そして市長が一人であるのに対し、集合体である議会は、多様性をもつ議員相互の活発な議論を通して高められた「集団の知」をもって一人の市長に対峙しますが、この点に制度の妙味があると思います。
大津市議会で会派横断的に設置されている政策検討会議はこうした趣旨を踏まえたものであり、そこから政治倫理条例、いじめ防止条例、議会業務継続計画、議会基本条例など注目すべき成果が生まれました。
これまで大津市議会は、二元代表の一翼として越市長と向き合ってきましたが、相互の信頼関係(個別の見解の相違を超えた相互尊重の念)は、越市長就任後4年ちかくたつ今も十分といえない状況です。
これは、越市長が、意見対立の打開策として「丁寧な対話や議論」よりも「対立構図のアピール」を選ぼうとすること(さきに指摘した劇場型スタイル)や、執行部内で強引な組織運営を行っていることに対し、議会が警戒や不信の念を抱いていることに大きな原因があると考えます。
一方、議会では、越市長の政治姿勢や政策に関する多くの質問が出され、本会議や委員会において越市政に関する議論が活発に行われてきました。時には、私の在任中の見聞のかぎりですが、大局を見ず細部にこだわった質問が出されたり、本質をはずれた議論に終始するなどといったケースもなきにしもあらずでした。
こうした中、平成25年8月と9月の2回にわたって、実に30年ぶりに総務・教育厚生連合審査会が開催されました。これは、いじめ事件の第三者委員会の報告書を受けて教育委員会と中学校が作成した検討結果報告書が同年7月25日に越市長に提出されたのですが、それを越市長が事前に外部の利害関係者に渡していたことは漏洩の疑いがありコンプライアンス上問題があるのではないかとして開催されたものです。
審査会では、報告書の提出日をめぐって市長と教育長の間で見解が異なっていたことや、連携が図られていないことが追及され、最後に審査会委員長は、「市長は地方自治体を代表する立場を再認識され、各執行機関との連携を密にした市政運営に当たられたい」と市長の姿勢をただされました。
これは異例ともいえる重大な指摘であったはずですが、越市長の今日までの言動を拝見する限り、この指摘が身に沁みたとはとても言えない状況です。
その後も、本会議において度々、越市長のコンプライアンス等について重要な質疑・質問が出されており、その回数は歴代市長に比べずっと多いことからも議会の問題意識は明確であると考えます。
一方で、それに向き合う越市長の対応は、とても真摯なものであるとは思えません。
答弁もたいてい棒読み調で、言葉に心と力がこもっていません。「政治は言葉だ」と言いますが、これが議員の背後にいる多数の市民を見つめての答弁であろうかと疑問に感じるところです。
政治家として、質問の趣旨に正確に対応した丁寧な答弁に心掛けるべきだと考えるのは私だけでしょうか。
同時に、これを質す議員の言葉の力も問われていると思います。偉そうな言い方でまことに恐縮なのですが、現場を退いてもっぱら市民の立場になった今、国、県、市の議会中継を見て痛感するのは言論の府における言葉の力の重要性です。
さて、越市長の任期の3年9か月が過ぎました。
この間、越市長は精力的に務められたと思いますが、一人で仕事はできません。
多くの職員に支えられ、議会からの監視、注意、牽制、激励、協力を受け、市民や事業者の多大なる貢献にあずかり、関係機関から支援を受け、災害時には近隣市町の協力も受けながら、ここまでやってこられました。
そしていま、市民は(特に市政に関わるの深い人々は)、越市長がどのような市長であるか、今後どのようになっていくのかについて、しっかりと見極めるべき時期を迎えたとのではないでしょうか。
大津市民の代表である大津市議会は「2013マニフェスト大賞 議会グランプリ」を皮切りに3年連続で優秀賞や特別賞に輝いている地方自治の専門家集団です。
大津市政の重要な局面にさしかかった今、議会の役割である監視機能や政策立案機能が十二分に発揮されること、また、議員各位におかれても市民に向けた市政の情報提供などがしっかり行われることを信じており、祈りもしたい気持ちです。
より多くの市民がより正しく知り、考えていくことが大津のまちを良くすることに繋がります。
そのためにも大津の二元代表制が機能してより良いまちづくりが進むことを多くの市民が期待していると思います。
これまでハッキリしなかった市議会の越直美市長へのスタンスが、市長選挙という場で明確になるわけですね。
返信削除そして、私達市民が思っている越直美市長への評価と市議会のスタンスがどの様にズレがあるか。
そういった態度を応援する、しないに関わらずハッキリと表明して頂けることを期待します。
玉虫色は困ります。
ちなみに、ある会派に新聞の報道内容が信じらず、確認しようとホームページ記載の電話番号に電話したら、市役所(なんとか局と言われました)に通じてビックリしました。
どうしたら良いんでしょうかね。
茂呂さんはこのブログを開設した以上、市長選挙に出るべきです。
返信削除そして選挙に勝って市政を担ってもらいたい。
それが出来ないのであればこのブログを閉鎖しなきゃ犬の遠吠えでしかありません。
またここにコメントしている人は坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心の小さな人が多いですね。
もっと心を広くもち、越市長の成果も見なきゃまともな議論ができません。
ここに投稿している市の職員は全て市長の責任にして自分はまともですといった人が多いと思います。自らが源泉として見直す必要があります。
わたしも同じ意見です。茂呂氏はいさぎよくブログを閉じて選挙で市民の信を問うべきです。中立的よそおってネコをかぶっていないで堂々と男らしく戦ってはどうですか。まだ間に合います。
返信削除このブログを閉じろという意見が初めて出てきました。茂呂氏への出馬提案もセットで出てきました。市長選挙を意識したコメントですね。ブログがあると困る陣営の意見なのでしょうか?茂呂氏の出馬についてはご本人が考えればいいハナシですけれどブログの閉鎖とは関係ないとわたしは思います。最初からの記事を見ればこれはこれ、あれはあれで別々の事だと思います。それどころかこれからが見どころだと思っているほどです。市民の参考になりますので大いにやってください。
返信削除投稿されたコメントを茂呂派と越派に分けて見ると茂呂派は圧倒的多数で内容が具体的であり、越派は圧倒的少数で内容が抽象的です。感情的な意見はどちらにも見られます。アクセスが13万であるのに対して投稿が約300とのことなので、やはり越市長をかなり知っている人々がコメントを寄せていると見てよいでしょう。その割には越派コメントが具体性に乏しい点から推測すると、越市長を中心とした同心円が3つあって一番内側の円が越市長に批判的であり一定の面積がある。二番目の円は越市長に肯定的であり厚みは薄い。そのまわりに三番目の無関心の巨大な円がある。三番目の円は中心よりの部分から徐々に関心を持ち始めている。それがアクセスの増加に一役買っている、というのが私の見方です。この見方に立つならば茂呂氏の提唱する情報広場はある程度機能しているのではないかと推測されます。議論が空転しないためには事実を踏まえた冷静な意見が必要でしょう。ブログを閉鎖する、しないは主宰者の判断ですが、今のところ閉鎖しなければならない理由はまったく見当たらないというのがわたしの意見です。
返信削除>越派コメントが具体性に乏しい
削除これは、支持理由が事実に基づいてないからだと思いましてね。ネトウヨに通じるような気がしてしかたがない。
越市政は公務員蔑視とワンセットだと、前にもコメントしたことがあります。
茂呂氏もポピュリズムとか劇場型戦略という言い方で似たようなことを指摘していましたが、あんな奴らが厚遇されている理不尽を世直しするのだというヒロイズム。とてもわかりやすくて受信されやすい自分を発信する。そんな若い改革派市長を応援することを正義だと受け取る人もいる。越市長のヒロイズム支持に伴う思考停止を、その人達は自覚していない。
越市長批判のコメントは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心理だと、つい先程のコメントで、越市長擁護派らしき人が言ってます。私は袈裟が憎いから坊主も憎いんですが。
この表現をそのまま借りますと、越市長を支持する心理は、坊主大好き袈裟まで大好きです。
たとえば、過去の市政を否定しようとする越市長に市職員が抵抗しているというニュアンスのコメントが、過去にありました。これに対して茂呂氏は、越市長のマニフェストは決して過去否定型ではなくて、これまでの市長の実績を受け継ぐ過去踏襲型になっている事実を提示していました。
コメント投稿主からのリアクションはありませんでしたのでそこで終わりましたが、投稿主は過去の否定という言い回しに漂う悲壮感にシビれまくっているんだろうなと思いました。
越市長は、あの嘉田さんからもついにボロクソに言われてしまいました(11月5日滋賀報知2面)。嘉田さんはこのブログの熱心な読者かと思いました。茂呂氏と同じようなことを言ってます。
越市長を支持する人たちに私は言いたい。事実を見なさい。そして、自分の目と頭で考えなさい。
ブログを閉じろとか市長選に立候補しろとか、真面目に取り合うことないですよ。
返信削除越イズム支持者のアジテーションだと思いますが、援護になってません。
たとえば、越市長は公文書毀棄にまったく関わっていませんとか、そういう迫真のネタ、ないんですか?