2019/11/29

101)後継者


 裁判報告の途中ですが今回は「番外編」です。越市長が不出馬を表明されるよりずっと前のこと、旧知の記者から「越さんは選挙に出ないらしい。後継者は誰だと思うか」と電話がありました。当時、私は3選出馬を予想していたので驚きましたが、それ以上に「後継者」の言葉に違和感を覚えました。

 私の感覚でいえば、「後継指名」は、それなりの政治理念と実績を有している前任者が、組織づくりにも一定の成果をあげ(さらに言うなら周囲からも惜しまれつつ)、身を引く時に行われるのが普通であり、越市長の場合はこれに該当しません。ですから越市長が後継者はいないと発言されたとき、そりゃあそうだろ、と思いました。

 ところが最近になって、実は後継者があり、それは越市長の側近といわれる職員であること、市長自身が密かに関係者への顔つなぎに動いておられることを複数ルートで聞きました。なるほど、やっぱりそうだったのか。動機は十分にあるのです。

 越市長の退任後は、8年間の市政運営の不適切な側面が表面化するはずです。
 例えば私が知る限りでも「市長からパワハラを受けた」という訴えは原告以外に複数あります。教委や病院に対する「横やり」や「裏工作」を許せないという関係者も少なくありません。こうした人々が重く閉ざしていた口を開くこともあるでしょうし、語られる事実は公平・公正に検証されることとなるでしょう。本訴の対象となっている公文書の隠ぺい、廃棄問題も同様です。このように見てくると、今回は、歴代市長の退任の時とはかなり事情が違います。

 こうした状況の中で去り行く人の身になれば、すべてを穏便に済ませるためには後継者の存在が必要です。臭いものにフタをし続けようということです。
 一方、「創造的破壊」のバトンを受け継ぐこととなる後継者自身にとっても、越市長なきあとの市役所生活がイバラの道となることは明白です。
 かくなるうえは一か八かの勝負に打って出て、当選すれば儲けもの、落選したら「栄誉ある敗者」の勲章持参で新たな仕事を探せます。広い世間には拾う神もあるでしょう。
いや、それどころか「早く拾いたい」と手を差しのべている「共闘陣営」がすでにあるのです。

 しかし、そうした陣営におかれては、面通しの際の当人の殊勝な口ぶりや、「あの子いいわよ」という妖婆の安請け合いを真に受けて神輿担ぎを始める前に、
「越直美氏はどのような市長であったか」、
「越市政の核心である創造的破壊とは一体どのようなものか」、
「創造的破壊路線を継承することにより初めてその地位を獲得することとなる後継者が、次の4年間どのような理念と手法で市政運営を行うか」、
「その後継者は側近としていかに振舞ったか。大きな権限を付与されて人格や仕事ぶりが変わったか。虎の威を借るキツネであったか否か」、
「今はよいことを言うに決まっている後継者からどのような担保をとるか」
といったポイントについて見きわめることが先決ではないでしょうか。

 もし仮に、共闘の実績をつくるため、あるいは次の選挙のために、陣営が確信をもてず責任もとれない候補者を擁立するならば、まさに前回の轍を踏むことになります。
 「後継者」もしかり。万一、退職の大義名分づくりや将来の選挙のステップとして立候補を考えるならば、公私混同もいいところです。
 大津市長選挙をこのような党利党略、私利私欲に利用されてはたまりません。まだどの筋からも正式表明が出されていない段階ですが、今日は私のあくまで個人的な見立てのもとに、やや悲観的な私見を述べました。
 杞憂に終わればいいのですが事態は進むでしょう。これも民主主義の劣化の一つの小さな表れだと思います。

 ちなみに「創造的破壊」とは副市長であった私自身も初めて聞く言葉であり、まことに新鮮、珍妙な心持ちがしました(一時は「想像敵破壊」の変換ミスかと思ったほど)。
 これについては後日あらためて書きたいと思います。










0 件のコメント :

コメントを投稿

1月9日をもってコメント受付をすべて終了しました。貴重なご意見をお寄せ下さったことに心からお礼申し上げます。皆さまどうも有難うございました!なお下の(注)はシステム上の表示であり例外はございません。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。