です。

 この夏、首里城の地中に作られた沖縄守備隊の地下壕の模型展示が滋賀県で行われました。司令官であった人の孫も講演を行いました。これに関わったI君から、沖縄国際大学の前泊博盛教授が7月3日、参議院の特別委員会に参考人として出席し、普天間基地の現状などについて証言を行った動画を見てごらんとラインがありました。見て驚きました。このブログをご覧の方々にもお伝えする次第です。また現実にもどってしまいました。




 

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