一日に4合のお酒なら、今の私は残念ながら首を横に振らざるをえません。もしそれがお米であれば4合はおおアリ、おおいに結構。1日に玄米4合と味噌と少しの野菜。ご存じ「雨ニモマケズ」に描かれた宮沢賢治の質素な食事です。4合は十分な量に見えますが副食はないに等しく、しかも彼は当時35才の青年でした。といっても既に彼の晩年です。ああ、もっとご馳走を食べ身体をいたわってくれたらよかったのに。
私たちが宮沢賢治の足跡をたずね岩手各地をめぐったのは夏の盛りのことでした。強い日差しの中、写真で何度も見た生家や住居、農学校、農場、川べり(イギリス海岸)、彼の設計した花壇などの現場を歩き、記念館では残部わずかの教え子たちの回想記「先生はほほ~っと宙に舞った」にめぐり会うなど二人に忘れがたい夏となったものですから、何年もめぐった同じ季節に賢治について少し書こうと思います。
宮沢賢治の生涯と作品を考える時、彼が日蓮宗の熱心な信者であったことに留意すべきだと皆が言うし、私も浄土真宗を信じる父との相克にふれました(記事197「2冊の本」)。この「雨ニモマケズ」もまた、周囲から「デクノボー」と呼ばれる一人の人間を姿を具体的に列挙した上で「そういう者に私はなりたい」と締めくくられた短詩であり、彼の信仰宣言として読むことが可能です(実際に発表を予定しない私的メモとして書かれました)。
それはその通りなのですが、法華経信者なら誰もが賢治のように、あらゆることを自分を勘定に入れず、よく見聞きして忘れず、簡素な小さい家に住み、西に病気の子どもがあれば行って看病し、東に疲れた母があれば代わりに稲束を背負い、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、ほめられもせず、苦にもされず、、、という自己像を目ざすわけではありません。この詩には(結局はその全作品に)唯一無二の宮沢賢治という個性が息づいています。
ぜひこの機会に「雨ニモマケズ」を再読して頂きたいのですが、「その人」は目立たず静かに暮らしているけれど孤立せず、むしろ社会に積極的な連帯感を示します。様々に苦しんでいる人々の所に出かけて助力を試み、人為を超えた干ばつや冷害の際には農民の「なすすべの無さ」を分け持ち、同時にそうした自分がどんな意味においても他人を煩わさないことを願うのです。社会における一人の人間の稀有の在り方。この詩はいつも胸に迫ります。
花巻農学校の教え子に向け賢治は次のように書きました。「この四ケ年がわたくしにどんなに楽しかったか、わたくしは毎日を鳥のやうに教室でうたってくらした、誓って云ふがわたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない」(『生徒諸君に寄せる』断章)。それから70年の歳月を経て冒頭に記した回想記が編まれました(『先生はほほ~っと宙に舞った』写真・塩原日出夫、文・鳥山敏子、1992年、自然食通信社)。
その目次に15人の教え子(もちろん高齢)のインタビューから抜き出した一言がタイトルとして並んでいます。いくつか紹介します。「ひょっこり藪に入って、まともに歩かないんですよ、先生は」、「先生の精神はいっこうに心から抜けないで、ありがたいことだと」、「先生のいうとおりの百姓になんねえで今日まで来てしまった」、「百姓の生活をなんとかよくしたいという先生の決意は固かった」、「急に『泳がねすか』と言うんです。十月でしょう、季節が」、「自分はニセモノの教師。先生はもっとゆったりやったじゃないか」。
この本は宮沢賢治の「直接体験者」の証言集として貴重ですが、同時に、「一人の人が他の人の中でいかに生き生きと生き得るか」を示す実例集でもあります。ページの中で生徒と賢治が笑っています。久しぶりにこれを読み、先日読んだ別の本の言葉を思い出しました。「人から人へ何かが真に影響するとき、受け取った相手は影響を与えた人を模倣するのではなく、よりその人らしくなっていくものだ」。若松英輔氏による遠藤周作論の中の一節です(読んだばかりなのに書名忘却)。伝達の神髄を表すこの言葉は、布教や伝道にも通じる気がします。
話は変わります。このほど3つの大きな平和祈念式典がありました。戦後生まれが人口の9割を占め、戦争を自己の記憶として持つ人はこの世に僅かとなりました。テレビや新聞がその声を掬っています。「報道特集」(金平さんの番組)は、中国での三光作戦に従軍した元兵士のインタビューを報じました。概略は次のとおりです。
~ 村を焼き払ったあと部隊の後をどこまでもついてくる5、6歳の男の子がいた。家族を殺され家を焼かれて他にどうしようもなかったのだろう。上官がその子を「処分」せよと命じ、私(元兵士)はそれに従った。戦争が終わり元の生活に戻ったある日、乗っていた電車に幼稚園児の一団が乗りこんできた。私は突然パニックに襲われ次の駅で飛び降りた。似たことをくり返すうち電車やバスに乗れなくなった。やがて幼稚園児に成長した孫の姿を見るのが苦痛となり、来訪が分かったら家を空けるようになった ~
別のテレビで澤地久枝さんが語っていました。~ 満州で敗戦を迎え命からがら帰国したあとも困難と屈辱が続いた。長く黙っていたが、朝鮮にいた叔父の一家は敗戦を知って自決した。戦争になったら国は自国民を見捨てると身をもって知った。何が何でも戦争は回避しなければならない。これだけは言っておきたい。語ることが自分の責務である ~
また別に、沖縄戦の生存者が、姿の見えぬ米軍より日本軍が恐ろしかったと語りました。
8月だけが「平和月間」であることの是非は別として語り伝える記憶は大切です。安倍・菅政権の「積極的平和主義」をさらに「積極化」させた岸田首相の次を担おうとする自民党議員が多数います(こんなに後ろが詰まっていたとは!)。まずはこれらの人々に上記のような話をじっくり聞き、その上で感想文を提出してほしいと切に思います。できれば新学期が始まる前に。
宮沢賢治とアジア太平洋15年戦争の間に関りはありませんが、どちらも私の「8月の記憶」です。最後に1冊の本について書きます。近ごろ本は借りると決めていますが「情報の歴史」だけは手元に置きたくて注文しました。この本の帯には「古今東西の情報の『関係線』がまるまる見える」とあり、「アルタミラから鬼滅の刃まで、ソクラテスからマトリックスまで、フランス革命から三島由紀夫まで、カバラから iPS細胞まで、蒸気機関からゲノム編集まで、ジョイスからレディーガガまで」という言葉が並んでいます。
この本が届いた日に編集者である松岡正剛氏の訃報を知りました。このブログでとりあげた「近江ARS」(記事232、記事236)の中心人物でもあります。知の巨人がまた一人去りました。その仕事の価値が十分に理解できない私でさえ心から惜しいと思います。
このところ毎週のように更新してきたけれどそろそろ息切れ、書きたいことは山ほどあるのに文字化がうまくいきません。残暑きびしい折からゆっくり歩いて行こうと思います。皆さまもどうぞご自愛くださいますよう。
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