さる2月11日、京都精華大学の公開講座で平野啓一郎氏が「自己と他者 ~自由の共有を巡って~ 」と題する講演を行い、その動画がYouTubeで配信されています(3月16日正午まで。お急ぎ下さい)。この講演で彼は individual(分割不可能な個人)に代えて dividual(個人を構成する複数の要素である「分人」:ぶんじん)の概念を提唱しています。なるほどそうか!私はこの動画を2回見ました。
話している平野氏を見たのはこれが初めてです。知的で(当然でしょうが)、穏やかな空気をまとったお洒落な中年男性。ゴミを捨てず、席をゆずり、会釈を返す人だろうと思いました。太宰治が身をよじって欲しがった芥川賞を大学在学中にとり、以降も書いて発言している絵に描いたような作家です。私はここ20年ほど小説を読まず平野氏の「日蝕」も「決壊」も未読です。一冊だけ読んだ「死刑について」はすぐれた論考でした(記事222「あなたは死刑!」)。今は家族と共にニューヨークで暮らしており、講演はオンラインで行われました。
ところで京都精華大学は、半世紀あまり前、当時十代の私が腰を抜かした「性と文化の革命」(W・ライヒ著)を翻訳した中尾ハジメ氏が教鞭をとった大学として記憶してきました。中尾氏が出入りしていた喫茶店「ほんやら洞」にアヅマと行ったこともあります。近年では空間人類学者のウスビ・サコ氏が学長になりました。なんとなく面白そうな大学だという印象を持っていました。
今回の講座当日、中継映像が視聴できないため大学に電話したところ、中継も録画配信も事前申し込みが必要であると分かりました(私のうっかりミス)。諦めて電話を切ってしばらくしてコールバックがあり、「すでに締め切りは過ぎたが改めて申し込んだら動画を見られるようにする」とのこと。そこで後日サイトを開いたら、何の手続きもなく講演の動画を見ることができました。大学はこれを機会に期限を切ってフリーアクセスに切り替えたのだろうと私は解釈しました。ともあれ有難いことです。
平野氏の講演は、「情理をそなえた人が今の社会と時代を見つめ思索をめぐらせて達した一つのイデアについて広く他者と共有しようとするもの」であったと思います。彼は、近現代の社会思想や産業構造の変化をふまえ、個人の実感もこめて「分人」を語りますが、まだ動画が見られますから、ここでは以下のとおり要旨を記します。
~ 「個人」が権利の主体であり、社会の基礎的単位であることは言うまでもない。しかし日常生活においては個人はインディビジュアルではない。多様な人がいる社会の中で相手によって色々な自分にならざるを得ないし、そうでなければコミュニケーションが成立しない。上司に対する私、部下に対する私、妻に対する私、子どもに対する私、友人AやBやC、、、のそれぞれ対する私、地域の中での私等々。また都市への人口集中によって複数の町にまたがるアイデンティティを有する人も増えている。
このように社会の中で多様な自己にならざるを得ないことから、人は自我の分裂を回避するために「本当の自分は別にあるが社会でうまく生きていくために表面上いくつかの仮面(ペルソナ)を使い分けている」というモデルを採用しがちである。もしそれが真実なら「本当の自分」は社会から切断され引きこもっている自分だということになる。共同体の中でしか生きられない私たちにとってペルソナは本当に仮面なのか?
ペルソナをかぶっている時もすべてが演技ではないはずだ。喜怒哀楽の感情をともない、動悸がしたり汗をかいたりしながら私たちはその時、その場を生きている。また人は環境のなかでも分化していく存在であり、終身雇用制が主流であった時代は「一つの職業に対応する自分」を見いだす必要があったが、今は転職、兼業、副業が当たり前になり、ネット空間も発達して「一つの自分」に定める必要性が低下した。
このように見てくると一人の人間を「分人」の集合体としてとらえることがより正しいのではないか。円グラフをイメージしてほしい。子どもから大人になると「分人」の数は飛躍的に増え、またその構成比は変化し続ける。中心に本当の自分がいるのではなく、すべての「分人」を本当であると見なすことが妥当である。この認識は自己否定や自己肯定に深く関わる。
たとえば登校拒否の場合、いま一番つらい学校に行くという「分人」をしばらくお休みにして別の「分人」で生きることができないだろうか。マネジメントというと軽く響くが、これは人生のリスクヘッジである。人生を持続させるために一本道がよいか、複線がよいか、答えは明らかだ。また、私たちは自分の意志で「分人」の構成と比率をある程度好きなように形づくることができる。これが人間の自由に関わる。
人生をふり返り、自分はどの「分人」を生きる時間が長かったかを見てみよう。好きな「分人」の時間が長ければ良い人生であったと言えるし、その地点から現在の自分を見ることにも意味がある。自分の好きな「分人」の比率を最大化しうることは、社会の中で自由が保障されていることでもある。
投票は一人の個人が行う行為だが、人間の感情生活やアイデンティティやコミュニケーションとなると「個人」の概念が大きすぎて分析ができない。その面でも「分人」の概念は重要である。人を愛すること(夫婦、親子、友人など様々な愛)を「分人」で考えると、その相手といる時の自分(分人)が好きで、生き心地がよく、その関係を持続させたいと願うことになる。
喪失を念頭におくなら、愛する相手を失うことは、その人といる時の「分人」を自分は二度と生きることができないわけで、好きな「分人」との決別を意味する。自己愛とは他者と切れて成立するものではなく、必ず相手を経由して自分に向かってくるものである。そのベクトルは双方向である。だからこそ他者との共生が必要であると思う。あなたの存在のお蔭で私が生きているという感覚。そこからお互いの自由を尊重する発想も生まれる。
いま、私(平野氏)が住んでいるアメリカでは分断と対立が先鋭化しており、二つの陣営を包括するより大きな価値観を見いだしにくい状況である。対話を求める動きもあるが、対話 の後で一層対立が深まるという皮肉な現象が起きている。一人の個人は一つの価値観と結びついているが、それを強化することにより社会的対立をあおろうとする動きもある。
こうした状況をみても「分人」的アプローチの重要性を感じる。一つでも接点があればチャンネルができる。ある共感をベースとしつつ対立点について話し合うことも不可能ではない。それはか細い回路かも知れないが、網の目のように張り巡らされていれば、「全否定」か「全肯定」かの回路から抜け出し、少なくとも「部分否定」か「部分肯定」まで歩み寄れる可能性が生じる。大きな価値観の統合よりも、柔軟で全部を切断することが難しいネットワークの構築に期待したい。~
以上が平野氏の講演内容ですが、テープ起こしをしたわけではないので正確さに欠ける部分があり、また私の理解不足もあるはずです。ぜひオリジナルをご覧ください。私は「分人」の考え方が思想的に正しく、かつ有効なものであると思います。
誰でもそうでしょうが自分のことは自分が一番よく知っています。私も自分の卑小さをよく知っていますが、実のところアヅマと一緒にいる時の自分だけは好きでした。自己採点の厳しいアヅマ自身もきっと同様であったろうと思います。そして私に少しでも良い所があるなら、それは一緒に暮らした歳月でアヅマが私を変えてくれたおかげであると思っています。その「分人」を私はもう生きることができません。
上記は2月中に書きました。私は2月末から先日まで東京で入院し、不整脈の根治手術をうけました(初診時に近くのうなぎ屋の店主とけんかになった病院です)。行きの新幹線の中で平野啓一郎著「『カッコいい』とは何か」を読み、すごい人だという認識を深くしました。
おかげさまで手術はうまく行きましたが、ベッドに釘づけの時にトランプとネタニヤフがイランに戦争をしかけました。退院してわが家でテレビを見たら、高市首相は米国の行動を国際法上から判断するには時間がかかるとしつつ、イランの行動は即アウトだと言いました。違憲隠しの軍事品5類型もかなぐり捨てる勢いです。あぶない時にあぶない首相が舵を握っています。あれが時代の変わり目だったと後日いわれてはなりません。
しばらくして落ち着いたらこのことも書きたいと思います。書いてどうなるものでもありませんが私にとっては書かないよりマシです。ついでに朝日歌壇に初投稿した短歌をご披露します。素人がツボをつかんだ気になって投稿した三文歌が時おり掲載されるので(短歌や俳句の恐いところ)、選者に「これでもくらえ」と思って投稿したものです。
~ トランプのベネズエラ侵攻に東半球が怒りて~
そんなことってアルジェリア? それはぜったいナイジェリア!
おそまつさまでした。

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