明治以降ひたすら改革を叫んで前進してきたわが国ですが、21世紀初頭を過ぎたいま社会は質的に大きく変化しています。人口はついに減少局面に入り、少子高齢化にも拍車がかかっています。家族や地域のありようも大きく変わりました。そして阪神、東日本につづく大規模地震の到来を明確に予期しつつ私たちは暮らしています。地球規模での環境問題もベースにあります。
もちろん人々の価値観が変わらない筈がなく、社会を駆動させる基本ソフト(のようなもの)も変化しつつある気がします。こうした中での越市長の改革です。
何のための、誰のための改革か? さしあたって誰が痛みを感じるのか? 長期的にはどうか?
そもそも人口減少・少子高齢・災害想定社会における改革の理念は如何にあるべきか?
越市長はこれらについて、自前の言葉でしっかりと市民に語りかける責務があります。
私とて正解を知りませんが、それは越市長の目ざす新自由主義的な改革ではありません。
数値評価と相いれない要素を含まざるを得ない気がしますし、少なくとも越市長お得意の民間導入、経費節減、制度改正といったたぐいの話ではないと思います。もし改革を唱えてさえいれば民意が得られるとお考えであれば、それは大きな間違いです。
一方、市民も、越市長のこうした改革の理念や、これまで十分に明らかにされていないまちづくりのビジョン等を知りたいと思っておいででしょうし、「パワハラ疑惑」や「公文書消滅事象」にかかる市民への説明責任を果たされることを望む人々は多いはずです。1期の総括の上に2期の展望があります。
通常の日程では11月30日の議会開会時に越市長は出馬の報告をされることとなりそうです。
越市長が2期を目ざすにあたり、これら重要事項の説明責任をいかに果たされるか大いに注目したいと考えます。
最後に越市長の「改革の先生」とも言うべき樋渡啓祐氏が、本年1月、佐賀県知事選で落選した際の越市長のコメントにふれます。ここから越市長の改革に対するイメージの一端を知ることが出来ます。
樋渡氏は武雄市長として市民病院の民営化、図書館の指定管理導入(ツタヤ)、小学校へのタブレット導入による反転教育などを進めた人物ですが、越市長はこれらについて次のように述べておられます。以下は発言要旨。
「樋渡氏は病院、図書館、タブレットによる反転授業などの改革をされ、私もすごく多くのことを教えて頂いた。このように地方から民間手法を使ってより新しく発展的なことをやって多くの改革を進めることが本当の地方創生である。他にこのような方がいないので落選は残念である。日本の風土として出る杭は打たれる。樋渡氏も軋轢があったと思うが、このような人を評価する社会にならないと日本もこの先非常に暗い」(このコメントは「大津の図書館で起こったこと」の投稿者も紹介しておられます。関係資料7)
まさに新自由主義改革礼賛だと私は感じますが、このような越市長が昨秋の議会質問まで図書館の民間導入を考えていなかったという説明は、これまたまさに、狐につままれた思いです。
これでは昨秋の議会質問が「民意を読み切れていなかった愚問」になりかねません。見識ある議員もお困りのことでしょう。市長発言の影響は随所に及びます。
それはさておき、越市長は周囲との軋轢を「出る杭は打たれる日本の風土で真の改革を進めようとする改革者の受難」と認識しておられるような気がします。
そうであるならば、越改革がよくなる契機はあらかじめ失われていると私は思っています。
額にしわを寄せてこれを記述していたら、たった今、私の元の若い仕事仲間が家族連れで立ち寄ってくれました。小学生のお嬢さんの作ったラスクを玄関先に置いて風のごとく帰って行きました。
さっそく頂いたところ舌に甘味、心に滋味でした。感謝感謝です。
多数の仲間を思うにつけ人間が人間らしく働ける職場が回復されることを願います。
樋渡啓祐さんは「反省しない。」という本を出しています。それなら、越さんは、「説明しない。」という本を書いたらどうでしょう。橋下徹さんは「大阪市内」。大阪市内にしないで都に変えるんですから。
返信削除で、越さん憧れの樋渡啓祐さんも橋下徹さんも前市長の道を選んだ。越さんも出馬表明しないで二人を真似しとけばいいのにね。
冗談はさておき、「大津の図書館でおこったこと」を書いた人は、図書館のことを考えているように見えて実は人のことを考えているのだと思いました。いい市民がいい自治体を作るという話に聞こえました。いい市民が育つにはいい本を揃えた本棚も必要。そういう風に理解すると、いい図書館を育てるのも自治体の大切な役目だとよく納得できました。
しかし、このような意見が越市長には邪魔者だったようです。市民のためを思う声が敵対視されるのは市民のためをスタート地点とする改革ではないからです。それを裏付けるように、図書館の指定管理制導入を当初から考えていたわけではないと、越市長はいともたやすく身を翻しています。もし、市民のためだという自負があったのなら、真意を理解してもらえず残念といった言葉が出たはずです。
越市長が唱える改革の欠点はこれです。大津市を野望達成のステージ、もしくは、改革の実験台のように思っている。樋渡さんや橋下さんのように名を馳せたくて市長をやっている。彼女の言葉も態度もそこから出てくるものだと私は見ています。
人口減少・高齢化・大地震不可避を迎え撃つ大津市のあり方について茂呂氏は頭を悩ませています。しかたない。答は遠いからみんなで悩みましょう。
ひとつ思っているのは、市民の自発性や創造性を高めるまちづくりがとても大切になってくるのではないかということです。市が金をかけなければ市民が幸せになれないという発想では必ず行き詰まります。より小さなコストをより大きな効果に結びつけるのは市民の自発性や創造性だと発想し直してみたらどうだろうと、私は考えています。いわゆる足るを知るとか身の丈を知るといった生き方になってくるかと思うのですが、そのような幸福には人それぞれの創造性や自発性がものをいいます。
たとえば競輪場跡地ですが、民間に任せれば何か商業施設が建ちます。何かを作らなければ何かをしたことにならないというのではなくて、琵琶湖に臨むただの広場でいいのではないかと思います。琵琶湖があるのだから琵琶湖が見えるという五感に自然なまちづくりです。その環境からどういう値打ちを引き出すかを市民の自発性や創造性に任せる方向もありだと思うのです。解体に十億円かかるそうで、その後の気分のいい広場実現にまた何十億円かかると思いますが、住んでよかったと思えるまちづくりのコストだと受け取ることもできます。
世界最古の釣り書籍「釣魚大全」の冒頭ページには、Study to be quiet(穏やかなるを学べ)と、たったひとこと記されています。大津市のまちづくりにはこの言葉がとてもお似合いだと私は思っています。
改革のなかでも指定管理者制導入や民間移譲が取り沙汰されるのはお金がないからです。お金がない事情が続く限り、やりくり上手や大胆な手法を市民に訴求する首長はウケがよくなります(越氏の資質云々はここでは別問題にして)。会社経営者も「生き残りをかけて」とか「社命を賭しての変革」といった言い方を好み、危機感を醸成したがります。対する私たちが手にできる情報は限られてますから、ひとまずは首長や社長の話に嘘・大袈裟がないことにしてこの人でなければやっていけないと考えています。大津市の財政はどうなんですか(財政の課題は国が地方にもっと金を回せばいいという議論ともからんできますが)。越市長ほどの戦々兢々、拙速、強引がいいのだと大津市の財政事情が裏付けているのでしょうか。
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